自分はどういう風に見えるか。
見る人のこころの反映ではないだろうか。
逆に、自分の目には人はどう見えるか、、、も、自分のこころを映す鏡だろう。
三代前の姑が、仏事の過去帳の最終ページに達筆で綴っている。
「人の姿は己を映す鏡なり」
実は達筆過ぎて直近の、わたしのすぐ上の姑もわたしも読めないのだが、おそらくそんなかんじかなあ、、、と。
姑は、親戚などに誇らしげに、過去帳を持ち出し、過去にこんなことを昔の何代も前のおばあさんは書いていたんですよ、と自慢したいのだが、残念ながら正確に読むことが出来ない。
ほにゃららほにゃほにゃ、と、口をもごもごさせて読んでいるのが、わたしは(こころの中で)笑えてしかたなかった。
わたしも読めるのは「鏡」ぐらいか。
大筋はなんとなくわかるのだが。
注釈付きで書いてほしかったが、ますますわからなくなることだろう。
解釈は各自でどうぞ、ということか。
自分の状況や思いを基準に、人の姿が目に映る。
客観ではなく主観。
面白いものである。
ちなみに、過去ブログ記事にも書いたが、わたしは色んな人に見えるらしい。
フィリピン人、香港人、中国人、ヒスパニック系、日本人、、、
学校の教師、社交ダンスの先生、保険外交員、医師、スナックのママ、FMラジオ制作関係者、、、などなど、まるでドラマのキャストのようだ。
詐欺師か、スパイでも出来るかも知れないが、悲しいかな才能がない。
人を騙す趣味嗜好は全くない。
放つオーラはまるでなく、居るか居ないかわからないほど存在感はない。
何の印象もない。
最近は、電車のホームや、物販店のレジ周辺で、間違った場所にぼーっと立っていて、周りの人に迷惑をかけていることがある。
残念な邪魔邪魔オーラ。
しかしながら無色透明はさておき、人の流れの邪魔になってはいけない。
人は自分の目線で人を見る。
TVや映画で観た、人物特徴をデフォルメされた先入観で人を見る。
口を開いて話さなければ、見た目だけである。
つまり、見る人の想像力、思い込みで見る。
ちなみに、わたしに見られる人は、窮屈な思いをすることだろう。
なぜなら、わたしは人の本質が見えてしまうことがあるからだ。
だが、見えないフリをする。
見えてもろくなことがない。
むしろ、見えないほうがいい。
「そうだ、あなたが言う通りだ。
わたしはそういう人物だ。
それがどうした?」
と、開き直られることだろう。
というか、触れられたくないことにズカズカ土足で入られると逆ギレされるかも知れない。
なので、気づいても気づかないフリをし、自分にも見なかったことにしようと言い聞かせる。
真実などは追及するものではない。
刃物は切れすぎると凶器になり、狂気を引き起こす。
本人も周りも傷つく。
そっと察して労るのが良いとわたしは思っている。
いつも、どろんと鈍感なわたしは、無意識と思われるが一種の自己防衛なのかと推測している。
自分の行動がのろい、気遣いが足りない。
なのに、人のことはよく明確に見える。
自分が出来ないくせに、人の至らないところも見える。
自分の欠陥や欠点を人にも見出す。
だが、自分に甘く、人に厳しいのは良くないので、自分に甘く、人にも甘い。
見えるが見ない。
と、話は脱線。
で、人に嫌われるようなことはしたくないので、あまり自分を出さないことにしている。
すると存在感の薄い、空気みたいな人間になる。
だから、見る人には、見る人が勝手に想像する人物として映る。
三代前の姑が言いたかった教えと、訓戒とは少し違うが、なんでもいいのだ。
人の姿に映し出される無意識の己のこころを知り、戒めよ、という教えなのだが、
わたしは自分を開示せず消して透明人間になっているため、人の姿に映し出されない。
なので、己のこころもわからない。
明らかにどこかでコースがズレて迷子になっている。
無理矢理、己のこころを探すなら、こころを読まれたくないというこころ。
そんなこころは、他人の姿には映し出されにくい。
映し出されたところで、自己開示しないことが別に悪いことだとはわたしは思ってない。
さて、どうする?
三代前の姑の教えと一致しない、方向性がズレている。
まあ、そういうこともあるということで
いいんじゃないかと、ここでマイオリジナル鈍感力を発揮する。