文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

文学の読み方

2017-07-16 12:45:17 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
文学の読み方 (星海社新書)
クリエーター情報なし
講談社

・さやわか

 実は私は、「文学」という奴がよく分からない。大学には「文学部」というのがあるくらいだから、なんとなくそんなものがあるのだろうというのが世間一般の考え方ではないのか。しかし、これを少し突き詰めて考えると果てしなく疑問が湧いてくる。いったい「文学」とは何なのか。フォークシンガーのボブ・デュランがノーベル「文学賞」をもらってしまう世の中だ。こうなると、「文学」というものが、ますます分からなくなってくる。

 いったい何を持って、「文学」とそうでない小説を区別しているのか。一般的な小説と「文学」には、どのような違いがあるのだろう。その中でも特に謎なのが、「『純』文学」というものだ。『純』とは、どのような意味で『純』なのか。また、一般に文学作品と呼ばれるものは、どうしてあれだけ面白くないのだろうか。私にとっては、ミステリーやSF(ファンタジー含む)、ラノベの方がよほど面白い。

 私は日本の「文学」作品など、ほとんど読む気が起らない。単純に面白くないからだ。多少の例外はあるが。文学好きというような人が褒めたたえる、漱石だって、太宰だって、春樹だって、まったく食指が動かないのである。

 世の中には、色々な「文学賞」というものがある。中でも、「直木賞」と「芥川賞」はその双璧といってもいいだろう。しかし、選ばれた作品を読んでみようとしても、多くは、あまりにもつまらないので、途中で放り投げてしまう(これにも、若干の例外はあるが)。同じ作家が書いたものでもっと面白いものがあるのに、どうしてこの作品が選ばれたのか。文学賞というのは、その作家の作品で特に面白くない小説を選ぶ賞なのかとたまに毒づいたりもする。

 本書を読んでその原因の一端が分かったような気がする。著者はそもそも文学とは明治時代に、二つの錯覚から始まったという。その二つとは、

< ①「文学とは人の心を描くものである」
  ②「文学とは、ありのままの現実を描くものである」 >(p50)

 確かに日本には物語の伝統がある。しかし、源氏物語の光源氏にしても、ありのままの現実を描いているものではない。竹取物語などはもっとこの定義から外れる。月から来て、月に帰ることに、どのような現実があるというのか。そして、この誤解をつきつめていけば、日本の文学とは、(日本的)自然主義だとか、私小説といった変な方向に突き進んでいくことになるだろう。そしてSFなどは文学ではないということになってしまう。

 もっとも、このような定義が今根付いているかということになると少し疑問だ。本書中には、文学賞選考委員たちの選評なども紹介されているが、「文学」というもに対して共通の認識があるようには見えない。結局皆が「俺流」なのだ。要するに先に権威を勝ち取った者の勝ちとなるような世界で、そこには絶対的な基準など存在しないのである。つまりは、「文学」の世界とは「言った者勝ち」の主観文化が支配しているようなところなのだろう。

 著者は、あとがきのなかでこう述べている。

<文学とは曖昧なものだ。むろん、それに気付いている人も多い。ただ、文学に確固とした姿があるように思っている人も、いまだに多いのだ。>(p249)

 だから私たちは、人の評判など気にする必要はない。もともと曖昧なものだから、自分の基準で、気に入ったものを読んでいけばいいのである。それが「文学」であるかどうかなど、人に決めてもらう必要などないし、そもそも「文学」かどうかなんで考える必要もないのだろう。

☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。
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万能鑑定士Qの短編集Ⅱ

2017-07-14 10:09:33 | 書評:小説(ミステリー・ホラー)
万能鑑定士Qの短編集II 「万能鑑定士Q」シリーズ (角川文庫)
クリエーター情報なし
KADOKAWA / 角川書店

・松岡圭祐

 「万能鑑定士Q」シリーズで、唯一これだけが未レビューで積んであったものだ。清原絋さんの描く莉子ちゃんがひときわ色っぽくて目を引く。

 さて、本書だが、タイトルの通り、5編の短編を収録した短編集である。どれも、事件の裏に潜むトリックを、万能鑑定士・凛田莉子がその知識を駆使して暴いていくというものだ。収められているのは、以下の5編。

1.物理的不可能
 価値のある中国の切手が、輸送途中に何者かにすり替えられ、価値のないものに変わっていた。途中で切手をすり替えることは絶対に不可能ということで、嫌疑が金券ショップの店員・鴨嶺にかかる。

2.雨森華蓮の出所
 莉子との対決に敗れて服役していた華蓮が、出所後に悪徳古銭商をお仕置きする話。華蓮のツンデレぶりは健在?

