間が開きましたので、EF58ネタにしたいと思います。
今日ご紹介いたしますのは、晩年を東北本線で過ごした上越仕様の152号機と153号機です。
この両号機に関しては、残念ながら詳細な資料がありません。したがって、わかるところだけ情報提供したいと思います。
152号機・153号機とも上越仕様車で、ツララ切りを装備していますが、宇都宮区配置に当たってホイッスルカバーは外されたようです。
パンタグラフは標準のPS15、エアフィルタは原形のようです。デフロスタについては、写真で見る限り昭和55年の頃には装備されていないことから、これ以降取り付け工事が施工されたものと思われます。
運転席の窓については、152号機が比較的早いうちにHゴム化されたのに対し、153号機は原形のまま残っていました。
いずれの事項についても最晩年の形態を示す写真が残っていませんので、153号機のHゴム化やエアフィルタの改造については不明です。
では、まず152号機の写真から。
昭和53年10月頃 東北本線 蕨~西川口間にて EF58152牽引の旧型客車列車
ピンは甘いわ遠いわで判りにくい写真ですが、この時代は精一杯の写真ですのでご勘弁を。東北本線の普通客車列車が全廃となる直前の画像です。
知識は足りないのですが、夕刻であることから考えて、宇都宮止まりの上り124列車から宇都宮発上野行きの回送48列車のスジとなる、毎日運転の送り込み回送と思われます。昔の時刻表によると、ゴールデンウィークに快速列車48レとして時刻表にも掲載されておりますので、郵便車は営業のまま、客車は締め切り扱いの「荷物列車」として運転されていたようです。
昭和55年8月13日 上野駅にて 455系と並び出発を待つ152号機
お盆の多客シーズン真っ盛りの上野駅。455系は山形・会津若松から到着した「ざおう6号」「ばんだい10号」。152号機牽引の列車は「津軽3号」と思われます。時刻表によると、この並びはありえない筈なのですが、番線変更があったのかもしれません。
EF57の引退後、EF58が最も活躍していた時期といえるでしょう。
昭和56年5月 東北本線 蕨~西川口間にて EF58152牽引「八甲田」 (再掲)
12系化された後の上り急行「八甲田」。12系9連で上野方にスニ40を連結しています。以前はワサフ8000を連結していましたが、12系化とほぼ同時期に置き換えられたと思われます。
続いて153号機です。
昭和52年 東北本線 大宮駅にて 153号機牽引の上り「八甲田」(再掲)
こちらは旧客時代の急行「八甲田」。この当時はワサフ8000の他に、さらに郵便車が連結されています。電気暖房を必要とする旧客時代の、もっともEF58が力を発揮していた時代の1コマです。
昭和52年8月 東北本線 蕨~西川口間にて 12系臨時急行を牽く153号
ピンボケ写真で恐縮です。上りの臨時急行列車と思われますが、資料が不足しており詳細は不明です。当時、12系臨時列車の場合は、東北急行が6連+6連の12両編成、上越線は9連が一般的でした。写真は12系8両編成であり、東北本線の急行列車として考えるのは非常に不自然なため、ひょっとすると、信越からの臨時急行を高崎から牽いてくる臨時運用に借り出されたことも否定できません。とにかく、なぞの列車です。
ここまで、その形態が酷似していることから兄弟扱いで紹介してきました。
確かに、152号機が昭和33年3月27日、153号機が同年4月6日に東芝製で新製されたので、出生こそ兄弟といえますが、新製配置に関して調べると、152号機が高崎第二区、153号機が宇都宮区と、いきなり全く違った道を歩んでいます。
したがって、152号機は上越仕様として誕生し、後に宇都宮区で活躍した経緯は解かりますが、新製当初から生え抜きの宇都宮っ子の153号機がどの時点で上越仕様になったのか、或いは初めから上越仕様として誕生し予定変更で宇都宮区に配置になったのかは不明です。また新たな資料がありましたら、その辺りの詳細を掲載したいと思います。
※ 152号機は昭和58年2月18日、153号機も同年3月11日付で廃車となっています。
今日ご紹介いたしますのは、晩年を東北本線で過ごした上越仕様の152号機と153号機です。
この両号機に関しては、残念ながら詳細な資料がありません。したがって、わかるところだけ情報提供したいと思います。
152号機・153号機とも上越仕様車で、ツララ切りを装備していますが、宇都宮区配置に当たってホイッスルカバーは外されたようです。
パンタグラフは標準のPS15、エアフィルタは原形のようです。デフロスタについては、写真で見る限り昭和55年の頃には装備されていないことから、これ以降取り付け工事が施工されたものと思われます。
運転席の窓については、152号機が比較的早いうちにHゴム化されたのに対し、153号機は原形のまま残っていました。
いずれの事項についても最晩年の形態を示す写真が残っていませんので、153号機のHゴム化やエアフィルタの改造については不明です。
では、まず152号機の写真から。
昭和53年10月頃 東北本線 蕨~西川口間にて EF58152牽引の旧型客車列車
ピンは甘いわ遠いわで判りにくい写真ですが、この時代は精一杯の写真ですのでご勘弁を。東北本線の普通客車列車が全廃となる直前の画像です。
