服装について。
外国に住む人から見て「日本人らしい服装」というものがあるそうだ。
ちゃんとした服装のことかな?と想像する。
確かに海外で見る日本人観光客は、一目みてファッションでわかる。
現地に住んでいる日本人はまた違うかも知れないが、わたしは、海外旅行先で、現地に住む現住民と間違われることがある。
主張しなさ過ぎ、溶け込み過ぎ、普通過ぎか?
まあそれはいいとして。
わたしは、日本に住む日本人なのだが、ちゃんとした服装が苦手。
かといって、ジーンズにTシャツはもっと苦手。
これは年齢にもよると思う。
体型も自分の理想ではない、年齢に応じた体型になっている。
メキシコに旅行した3年前、街のスーパーで見かけたメキシコ女性たちは、結構ふくよかだった。
老いも若きも、お腹ぽっこりを隠すわけでもなく、そのままぴっちりした服を着ていた。
わたしは、カルチャーショックを受けた。
お腹ぽっこりは、何も恥ずかしいことではないのだ。
気にすることなんかではないようだ。
わたしは、お腹ぽっこりは、上からフワリとしたものを着て、はっきり、くっきり、お腹のラインを出さない、出したくない。
自分のぽっこりが醜いと感じているから。
気にならない人にとれば、理解出来ないだろう。
自分の理想を自分で描き、がんじがらめにしている。
あるTV番組で、お腹を隠すファッションばかりしているシニア女性を取り上げて、ファッション改革を促す企画のものを最近、見たことがある。
確かに、隠せば隠すほど、よけいにそこばかりに目が行くようなかんじがした。
それに、ファッション傾向が完全にワンパターンになる。
あんまりカッコ良くなかった。
本人が好きでその格好をしているのなら何の問題もないが、好きではないものの、よかれとリスクを回避しようとして選んだ消極的な守りのファッション。
変なのが嫌なんだろう。
ローリスク、ローリターン。
わたしは、好きな格好をする。
だが、鏡に映る自分の姿を見て、これ、嫌だなあ、ブサイク、と思うと止める。
まだこれなら許せる?と感じると着る。
あまり、行き過ぎた格好は自分が快適ではないので、避ける。
あきらかに似合ってない。
自分の気持ちと格好が合ってないと、却下する。
誰かの目を気にしてではなく、わたしの目に自分がどう映るかが、ジャッジ基準だ。
顔や年齢、スタイルをトータルして自分が自分を見て、これでオッケーというものはマル。
ただし、着心地がよいものが好き。
快適性を犠牲にして、見てくればかりにこだわる年齢はとっくに過ぎた。
そこまで頑張っても、頑張りほどの成果は現れない。
頑張り損。
努力に見合う、合理的な線に落ちつく。
他人からどう思われようが、全然気にしない。
問題は自分にどう映るかだ。
そして、他人はあんまり他人のことなんか見ていない。
なら、自分が好きなようにするほうがいい。
とてつもなく変ではないと思う。
理想と現実の折り合いをうまく自分なりにつけていると自分では思っている。
ここまで大口をたたき自慢げに長々と書いて、はい、全部、服はユニクロですーー、では、皆さん、こけそう。
全てユニクロではなく、一部ユニクロ。
あとは、直近〜数十年のうち、好きだった服をちょいちょい取り出して、組み合わせて着ている。
自分が好きだった服なので、今、着ても割と好き。
人からはどう思われようが、年齢を積み重ねた先にある、自分の世界である。
ここまで来ると、服なのではなく、自分が好かどうかなような気がする。
パリの地下鉄の窓ガラス、ショーウィンドウに映る自分はブサイクで嫌悪感があったが、今、同じ姿の自分を見ても、きっと愛おしい、自分らしい姿だ、自分らしくて悪くないと思うことだろう。
これは、自己肯定感が強い、たんなる勘違いかも知れないが、ファッションは自分のためにあると考えている。
人のマネでもなければ、ファッション誌のパクリでもなく、シニア世代のゆるゆる楽々服、でもない。
少し今のテイストも取り入れたい。
ファッションは自分を包む外側。
外側だけ頑張っても、中身との乖離があれば、調和を生ない。
とかなんとかいって、たんなる自分流であります。