3.見えない人間
 莉子は、高校時代の同級生だった吉野里香に誘われて、いっしょに映画のエキストラのオーディションを受けることになる。しかしそのオーディションには大きな秘密があった。

4.賢者の贈り物
 OLの坂城紫苑は、二人の兄が窃盗を続けているということに悩んでいた。最近では、父までいっしょになり、どこに入るかを決めている。思い余って警察に通報するが、そのような窃盗事件は起きていないという。

5.チェリー・ブロッサムの憂鬱
 ソメイヨシノに突然新種のウィルス病が発生。このままでは、すべてがクローンである世界中のソメイヨシノが全滅の危機に陥ってしまう。この事件でテンパっている「Uと3」(すまんαの方のネタだった)は、莉子といさかいを起こしてしまう。これは、「Uと3」が全面的に悪い(笑)。

 このシリーズは、キャラの魅力と、莉子によるトリックの種明かしというのが売り物だろう。私も最初読んだ時には、莉子ちゃん今日もがんばっているなと面白く読んでいた。ところが、最近は別の楽しみに目覚めてしまっている。松岡氏の作品は、Qもαも「探偵」も「水鏡推理」もシリーズの全作品を読んだが、どうも不得意な分野があるようで、意外とツッコミどころが多いのだ。

 他の作品のレビューで科学技術的に違うんじゃないかというところに突っ込んだところ、どこかのバカが無知丸出しで、何を言いたいのかよく分からないようなおかしなことを言っていた。反骨精神旺盛な私のこと、それからは、努めてツッコミどころを探すようにしている(笑)。

 そういった目で改めて読んでみると、結構見つかるものだ。順にあげてみよう。

 まずは牛込署で行われた捜査会議の様子だ。

<警視庁からの出向組を迎えての百人規模の会議が進行中だった。・・・(中略)・・・本庁からきたキャリア組は前の方に陣取り、・・・(中略)・・・前方で演説をぶつ警視庁捜査二課の警部の姿は・・・(以下略)>(p167)

 ここで牛込署というのは、警視庁の所轄である。つまりは同じ組織内だ。だから本庁から所轄に来た人を「出向」とは呼ばない。この場合は「出張」とか「派遣」とでも呼ぶべきか。また本庁に務める人間がすべてキャリア組という訳ではない。キャリア組は数が少ないので、例え捜査本部に派遣されたとしても、「前の方に陣取り」というほど人数はいないだろう。また警部が前方で演説をぶっているとある。この警部の位置づけは明記されてないが、もし捜査本部の実質的な指揮を執っているのなら、それは、本庁から派遣された管理官で、階級は警視のはずである。

 次に桜の「新種のウィルス」が発見されたときの記述。

<モニターに画像が映しだされた。生物顕微鏡で拡大されたその病原体は、・・・(以下略)>(p262)

ウィルスって、あまりに小さいため、「電子顕微鏡」でないと見えないはずだが。

 次に、警察の捜査方法に関してだ。新種の桜ウィルスの捜査の際にこのような記述がある。

<賃貸の部屋なので、捜査令状を持たずとも大家の同意があれば室内をあらためられる>(p280)

<武装した警官隊はテナントのシャッターを開けにかかった。ここも賃貸だけに、オーナーの承認を得て突入が許可されたらしい>(p305)

 これも、令状がなくてはだめでしょ。賃貸でも、賃借人にはその部屋の占有権があり、いくら大家だからといっても、賃貸している以上勝手に入ることもできないし、気軽に許可を出すこともできないはずだ。もっとも、最初の方は、住人は外国人で、既に帰国しており、部屋に残っているものは始末してくれと大家に電話してきたとのことだから、その時点で賃貸契約が消滅していると解釈できないこともないが。

