マル鉄回顧録

鉄道写真・鉄道模型を始め、バスやトラックなど、乗り物中心のブログです。昔の写真はマル鉄鉄道写真館で再編集しています。

475系 北陸急行「ゆのくに」「立山」

2008-03-27 01:32:11 | その他電車
先頃JR東日本管内の455系が引退したことについて、当ブログにおいてもご案内させていただいたところですが、JR西日本管内では、まだ471系ですら在籍するほど大事に使用されています。
塗装こそ今まで2度にわたり変更されてしまいましたが、「雷鳥」「しらさぎ」「加越」「北越」といった大量の特急群に混じって、475系列の急行列車が活躍していました。
455系列の電車急行が全国に波及しだした頃は、東北・常磐・山陽・九州といった各地においても地域ごとに特色のあるヘッドマークを掲げており、少年頃は憧れの的でした。しかし、東京発着のブルトレ以外のブルトレからヘッドマークを外してしまった頃には、急行列車のヘッドマークも次々と外されるようになり、殊に電車急行でヘッドマークが残ったのは房総の153・165系と北陸の475系だけになってしまいました。

東北急行でお目に掛かることのなかった憧れのヘッドマーク付きの455系。幸いにも関西・北陸を訪れたときに偶然キャッチすることが出来たのでご紹介したいと思います。




昭和55年8月 京都駅にて 475系「ゆのくに」

関西・山陰と撮影し帰途に入る寸前ですが、京都駅でちょうど来た「ゆのくに」を撮りました。邪魔っけなガキンチョが居たのでいい構図で撮れなかったのですが、唯一の「ゆのくに」の写真です。



昭和55年8月 東海道本線 山崎~神足(現長岡京)間にて 475系「立山」

こちらも上の写真と同行程の中で撮影した1枚。
ナンバーは確認できませんが、パンタ部のファンデリアグリルの形状からして471系の可能性が高いですね。
この時点までは、種別幕のところが生きており、原形を保っています。



昭和58年4月15日 北陸本線 富山駅にて 475系「立山」

こちらは国鉄に入社してからですね。確か、急行列車も末期の頃になっていたと思います。この頃は旧型国電ばかり撮っていた頃ですので、あまり特急列車も撮っていなかった頃でした。しかし、急行列車ももちろん貴重になりつつある頃でしたので、もうチョット気合いを入れておけば良かったと悔やまれます。
こちらの写真では、種別幕のところに鉄板が充てられています。これは、トンネルのツララによる破損が多いための措置で、現在生き残っている475系列の車両は全て施工されています。


ヘッドマークが小さくなり、本数も激減しましたが、そんな中でもヘッドマークを掲げた交直流急行電車は魅力タップリでした。こうした国鉄スタイルの同車を見ることはもうないでしょうし、記憶・記録だけの憧れとなってしまうんですね。

Fe4メンバー事務局長のlineさんのブログ『デザイン屋の日々』 http://diary.jp.aol.com/qegbrh4/86.html で私の写真なんかより構図の良い素晴らしい写真が紹介されています。大型ヘッドマークの時代のもので大変貴重です。是非訪問してみてください。
コメント (24)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

急行「天の川」:EF58牽引 10系・20系寝台列車

2008-03-26 01:34:52 | ブルートレイン:機関車・客車
写真が20系主体なので、ブルートレインのカテゴリで整理させていただきます。

今日は、上野~秋田間を結んでいた寝台急行列車「天の川」をご紹介させていただきます。
ところで、『寝台列車』ってご存知ですか?
昔の時刻表を見ると、夜行急行列車に『(寝台列車)』と記載されている列車と何も記載されていない列車があります。列車名や編成をご覧いただくと一目瞭然なのですが、列車の編成が寝台車で組成された列車が『寝台列車』で、寝台車を連結していても座席車が主体となっている列車はただの夜行急行列車な訳です。特急寝台は原則全車寝台車なので、自動的に『寝台列車』となります。
※例外的にグリーン車や普通座席車が連結されていても、全車指定席の場合は『(寝台列車)』と表現されています。

ついこの間廃止となった「銀河」も『寝台列車』になりますし、昭和40年代後半からで例えますと、東北スジでは「北星」「新星」、上越スジですと「天の川」「北陸2号」が『寝台列車』に該当します。

これらの列車はいずれも急行列車の中では超優等な存在であり、その後特急列車に格上げされたり、急行のままでも20系化されたりと、いずれも優遇された扱いを受けています。

