モノを捨てられない人。
それは、わたしです。
人が要らないモノまで、もらってくる人。
それは、わたしです。
一例を挙げると、全容が想像できると思うが、
例えば・・・
義姉(夫の姉)が、要らないモノ、捨てられないものを夫の実家に送りつける。
それをノコノコもらってくる。
そのまた一例。
高校生の子どもがいる、とっくに、おっさんになっている甥の、高校生の頃の服。
とっくにいい年になって、小学生の子どものいる姪の、子どもの頃、式典に着用したフォーマルな服。
なにする? なにに使う? なに考えてる?
そのまた一例。
義姉の亡くなったお姑さんのハンカチ(新古品)とか、そういうモノ。
自分でもありえない、と思いつつ、「はい、いただきます」と義母からもらってしまう。
他に、義母が購入したものの身体に合わないとか、なんらかの理由で新古品になったもの、あるいは、しっかりお古。
義姉の新古品もある。
自分の新古品も、山ほどある。
どうするの? こんなガラクタばかり。
人が要らないんだから、おそらく、わたしも要らないはず。
でも、もらってくる。これは明らかに病気。
自分の若い頃からの歴代の服も、ズラリ。
それが積もり積もって、前に、家を建て替えるとき、家ごと捨てた。
子ども用品も多分。
その時、高価なものだけを避難させたが、それはまだしぶとく残っている。
捨てたらすごく、すっきりするモノばかり。
一度捨て始めたら、病み付きになって、どさっ、どさっとゴミ袋に詰め込んで、気持ちいいことだろう。
服は、「リサイクルショップに売ってきてあげるよ」と、見るに見かねた娘からの声あり。
あれもこれも捨てたら、さぞかし気分がスッキリ、爽快だろう。
これを私亡き後に、家族にやってもらうとしたら、気の毒だ。
と言っても、すべて捨ててもらえばいいので、案外ラクかも。
ただし、貴重品のありかを伝えておかなければいけない。
その頃には、貴重品も使い果たしているのかも知れない。
残るはゴミばかり。
・・・
今から少しずつ着手したい。
まずは、今日、要らない靴から捨てたら、気持ちよかった。(ただし、娘が断捨離に選んだ、娘の靴)
ライフスタイルを変えねば。
アタマの中身を変えねば。
人間、人物そのものを変えねば。変革、改革の必要性あり。
わたしは、どこへ行ってしまうのだろう。
モノといっしょに、わたしまで消え去ってしまいそうだ。
それでちょうどいいぐらいかも知れない。
せっかくスッキリしても、またその日から、せっせせっせと溜め込むのかも知れない。
やはり、人間改造が第一だろう。
脳ミソごと、すっぽり入れ替え、名前は同じだが、別の人物に変身しなければならない。
・・・
母たちは、先代が亡くなると、まず、蔵の整理をした。
残すものと残さないものを仕分けする。
義父は、先代が亡くなる前から、時間を作っては整理をしていた。
留袖などの着物の場合は、そのまま継承する場合もあるが、ほどいて洗いに出して、反物にすることもある。
その反物で、また着物を仕立てることもある。
が、母の代からは、そんなことはしなくなったと思う。
母の着物も、わたしたち娘にではなく、母の姪たちに先日、譲ったそうだ。
彼女たちが、気軽にお茶のお稽古に着ていきたいからだとか。実家に寄ってきたらしい。
持って帰りたいだけ、持って帰らせたと、母は言っていた。
ちなみに、母は、フォーマルな着物を着ると、なぜか貫禄がある。誰しもだろうけれど。
義姉(夫の姉)の晴れ着を娘たちが着ることもある。
娘たちが、わたしの晴れ着と趣味が合わなかったりすると、いろんな人の、いろんな着物があるので、選び放題。
ただし、わたしは、娘たちには着物は買っていない。
あんなにたくさん着物があるのに、買う必要はないと思っている。
着物の柄を見ると、お母さんの時代の着物を娘さんが着ていると、一目見てわかる。
なぜなら、わたしが娘だった時代の柄だから。
それはそれでいいと感じる。
今風の柄の着物が着たい、と思う場合は、レンタルにする。
もう着物は、これ以上要らない。
・・・
わたしが、ひとつ狙っているモノがある。
それは、祖父のスーツケース。
明治時代の、ワイン色のようなブラウンのような色の、革製のずしりと重いもの。
まったく同じものが、実家に二つある。
パリのクリニャンクールの蚤の市で、ほとんど買いそうになった、お気に入りのスーツケースがあった。
1900年頃の製品らしかったので、祖父の品と時代的には似たようなものか。
あちこち、ヨーロッパを旅行したであろう、その蚤の市のスーツケースは、いろんな時代の空気を吸っている。
が、運搬費がえらく高いようだったので、断念した。
祖父のスーツケースには、鍵がかかっていて、壊れていた。
なので、開かないが、中には、母の学校時代の書類が入っているとか。
あのスーツケースを修理して、うちに持ち帰ったところで、あんな重いスーツケースは今時、使い物にならない。
だから、たんなる不用品、という扱いになる。
これ以上、不用品を増やすのはいいが、そのためには、その何十倍もの不用品を捨てることを条件になら、許されるのではないか。
そう、わたしは、甘い基準を自分に設けた。(これを書いていて、思いついた)
ぜひ残したいものがあれば、その何倍か、何十倍かの不用品を捨てることと引き換えに、取り置くということにしよう。
そう決意するだけで、ちょっとは、マシになるか?