知識は足りないのですが、夕刻であることから考えて、宇都宮止まりの上り124列車から宇都宮発上野行きの回送48列車のスジとなる、毎日運転の送り込み回送と思われます。昔の時刻表によると、ゴールデンウィークに快速列車48レとして時刻表にも掲載されておりますので、郵便車は営業のまま、客車は締め切り扱いの「荷物列車」として運転されていたようです。
昭和55年8月13日 上野駅にて 455系と並び出発を待つ152号機
お盆の多客シーズン真っ盛りの上野駅。455系は山形・会津若松から到着した「ざおう6号」「ばんだい10号」。152号機牽引の列車は「津軽3号」と思われます。時刻表によると、この並びはありえない筈なのですが、番線変更があったのかもしれません。
EF57の引退後、EF58が最も活躍していた時期といえるでしょう。
昭和56年5月 東北本線 蕨~西川口間にて EF58152牽引「八甲田」 (再掲)
12系化された後の上り急行「八甲田」。12系9連で上野方にスニ40を連結しています。以前はワサフ8000を連結していましたが、12系化とほぼ同時期に置き換えられたと思われます。
続いて153号機です。
昭和52年 東北本線 大宮駅にて 153号機牽引の上り「八甲田」(再掲)
こちらは旧客時代の急行「八甲田」。この当時はワサフ8000の他に、さらに郵便車が連結されています。電気暖房を必要とする旧客時代の、もっともEF58が力を発揮していた時代の1コマです。
昭和52年8月 東北本線 蕨~西川口間にて 12系臨時急行を牽く153号
ピンボケ写真で恐縮です。上りの臨時急行列車と思われますが、資料が不足しており詳細は不明です。当時、12系臨時列車の場合は、東北急行が6連+6連の12両編成、上越線は9連が一般的でした。写真は12系8両編成であり、東北本線の急行列車として考えるのは非常に不自然なため、ひょっとすると、信越からの臨時急行を高崎から牽いてくる臨時運用に借り出されたことも否定できません。とにかく、なぞの列車です。
ここまで、その形態が酷似していることから兄弟扱いで紹介してきました。
確かに、152号機が昭和33年3月27日、153号機が同年4月6日に東芝製で新製されたので、出生こそ兄弟といえますが、新製配置に関して調べると、152号機が高崎第二区、153号機が宇都宮区と、いきなり全く違った道を歩んでいます。
したがって、152号機は上越仕様として誕生し、後に宇都宮区で活躍した経緯は解かりますが、新製当初から生え抜きの宇都宮っ子の153号機がどの時点で上越仕様になったのか、或いは初めから上越仕様として誕生し予定変更で宇都宮区に配置になったのかは不明です。また新たな資料がありましたら、その辺りの詳細を掲載したいと思います。
※ 152号機は昭和58年2月18日、153号機も同年3月11日付で廃車となっています。
宇都宮区のカマは、基本的に上越装備を解除していたようですね。他に89号機と58号機というのもいましたが、いずれもホイッスルカバーは付いていません。ただ、もう1台の上越仕様車で102号機というのがあるのですが、私の持っている写真を見る限り、大型のホイッスルカバーが付いたままです。ただし、撮った年代が古いので最後まで付いていたかどうかは不明です。
88号機は私も気になってはいたのですが、他の上越仕様車と見比べてもこれといった違いが見られませんでした。強いて言えば、写真に写っている機関士側のツララ切りが少し変形しているように見えます。作りが違うというより、何かぶつけて変形したまま直していない、というような感じがしますが、如何でしょう?
お体のほうは大丈夫ですか!?
そんな私も、実は8月半ばの盆休み最後の日に事故で右膝靭帯を痛めてしまい、ひと月あまり会社を休んで自宅療養の身となってしまいましたが、そんな時にこのプログに出会い、大宮及び周辺の懐かしい鉄道写真を拝見することができ、仕事に復帰するまで楽しませていただき本当にありがとうございます。
おかげで私は先週より仕事に復帰し、まだ暫くはリハビリは残ってるけど、無理しないように気を付けて仕事などに望む方針です。
さて、話は長くなってしまいましたが精悍なヒサシつきのゴハチ牽引の「八甲田」号と、青空をバックにした大宮駅ホームのツーショット写真を拝見いたしましたが、今はなきムサシビルがニョッキリ目立ってるのが印象的でしたが、いまでもムサシビル裏にあったビル=朝まで元気村ーという看板があります=の給水塔にはムサシ食品の字がかなり色あせているが残ってます。
長文になりましたが、これで失礼します。
ご心配お掛けしてすみません。まだダメです・・・。
大変な怪我をされたんですね。色々な時間にコメントが入っているのでどういう方なんだろうと思っていたのですが、そういうことですか。納得いたしました。
復帰おめでとうございます。無理しないで徐々にテンポを上げていきましょう。
こうして見ると、今の状況から想像がつかないほど違いますね。周りの建物も変わっていますし。一時期駅撮り写真は恥ずかしいなんて思っていましたが、歴史を語る立派な証人ですね。車両だけじゃなくて、施設や空の広さだって時代を語ることが出来るんですね。
日中帯でしか撮ってなかったので、夜行列車の運用にも就いていたのでしょうから、この旧客時代には1日に何回上野に顔を出してたんでしょうね。
この2両は末期まで残らなかったので、高校くらいまでに撮ったのが最後のようです。
当時はまだ興味がなく撮っていたので、別に号機を意識して撮ったことは無かったですね。
新幹線が開業するまでは、臨時や夜行も含めて客車列車が沢山残っていましたから、宇都宮所の配置両数も多かったですね。