時間的な厳しさから殆ど撮影する機会がなかったのですが、スキャニング作業から発掘された昔の写真をご覧下さい。


昭和48年か49年頃 東北本線 蕨~西川口間にて EF58牽引 10系寝台「天の川」

サクラパックで撮影した、鉄活動最初期の頃の写真です。
当時、上越形のEF58が牽引する急行は「天の川」と「北陸2号」がありましたが、次位にオユ10が連結されていますので、「天の川」であることが分かります。
通常3月頃の撮影はかなりキツイので、到着が遅れていたのではないでしょうか。
オユ10は未だ非冷房ですし、全車10系寝台列車というのも昭和51年半ばには消滅していますので、今となっては貴重なシーンですね。
春闘の落書きがしてある写真は、私は殆ど撮影していなかったので、そういった意味でも貴重かもしれません。



昭和52年 東北本線 蕨~西川口間にて 20系化された急行「天の川」

前述のとおり、急行寝台列車だった「天の川」は、10系寝台車の老朽化に伴う撤退と、寝台特急「ゆうづる」の14系・24系化による20系客車の捻出により、東北急行「新星」とともに20系化されました。
「新星」と「天の川」は全く編成が違うために共通運用にはなっていませんでしたが、組成替えによる車両の共通化は図られていたようです。ちなみに、写真の後から2両目に連結されているナハフ21改造のナハネフ21は急行「新星」に良く使用されていましたが、写真ではナハネフ21と22のダブル緩急車という一風変わった編成に組成されています。


昭和57年1月5日 上越線 水上駅構内にて EF58175牽引の20系「天の川」

この写真は、水上駅に初めて夜間撮影に行ったときのものです。
このときはギリギリEF58の運用が残っていたのですが、この後直ぐに撤退してしまったようです。
この場面の後に峠越えの補機が連結されるのですが、全てEF641000番代に置き換わってしまった後で、残念ながらEF16の姿を見ることは叶いませんでした。
冬なのに雨に降られてスゴクつらい撮影でした。


10系寝台列車時代からA寝台を2両も連結し、羽越本線経由としては唯一新潟を経由する列車としてその優等振りを発揮していた急行寝台列車「天の川」でしたが、昭和60年3月、上越新幹線の上野開業により惜しまれつつも廃止されてしまいました。

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

381系0番代「しなの」

2008-03-25 01:32:31 | 特急型電車(直流)
今日はお疲れモード。スゴク疲れました。

さて、スキャニングの途中ですがこれで終了!というネタがありましたのでご紹介したいとおもいます。
中央西線を代表する特急「しなの」です。

元々特急列車の走っていなかった中央西線木曽路で、「しなの」は急行列車として誕生しています。中央西線ならではの山岳路線でスピードアップが難しかったため、キハ82系の誕生により四国を除く全国に拡大した特急網も、中央西線は手付かずになっていました。
そこで、非電化・山岳路線におけるスピードアップの実現のため、強馬力エンジンを搭載した急行形気動車キハ90・91が試作誕生し、急行「しなの」に充当されるようになります。
この試作データで手応えを得た国鉄は、さらに改良を加えたキハ181系が産声を上げ、ここに特急「しなの」が誕生します。昭和43年のことでした。

そのわずか5年後の昭和48年、中央西線の全線電化時において、日本初となる振子式特急形電車381系が誕生し、曲線の通過速度を向上させ、電車化とともに大幅なスピードアップを図ることになりました。なお、暫くはキハ181系2往復が存置されていました。

私的には縁のなかった中央西線の特急ですが、若干数の写真がありましたのでアップいたします。



昭和52年3月30日 名古屋駅にて 文字マーク時代の「しなの」

生涯初めて遭遇した381系「しなの」。53・10改正以前の姿ですので、文字マークとなっています。オートハーフでしたので案の定ブレブレです。
このときは、もーまんさんも一緒でした。





昭和56年8月 東海道本線 山崎~神足(現長岡京)間にて

キハ181系時代より、1往復は大阪まで顔出していました。381系化後のキハ181系が存置されていた時代においても、何故か大阪「しなの」は気動車のまま残っていました。
初めて大阪に行ったとき、運がよければキハ181「しなの」が撮影できたはずですが、その時間に朝食を摂りに旅館に帰ってしまったらしく、結局1度も遭うことはありませんでした。
上の写真は先頭をリバーサル、後部をモノクロで撮影しています。リバーサルの方は感度が低かったせいか、ブレてしまっているのが残念です。



