世の中には、なんの欠点もない、どこの誰にも受けの良い、敵のいない人などいない。
なにかしら、悪いところがあり、受け入れられない部分がある。
人はバランスを取るために、ストレスの、はけ口がある。
たとえば、お酒だとか、買い物だとか、趣味だとか、そういうもので発散する。
無我の境地にさせるほど、夢中になれることをして、自分を解放させる。
ギャンブルやクスリ、お酒、など、中には病理に陥る危険性もはらむ。
ほとんどの人は、善も悪も持ち合わせている。
なので、完璧な善人というのは、うさんくさい。
外面がよい、100%の人が「良い人」と認めている人物であっても、
家の中では、弱いものいじめをするDV夫だったりする。
完璧に近い、良い人物という人は、たいがい、特定の宗教を信じているそうだ。
信心が、その人の悪の部分を救ってくれている。
信仰することで、苦しみや抑圧から解放されるのだろう。
ちなみに、
わたしにとってブログは、宗教である。
これって、とても大げさだが、こころが落ち着く。
祈りというものは、こころを落ち着かせるらしい。だから宗教は、人を救うらしい。
祈りの対象は、キリストでもブッダーでもない。
自分自身である。
自分のこころを整理し、もやもやを解消し、すっきりさせ、素の自分と向き合う。
悪も善も、全部含む自分を見つめる。
その上で、理想を見出し、憧れを語り、未来にも夢があると感じる。
それは、カウンセラーに相談することもなく、高名なお坊さんの門を叩くこともなく、
心療内科や精神科を訪れることもなく、
せいぜい、SNSの悩み相談をロムするぐらいで、こころを真っ直ぐに保つことができる。
ヨロヨロっとなっても、自分で、サポートする。
いいの、いいの、だめで、いいの。
あんたは、だめだけど、それでいいの。
そうやって、自分を甘やかせる。(わたしの周りでは、ブーイングの声が聞こえるが)
甘やかし続けて、半世紀。
砂糖で溶けそうな自分がいるが、その揺り戻し現象として、一方で、一刀両断の自分がいる。
甘い人間など、断固、許せない。
わたしが、こんなに甘くて、こんなに自己嫌悪を感じているのに。
そういうジレンマの真っ只中にいると、いっしょに他の人も斬ってしまう場合があるので、
お読みになる方は、「ああ、また始まった、スローのジレンマ遊覧中」とお察しください。
両極端のバランスよろよろ。
空高く舞い上がったり、絶壁から谷間に落ちたり。
これがまた、わたしにとっては、限りなく気持ちいい。
ただし、バンジージャンプには、命綱が必要。
・・・
最近、なんだか、見えなくてもいいものが見えるようになって(死後の世界や幽霊じゃありません)
いいような、悪いような。
どうせなにも出来ない非力なわたしなら、いっそ、見えないほうが楽。
見えているのに、なにもできない自分を認識するのは、結構辛い。
でも、それでもいいんじゃない?と認めるようにしよう、と、つい昨日あたりから思いはじめた。
何年も前から延々と、ブログに書いているではないの、とご指摘を受けそうだが、
書いても、本人は忘れるんです。
なにしろ、わたしにとっては、ブログは念仏、祈りなので、毎日祈っていてもいいのだ。
なにかしら、悪いところがあり、受け入れられない部分がある。
人はバランスを取るために、ストレスの、はけ口がある。
たとえば、お酒だとか、買い物だとか、趣味だとか、そういうもので発散する。
無我の境地にさせるほど、夢中になれることをして、自分を解放させる。
ギャンブルやクスリ、お酒、など、中には病理に陥る危険性もはらむ。
ほとんどの人は、善も悪も持ち合わせている。
なので、完璧な善人というのは、うさんくさい。
外面がよい、100%の人が「良い人」と認めている人物であっても、
家の中では、弱いものいじめをするDV夫だったりする。
完璧に近い、良い人物という人は、たいがい、特定の宗教を信じているそうだ。
信心が、その人の悪の部分を救ってくれている。
信仰することで、苦しみや抑圧から解放されるのだろう。
ちなみに、
わたしにとってブログは、宗教である。
これって、とても大げさだが、こころが落ち着く。
祈りというものは、こころを落ち着かせるらしい。だから宗教は、人を救うらしい。
祈りの対象は、キリストでもブッダーでもない。
自分自身である。
自分のこころを整理し、もやもやを解消し、すっきりさせ、素の自分と向き合う。
悪も善も、全部含む自分を見つめる。
その上で、理想を見出し、憧れを語り、未来にも夢があると感じる。
それは、カウンセラーに相談することもなく、高名なお坊さんの門を叩くこともなく、
心療内科や精神科を訪れることもなく、
せいぜい、SNSの悩み相談をロムするぐらいで、こころを真っ直ぐに保つことができる。
ヨロヨロっとなっても、自分で、サポートする。
いいの、いいの、だめで、いいの。
あんたは、だめだけど、それでいいの。
そうやって、自分を甘やかせる。(わたしの周りでは、ブーイングの声が聞こえるが)
甘やかし続けて、半世紀。
砂糖で溶けそうな自分がいるが、その揺り戻し現象として、一方で、一刀両断の自分がいる。
甘い人間など、断固、許せない。
わたしが、こんなに甘くて、こんなに自己嫌悪を感じているのに。
そういうジレンマの真っ只中にいると、いっしょに他の人も斬ってしまう場合があるので、
お読みになる方は、「ああ、また始まった、スローのジレンマ遊覧中」とお察しください。
両極端のバランスよろよろ。
空高く舞い上がったり、絶壁から谷間に落ちたり。
これがまた、わたしにとっては、限りなく気持ちいい。
ただし、バンジージャンプには、命綱が必要。
・・・
最近、なんだか、見えなくてもいいものが見えるようになって(死後の世界や幽霊じゃありません)
いいような、悪いような。
どうせなにも出来ない非力なわたしなら、いっそ、見えないほうが楽。
見えているのに、なにもできない自分を認識するのは、結構辛い。
でも、それでもいいんじゃない?と認めるようにしよう、と、つい昨日あたりから思いはじめた。
何年も前から延々と、ブログに書いているではないの、とご指摘を受けそうだが、
書いても、本人は忘れるんです。
なにしろ、わたしにとっては、ブログは念仏、祈りなので、毎日祈っていてもいいのだ。