霧雨、15度、85%
以前にも私の手の話をしました。小さい頃から、可愛いとかきれいとか言う言葉とは縁遠い私です。10代、20代の頃は、私なりにきれいだったらなあなどと思ったものです。いえ、つい先日だって、きれいだったら違う人生があったのではと、ふと、思いを巡らします。
容姿もそういう具合ですが、もう一つ、手にいたっては、きれいどころではありません。私の手に目が止まった方は、すぐに言葉が出ないようです。先日も、友人がこの私の手を見て直接には言えなかったのか、後で、メールを送ってきました。しかも、私の手に目が釘付けになったというだけで、コメントは差し控えてあります。彼女のやさしさです。
どういう手かというと、まず、体の割に大きいのです。父親譲りの指も掌も大きな手。爪も父親譲りです。きっちりした四角い爪。しかも、永年の主婦仕事のおかげで節くれだっています。顔貌ばかりがその人の顔ではなく、時としてこの手が大きくものをいう時があります。若い頃はさして気にならなかった、自分の手の無骨さが、年を重ねるごとに気になります。手だって、顔同様しわも出来てきますし、もっと年がいけばシミだって出てきます。それでも、骨格の小さな手、細長い指、指先の爪は、年齢に関係なく美しいものです。
庭仕事は好きですが、鋤や鍬を持って畑仕事をしたことも、魚のかかった網を引き上げたこともありません。でも、まるでお百姓のおばあさんや漁師のおばあさんのような手をしています。土をいじります、パンをこねます、鍋磨きだってやりますから、爪はいつも短いままです。
母方の実家に嫁いで来た伯母は、土地があるというだけで朝早くからほっかむりをして、お蔵の裏の畑にキュウリだトマトだのを作っていました。どんな時も、ほっかむりと手の甲を日から遮るものを身につけていました。畑から帰ると、家の仕事です。夕方、その伯母が作る料理に祖父母も、伯父も私たち親戚も集います。そんなによく働く伯母の手は、いつも真っ白で、細い指をしていました。血のつながらないこの伯母のことを、ここ数年よく思い出します。そのきれいな手も。
私の手は大きく無骨なばかりか、実は非常に不器用です。一度や二度では、仕事の要領もつかめません。いつも、私はこの不器用な手を励まします。もう一度やれば出来るよって。56年間その繰り返しです。そうやって、この手は私の無理難題を聞いてくれました。この2年程、寒くなり始めると、指関節が痛むことがあります。考えてみれば起きている間中、豆に働いてくれています。
別の友人が、言葉を選んで働き者の手ね、と言ってくれたのは去年のこと。ほんとによく働いてくれます。私が逝く日まで、せめて、身の回りはこの手にお世話にならなければなりません。指輪なんて、全く似合わない私の手です。今日も、ああしろ、こうしろと手に発破をかけながら、ありがとうって思います。