昨日の記事、Aさんご本人がご覧になっていたら、気分を害されたかも。
まず、「知人」という表現。
「友人」としたかったのだが、彼女がそう感じていないと困るので、無難な線で「知人」にした。
お互いの家も行き来したことがあるし、ご家族にも何度かお会いしたことがある。
なので、知人ではなく、わたしにとっては友人なのだが。
スパンが、おそろしく長い。
彼女は、勉強と仕事と家事で忙しいし、わたしもなにかと多忙なので、お会いするのは数年に1回。
近況は、年賀状。
電話もメールもほとんどしない。
わたしは、それで十分満足。
とてもコアな関係だと思っている。
べらべら長々としゃべるのは、会っているときだけ。
数年分を一気にしゃべる。
ずっとずっと、何回も何回も頻繁に会ったとしても、そう変らないと思う。
たとえ毎日、いっしょにランチしていたとしても。
10時間ドキュメントの録画を30分に編集したようなものか。
いつお会いしても元気で明るい彼女には、エネルギーやビタミンをいただいている。
「会ってないときは、元気じゃないのよ」などとおっしゃるが、
メリハリも大事だ。
応援するほうは、全然頑張らなくて良いので、楽々、さぼりっぱなし。
こうやって、年を重ねる、ストレスフリーのわたしだ。
・・・
ちなみに、まったく話は変り・・・
わたしの天敵は、マリー・アントワネット。
語り継がれているマリー・アントワネット像は、実在の人物とは離れ、
政治的、策略的に、作られたイメージも多いかと思うが。
「パンがなければ、ケーキを食べればいいのに」発言は、
ほんとうは、マリー・アントワネットの言葉ではなく別人のもの、という説もある。
わたしが、彼女的な(あくまでマリー・アントワネット本人ではない)性質が苦手なのは、
おそらく、わたしと近い部分があるからだろう。
楽天的で、わがまま。人の目を気にすることなく自由奔放。
それを堂々と自分から「わたしは、これこれ、こんなのよ」と肯定的に振舞っているところが、わたしのカンに障る。
隠すとまではいかなくても、人には不快に思われるかも知れないので、控えめにするとか、
あえて外には出さない、とか、なんらかのコントロールが欲しいと感じる。
制御されていない、というより、自分で気付いていないところが、嫌。
しかも、似たような人が集まり、わいわいやっている。
いわゆるお嬢様という人種である。
わたしはお嬢様が非常に苦手。
お嬢様だが、勉学に勤しみ、ちゃんと仕事を持ち自立している人は、OK。(ああ、上から目線)
煌びやかな、くるくるぱーのお嬢様軍団には、気配がするだけで、わたしは、ささっと伏し目がちに後退する。
「ママが、ね」と言って良いのは、小学生まで。
大人になったら、人前では「母」って言うのですよ。
どこかの、いけすかん、小言バアさんみたいになっている、わたし。
悪口を書いていると、自分自身の人格を貶めていることに気付く。
が、確信犯。
もともとたいした人格でもない。
わたしのバイブルである「負け犬の遠吠え」(2003年)の作者・坂井順子女史と、ちょうど目の仇でもある人物像だろう。
バイブルといっても、すでにその時は、人生の真ん中はとっくに過ぎていたが。
もう、いまさらコース変更も出来ない時点で、答えあわせのように読んで、
けっこう、ネタが豊富に詰まっていて楽しめた。
(古いハナシだ)
ガチガチの理系女子でもない、中途半端文系女子の、もっとも中途半端な対極である。
そこが面白い。
お嬢様でも、理系と文系をわたしは分けている。
理系は、お嬢様に位置づけていない。(たんなる偏見である)
お嬢様を脱している、クリアーして、上に昇格している、と勝手に思っている。
文系でも、ばりばりの文系女子もいて、社会でばりばりに活躍していると、それはそれで、また、お嬢様を脱している。
ばりばりではない文系女子、
つまり、超中途半端な、たいして有能でもなく、役にも立たない文系女子、(その典型は、わたし)
こういう人種が、お嬢様というカテゴリーだけをへんに恥ずかしげもなく強調して掲げていると、ハナにつくのである。
なので、その場合は、隠れお嬢様であることが望ましい。
「隠れ」どころか、「強調」は、痛々しくて目が当てられない。
・・・
まだまだ書きたいが、時間がきた。
今日のブログは、自己嫌悪。
しかし、これは、特定の人物を非難しているわけでは決してない。
イメージの好き嫌いを言ったまでだ。
オレンジが好きで、バイオレットは嫌い、みたいなものか。
ということで、突然ではあるが、結論もなく、終了します。
斬られて深い傷を負った、とお感じになられた方、