 私も、これが異世界SFとかだったら、少々おかしなことが書かれていてもツッコミはしない。しかし、あくまでもこの作品は、現実世界を舞台にしたものである。だから、不必要に変な記載をしてはいけないと思う(必要があるのなら、そこはしっかりと理屈付けをするべきだろう)。こういったものは、本来校閲者がチェックすべきものだと思うが、最近は出版不況などの影響でおざなりになっているのだろうか。

 最後に「賢者の贈り物」で使われていたトリックで、特定の物件を選ぶことができることを検証してみたい。これは、二人の人間が、それぞれ文芸書と雑誌から適当な数字を言い、その数字から100の位をカットして、出てきた数字をもう一度雑誌のページから引いた答えの数字を、選びたい物件が掲載されている住所録のページにするというものだ。これには、常に最初に足した数字が100以上になるように誘導するという制約と、文芸書担当の者は、物件の掲載されている住所録の数字を100から引くというトリックが隠されている。この場合、住所録のページをA、雑誌のページをBとすると、文芸書担当の人間は、ランダムに選んだふりをしながら、100-Aの数字を言うことになる。これを雑誌のページと足して100を引くから結局仕上がりは、

 (100-A)+B-100=-A+B

 これを雑誌のページBから引くのだから、結局出てくる数字は、

 B-(-A+B)=A

となり、誘導したい住所録の数字が出てくることになる。松岡作品は、このような頭の体操的な数理パズルがよく出てくるので、読者の方もそれを自分の頭で考えてみると一層作品を楽しめるのではないかと思う。

☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。
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本はどう読むか

2017-07-12 11:11:16 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
本はどう読むか (講談社現代新書)
クリエーター情報なし
講談社

・清水幾太郎

 著者の清水幾太郎さんは、学習院大学の教授も務められた社会学者だ。ジャーナリズムでの活躍もされた方だが、1988年に既に鬼籍に入っておられる。この本が出版されたのが1972年なので、既に半世紀近く経っている。亡くなられてからも、30年近く経つが、読んでみるとその内容には今でも共感できる部分が多い。

 清水さんは、昔の子供たちがそうであったように、「立川文庫」から読書の道に入ったようだ。しかし、8歳か9歳でそのワンパターン性に飽きたというから驚く。大体子どもというのはワンパターンが好きなものだ。だから子供向けのテレビ番組など、ワンパターンのオンパレードといってもいいようなものばかりなのだが、清水さんはかなり早熟な子供だったのだろう。

 清水さんは、読書会という形式は嫌いだったようだ。

<何人かのメンバーが、同じ本を同じ速度で読んで、互いに感想を述べあった末、同じ解釈に到達するという方法は、学校の授業だけで沢山である。>(p25)

 まさに同感である。本に書かれたものは、作者の手を離れてからは、その解釈は読者に任される。そこにはこれが正解などというものはないのだ。それぞれが、自分の立場から解釈すればよい。その本から何を読み取るのか。それは極めて個人的なものであり、私も何のために読書会などというものがあるのか、その理由が分からない。

 本書には、清水さんの読書体験が赤裸々に綴られる。中学校に上がると、他人が読んで分かりそうにない本を虚栄心から好んで読むようになったようだ。例えば大西祝(はじめ)の「西洋哲学史」。さらには、無政府主義者の大杉栄にも傾倒したというから、いくら現在とは制度が違うとはいえ、今の中高生とはかなり違っている。

 ところで、清水さんは、本を「実用書」、「娯楽書」、「教養書」の3種類に区分している。「実用書」とは仕事などのために読まなけらばならない本、「娯楽書」とは楽しみのために読む本であり、これらには本の読み方などというものはないという。「実用書」は必要なら読まなくてはならないし、「娯楽書」は読みたくなったら読めばいいからだ。

 しかし、「教養書」は違う。必ずしも読む必要はないが、読めば自らを高めてくれる本だ。「立派に生き」、「立派に死ぬ」ために読むべき本なのである。もちろん、「教養書」を一切読まなくても生きていく上での支障はないが、教養書を読むことで、「生き方」の質が高められるのだ。

 清水さんは、大学の講義について、以下のように述べている。

<大学が提供する講義は、どれも安いランチのようなもので、それだけを食べていたら、必ず栄養不良に陥る。>(p56)