昭和58年1月12日 長野駅にて 489系「白山」との競演

実は、飯田線の撮影の帰りに何故か信越経由で帰ってきたことがあり、そのとき1度だけ塩尻~長野間で「しなの」に乗ったことがあります。わずかな乗車区間でしたが、正直気持ち悪くなって、あと20分も乗っていたらリバースしたかもしれないです。

ほんのわずかな付き合いしかなかった特急「しなの」。キハ181系にも、その後増備された非貫通型100番代にも逢えず終い。何故かこの4枚の0番代だけが記録に残っています。
中央西線の国鉄色の381系も残すところ1編成。有終の美を飾ってもらいたいですね。
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とうとう全廃!東日本455系:思い出のグリーンライナー

2008-03-24 02:25:53 | その他電車
お彼岸20日に雨の中お墓参りに行ったからでしょうか、何か疲れてます。天気の良かった2日間、出掛けたのは昨日の夕方、念のためにと灯油1缶買うついで、あまり乗らないクルマに久々の給油をしに行ったくらい。他は延々と続くスキャニングに時間を費やしてました。

スキャニングは疲れますが、35mmリバーサルを多用していたのは25~30年前くらいなので、懐かしい思い出がマルでつい数年前のことのように蘇ってきます。

そして、たまに手を休めて他の方のブログを拝見したり、鉄道の情報を探したりとしているのですが、その中でJR東日本最後の455系がさよなら運転を行った記事がありました。

455系といえば、母親の実家に行くときは、455系急行が最初の頃の主な手段で、まだサハシを連結している頃に随分乗りました。ただ、小学3年か4年の頃、早朝出掛けにコーヒー牛乳を飲んだ際、満員で座ることも出来なかったときに酔ってしまい、通路でリバースしてしまったトラウマからか、乗る機会が減ってしまいました・・・。

そんな出来事も今は思い出、あのローズピンクをまとって本線を13・12両で駆け抜けていった455系急行への憧れはなくなることはありませんでした。

昨年の2月、455系が仙台地区から撤退ということで、まだ写真のスキャニングを始めたばかりの頃、 http://diary.jp.aol.com/marutetsu/26.html で彼らを見送ったつもりでいたのですが、あれから1年、まだ頑張っていた編成があったのですね。
そして、とうとう『全廃』という悲しい現実を受け止めなくてはならなくなってしまいました。

今日は、そんな彼らが急行列車の地位から陥落し、地域の足として活躍していた晩年の写真をご覧いただこうと思います。


昭和62年11月23日 磐越西線 翁島~猪苗代間にて


昭和62年11月23日 磐越西線 翁島~磐梯町間にて

急行列車の地位から陥落したのは東北新幹線の開業の頃。短編成化・近郊改造や塗色変更などされてから、もう25年も経つんですね。ちょうど私が国鉄に就職した年ですから、晩年というにはまだ早過ぎる頃です。
まだ初期の頃はシールドビームに改造されていない車両も多く存在しました。
写真は、分割民営化間もない頃。磐越西線は、勾配抑速ブレーキを備えた455系にふさわしい活躍の舞台でした。



平成5年2月2日 磐越西線 磐梯町~翁島間にて

平成になると、復活したD51498が毎冬磐越西線を走るようになったため、グリーンライナー化された彼らを撮る機会も増えたかもしれません。
あくまでもD51の露払い的存在にしか見ていませんでした。やはりグリーンライナーという塗装と、似合わないライトのボックス化が気持ち的に彼らを拒否してしまったと思います。





平成13年7月8日 東北本線 須賀川~安積永盛間にて

これもSL撮影のついででしたね。仙山塗装の車両も見えますが、これも仙山線から撤退後で、東北線や磐越西線にも顔を出していました。
今改めて見ると、3両編成の普通列車はデッキまで立席が出ており、むかしED71や75が12~3両の客車を従えて走っていた頃とは、比べることさえナンセンスな感じです。


彼らがこの世に誕生してから約40年。長きにわたり時代の発展に貢献した彼らに惜しみない拍手を送りたい。
まだ他では同僚が頑張っている地域もありますが、とかく思い入れの強い東北急行を勤めた彼らを永遠に忘れることはないでしょう。

現在スキャニングが終わっていない過程の中で、これからまだまだご紹介できる彼らの活躍シーンがあります。今後はそんな活躍シーンをご覧頂きながら、皆さんと回想していきたいと考えております。

お疲れ様でした。455系たち・・・さよなら東北急行のスターたち・・・
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

183系1000番代「あまぎ」:一挙7枚放出!

