曇,19度,81%
私が住んでいるのは、香港島の北斜面、セントラル(中環)と呼ばれるところから山向きに歩いて20分ぐらいのところです。セントラルは一般的には、高級なブランド店が立ち並んでいるところとして有名ですが、高層ビルの上階は、銀行、金融関係、証券会社などのオフィスがあります。しかも、このオフスで働く人は地元香港人ばかりでなく、世界中から集まって来た多種多様な人種です。ウィークデイの昼間は、その人種の坩堝が見られます。その人の多さにはいつも閉口です。もちろん、オフィスで働く人ばかりではありません、ものを売る人、食べ物屋の人、挙げ句は観光客です。私など、生活の場ですからこの人ごみを避けて通るわけにはいきません。閉口だといいながらも、自宅の窓から見える超高層のビルたち、その下にいる人の多さにすっかり慣れ切っています。
こんな大都会の香港ですが、17世紀後半までは、ビクトリア湾に面してちいさな漁村があった島だったようです。その漁村が何でまた、こんな大きな町になったのか、ぼんやりと思うことがあります。パールリバーから上流、広州には租界がありました。その租界から上海向かう海外の船が、見つけた島が香港島だそうです。香港より当時はマカオの方が大きな町だったとは、知ったとき驚きでした。
2月半ばから4月の21日まで、香港歴史博物館で香港の古い写真展が開かれています。最近、滅多に香港島から出なくなっている私が、海の向こうの九龍サイドまで足を伸ばしてみました。香港島よりは道幅も広いチムサッチョイもやはり人人人です。
写真の発明以降の香港、18世紀半ばに、ヨーロッパから来た写真新技術者によってその様子が残されています。香港は、香港島、中國と地続きの九龍、もっと北の中國と隣接する新界とで出来た街です。ヨーロッパの技術者が捉えた街の様子は、ほとんどが、香港島、しかも、セントラル一帯です。18世紀中葉といえば日本ではまさに、江戸時代が終わりを告げ、明治が始まる頃。驚いたことには、その時代に既にこの香港島のセントラルには、軒並み石造建築の3階建ての建物が建っています。今も残る山向きの石の階段には、痩せた小さい中国人がこれまた、今の昼時と同じく人の山です。
街路の名前は当時と変わっていません。今ほど、山向きには開けてはいませんが、それでも上からセントラルを見下ろす景色はその石造建築の多さをはっきりとみせてくれています。時代が進むと、その石造建築が大型化し欧州の銀行の名前が掲げられ、ホテルも出来ています。しかも、その看板の多くは横文字です。
未だに、ごくごく一部にその3階建ての面影が残る建物があります。その姿が消えるのは時間の問題です。実は、私が香港に来た当時は、こんなに超高層はありませんでした。日本に比べれば高いビルでしたが、古い町並みがまだ残っていました。数年前、壊されたセントラルのクイーンズ映画館などなど、記憶に残る建物です。 入場券のこの写真、セントラルよりやや西の上環の海に面した、砂糖や米の問屋です。海からそのまま陸揚げ出来るようになっています。19世紀末の写真です。この海との境をトラムが走るようになりました。私が来た当初はこの景色、まだそのままでした。埋め立てや再開発でこの場所とわかる人には、数軒残る店がわかるかもしれません。
平日の昼過ぎ、人が少ないだろうと行ったのですが、なんと、学校の授業の一環に組み入れられているらしく、後から後から、引率された中学生がやって来ます。マナーの悪い香港の子供たち、そんな子供を見ながら、昔の香港の姿を子供たちが少しでも心に残してくれたらと願います。
土地にはそれぞれの歴史があります。この展示を見てから5日、やはり毎日セントラルに下りて行きます。でも、人ごみを見ても古い石の階段を下りていても、私の気持ちは以前と変わりました。人が多いことも、香港特有の花崗岩の石造りも、歴史があるのだと。古い建物を見ると見上げます、3階建てです。この街の歴史を少しわかり始めた自分がいます。