昨日に引き続き、今日は実家の仏さん行事。
昨日、エッセイの神様に消されてしまったブログ後半の考察、、、続きを書く気力はなくなったが、それは昨日のこと。
あれから帰宅し、娘一家を交えた我が家での夕食のあと、真ん中孫のバースデーケーキを囲み、エネルギーチャージ。
だが、それはそれ。
かなりまだ頭のスミから真ん中寄りに、引っかかっている。
しかしながら、ん〜、引っかかっていることは引っかかっているのだが、引き出すのが大変。
最近、しぶとく、脳のどこやらに引っ付いたまんま、出てこない。
愛想を尽かしたいところだが、なにしろ自分と脳は一心同体なので、可愛がり慈しまないと。ぼろっちい脳みそでも。
と、関係ないことを書きながら、実は一方で記憶の糸を辿っている。
・・・あ、そうそう。
家は主人がいないと、ただの箱。
空き家。
魂がない家には幽霊も出てこない、と書いていたのだった。
リフォーム時も、リフォームした人の情熱、魂が入っている。
姑が孫たちのために別棟にリフォームした浴室と洗面所。
使ったのは、一度か二度。
自分が自宅で最後までいる予定で、その時の居室を新たに別棟に移動、整備し、孫たちが家族を連れて泊まりに来る、明るく楽しい未来図を描いて行った、リフォーム。
今では誰も使わないまんま、新古品となったリフォーム現場を見て、感慨にふける。
よくあることだが、親が子世帯と同居を望み、家を新築するものの、願い叶わず家だけ残る。
誰かのためではなく、自分のために建てたとしても、家を建てるという一大事は、隆盛ピーク時であることが多い。
自社ビルも然り。
知人の建設関係者が、懐かしい目をして言っていた。
邸宅やビルを建てた後は、坂を下るのみ。
それは、盛者必衰の理。
昔からそうなっている。
華々しいことは、続かない。
地味なことなら、負担がない場合、どうにか保つ。
時代の推移はあっても、変わらないものは変わらない。
先人の知恵や営みの上に我々がある。
先日、敬老の日に因み、行政の啓蒙目的ティッシュと共に、そういう倫理系冊子を街で手渡された。
書かれている内容に100%賛同したが、その団体は、学校も運営しているようで、引いた。
学校は、やり過ぎだと感じる。
倫理の時間や、朝礼や、行事のなにかにつけ、教えを復唱するのだろう。
わたしは、嫌。
各家庭でやればよい。
しかし、昨今では、核家族化し、家庭事情も様変わり。
痛ましい事件が後を絶たない。
かく言うわたしも、家庭で立派な教えを説き、実践しているか?
親の代はしていたが、自分の代では、全然逆のことをしている。
せっかく先代たちが築きあげたものを維持どころか、壊そうとしている。
孫を倫理学校に通わせるなら、間接的に実践で背中を見せるべき。
なぜ間接的かと言うと、孫とわたしの間に、娘世代が入るから。
娘世代が考えを取り入れなければ、孫まで浸透しない。
最低限のことだけ取り入れるとすると、スピリットかな、と。
有形ではなく無形。
無形を具現化した墓なんかは、どうなるのだろう。
墓というハードでなくてもよいのかも知れない。
選択は、次世代に任せるのか、一応、遺志は伝えるのか。
しかし、夫婦で遺志が違うので、次世代は困る。
纏めて統一するか、次世代が好きなようにするか。
あるいは、次世代に迷惑をかけないように、自分の分は完結させるか。
この世で考えの違う夫婦が、あの世で一緒になるとは思えない。
あの世に行く前に談合しておく?
なんのために?
行くあの世は、お互い別々だと思う。
(あの世でも体感温度やテレビの好みは違うだろうし)
そんなことを思いながら毎日、生活を共にするのは、けしからんのでは?
だが、多かれ少なかれ、そう思って生きている人はいると想像する。
口に出さないだけ。
口に出さないにしても、こんなけしからんことを考えるのは、自分を責める?
自分が悪い、、、原因、責任が自分にあるなんて思い悩むと、こころの病気になる。
そこまで考えさせた相手にも原因がある。
相手も同じように考えているとすると、五分五分、引き分け。
ただし、あの世については、現在すでにあるもののルールに則った形となるようだ。
彼岸。
ルールの維持。
わたしは、こころの中で抵抗する。
じゃあ、自分の実家は?
なかば、これも事情あってのことだが、今だけの暫定処置。
先は決まっていて、わたしは賛成している。
だから、そこらあたりが、同じ彼岸行事でも、夫の実家側彼岸と、わたしの実家側では、こころの中は違う。
と、延々、電車移動中に書いてみた。
エッセイの神様は、長くて興味なくて途中で、投げたと思われる。
今日は、消えてないようだ。
昨日、エッセイの神様に消されてしまったブログ後半の考察、、、続きを書く気力はなくなったが、それは昨日のこと。
あれから帰宅し、娘一家を交えた我が家での夕食のあと、真ん中孫のバースデーケーキを囲み、エネルギーチャージ。
だが、それはそれ。
かなりまだ頭のスミから真ん中寄りに、引っかかっている。
しかしながら、ん〜、引っかかっていることは引っかかっているのだが、引き出すのが大変。
最近、しぶとく、脳のどこやらに引っ付いたまんま、出てこない。
愛想を尽かしたいところだが、なにしろ自分と脳は一心同体なので、可愛がり慈しまないと。ぼろっちい脳みそでも。
と、関係ないことを書きながら、実は一方で記憶の糸を辿っている。
・・・あ、そうそう。
家は主人がいないと、ただの箱。
空き家。
魂がない家には幽霊も出てこない、と書いていたのだった。
リフォーム時も、リフォームした人の情熱、魂が入っている。
姑が孫たちのために別棟にリフォームした浴室と洗面所。
使ったのは、一度か二度。
自分が自宅で最後までいる予定で、その時の居室を新たに別棟に移動、整備し、孫たちが家族を連れて泊まりに来る、明るく楽しい未来図を描いて行った、リフォーム。
今では誰も使わないまんま、新古品となったリフォーム現場を見て、感慨にふける。
よくあることだが、親が子世帯と同居を望み、家を新築するものの、願い叶わず家だけ残る。
誰かのためではなく、自分のために建てたとしても、家を建てるという一大事は、隆盛ピーク時であることが多い。
自社ビルも然り。
知人の建設関係者が、懐かしい目をして言っていた。
邸宅やビルを建てた後は、坂を下るのみ。
それは、盛者必衰の理。
昔からそうなっている。
華々しいことは、続かない。
地味なことなら、負担がない場合、どうにか保つ。
時代の推移はあっても、変わらないものは変わらない。
先人の知恵や営みの上に我々がある。
先日、敬老の日に因み、行政の啓蒙目的ティッシュと共に、そういう倫理系冊子を街で手渡された。
書かれている内容に100%賛同したが、その団体は、学校も運営しているようで、引いた。
学校は、やり過ぎだと感じる。
倫理の時間や、朝礼や、行事のなにかにつけ、教えを復唱するのだろう。
わたしは、嫌。
各家庭でやればよい。
しかし、昨今では、核家族化し、家庭事情も様変わり。
痛ましい事件が後を絶たない。
かく言うわたしも、家庭で立派な教えを説き、実践しているか?
親の代はしていたが、自分の代では、全然逆のことをしている。
せっかく先代たちが築きあげたものを維持どころか、壊そうとしている。
孫を倫理学校に通わせるなら、間接的に実践で背中を見せるべき。
なぜ間接的かと言うと、孫とわたしの間に、娘世代が入るから。
娘世代が考えを取り入れなければ、孫まで浸透しない。
最低限のことだけ取り入れるとすると、スピリットかな、と。
有形ではなく無形。
無形を具現化した墓なんかは、どうなるのだろう。
墓というハードでなくてもよいのかも知れない。
選択は、次世代に任せるのか、一応、遺志は伝えるのか。
しかし、夫婦で遺志が違うので、次世代は困る。
纏めて統一するか、次世代が好きなようにするか。
あるいは、次世代に迷惑をかけないように、自分の分は完結させるか。
この世で考えの違う夫婦が、あの世で一緒になるとは思えない。
あの世に行く前に談合しておく?
なんのために?
行くあの世は、お互い別々だと思う。
(あの世でも体感温度やテレビの好みは違うだろうし)
そんなことを思いながら毎日、生活を共にするのは、けしからんのでは?
だが、多かれ少なかれ、そう思って生きている人はいると想像する。
口に出さないだけ。
口に出さないにしても、こんなけしからんことを考えるのは、自分を責める?
自分が悪い、、、原因、責任が自分にあるなんて思い悩むと、こころの病気になる。
そこまで考えさせた相手にも原因がある。
相手も同じように考えているとすると、五分五分、引き分け。
ただし、あの世については、現在すでにあるもののルールに則った形となるようだ。
彼岸。
ルールの維持。
わたしは、こころの中で抵抗する。
じゃあ、自分の実家は?
なかば、これも事情あってのことだが、今だけの暫定処置。
先は決まっていて、わたしは賛成している。
だから、そこらあたりが、同じ彼岸行事でも、夫の実家側彼岸と、わたしの実家側では、こころの中は違う。
と、延々、電車移動中に書いてみた。
エッセイの神様は、長くて興味なくて途中で、投げたと思われる。
今日は、消えてないようだ。