蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

無意識に身を守る

2019-09-04 | わたし
わたしは、というか、人間は、防衛本能がある。
自分自身を振り返ると、防衛本能は機能していたようだ。
飢えから自分を守る。生命の危機から自分を守る。
悲しいことに、生き恥からは自分を守れなかった。
だって、恥をかいても、生命維持にはなんの差し障りもない。
生命の質を追求すると、恥をかくぐらいなら、死を選ぶこともある。
倫理教育や政治なんかも影響してくるようだ。

わたしは恥をかいても、へっちゃら。
これを天然というらしい。
天然は居心地が良い楽園のようだと悦に入っていたのに、最近、天然と認知症のボーダーレス化に気づいた。
恥ずかしいという気持ちが、むくむく。

昔、ハワイの王女様がヨーロッパを訪問し、皆さん、裸ではないことを知った。
自国では女性も上半身裸。急に恥ずかしくなって、衣類を纏うようになったとか。
それに似ているかも?
ああ、無知の時のほうが幸せだったなあ、、、と、わたしの回顧録。

恥という点では無知、無防備だったが、身を守る本能は備わっていた。
学校では、一人ぼっちだと学校生活や行事などで、なにかとやりにくいため、なんでもいいから、誰でもいいから、手近な身近な自分の至近距離に、たまたまいた人物に手を差し伸べ、確保した。
たまたま、ひどい人物ではなかった。
その、たまたま、というのは、じつは、わたしの本能の原点があると思う。

たまたましたこと、たまたま選んだもの、無意識ではあるが、じつは、脳が選別していたのではなかろうか。
危険なもの、粗悪なものは、たまたま、の選択肢から自動的に勝手に除外している。
脳のシステムに組み込まれているようだ。

だからかどうか知らないが、わたしが接してきた人々は、全員○。良い人ばかり。
たまたま、ではなく、良い人だけを選別している可能性はある。
良くないとわかると、手を離す。

高校生の時、同じ高校の友達の友達(別の高校)や、さらに別の高校の子の友達という子に出会った。
純朴で朴訥な人だったり、少し不良っぽかったり。
でも、わたしの自動選別脳が勝手に選り分けて、するっとお付き合いリストから落ちていた。
たんに、好みの問題かも知れないが。
自分の人生を転落させるかも知れないようなタイプは、カスリもしなかった。
わたしは、中学生ぐらいの時からすでに、無意識に自分の人生ラインを決めていて、それにそぐわない人はパスしていたようだ。
街で見かけるカッコイイ子がいても、どんな家、どんな家庭かを連想して、ホスト系はNGだった。
芸能人などの赤の他人なら、接するチャンネルが違うので、きゃーきゃー憧れたりはオッケーだった。

わたしの好みは、、、今では書くのをためらわれる。
なぜなら、、、鼻持ちならぬ感じ悪い要素ばかり詰まっているから。
(書かなくても臭ってくることだろう、、、)
でも、結局、今の年齢までその路線は大きく変わらない。
が、変化したこともある。
大変化である。

この歳になれば、その人の家や家庭などどうでもよい。
結婚したり同居するわけでもないから。
どんなに素敵な大好きな人が現れても、体感温度の違いや、テレビ番組の好みは絶対に違うだろうし、食べ物の好みも。
だが、全く真逆の好みだったとしても、なんの問題もない。
1人でいるのが気楽で良い。
年齢が高くなると、相手に合わせられない。
あるいは、リセットして一から新人生も面白いかも知れない。

で、話を元に戻すと、、、
自分が幸せになれる人を無意識に選別していると思われる。
タチの悪い人は、絶対に選ばない。
頭で考えるのではなく、防衛本能だと思う。
まずは、悪いものを排除し、自分を守り、それから徐々に自分の思いを描く。
そこで思う。
自分で自分が守れる年齢まで、ちゃんと守って育ててくれた親には大感謝している。