蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

スタートラインに立つか、立たないか

2012-02-09 | 趣味

2月1日の記事といい、昨日の記事といい、
ここgooで、新規投稿入力してから、公開前に、いったん保存したら、消えた。

なにか手を加えたら、記事入力画面に、「自動保存された記事データが存在します(反映する)」と
いつもは出てくるのだが、消えた日は、突然、消えて、それっきり。
いずれも、事務所のパソコン(MAC)での作業で、起こった出来事。
消えた後、帰宅してから自宅のパソコンでカチャカチャしても、消えたものは二度と戻らなかった。
パソコンが悪いのか??
goo疑惑、パソコン疑惑、どっち?

同じ内容のものをもう一度、書く気になれない。
書いた段階で、熱は一気に下がり、もう自分の中では終了しているようだ。

事務所のパソコン、今後も要注意。
パソコンに問題があるような気がしてきた・・・

でも、アップされないとなると、まだ、もやもやしている。
くすぶっている。
昨日の「おハイソな生活」

ううう~~ん・・・・・

いえ、ちょっと、おハイソな方の生活を垣間見る機会が最近、増えたもので・・・
どう思う?って、自問自答した次第。


社交ダンスをなさる方は、お金持ちも結構多い。
あまりお金をかけずに出来る方法もあるが、最低限度のお金はかかる。
なぜかというと、社交ダンスは、オリジナルなダンスではなく、
決まったルール通りに踊らなければならないからだ。

個性や芸術性を出すとすると、基本をしっかり身につけてから、応用で、ということになる。
その基本を身につけるまでに、お金と時間がかかる。
力や、やる気があっても、究極のところはお金かも知れない。
(学連の競技選手の場合は、どういうふうになっているのか知らないが)

地道に、お金をかけずに、公民館で運動がてら、交流がてら踊る、というのも、おおいに大賛成。
シニア生活を活性化させるのに、一役買う。
国をあげて、推進したいほどだ。

問題は、その枠を脱したい、上手くなりたい、という場合、お金が要る。
どの世界もそうかも知れない。
よい先生にめぐり合う情報、ルートを手に入れること、
よい先生に支払うレッスン費用を捻出すること、これが必要になってくる。

この業界、レベルの高い先生のレッスン費用はお高い。
レベルが低いと、安い。
どの業界も?

ただ、ネームバリューだけで、お高い先生がいたとしても、生徒間で、
「あの先生は、名前だけで高くとるけど、レッスンはイマイチだ」
と情報が流れると、プロの世界を目指すわけでもない、実質を求める生徒さんの間では、
名前ばかりの先生では見向きもされなくなる。

中級ぐらいの生徒は、どうにかもっと上達したいと願うので、必死でその方法を模索する。
その時に大きくものを言うのが、お金。
マネー、マネー、マネーだ。

必死で上達を願わなくなる、という自然の流れもある。
老化現象が進んできて、思うように体が動かない、
家の事情で、ほいほい外に出られない、
心配事があって、趣味どころでない、

趣味にかける情熱は、あらゆる状況が揃っていないと、燃焼するにも、足をひっぱられる。

もっとめんどうなのは、すべての材料、条件が整っていて、負の原因がないのに、うまくいかない時。
頭打ちやスランプにまで、たどり着ける人は、いったい、どれぐらいいる?
たいがいは、そこまで到達する前に、目標が遠すぎてあきらめたり、適当に惰性でやったり、自分を甘やかしたり、
たんに、飽きたり、うまくならないから情熱の火が消えたり・・・

そうなると、お金だけの問題でもないかも知れない。
ねばり強く、よりよい練習相手を探すとか、お金以外の方法で、上達の道を探る手もある。
よりよい人にめぐり合うには、自分も相当、努力しなくてはだめ。
そして、よりよい練習相手は、現時点での相手より、さらに、よりよい相手との練習を望んで、
パートナーシップを解消される可能性も常にある。

だらだら楽しむだけというスタンスが同じなら、それはそれで、いい。
要は、同じ目的の人と、同じ目標に向かって、時間を共有するのが一番いい。


はじめは、今日は、お金にまつわる、おハイソな生活のことを書こうと思ったが、
わたしの中では、やはり昨日、入力した段階で終わっていたようだ。


お金の力が及ぶ範囲と、及ばない範囲がある。
ある程度のところまで行くには、お金は必要不可欠だけれど、それ以降は、本人次第。
どんな少数精鋭塾に入れても、超難関校に入れる保証はないのと同じ。
才能と努力は、お金では買えない。


ある程度のところまで、「行かない」、「行かなくてもいい」、という選択肢もある。
ただ、それは、お金、その他の条件が整わなくて「行けない」と、泣く泣くあきらめるのか、
行かないのは、実際は「行けない」からだけど、それを認めるのは負け意識が伴い、シャクなので、
あえて、選んで、「行かない」と自分で言い切る、言い聞かせるのか、

いろんな自分への説得方法がある。

そういう、途中で挫折せざるを得なかった人が、意地悪な目で、
お金にモノいわせている、へたくそな人を見て、
「いくらお金かけても、ぜんぜん、だめね、あの力量ではね。金持ちの自己満足ね」
なあんて、お腹のなかでは思うんだろうなあ・・・

条件が整って、競争のスタートラインに立てたものの、自分の力が及ばず負けた場合と、

条件が整わなくて、競争のスタートラインに立てなかった人が、
自分のせいではない理由で、自分の力を出す機会に恵まれず、悔しい思いをした場合とでは

ものを見る目が違ってくるだろう。

これは、趣味の世界なら、お遊びだけれど、
実社会、仕事などの分野なら、生活も左右するだろうし、もっと深刻なことになる。


しょせん、趣味、お遊びでよかった・・・
負けて惨敗したら、いつまでも勝っている人のなかで、いじけてないで、
とっとと撤退して、やめたらいいんだし。
そう言って、また自分を甘やかしている、わたし・・・。


これが、わたしが何事においても大成しない、大きな原因である。

 

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