2008-03-23 01:23:43 | 特急型電車(直流)
この間Fe4で撮影に行った伊東線。熱海から伊東、果ては下田まで、東京から便利な有数な温泉地帯が続きます。よって、昔から温泉への旅行手段として伊東線、伊豆急行電鉄と旅客輸送が栄えました。

現在は、特急「踊り子」号が土日ともなると「これでもかっ!」くらいの本数が走り、シーズンになれば伊豆急行のリゾートまで東京に顔を出すようになりました。
このような輸送体系になったのは昭和56年末期からで、なんだかんだ25年も経ってしまったのですが、それ以前の主力は153系使用の急行「伊豆」であり、お金に余裕のある方たちは157系の「あまぎ」を使っていたわけですね。

当時、全国でも唯一の157系定期特急「あまぎ」は、当然にして鉄の注目を浴びる列車でしたが、1段下降窓からなる雨による腐食が激しく、新製当初のデザインの良さが仇となって、引退を早めてしまいます。昭和51年のことでした。

ちょうどその頃、耐寒・耐雪装備を施し上越線で使用実績を挙げていた183系1000番代が増備に次ぐ増備で増殖し始め、ついにはこの157系を引退に追い遣ることになりました。

183系1000番代となった「あまぎ」は、定期2往復、季節・臨時2往復の計4往復体制を堅持していましたが、老朽化した153系「伊豆」の置換えを念頭に誕生した当時斬新なデザインの185系導入とともに、急行「伊豆」を全部格上げして特急大増発への道を歩むことになります。

しかし、ここで疑問となったのが愛称名。「あまぎ」をそのまま引き継ぐこと無く、「踊り子」という名前が採用されることになりました。「伊豆の踊り子」と言ってしまえば誰もが頭に浮かぶ単純明快な語呂ですが、当時特急の愛称にそのような発想で付ける例は無く、非常に違和感を感じました。「しおさい(潮騒)」に次ぐ百恵ちゃんシリーズ第2弾といった感じで、なんか拍子抜けな感じがした記憶があります。
そんなわけで、157系を追い遣った憎き183系ではありますが、157系を押えられなかった悔しさもあり、伝統ある特急「あまぎ」を撮影したわけです。



昭和51年 東京駅11番機回し線にて 文字マーク時代の「あまぎ」

まだ183系が導入されたばかりの頃ですね。中1の年齢でカメラも使いづらいオートハーフ。当時はこんな写真でもブレていないだけマシな方でした。
この頃、9・10番線は主に横須賀線に使用されていました。



昭和54年頃 東京駅11番機回し線にて イラストマークとなった「あまぎ」

53・10改正より「あまぎ」もイラストマークになっています。ブルトレの撮影の際についでに撮ったもので、157系でなくなってしまってからはまず撮る気になれない列車でした。



昭和56年5月頃 東海道本線 戸塚~保土ヶ谷間にて

これは、東戸塚駅の戸塚寄りの線路脇から撮影したものです。現在では駅周辺環境もかなり変わってしまいましたので、同じように撮影できるかどうか判りません。
このときは、「あまぎ」を撮影するというより185系に置換えが始まった153系を中心に撮影するつもりで立ち寄りました。現実にはEF58などを撮っていたような気がしますが・・・。





昭和56年9月頃 品川駅にて (2枚とも)

185系が昭和56年前半に誕生し、153系急行「伊豆」や間合いの普通列車に使用されるようになり、増備の完了を待って「踊り子」に移行することが発表されました。
それでようやく重い腰を上げて「あまぎ」を撮影するようになりました。





昭和56年9月28日 東海道本線 戸塚~保土ヶ谷間にて(2枚とも)

「踊り子」号への以降直前、この「あまぎ」の撮影をメインとした初めての撮影。このときは結構気合いが入っていた覚えがあります。
高校3年の頃で、機材も充実し、腕もかなり上がってきた頃なので、手応えを感じながら撮影したものでした。
先々週撮影に行った同区間。基本的な景色は変わりませんが、余分なものが映らずスッキリしていて好感のもてる絵じゃないですか。周りのビルやマンション、保安設備に至るまで、現在では鬱陶しくなってしまいましたね。


この後、計画通り急行「伊豆」は185系化のうえ特急列車に格上げとなり、特急「あまぎ」の愛称は消滅してしまいました。
183系1000番代は、しばらくの間「踊り子」として活躍していましたが、後に新幹線上野開業に伴い運転解除された新幹線リレー号から185系200番代が流入し、長野など本来活躍すべき地域へと旅立っていきました。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする