アクセス数が増えると(自分比)、息苦しくなり、今までのように、好きなことが書けなくなってきた。
自意識過剰、過呼吸状態。
しかし、もともと大したことのないブログ、自分の息抜き、ストレス解消のために書いている。
ストレスになるなら、やめる。
というわけで、今日は(も)、ここまで。
学校で言えば、朝来て、朝礼、ホームルームが終わって、はい解散、帰宅、みたいなかんじである。
さて、皆さん、お帰りになったところで、好きなことを書く。
あとは、施錠して、セキュリティをセットして帰りますから、心配しないでください。(、、、まだ、言っている)
と、しつこく書くと、かえって気まずい風を感じる。
・・・
わたし、わたし、わたし。
わたしが書くことは、わたしのことばかり。
わたし以外に関心がない。
たとえ、孫のことであっても、「わたし」の孫であり、「わたし」つながりである。
わたしは、なんども書いているが(もはや人生スタンスとなっている)省エネ主義である。
新たな道を切り開いたりしない。
すでに用意され、選択可能の中から選ぶ。
ゼロから作ったりしない。
既製品の中から、自分の予算に応じて買い求める。
分不相応なものは、買わない。
一応、売り場には見に行く。
わたしに関しては、「知ること」を大切に思っている。
知らないほうが幸せな場合もある。
が、それはそれ。
例えば人。
相手が自分を嫌っていない人の中から選ぶ。
あえて困難なイバラの道は選ばない。
人生の隅から隅まで、受動的姿勢。
選択肢がある中から、選ぶ。
ダンス相手もそう。
だったが、今回の相手は、ちょっと違うパターンだった。
なにかと気苦労が多い。
まあ、それはそれ。
所詮、お遊び。
わたしにとっては、お遊びが多い。
遊びではないのは?
仕事、家庭、社会人としての最低限の節度ある行動。以上。それだけである。
ブログも命かけた、お遊び。(言うだけ)
あ、映画も好き。お遊び。
家庭もお一人さまになったとしたら?
ひとりであろうが、なかろうが、生きることには、真剣。
気合いを入れないと、死んでしまう。
ガス漏れや、火事、交通事故、その他。
気合いを入れて細心の注意を払っても、不慮の事故はある。
話が逸れている、、、。
受け身、受動的選択肢について。
具体例を出すとすると、お見合い。
選ばれた中から選ぶのが楽。
選ばれてないのに、選ばれようとするのは、たいへん。
誰も選んでくれなくて、たった1人に選ばれた場合、それに飛びつくのは?
パスする選択肢もある。
いらん。
無いほうがマシ。
永遠に、選ばない、という選択肢もある。
最後あたり、疲れて理想レベルを落として選ぶ、ということもある。
疲れ過ぎて、思考能力が衰え、失敗することもある。
お見合いだけでなく、家具の買い替えだとか、今、あるものでいけるが、気に入ったものと替えたい、なんていう場合。
一生、あまり気に入らないままの家具で過ごすこともある。
別に生活には差し障りがない。
好みの問題だから。
質の追求になる。
これが、冷蔵庫や洗濯機、エアコンなど、電化必需品だとすると、優雅なことは言っていられない。
毎日の生活に影響する。
快適の種類、質が違う。
ソファの生地が破れてスプリングが飛び出しているとする。
ましてやベッドとしても兼用で使っているソファベッドとかなら、家具でも早急に買い替えなければならない。
そうでない家具の場合。
生活を楽しむ、彩るものは、余裕がないと気にならない。
目の前のことに追われ、それどころではない。
もともと、そんな趣味のない人もいる。
食べ物もそう。
胃袋を満たすだけでは満足できなくなる。
味、見た目、鮮度、産地、バランス、栄養、ひいては、食卓の雰囲気、照明、音楽、会話、人々、、、
食べ物にかける費用も違ってくる。
求めだすと、キリがない。
何を第一に考えるか。
優先順位をつける。
全てを備えた万能の人なら?
どんな人間も皆、平等なのは時間。
時間をどう使うか。
だが、平等といいながら、平等ではない。
自分だけのために使える時間がない人もたくさんいる。
自分が使える、残った時間をいかに有効に使うか、ということになる。
しかし、時間はあっても、経済的制限、その他の制限がある。
選択肢のある中から選ぶ生き方は受動的といいながら、実のところは、能動的かも知れない。
あれもこれもは、無理。
もし、なんでもかんでも叶えられたとすると、楽しくなくなる。
人間は欲深い。
自分だけの目で見て選択していき、残った究極のものが、自分の求めていたものである。
が、アタマの中だけでは出来ないので、選択していくにも時間がかかる。
そうやって、持ち時間がどんどん減っていくが、それが無自覚であるものの、幸せなのかも知れない。
「夢中」は、至福な時間だ。
こんな人なら、いないほうがマシ、と思っても、ほんとうに決別するのは、よほどのこと。
後先考えずに勢いで、なんていうこともあるだろうけれど、そこそこなら、現状でいいんじゃなかろうか、と。
そう考えるのは、若くない、歳がいった証拠だと実感する。
だが、グラスに水が溢れる時、自然に、何かが動くことはある。
それは、意外に望んでいないことだったり、望んでいたことだったり、、、
胸の奥で知っているつもりが、想定外のどんでん返しかも?
