ちょっと、ブログを更新しなかったら、みるみるうちに、ブログランキングはダウン。
正直なものです・・・。
まれにしか更新しないブログでも、高い閲覧数をキープするものや、高ランキングのものもあるのに、
わたしのブログは、薄利多売・路線。
ちょっと手をかけなかったら、蜘蛛の巣が張るかのごとく。
わが夫の働き方と同じ。
朝早くから夜遅くまで、時間で稼ぐ、カラダで稼ぐ、体力で稼ぐ。
夫婦とも、いえ、家族全員、そういう傾向。
誰一人として、率のいい、割のいい、働き方をしていない。
ちょっと、かなしいけれど、ひょっとしたら前世は、馬車だったのかも?
もうちょっと、優雅に、おほほと、涼しげな顔で、上品に鎮座していることができたら
きっと、爽やかな風が吹くんだろうなあ・・・
我々のまわりは、なんか、いつも暑苦しい風が吹くなかを、息を切らせながら、
あくせく、やっている。
もっと、能率のいい、効率のいい、効果的な、合理的な、必要最小限だけ働けばいいような
そんな働き方は、ないものか・・・。
能力がない分、体と汗と時間で稼ぐしかない。
まあ、生まれ持った性分というか、あくせく働くように神様がお創りになってしまったような、
そういう運命、宿命?
時代のせいもあるとは思うが、夫の実家側も、わたしの実家側も、実にみなさん、よく働く。
似たような感覚をもっていて、よかったかも知れない。
これが、お公家さんと、農民の組み合わせだと、ちょっと価値観や、生活感覚がズレる。
しかし、ひとつボタンの掛けかたが違うと、
一方では価値があるとされていることが、他方では、非難されることになる。
たとえば、嫁が、蝶よ花よで育ち、優雅な趣味や免許を持っていることを、
素晴らしいと、とらえる姑と、
かたや、
贅沢で、遊んでばかり、実生活や仕事ができない怠け者、と、眉をひそめる姑もいる。
学力が高いことに対しても、世の中では、すんなり誉めるひとばかりでも、ないようだし。
稼ぎが悪いと、他に持っている美点のすべてを否定する人もあるだろうし。
(しかし、食べていくには、理想は言ってられない。
足りないのなら、ご自分で、お稼ぎになれば?
→パンがなければ、ケーキをお食べになれば? →確信犯的発言)
貴族が地位・財産を剥奪され、斜陽族になった時代、かつての、プラスの要素は、マイナスに転じた。
生きていく根本や誇りそのものさえも、否定され、命さえ奪われる。
(フランス革命って、すごいダイナミックですね)
時代が変われば、価値観も大きく変わる。
専業主婦がよしとされていた時代と、今の時代でも、ずいぶん違う。
かつては、女性が働くのは、貧しい家の人だったようだが、いまどき、そんなことを言っていては
アナクロ人間の烙印を押される。
ある意味、事実でもあるが、すべてではない。
自分が育った時代の価値観を今の時代に切り替えるというのは、
老人にとっては、並大抵のことではない。
いままで生きてきた自分の生き様を否定することになるのだから。
だから、お年寄りと話をするときには、お互い、ある種のガラスの仕切りみたいなものがある。
(これは、戦争体験を語るお年寄りの話を聞くケースとは、また違う)
時代に翻弄された部分もおおいにあるだろう。
頭ごなしに、自分の価値観を押し付けるわけにはいかない、と、わたしは思っている。
義母は、時代の流れを理解しようと努力している。
アタマではわかるのだが、やはり、信念や、自分の育ってきた環境からくるものは、
変えられるものでなない。
「いまは、そんなことありませんよ」
わたしが、そう言っても、義母の思い出の中は、今の時代と違うのだ。
義母は、80を超えた今頃になって、はじめて、
「人に従うのではなく、自分独自の考えを持ち、したいことをしたらよかった」
と言っている。
合わせたり従ったりしない世界や、生き方など、想像もしなかったようだ。
だから、合わせる一方で、嘆く。不平や文句を言う。
「従わない」という選択肢があることに気付かなかった。
自分の意思で決定し、自分で出た結果に責任を持つという訓練を積んだこともなければ、経験もない。
女性は、そうやって生きてきた。そういう時代だった。
文句や不平を言うなら、自分で切り拓けばいいのに、ただただ運命を嘆くだけ。
嫁にやった娘に対しても、婚家のお姑さんとの生活の仕方にも、
鬼のようにお偉いオバアサマに尽くす一方で、ほとんど自由がないような暮らし、
わたしには、まるで理解できなかったが、
まあ、他人だし、本人がそれで納得しているんなら、それでいいか、と思った。
手足をもぎ取られ、牢獄に入れられた囚人のような暮らしに見えた。
手足をもぎ取っているのは、他の誰でもない、自分なのだと、なぜ気づかないのか、それも不思議だった。
人によく思われたいために、自分を犠牲にし、自分を殺す。
まわりは、助かるだろう。感謝もされるだろう。
自分を殺した代わりに、感謝される、という、ご褒美がつくので、
天秤にかけると、そちらを選んだのだろう。
その逆なら、自由奔放な鬼嫁に、お姑さんが泣いていることだろう。
人間関係というものは、バランスがとても難しい要。
義母の、「お仕着せでない、自分独自の行動をすればよかった」という後悔発言を聞き、
なにか特別なことがあったわけでもないのに、
ある日、目からうろこが落ちるように、突然、目覚めることってあるんだ、と、驚いた。
なにがあったわけでもないのだが、年をとり、からだが自由自在にならない日を迎え、
元気なときに、なぜ、自由にしなかったんだろう、と、いまになって、はじめて思った、
と、義母は言う。
同じ旅行に行っても、義父に付いていくだけ。
自分の意見なんかまるでなく、意向もなく、好みもなく、ただただ、牛のように、あとを付いていくだけ。
その自由だったときの時間が惜しかった、なんて、もったいないことをしたのだろう、と。
食べ物に関しては、ずいぶん前に、同じようなことを言っていた。
食べたいときは、経済的事情で食べられない、
お金に余裕がでて食べたられる時代には、からだの事情で食べられない、と。
あと、一時期、こんなこともよく義母は、言っていた。
どんな偉い役職の人でも、退職したら、ただの人。
いままでの、自分に仕えてきてくれた人間関係は、すべて、リセット。ぱー。
声を大にして言っている。
わたしは、それに関しては、もともと自分はお偉くないし、
お偉い人(夫)の横で甘い汁を吸っていたわけでもないので、
その格差に愕然とすることは、決してないと思っている。
人生の先輩の話は、いずれ自分が行く道なので、
わたしは、けっこう聞く耳をもって、熱心に聞いている。
その時にじたばたするよりは、先輩たちの話を聞いて、参考にして、あれこれプランを練ると
人生のうち、ほんの少しでも納得がいく人生を実行できるかも知れない。
プランだけで、挫折ということもあるかも知れないが。
そのときに、うじうじ嘆かないようにしたいものだ。(が、どうなることやら・・・)

その割りに、緊急・地震対策、救急持ち出し袋とか、なんの準備もしていない
危機管理ゼロのわたし。
ちょっと、グラっときただけで、ぶるぶる、びくびく。
備えなくて、憂いだらけ。
言ってることと、やっていることが、まるで違う、典型だ。