 最近の大学生は、授業に出ていればそれだけで勉強していると勘違いして、自分から能動的に勉強しないとよく聞く。最近の出版不況も、この辺りが原因なんだろう。もっと積極的に自分を高めるようにしないと、大学にわざわざ通う必要はないように思うのだが。

 この他、読んだ内容を忘れないための工夫や、本との付き合い方、外国書の読み方など、多少は時代的な古さを感じる部分もあるが、全体的には本好きの人間にとっては得られるものも多いのではないかと思う。

 最後に一つだけ、諸手を挙げて賛成したい一文を紹介しよう。

<読み始めてから、なかなか面白くならないような本は最後まで面白くならないようである。無理に我慢する必要はない。面白くない、と思ったら、キッパリやめた方がよい。>(p107)

 実は私は、漱石や太宰のような文学といわれる作品もそうだが、現代モノでは村上春樹さえもまったく面白いとは思わないのである。だから、キッパリとこれらは読まないことにしているのだ。そうでなくとも、積読山の高さに、一生の間に読み切れるのかと慄いている毎日なのだから、本当に自分が興味あるもの以外を読んで、時間の浪費はしないぞと、改めて固く決心した。

☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。

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賭ケグルイ(1)

2017-07-10 08:50:37 | 書評:その他
賭ケグルイ 1巻【期間限定 無料お試し版】 (デジタル版ガンガンコミックスJOKER)
クリエーター情報なし
スクウェア・エニックス

・(原作)河本ほむら、(絵)尚村透

 学園ものの漫画には、びっくりするような設定が多い。例えば、JKが刀を振り回したり、戦車でバトルしたり、学園に監獄があったりという具合だ。そして、なぜか登場人物に可愛らしいJKが多いというのも、健全な男子のためのお約束(笑)。

 さすがにこんな学校ないだろうと突っ込みながらも、案外面白いのでつい読んだり、アニメ化されたものを視てしまう。

 さて、この度見つけたのが本書。深夜アニメで放映されるということを知り、とりあえず第一巻を読んでみた。

 舞台は、私立百花王学園。この学園では、ギャンブルの強さがすべてであり、強いものは学園カーストを登れるが、負けて生徒会への上納金が滞れば家畜扱いされるという、もうありえない設定。いったい法治国家日本はどこに行ったのかと思うような無法ぶりだ(笑)。

 この学園にある日一人の美少女が転校してくる。その名前がなんと蛇喰(じゃばみ)夢子。なんともすごい名前だ。この夢子、ギャンブルの天才どころか、リスクを取ることが大好きというギャンブル狂なのだ。

 この学園を仕切っているのが生徒会。なんだかこの手の話は、生徒会に悪の親玉のような奴がいるというのも一種のお約束。果たして夢子はこの学園で生き残っていけるのかという訳である。2巻以降はまだ読んでいないが、果たしてどうなっていくのだろうか。

☆☆☆☆

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人魚姫 探偵グリムの手稿

2017-07-08 12:58:24 | 書評:小説(SF/ファンタジー)
人魚姫 探偵グリムの手稿 (徳間文庫)
クリエーター情報なし
徳間書店

・北山猛邦

 北山猛邦さんの作品は、以前から気にはなっていたのだが、なかなか読む機会がなかった。今回読んでみたのが本書である。

 「人魚姫」というのは、アンデルセンの書いた物語で、自分が助けた王子に恋した人魚の姫が、人間になる代わりに魔女に声を奪われてしまう。王子は結局別の人間と結婚することになるが、人魚の姫は王子との恋がかなわなければ泡となって消えてしまうのだ。それを防ぐためには、王子をナイフで刺し殺すしかない。結局人魚の姫の恋は悲恋で終わり、彼女は王子を殺せずに、海の泡となって消えてしまった。

 この作品は、このアンデルセンの「人魚姫」の続編といえるような話になっている。そして、活躍するのが当のアンデルセン自身なのである(もっともアンデルセンは少年として登場するのだが)。そして、タイトルの副題「探偵グリムの手稿」から推測できるように、名探偵役を務めるのが、あのグリム兄弟の一番下の弟であるルートヴィッヒだ(もっとも彼は童話作家ではなく、画家だ)。