とりあえずは、甥の服から捨てよう。
スキーウエアとかも、ぜんぜん要らない。
そう考えるだけで、もう半分ぐらい不用品を処分したような気になった。
こころ、軽々。
おつむ、軽々。
でも、まだ、アタマの中でシュミレーションしているだけだ。
実際に着手するのは、おそらく具体的に、引越しだとか、リフォームだとか、住まいの形態が変わる時だろう。
それは、老人ホームに入る時か、退院予定のない入院時かも知れない。
決して戻ることがない、片道切符の移動だ。
その時は、体力、気力不足で、きっと出来ない。
で、家族に迷惑をかける・・・今日のブログの最初あたりに書いた・・・ああ、またまた、この繰り返し。
お経が二順目になってきた。レコードが同じところをぐるぐる回り、針がおかしくなっている。
(レコードって、若い人は、リアルタイムで知っている人はいないだろう)
・・・
と、書くだけ書いて、半分、すっきり。
いずれ、いずれ、いずれは断捨離する・・・、つもり・・・。
それは、わたしです。
人が要らないモノまで、もらってくる人。
それは、わたしです。
一例を挙げると、全容が想像できると思うが、
例えば・・・
義姉(夫の姉)が、要らないモノ、捨てられないものを夫の実家に送りつける。
それをノコノコもらってくる。
そのまた一例。
高校生の子どもがいる、とっくに、おっさんになっている甥の、高校生の頃の服。
とっくにいい年になって、小学生の子どものいる姪の、子どもの頃、式典に着用したフォーマルな服。
なにする? なにに使う? なに考えてる?
そのまた一例。
義姉の亡くなったお姑さんのハンカチ(新古品)とか、そういうモノ。
自分でもありえない、と思いつつ、「はい、いただきます」と義母からもらってしまう。
他に、義母が購入したものの身体に合わないとか、なんらかの理由で新古品になったもの、あるいは、しっかりお古。
義姉の新古品もある。
自分の新古品も、山ほどある。
どうするの? こんなガラクタばかり。
人が要らないんだから、おそらく、わたしも要らないはず。
でも、もらってくる。これは明らかに病気。
自分の若い頃からの歴代の服も、ズラリ。
それが積もり積もって、前に、家を建て替えるとき、家ごと捨てた。
子ども用品も多分。
その時、高価なものだけを避難させたが、それはまだしぶとく残っている。
捨てたらすごく、すっきりするモノばかり。
一度捨て始めたら、病み付きになって、どさっ、どさっとゴミ袋に詰め込んで、気持ちいいことだろう。
服は、「リサイクルショップに売ってきてあげるよ」と、見るに見かねた娘からの声あり。
あれもこれも捨てたら、さぞかし気分がスッキリ、爽快だろう。
これを私亡き後に、家族にやってもらうとしたら、気の毒だ。
と言っても、すべて捨ててもらえばいいので、案外ラクかも。
ただし、貴重品のありかを伝えておかなければいけない。
その頃には、貴重品も使い果たしているのかも知れない。
残るはゴミばかり。
・・・
今から少しずつ着手したい。
まずは、今日、要らない靴から捨てたら、気持ちよかった。(ただし、娘が断捨離に選んだ、娘の靴)
ライフスタイルを変えねば。
アタマの中身を変えねば。
人間、人物そのものを変えねば。変革、改革の必要性あり。
わたしは、どこへ行ってしまうのだろう。
モノといっしょに、わたしまで消え去ってしまいそうだ。
それでちょうどいいぐらいかも知れない。
せっかくスッキリしても、またその日から、せっせせっせと溜め込むのかも知れない。
やはり、人間改造が第一だろう。
脳ミソごと、すっぽり入れ替え、名前は同じだが、別の人物に変身しなければならない。
・・・