神のみぞ、知る。
自意識過剰、過呼吸状態。
しかし、もともと大したことのないブログ、自分の息抜き、ストレス解消のために書いている。
ストレスになるなら、やめる。
というわけで、今日は(も)、ここまで。
学校で言えば、朝来て、朝礼、ホームルームが終わって、はい解散、帰宅、みたいなかんじである。
さて、皆さん、お帰りになったところで、好きなことを書く。
あとは、施錠して、セキュリティをセットして帰りますから、心配しないでください。(、、、まだ、言っている)
と、しつこく書くと、かえって気まずい風を感じる。
・・・
わたし、わたし、わたし。
わたしが書くことは、わたしのことばかり。
わたし以外に関心がない。
たとえ、孫のことであっても、「わたし」の孫であり、「わたし」つながりである。
わたしは、なんども書いているが(もはや人生スタンスとなっている)省エネ主義である。
新たな道を切り開いたりしない。
すでに用意され、選択可能の中から選ぶ。
ゼロから作ったりしない。
既製品の中から、自分の予算に応じて買い求める。
分不相応なものは、買わない。
一応、売り場には見に行く。
わたしに関しては、「知ること」を大切に思っている。
知らないほうが幸せな場合もある。
が、それはそれ。
例えば人。
相手が自分を嫌っていない人の中から選ぶ。
あえて困難なイバラの道は選ばない。
人生の隅から隅まで、受動的姿勢。
選択肢がある中から、選ぶ。
ダンス相手もそう。
だったが、今回の相手は、ちょっと違うパターンだった。
なにかと気苦労が多い。
まあ、それはそれ。
所詮、お遊び。
わたしにとっては、お遊びが多い。
遊びではないのは?
仕事、家庭、社会人としての最低限の節度ある行動。以上。それだけである。
ブログも命かけた、お遊び。(言うだけ)
あ、映画も好き。お遊び。
家庭もお一人さまになったとしたら?
ひとりであろうが、なかろうが、生きることには、真剣。
気合いを入れないと、死んでしまう。
ガス漏れや、火事、交通事故、その他。
気合いを入れて細心の注意を払っても、不慮の事故はある。
話が逸れている、、、。
受け身、受動的選択肢について。
具体例を出すとすると、お見合い。
選ばれた中から選ぶのが楽。
選ばれてないのに、選ばれようとするのは、たいへん。
誰も選んでくれなくて、たった1人に選ばれた場合、それに飛びつくのは?
パスする選択肢もある。
いらん。
無いほうがマシ。
永遠に、選ばない、という選択肢もある。
最後あたり、疲れて理想レベルを落として選ぶ、ということもある。
疲れ過ぎて、思考能力が衰え、失敗することもある。
お見合いだけでなく、家具の買い替えだとか、今、あるものでいけるが、気に入ったものと替えたい、なんていう場合。
一生、あまり気に入らないままの家具で過ごすこともある。
別に生活には差し障りがない。
好みの問題だから。
質の追求になる。
これが、冷蔵庫や洗濯機、エアコンなど、電化必需品だとすると、優雅なことは言っていられない。
毎日の生活に影響する。
快適の種類、質が違う。
ソファの生地が破れてスプリングが飛び出しているとする。
ましてやベッドとしても兼用で使っているソファベッドとかなら、家具でも早急に買い替えなければならない。
そうでない家具の場合。
生活を楽しむ、彩るものは、余裕がないと気にならない。
目の前のことに追われ、それどころではない。
もともと、そんな趣味のない人もいる。
食べ物もそう。
胃袋を満たすだけでは満足できなくなる。
味、見た目、鮮度、産地、バランス、栄養、ひいては、食卓の雰囲気、照明、音楽、会話、人々、、、
食べ物にかける費用も違ってくる。
求めだすと、キリがない。
何を第一に考えるか。
優先順位をつける。
全てを備えた万能の人なら?
どんな人間も皆、平等なのは時間。
時間をどう使うか。
だが、平等といいながら、平等ではない。
自分だけのために使える時間がない人もたくさんいる。
自分が使える、残った時間をいかに有効に使うか、ということになる。
しかし、時間はあっても、経済的制限、その他の制限がある。
選択肢のある中から選ぶ生き方は受動的といいながら、実のところは、能動的かも知れない。
あれもこれもは、無理。
もし、なんでもかんでも叶えられたとすると、楽しくなくなる。
人間は欲深い。
自分だけの目で見て選択していき、残った究極のものが、自分の求めていたものである。
が、アタマの中だけでは出来ないので、選択していくにも時間がかかる。
そうやって、持ち時間がどんどん減っていくが、それが無自覚であるものの、幸せなのかも知れない。
「夢中」は、至福な時間だ。
こんな人なら、いないほうがマシ、と思っても、ほんとうに決別するのは、よほどのこと。
後先考えずに勢いで、なんていうこともあるだろうけれど、そこそこなら、現状でいいんじゃなかろうか、と。
そう考えるのは、若くない、歳がいった証拠だと実感する。
だが、グラスに水が溢れる時、自然に、何かが動くことはある。
それは、意外に望んでいないことだったり、望んでいたことだったり、、、
胸の奥で知っているつもりが、想定外のどんでん返しかも?
神のみぞ、知る。