蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

もの想う秋

2019-09-28 | 無題
故人を偲んで、偲ぶ会が催されるとする。
わたしは、自分が偲ばれる側になるとすると、家族、血縁者だけでいい。
血縁者が一人もいない人もいるし、血縁者も偲びたくない場合だってあるから、贅沢な望みかも知れない。
しかも、わたしは長生きしそうなので、親きょうだい、配偶者は、お先にあの世へ。
とすると、子供、孫しかいない。

偲ぶ会の頃のわたしは、偲ぶには値しないと想像する。
孫は成人しているし、偲ぶ会直前のわたしは、偲びたくない状態だろうし、孫が幼い頃の、まだ元気な、ばあちゃんなど覚えてないだろう。
こんな自分をぜひ、覚えていて欲しい、と望んでも、こんな自分はたまたまであり本来の自分ではない!というシーンばかりを思い出されるかも知れない。
別に良い記憶を擦り込みたいわけではないが。

何十年も先の自分を想像すると、なんだか涙が出てくる。
可哀そう、というのでもなく、侘しい、というわけでもなく、懐かしい郷愁を逆行させたような、不思議な感覚。
無条件に愛する者を持つと、涙が出る。
愛さない方が、からりとして良い。
愛する者たちとの別れが悲しいわけではない。
なんだろう、、、なにしろ、愛おしい、愛の一種である。

夫や親きょうだいには、さして何も感じない。
わたしの生と同時進行している。どっちが早いか、似たり寄ったり。
(親にはわたしの未来の顚末、終末先取り感)

子や孫は、時間差がある。
子や孫は成長し、わたしは衰える。


保育園の秋行事に参加した。
今年の真ん中孫は、2年前の上孫と同じ。
お神輿わっしょいと、ダンス!
二人とも、リーダーに任命されようだが、真ん中孫のリーダー任命には親も祖母(わたし)も、首を傾げる。
なんであの子がリーダー?
ちゃんと出来るんかいな?

予想通りの、なんであの子がリーダー?みたいな進行状態だった。
練習通りの位置にいなかったようで、園長先生に名前を何度も連呼されていた。
父親(娘婿)は、「当日、大きくミスらない、可もなく不可もない子供が選ばれたんでしょう」と言っていたが、予想は少しハズレた。
まあ、ご愛嬌、かわいいものである。

真ん中孫の勇姿を見ながら、3年後には同じお神輿を担ぐ末孫の姿を想像した。
上2人とはちょっと違う、気の強い、意志のはっきりした子なので、頑張りそうな予感がする。
と、たんに、期待を下へ下へと順送りにしているだけか?
健康であれば、それでいい。

日本の人口は減少する一方、地球環境問題だとか、これからの子供たちは課題満載。
大変だけど、頑張ってほしい。
わたしの命の泉、愛おしい涙のモトになっている。