おはようございます。
昨夜は体調不良のため、更新せずに寝てしまいました。仕事中から喉がいがらっぽく、今でもチョット痛いです。どうも風邪っぽい。今年は夏風邪を引かなかったので、今になって来てしまったかという感じです。
コメントのご返事が遅くなってしまいましたが、この記事がアップしておりましたらボチボチ進めさせていただきます。申し訳ございません。
さて、昨日の続きで、今日はいよいよハンプ(小高い丘)から貨車を転がします。これを『散転』と言います。大宮操車場で言うと、大宮操車場のほぼ真ん中辺りにある東西(上下本線)にある発着線に到着した列車から、本務機関車を切り離し、同時に貨車間に繋がっているブレーキ用のエアホースを全て外します。
単独の束となった貨車は、大宮方に連結された入換機(DE10又は11)に牽かれ、ハンプの引上げ線(ほぼ大宮駅に近いところ)へと連れてこられます。
ここから、上野方面に向かって推進により貨車を押し出し、後は必要なところで連結器を外され、バラバラにされた貨車は下り坂を勝手に転がって行くことになります。これを『散転』と言います。
照明塔の上から大宮駅方向を一望した写真です。
左上の奥に見えるのが暫定開業した東北・上越新幹線の大宮駅です。外回りで歩いて15分くらい掛かります。
左側の屋根が掛かっている部分で、入換手がブレーキの検査と予め手渡されている『分解表』を元に切り離しを行います。
ブレーキ検査は、手ブレーキの利きの有無を調べます。ブレーキの利かない(壊れているなど)貨車を坂から転がした場合、下で受け手となる入換手が飛び乗ってブレーキを掛けても止めることが出来ないわけですから、激突や脱線といった重大事故に繋がる恐れがあります。よって、これを防止するために行われるものです。
この場所がブレーキ検査と切り離しを行うセクションで、阪阜(ハンプ)部の1セクションですが、通称『山』と言われています。
ここで切り離された貨車は、ひたすら坂を転がって、下に待つ広大な群線へと流れ着くことになります。
散転は、上下列車とも別の作業ダイヤで動きますので、上りから引き上げて下りへ流す(東北線から高崎線へ、或いはその逆)といった協調作業以外は、上り班と下り班との連携はありません。全く別と言っても良いでしょう。
ただし、作業の開始時間は休憩等の都合もありますので、写真のように上下同時に散転されることが多いですね。ちなみに、右側が上り列車、左側が下り列車です。
写真のホキ2200なんかも、確か全廃になってもう見られなくなったのではないでしょうか。
上の写真の位置から上野方向を見た写真です。この写真を見る限りでは、大した勾配には見えませんよね。詳しい落差は分かりませんが2階建ての屋根の高さまではありませんから、せいぜい5m程度ではないでしょうか。
しかし、甘く見ては行けません。坂を転がる距離は実質100m強ぐらいでしょうから、40‰以上あるということになります。ノーブレーキでここを転がってくる貨車は40km/h以上のスピードになります。
このように、切り離されて自由運動になった貨車は、速度を制御する装置『カーリターダー』で速度を落とされながら、自分の決めれた群線へと落ちていくわけです。もちろん、勝手には止まってくれませんので、ここで私の仕事である入換手の出番となるわけです。
多分、殆どの皆さんは入換の経験が無いでしょうから、文章を読んでいても疲れてしまうと思います。よって、ここで一旦切らせていただいて、間隔をおいてアップして行こうと思います。
鉄道ブログランキング ← ちょっと落ち込みました。よろしくお願いいたします。
昨夜は体調不良のため、更新せずに寝てしまいました。仕事中から喉がいがらっぽく、今でもチョット痛いです。どうも風邪っぽい。今年は夏風邪を引かなかったので、今になって来てしまったかという感じです。
コメントのご返事が遅くなってしまいましたが、この記事がアップしておりましたらボチボチ進めさせていただきます。申し訳ございません。
さて、昨日の続きで、今日はいよいよハンプ(小高い丘)から貨車を転がします。これを『散転』と言います。大宮操車場で言うと、大宮操車場のほぼ真ん中辺りにある東西(上下本線)にある発着線に到着した列車から、本務機関車を切り離し、同時に貨車間に繋がっているブレーキ用のエアホースを全て外します。
単独の束となった貨車は、大宮方に連結された入換機(DE10又は11)に牽かれ、ハンプの引上げ線(ほぼ大宮駅に近いところ)へと連れてこられます。
ここから、上野方面に向かって推進により貨車を押し出し、後は必要なところで連結器を外され、バラバラにされた貨車は下り坂を勝手に転がって行くことになります。これを『散転』と言います。
照明塔の上から大宮駅方向を一望した写真です。
左上の奥に見えるのが暫定開業した東北・上越新幹線の大宮駅です。外回りで歩いて15分くらい掛かります。
左側の屋根が掛かっている部分で、入換手がブレーキの検査と予め手渡されている『分解表』を元に切り離しを行います。
ブレーキ検査は、手ブレーキの利きの有無を調べます。ブレーキの利かない(壊れているなど)貨車を坂から転がした場合、下で受け手となる入換手が飛び乗ってブレーキを掛けても止めることが出来ないわけですから、激突や脱線といった重大事故に繋がる恐れがあります。よって、これを防止するために行われるものです。