たんなる負け犬の遠吠えですので、スルーしてください。
まず、「知人」という表現。
「友人」としたかったのだが、彼女がそう感じていないと困るので、無難な線で「知人」にした。
お互いの家も行き来したことがあるし、ご家族にも何度かお会いしたことがある。
なので、知人ではなく、わたしにとっては友人なのだが。
スパンが、おそろしく長い。
彼女は、勉強と仕事と家事で忙しいし、わたしもなにかと多忙なので、お会いするのは数年に1回。
近況は、年賀状。
電話もメールもほとんどしない。
わたしは、それで十分満足。
とてもコアな関係だと思っている。
べらべら長々としゃべるのは、会っているときだけ。
数年分を一気にしゃべる。
ずっとずっと、何回も何回も頻繁に会ったとしても、そう変らないと思う。
たとえ毎日、いっしょにランチしていたとしても。
10時間ドキュメントの録画を30分に編集したようなものか。
いつお会いしても元気で明るい彼女には、エネルギーやビタミンをいただいている。
「会ってないときは、元気じゃないのよ」などとおっしゃるが、
メリハリも大事だ。
応援するほうは、全然頑張らなくて良いので、楽々、さぼりっぱなし。
こうやって、年を重ねる、ストレスフリーのわたしだ。
・・・
ちなみに、まったく話は変り・・・
わたしの天敵は、マリー・アントワネット。
語り継がれているマリー・アントワネット像は、実在の人物とは離れ、
政治的、策略的に、作られたイメージも多いかと思うが。
「パンがなければ、ケーキを食べればいいのに」発言は、
ほんとうは、マリー・アントワネットの言葉ではなく別人のもの、という説もある。
わたしが、彼女的な(あくまでマリー・アントワネット本人ではない)性質が苦手なのは、
おそらく、わたしと近い部分があるからだろう。
楽天的で、わがまま。人の目を気にすることなく自由奔放。
それを堂々と自分から「わたしは、これこれ、こんなのよ」と肯定的に振舞っているところが、わたしのカンに障る。
隠すとまではいかなくても、人には不快に思われるかも知れないので、控えめにするとか、
あえて外には出さない、とか、なんらかのコントロールが欲しいと感じる。
制御されていない、というより、自分で気付いていないところが、嫌。
しかも、似たような人が集まり、わいわいやっている。
いわゆるお嬢様という人種である。
わたしはお嬢様が非常に苦手。
お嬢様だが、勉学に勤しみ、ちゃんと仕事を持ち自立している人は、OK。(ああ、上から目線)
煌びやかな、くるくるぱーのお嬢様軍団には、気配がするだけで、わたしは、ささっと伏し目がちに後退する。
「ママが、ね」と言って良いのは、小学生まで。
大人になったら、人前では「母」って言うのですよ。
どこかの、いけすかん、小言バアさんみたいになっている、わたし。
悪口を書いていると、自分自身の人格を貶めていることに気付く。
が、確信犯。
もともとたいした人格でもない。
わたしのバイブルである「負け犬の遠吠え」(2003年)の作者・坂井順子女史と、ちょうど目の仇でもある人物像だろう。
バイブルといっても、すでにその時は、人生の真ん中はとっくに過ぎていたが。
もう、いまさらコース変更も出来ない時点で、答えあわせのように読んで、
けっこう、ネタが豊富に詰まっていて楽しめた。
(古いハナシだ)
ガチガチの理系女子でもない、中途半端文系女子の、もっとも中途半端な対極である。
そこが面白い。
お嬢様でも、理系と文系をわたしは分けている。
理系は、お嬢様に位置づけていない。(たんなる偏見である)
お嬢様を脱している、クリアーして、上に昇格している、と勝手に思っている。
文系でも、ばりばりの文系女子もいて、社会でばりばりに活躍していると、それはそれで、また、お嬢様を脱している。
ばりばりではない文系女子、
つまり、超中途半端な、たいして有能でもなく、役にも立たない文系女子、(その典型は、わたし)
こういう人種が、お嬢様というカテゴリーだけをへんに恥ずかしげもなく強調して掲げていると、ハナにつくのである。
なので、その場合は、隠れお嬢様であることが望ましい。
「隠れ」どころか、「強調」は、痛々しくて目が当てられない。
・・・
まだまだ書きたいが、時間がきた。
今日のブログは、自己嫌悪。
しかし、これは、特定の人物を非難しているわけでは決してない。
イメージの好き嫌いを言ったまでだ。
オレンジが好きで、バイオレットは嫌い、みたいなものか。
ということで、突然ではあるが、結論もなく、終了します。
斬られて深い傷を負った、とお感じになられた方、
たんなる負け犬の遠吠えですので、スルーしてください。