隠れオバタリアンのことを書こうと思っていたのだが・・・
またまた、毎日のなりゆきで、気分が変わってしまう。
というのは、昨日は、義母の住む家(=夫の実家)に行った。
行きは、アタマの中は、今、面白くなってきた社交ダンスのことや、
そこで接する人々のことが、ぽわんぽわんと浮かんでは消え、浮かんでは消え、
カーラジオのFMから流れる曲といっしょに楽しんでいた。
いつも、義母の家への道中、真ん中を過ぎるあたりに、トンネルがある。
このトンネルを通過すると、わたしは、時の止まった地域の人間に変わる。
トンネルまでは、気ままな都会生活を楽しみ、距離感が気持ちいい、人工的に造成された住宅街の住民。
トンネルを抜けると、閉ざされた、歴史深い地の、固定された人間関係のなかで動く、嫁。
トンネルの中で、徐々にグラデーションがかかって、変化していく。
帰りは、その逆で、また、解放された地へ戻っていく。
自分は、どっちの人間なんだろう。
どっちも、だ。
ある会で、キモノを着ることにしたので、義母の家に置いている、わたしのキモノをチェックしてきた。
下娘のキモノも同時にチェック。
来月、お彼岸の時に、持ち帰る予定。
嫁入りの時に母が用意してくれた和装品の中から、どれとどれを合わせるか、選んだ。
キモノ、帯、帯揚げ、帯締め、色と素材の組み合わせに、義母のアドバイスを受けながらアタマを悩ませる。
(じつは、後半は、もう、和箪笥から、畳〔たとう〕紙に包まれたキモノや帯を、
何度も何度も出してくるのが、うんざりしてきた)
義母が、自分の帯締めや帯揚げも、どこやらか出してきて、選択の候補に入れてくれた。
しみじみ・・・母に感謝。親に感謝。義母に感謝。
今までの、わたしにかけてくれた時間、労力、お金、そして愛情に、感謝。
そういう気持ちになった。
義母の家にサポートに来てくれている女性、Fさん。
彼女は、なんとW大学を卒業されている。
わたしより少しだけ年齢は上だが、あんな田舎から、東京の名門大学へ。
わたしなんぞ、足元にも及ばない才媛。
彼女は今では欠かせない、義母のおメガネに叶った、重要な人。
いつも、お世話になっている。(あ、でも、これ、ボランティアではなく、ビジネス)
善意や思いやりは、必要ではあるが、時には、一人歩きしたり、空回りしたりする。
金銭の授受で成り立つ契約関係は、お互い、自立と距離感が保て、わたしは良いと感じる。
お金の流れは、こうだ。
夫→義母→Fさん、その他
つまり、わたしを経ない(介在しない)金銭が流通し、円満かつ円滑に、コトが進み、行われている。
じつに結構なことだ。
夫→わたし→義母→Fさん、その他
夫→わたし→Fさん、その他→義母
そういう流れもありえる。(経験したことはないけれど)
つまり、わたしが窓口になって采配し、オーダー、手配するという図もあるかも知れないが、
カラダは多少よろついても、アタマがはっきり回っているあいだは、義母にお任せする。
そのほうが、いつまでも自立心、力が保てて良いと考える。
お誕生祝いや、時折、お小遣いらしきものを義母からもらうこともあるが、
その財源は、夫から出ている。(それだけでもないだろうけれど)
どこから出ようが、なんでも、くれるってことは、ありがたいことだ。
わたしから、義母にお祝いを渡すこともあるし、
お互い、お金という、万能な便利ツールが、こころの橋渡しとなっている。
野田総理が、財務省のパペット(操り人形)と言われているように、
お金を管理することは、全体を牛耳ること、権力の中心となるんだなあと実感する。
ひねくれモノのわたしなら、ここで、
義母は、わたしが気に入らないから、わたしでは役に立たないから、
夫から吸い上げたお金を、お気に入りの人に渡して、わたしを蔑(ないがし)ろにしている、
とも取れないこともないけれど(今、書きながら気付いた)、
夫→義母→わたし→Fさん、その他
夫→義母→Fさん、その他→わたし
この、第三のパターンで、どこかにわたしを組み入れるのが、一般的?
わたしは、実生活では、いたって天然系なので、自分の場所をどこかに入れるのを忘れている。
よい人、Fさんが、わたしの代わりにあれこれ働いてくれ、とても感謝している。
昔のランプやら鉄瓶やら、見つけてくる息子が、
「時代おもしろテーマパーク」とネーミングする、義母の住む、夫の実家、
わたしが前回見つけた、昔の、とあるモノから、
それにまつわる興味深い話を掘り出した。
モノは時代を語り、時代は人を語り、人は人を繋(つな)ぎ、生きてきた物語の物証となり、
わたしはとても、わくわくしている。
日ごろ、わたしが貶(けな)している、キレイ事のオンパレになった感あり。
いいんです。
人間には、いろんな側面があるんです。
矛盾して生きるのが、人間なんです。
なんて・・・天然系は、思うのであります。
しかしながら・・・
よおく考えてみると・・・
(補足です)
自分だけ、「天然」で逃げ切ろうと思っていても、その場限りではすまされない社会問題を抱えている。
こうやって、次世代の若い人が、親子の絆や、嫁の役割、地縁血縁からするりと逃れ、
自由度の高い都会に流れ、過疎地や、次世代が寄り付かない地域は、どんどん高齢化し、崩壊するのだろうか。
隣はなにをする人ぞ、の、都会では、地縁血縁に縛られない緩やかなつながりから生じる隙間から、
さらなる死角を生み、高齢者や単身者の孤独死が、社会問題化されている。
どこで、どんなふうに暮らすか、QOL(Quality of Life=生活の質)の問題もあるし、いろいろ他分野に問題は広がる。