この場所がブレーキ検査と切り離しを行うセクションで、阪阜(ハンプ)部の1セクションですが、通称『山』と言われています。
ここで切り離された貨車は、ひたすら坂を転がって、下に待つ広大な群線へと流れ着くことになります。
散転は、上下列車とも別の作業ダイヤで動きますので、上りから引き上げて下りへ流す(東北線から高崎線へ、或いはその逆)といった協調作業以外は、上り班と下り班との連携はありません。全く別と言っても良いでしょう。
ただし、作業の開始時間は休憩等の都合もありますので、写真のように上下同時に散転されることが多いですね。ちなみに、右側が上り列車、左側が下り列車です。
写真のホキ2200なんかも、確か全廃になってもう見られなくなったのではないでしょうか。
上の写真の位置から上野方向を見た写真です。この写真を見る限りでは、大した勾配には見えませんよね。詳しい落差は分かりませんが2階建ての屋根の高さまではありませんから、せいぜい5m程度ではないでしょうか。
しかし、甘く見ては行けません。坂を転がる距離は実質100m強ぐらいでしょうから、40‰以上あるということになります。ノーブレーキでここを転がってくる貨車は40km/h以上のスピードになります。
このように、切り離されて自由運動になった貨車は、速度を制御する装置『カーリターダー』で速度を落とされながら、自分の決めれた群線へと落ちていくわけです。もちろん、勝手には止まってくれませんので、ここで私の仕事である入換手の出番となるわけです。
多分、殆どの皆さんは入換の経験が無いでしょうから、文章を読んでいても疲れてしまうと思います。よって、ここで一旦切らせていただいて、間隔をおいてアップして行こうと思います。
鉄道ブログランキング ← ちょっと落ち込みました。よろしくお願いいたします。
動力のない貨車がよく単走していくところを見ましたが、こういう仕組みになってたんですか。
新小岩にも山ってあったのかしら?見たところずっと平坦ですけど。
更新前に朝ポチ入れときましたぜ。
新小岩は中に入ったことが無いので詳しくは知りませんが、貨車の扱い量は小規模だと思いますので、せいぜい突放入換があったくらいではないでしょうか?
ハンプ入換は、かなりの通過量がある操車場しか設けていませんので、首都圏だと新鶴見操、大宮操くらいで、田端操に小規模なものがありました。
地方だと郡山タが有名でしたね。
突放入換え、懐かしい響きですねぇ~。貨車にも突放禁止の表示がしてあるもあったりして。
さて次はいよいよ、つばささんの仕事の分担箇所の記事ですね。楽しみです。
昔々の大宮の駅の高崎線上りホーム南側より、与野方面を見ると屋根らしきものが目についたものでしたが、あれが操車場施設の一つだったハンプと知ったのは、子供向けの図鑑に説明があったからです。
ちなみに私が子供のころの学研の図鑑=機関車・電車=に操車場の項目の写真がありますけど、なんと大宮操車場の全景があり、地元民の私は「大宮が載ってる!」と喜んで、その写真を食い入るように見てた記憶が今も忘れられません。
閑話休題、新都心駅ができる前から仮称「南大宮駅」構想があった事は、私が大宮に住んでた頃に噂を聞いた事はあったけど、ひもを解いてみたところ何と昭和31年に駅開設の件を、当時の大宮市の有力者が国鉄さんに願い出てたと、先日図書館にて借りた大宮の歴史年表にその事実が載ってたのには、本当に驚きでした。
今はなきカラフルな貨車群と、大きく変わってしまった背景の街並みはとても懐かしいです。
それでは、この辺で失礼します。
突放禁止の車両というのは、基本的に飛び乗れない構造の貨車や客車全般に指定されるんです、
客車は初めから飛び乗る概念がありませんし、中間車は手ブレーキが付いていないので、動き出しちゃったら止まる手段が無いのです。ですから、基本的には緩急車と一緒に手を繋いで停まるのが原則です。
突放禁止で一番分かり易いのはク5000ですかね。添乗設備が無く、手ブレーキが側面中央の床下に付いていますので、動き出したらしゃがんだまま動いてブレーキを回さなければなりません・・・んなこと出来るわけないです。(笑)
確か私が知識を得たのもその図鑑だったと思います。もう数十年見ていないのですが、アレ大宮操でしたか?知りませんでした。
あの新駅要望が昭和31年とは、私が生まれる前とはね。昭和50年代の話だと思っていました。地元の有力者って、まさか片倉さんでしょうかね。大宮氷川神社の参道が新都心駅のちょっと北の辺りで中山道に接していたと思いますので、そのような背景もあったのでしょうか。
これを機会に、現在の大宮操車場の遺構を訪ねる旅でもしようかと思案中です・・・旅と言うほどの距離じゃないですけど(笑)。
りそうです。オジサンにはこのシーリズは楽しみですよ。
連発で続けて欲しいぐらいです。
貨物の緩急車が廃止になった時と関係してるのですかね。
楽しみにしていただいてありがとうございます。
連発でやってしまうとアッという間に終わってしまいそうですし、この記事は説明が長くなるので結構大変です。なので、うんちくを交えながらぼちぼちと進めて行こうと思います。