 ふとしたことで知り合いになったグリムとアンデルセンは、海岸で美しい女性が裸で倒れているのを助ける。なんと彼女はアンデルセンの書いた人魚姫の姉・セレナだという。妹が泡となって消えた原因となった王子が何者かに殺され、その容疑が妹にかかっている。真犯人を見つけなければ、こんどは自分が泡となって消えてしまうというのだ。

 妹は人間になるために魔女に声を差し出したが、彼女は魔女に心臓を差し出した。心臓を元に戻せるのは、取り出してから1週間以内。真犯人を求めて、彼らは真実を追求していくのだ。最後に判明したのは、意外な犯人。そして驚くような魔女の正体。

 最初は、人魚姫などが出てくるのでファンタジー色の強い作品かなと思っていた。しかし、この作品は殺人犯を突き止めるというミステリー仕立てとなっており、北山ミステリーファンにとってはなかなか楽しめる作品だろう。

 ところで、表紙イラストに描かれたセレナ。人魚の「姫」ということもあって、なかなかに高ビーな性格なのだが、これが意外と可愛いのである。彼女がどのように描かれているか、こちらの方も読んでみて確認して欲しい。

☆☆☆☆

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水鏡推理6 クロノスタシス

2017-07-06 09:27:08 | 書評:小説(ミステリー・ホラー)
水鏡推理6 クロノスタシス (講談社文庫)
クリエーター情報なし
講談社

・松岡圭祐

 文科省の研究公正推進室に勤務する一般職職員の水鏡瑞希がキャリア官僚を巻き込んで、研究に関する不正をあばくというシリーズの第6弾。今回彼女が挑むのは、「過労死バイオマーカー」に関する評価。これを使えば、過労死のリスクが数値で表されるという。これまでのシリーズ作品では、みな出てくる研究はインチキばかりで、瑞希がそのトリックを暴いていくというものだった。しかし、今回は少し違っている。最後にちょっとしたことはあったのだが、基本的にはこのバイオマーカーはちゃんとしたものだという設定になっている。そして、今回彼女と組む官僚は須藤誠。東大卒だが法学部ではなく、経済学部。落ちこぼれ官僚という設定である。

 瑞希は、「過労死バイオマーカー」を評価するために、過労で自殺した公務員についての調査を始めるのだが、どうもおかしい。財務省の主査だった吉岡健弥の調査を始めると、彼が付き合っていたという恋人の住所がまったくのでたらめだったり、警視庁の警官に監視をされるようになったりするのだ。なんだか大きな陰謀が潜んでいそうな感じなのだが、話は意外な展開を見せていく。読者は、「ええっ~!そうくるの?」と翻弄されること請負で、そういった意味ではなかなか楽しめる。

 特に、二人が酒々井駅で警官に捕まりそうになったときに、須藤が、瑞希を逃がすために、<ああ覚醒剤が効いてるよ!ひどく暴力的になってる。近づくな!>(p241)と言いながら暴れるシーンには、「アホか!」と突っ込みながらも、大笑いしてしまった。

 ところで、本書にはなかなか興味深いことが書かれている。瑞希がこんなことを言っているのだ。

<男性によるロリータの女装趣味は、わりとふつうです。ラフォーレ原宿はそのメッカでもあります。>(p282)

<表参道にはラフォーレのほかにも、女装趣味に応える店が集中してます。ロリータファッション以外の店もあります。>(p284)

 そっ、そうなのか?わりとふつうなのか。う~ん、勉強になる(何の?)。という事は、原宿で可愛い女子と思っても、実は男だという可能性もあるということなのか。でも瑞希、女装に対して、なかなか心が広いような(笑)。

 しかし、やはりツッコミどころを見つけてしまった。本書に出てくる主要な警視庁の警察官は以下の二人だ。

<矢田洸介警部補>(p88) 彼の容貌は、前のページに<五十前後の厳格そうな面構え>と書かれている。

<小池康幸主任警部補>(p257) こちらも、矢田とのやりとりから、おそらく彼と同年代くらいだろう。

 これを前提に以下の記載を読んで欲しい。

<矢田が言った。「小池。俺たちは国家公務員だ。」>(p287)

そして、瑞希が矢田に言った科白。
<でなきゃ、なんのために国家公務員になったんですか>(p305)