母たちは、先代が亡くなると、まず、蔵の整理をした。
残すものと残さないものを仕分けする。
義父は、先代が亡くなる前から、時間を作っては整理をしていた。
留袖などの着物の場合は、そのまま継承する場合もあるが、ほどいて洗いに出して、反物にすることもある。
その反物で、また着物を仕立てることもある。
が、母の代からは、そんなことはしなくなったと思う。
母の着物も、わたしたち娘にではなく、母の姪たちに先日、譲ったそうだ。
彼女たちが、気軽にお茶のお稽古に着ていきたいからだとか。実家に寄ってきたらしい。
持って帰りたいだけ、持って帰らせたと、母は言っていた。
ちなみに、母は、フォーマルな着物を着ると、なぜか貫禄がある。誰しもだろうけれど。
義姉(夫の姉)の晴れ着を娘たちが着ることもある。
娘たちが、わたしの晴れ着と趣味が合わなかったりすると、いろんな人の、いろんな着物があるので、選び放題。
ただし、わたしは、娘たちには着物は買っていない。
あんなにたくさん着物があるのに、買う必要はないと思っている。
着物の柄を見ると、お母さんの時代の着物を娘さんが着ていると、一目見てわかる。
なぜなら、わたしが娘だった時代の柄だから。
それはそれでいいと感じる。
今風の柄の着物が着たい、と思う場合は、レンタルにする。
もう着物は、これ以上要らない。
・・・
わたしが、ひとつ狙っているモノがある。
それは、祖父のスーツケース。
明治時代の、ワイン色のようなブラウンのような色の、革製のずしりと重いもの。
まったく同じものが、実家に二つある。
パリのクリニャンクールの蚤の市で、ほとんど買いそうになった、お気に入りのスーツケースがあった。
1900年頃の製品らしかったので、祖父の品と時代的には似たようなものか。
あちこち、ヨーロッパを旅行したであろう、その蚤の市のスーツケースは、いろんな時代の空気を吸っている。
が、運搬費がえらく高いようだったので、断念した。
祖父のスーツケースには、鍵がかかっていて、壊れていた。
なので、開かないが、中には、母の学校時代の書類が入っているとか。
あのスーツケースを修理して、うちに持ち帰ったところで、あんな重いスーツケースは今時、使い物にならない。
だから、たんなる不用品、という扱いになる。
これ以上、不用品を増やすのはいいが、そのためには、その何十倍もの不用品を捨てることを条件になら、許されるのではないか。
そう、わたしは、甘い基準を自分に設けた。(これを書いていて、思いついた)
ぜひ残したいものがあれば、その何倍か、何十倍かの不用品を捨てることと引き換えに、取り置くということにしよう。
そう決意するだけで、ちょっとは、マシになるか?
とりあえずは、甥の服から捨てよう。
スキーウエアとかも、ぜんぜん要らない。
そう考えるだけで、もう半分ぐらい不用品を処分したような気になった。
こころ、軽々。
おつむ、軽々。
でも、まだ、アタマの中でシュミレーションしているだけだ。
実際に着手するのは、おそらく具体的に、引越しだとか、リフォームだとか、住まいの形態が変わる時だろう。
それは、老人ホームに入る時か、退院予定のない入院時かも知れない。
決して戻ることがない、片道切符の移動だ。
その時は、体力、気力不足で、きっと出来ない。
で、家族に迷惑をかける・・・今日のブログの最初あたりに書いた・・・ああ、またまた、この繰り返し。
お経が二順目になってきた。レコードが同じところをぐるぐる回り、針がおかしくなっている。
(レコードって、若い人は、リアルタイムで知っている人はいないだろう)
・・・
と、書くだけ書いて、半分、すっきり。
いずれ、いずれ、いずれは断捨離する・・・、つもり・・・。