 どこがおかしいか分かるだろうか。警視庁は「庁」とはついているが、特許庁や宮内庁のような国の機関ではない。あれは、各県にある県警と本質的には同じで、実質は東京都警なのだ。だから、警視庁に務める警察官は、基本的には地方公務員である。(ただ首都警察ということで、他の道府県警とは少し扱いは違っているが)

 基本的にと書いたのは、例外があるからだ。都道府県警の警察官でも、出世して警視正以上になれば、自動的に国家公務員になる(注1)し、国の役所である警察庁からキャリアや準キャリアとして出向してくる場合もあるからである。しかし、その場合も、50前後で警部補ということはないだろう。

 このあたりは、編集者がちゃんとチェックすれば分かりそうなものだ。こういった本が出版される際には、校閲が行われるものだと思っていたのだが違うのだろうか?

(注1)
警察法
第五十六条  都道府県警察の職員のうち、警視正以上の階級にある警察官(以下「地方警務官」という。)は、一般職の国家公務員とする。
2  前項の職員以外の都道府県警察の職員(以下「地方警察職員」という。)の任用及び給与、勤務時間その他の勤務条件、並びに服務に関して地方公務員法 の規定により・・・(以下略)


☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。
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世にも不思議で美しい「相対性理論」 (素晴らしきサイエンス)

2017-07-04 11:42:11 | 書評:学術教養(科学・工学)
世にも不思議で美しい「相対性理論」 (素晴らしきサイエンス)
クリエーター情報なし
実務教育出版

・佐藤勝彦

 相対性理論や宇宙物理学に関して多くの著書がある佐藤勝彦さんによる「相対性理論」の一般向け入門書。佐藤さんは、宇宙が出来た後、急激に膨張したという「インフレーション理論」を提唱したことで知られている。

 物理学を多少でも学んだ人なら常識といってもいいだろうが、「相対性理論」には「特殊」と「一般」がある。「特殊相対性理論」はアインシュタインが1905年に発表したものだが、慣性系同士の間で成り立つ理論だ。慣性系というのは、もし物体になにも外力が加わらなければ、停止しているものはそのまま停止しており、動いているものは、等速直線運動をするという、いわゆる「慣性の法則」が成り立つような座標系である。

 この特殊相対性理論からも、多くの驚くようなことが導かれる。例えば、「同時」ということの相対性、質量とエネルギーの等価性や動いている時計は遅れる、動いている物体は縮んで見えるといったようなことだ。しかし、上述の通り、これは特殊な場合にのみ成り立つ理論である。特殊な理論があれば、これをもっと一般化したいというのが物理学者の「業(ごう)」のようなものだろう。アインシュタインもその例外ではなかった。彼はやがて一般的な加速度系でも成り立つ「一般相対性理論」に行きついたのだ。

 特殊相対性理論自体は、高校生程度の物理の知識があれば、なんとか理解できるようなものだ。事実私も大学2回生のときに、一般教養の一環として履修している。

 ところが、これが一般相対性理論になると段違いに難しくなってくる。門外漢にはあまりなじみのないリーマン幾何学という数学を使わなければならないからだ。リーマン幾何学とは、端的に言えば、真っすぐな空間で成り立つユークリッド幾何学とは異なり、曲がった空間を扱う幾何学である。結論として出てくるアインシュタイン方程式自体は美しいが、これを実際に解くのは至難の業だろう。

 しかし世の中には天才と言われる人がいるもので、この方程式を解いて、そこからブラックホールだの、膨張宇宙だのといった驚くような結論を導き出してしまう。

 本書は、これら相対性理論に関する基本的な話から初めて、この理論から導かれるさまざまの現象について初心者向けに分かりやすく解説している。図が多いこともあるのだろうか、佐藤さんが書いている他の入門書よりはずっと初心者向けのような気がする。また、今話題の重力波の話や、タイムトラベルの可能性といった興味深い話も盛り込まれており、多少なりとも物理学に興味がある人、SF好きな人には、面白く読めるだろう。

 なお本書は、「本が好き!」さまを通じてのいただきものです。ありがとうございました。

☆☆☆☆

 ※初出は、「本が好き!」です。



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シミルボンにコラムを投稿

2017-07-03 14:02:17 | その他
 シミルボンに、「悲惨な戦争の記憶」というタイトルで、コラムを投稿しました。興味のある人は覗いてみてください。私の祖母や父から聞いた話、広島という土地特有の話などを書いています。

 ところで、このブログ、いつの間にかトラックバック機能が無くなっている。調べてみると、機能を外したらしいが、このような重要な変更があれば、ユーザーに連絡するなど周知があってよさそうなものだが。楽天ブログも、トラックバック機能の廃止などがあったので、ほぼ放置状態にしているが、そろそろ、この「文理両道」一本化しないといけないかなあ。
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棘の闇

2017-07-02 20:10:05 | 書評:小説(ミステリー・ホラー)
棘(おどろ)の闇 (廣済堂モノノケ文庫)
クリエーター情報なし
廣済堂出版

・朝松健


本書は、朝松健さんによる、室町の闇5編を収めた短編集だ。

 ところで、なぜ舞台が室町なのだろうか。思うに、これが江戸時代だと少し近すぎる。そしてこれは個人的な感想かもしれないが、江戸時代の怪異はどこかユーモラスな感じがあるのだ。逆に鎌倉時代以前になると、ちょっと遠すぎて、あまり実感が湧かない。極端な話をすれば、邪馬台国時代あたりの怪異譚など、誰が怖がるものか。やはり、室町あたりがちょうどよいのだ。

 室町の時代、夜の闇は今よりもずっと深く、魑魅魍魎が跋扈していた。この短編集は、そんな時代を舞台にした、珠玉のホラー集といったところだろうか。

 面白いのは、あの一休さんが主人公の物語が2編収められていることだろう。しかし、この作品の一休さんは、アニメでおなじみの可愛らしい小僧さんではない。また、あのいかにも変わり者といった感じの晩年の一休さんの肖像とも少し違うようだ。

 描かれているのは、怪異と対決するゴーストハンター的な、まだ元気いっぱいの一休さんだ。この短編集を読む限りは、一休さんにはひとつのパターンがある。

①まず、自分は後小松上皇の子供だと言って一発かます。
②それが通じなければ、実力行使に出る。なにしろこの一休さん、明式棒術には、腕に覚えがあるようだ。なかなかの武闘派である(笑)。一休さんの持っている杖は、実は武器だったとは知らなかった。

 表紙イラストに描かれた、ぞくりとする美女がとても目を引く。このイラストだけでも、本書を手に取ってしまいそうだ。この女性は、一休さんの出てくる「屍舞図」に登場する玉蘭だろうか。他には該当するような登場人物は見当たらないのだが。

☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。

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怪物はささやく

2017-07-01 14:55:50 | 書評:小説(ミステリー・ホラー)
怪物はささやく (創元推理文庫 F ネ 2-1)
クリエーター情報なし
東京創元社

・(著)パトリック・ネス、(原案)シヴォーン・ダウド、(訳)池田真紀子

 この作品の成り立ちは少し変わっている。原案のダウドは、まだ40代の若さで既に亡くなっている。このダウドの構想メモを、パトリック・ネスが引き継いで生まれたのが本書である。

 主人公は、コナー・オマリーという少年。両親は離婚し、現在は母親と暮らしている。しかし、母親は闘病生活を送っており、体調はとてもよくない。彼のめんどうを見るために祖母が手伝いに来るが、コナーは祖母とはあまり馬が合わないようだ。

 そんなコナーの前に「怪物」が姿を現すようになる。「怪物」は彼に3つの物語を話すが、4つ目の話はコナーが語るように要請する。

 精神分析で有名なユングの学説には、「影」というものがある。普段表に現れている「自我」の下には「無意識」の領域が大きく広がっているのだ。ところが、その「無意識」の領域から、押さえつけられていたものが分化して、浮かび上がってくることがある。それがユングが「影」と呼んだものだ。ここに出てくる「怪物」は明らかに少年の「影」だろう。

 作品の最後には、この押さえこんでいたものが明らかになる。コナーは、一連の出来事により、自分の心の奥底にあるものを認識するのだが、それはとても辛いことだった。しかし、彼がこれからの人生を生きていくためには絶対に必要なことだったのだろう。その意味では、この物語は、コナーの通過儀礼の物語なのかもしれない。

☆☆☆☆

※初出は、「本が好き!」です。

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