蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ウツになる暇がない

2021-07-16 | 日々のこと
次女、産後鬱になりやしないかと心配するぐらい、真面目に育児に取り組んでいる。
その丁寧すぎるほど丁寧な動きを見て、育児先輩の長女は言う。
「ちょっとぐらい赤ちゃんが泣いても、ほっといたらいい」
長女の第四子は、去年の今頃に産まれた。
次女ベビーの一学年上になる。

たった一年前のことなのに、長女の末子の一年前の顔や様子が思い出せない。
毎日更新されて、直近の姿しかない。
うちにある、孫の写真は、赤ちゃんは一番上孫のみ。
最初の孫は、ジジババは、きゃーきゃーと初心者マークだったが、次第に慣れて、子育ても次のフェーズに突入すると、今度はそっちでオタオタ、アタマが痛い。

親たちは、勉強アレルギーの一番上孫の勉強に手を煩わされている間、2番め3番め孫ペアは、我が家に来て2人で要領良く遊んでいるので助かると言えば助かるが、子供らしく元気すぎて、うちの椅子やソファは傷む一方。
それやめてね、あれもやめてね、と、クレームばあちゃんになってしまう。
言いたくないが、言わなければ、大好きな大切な椅子が壊れてしまう。
苦手にもかかわらず頑張って作った食事も、遊びながらまともに食べないチビ2人に、いい加減、イライラしてくる。
一歳児は、あちこち、開ける、触る、倒す、口に入れる、引っ張る、、、手当たり次第。

しかし育児は体力勝負だが、教育や躾に移行すると、お手上げだ。
次女の、ほとんど動かない新生児は楽だなあと思ったり。
たくさんいると、鬱になる暇がない。

長女は仕事に振り回され多重同時タスク、娘婿も仕事と子育て。
ちびっ子たちの両親はなかなか帰って来ない。
大人向けの食事も用意しなければならない、ばあちゃん食堂は、今、利用客が2名も増えて、てんやわんや。

彼らが帰ると正真正銘、ほっとする。
全員、身内なのでボランティアというよりは、まあ家庭内労働。
働き者ではないわたしには、荷重労働だ。
だが、動かないわけにはいかない。
人生のほとんどは、サボっている時間だから。

マウント取り

2021-07-14 | 日々のこと
世の中にはマウントを取りたがる人は必ずいる。
わたしの周りにも例に漏れずいる。
鬱陶しいから、距離を置いているにも関わらず、「ねえ、なに?なに?なに?」と首を突っ込んでくる。

コレコレが出来ないことを独り言でつぶやいていたら、
「わたしの場合は、、、コレコレこうで、めちゃくちゃ出来てる!!」
と、聞きもしないのに勝手に自己アピールしてくる。
わたしは出来ない話をしているのに、むこうは、いかに自分は良く出来るか、の話をしてくる。
あなたに聞いてない!
あなたを呼んでない!
なぜ、来る?

いつもいつも、必ずやってきて自慢をして引き上げる。
めーーーっちゃくちゃ、うっとうしいんですけどーーー。
自分の家で家族にでも話したら?
絶対に誰も聞いてくれないと思う。

よくよく考えると、さびしい人だ。
が、来てほしくない。

仏教に傾聴という修行があるらしい。
聞きかじりで、よく知らないが。
人の話を聞くのも、徳を積むことなんだとか。
しかし、自分が悩みを聞いて欲しい状態では、同じ分野なのに、とても人の自慢話に耳を傾けることは出来ない。

と、ブログに書いて、発散するわたし。
すみません、読んでいただいた方へ。
きっと徳を積まれることでしょう、、、。



昔の人の教え

2021-07-13 | 無題
自分はどういう風に見えるか。
見る人のこころの反映ではないだろうか。
逆に、自分の目には人はどう見えるか、、、も、自分のこころを映す鏡だろう。

三代前の姑が、仏事の過去帳の最終ページに達筆で綴っている。
「人の姿は己を映す鏡なり」
実は達筆過ぎて直近の、わたしのすぐ上の姑もわたしも読めないのだが、おそらくそんなかんじかなあ、、、と。
姑は、親戚などに誇らしげに、過去帳を持ち出し、過去にこんなことを昔の何代も前のおばあさんは書いていたんですよ、と自慢したいのだが、残念ながら正確に読むことが出来ない。
ほにゃららほにゃほにゃ、と、口をもごもごさせて読んでいるのが、わたしは(こころの中で)笑えてしかたなかった。
わたしも読めるのは「鏡」ぐらいか。
大筋はなんとなくわかるのだが。
注釈付きで書いてほしかったが、ますますわからなくなることだろう。
解釈は各自でどうぞ、ということか。

自分の状況や思いを基準に、人の姿が目に映る。
客観ではなく主観。
面白いものである。

ちなみに、過去ブログ記事にも書いたが、わたしは色んな人に見えるらしい。
フィリピン人、香港人、中国人、ヒスパニック系、日本人、、、
学校の教師、社交ダンスの先生、保険外交員、医師、スナックのママ、FMラジオ制作関係者、、、などなど、まるでドラマのキャストのようだ。
詐欺師か、スパイでも出来るかも知れないが、悲しいかな才能がない。
人を騙す趣味嗜好は全くない。

放つオーラはまるでなく、居るか居ないかわからないほど存在感はない。
何の印象もない。
最近は、電車のホームや、物販店のレジ周辺で、間違った場所にぼーっと立っていて、周りの人に迷惑をかけていることがある。
残念な邪魔邪魔オーラ。
しかしながら無色透明はさておき、人の流れの邪魔になってはいけない。

人は自分の目線で人を見る。
TVや映画で観た、人物特徴をデフォルメされた先入観で人を見る。
口を開いて話さなければ、見た目だけである。
つまり、見る人の想像力、思い込みで見る。

ちなみに、わたしに見られる人は、窮屈な思いをすることだろう。
なぜなら、わたしは人の本質が見えてしまうことがあるからだ。
だが、見えないフリをする。
見えてもろくなことがない。
むしろ、見えないほうがいい。

「そうだ、あなたが言う通りだ。
わたしはそういう人物だ。
それがどうした?」
と、開き直られることだろう。
というか、触れられたくないことにズカズカ土足で入られると逆ギレされるかも知れない。

なので、気づいても気づかないフリをし、自分にも見なかったことにしようと言い聞かせる。
真実などは追及するものではない。
刃物は切れすぎると凶器になり、狂気を引き起こす。
本人も周りも傷つく。
そっと察して労るのが良いとわたしは思っている。

いつも、どろんと鈍感なわたしは、無意識と思われるが一種の自己防衛なのかと推測している。
自分の行動がのろい、気遣いが足りない。
なのに、人のことはよく明確に見える。
自分が出来ないくせに、人の至らないところも見える。
自分の欠陥や欠点を人にも見出す。
だが、自分に甘く、人に厳しいのは良くないので、自分に甘く、人にも甘い。
見えるが見ない。

と、話は脱線。
で、人に嫌われるようなことはしたくないので、あまり自分を出さないことにしている。
すると存在感の薄い、空気みたいな人間になる。
だから、見る人には、見る人が勝手に想像する人物として映る。
三代前の姑が言いたかった教えと、訓戒とは少し違うが、なんでもいいのだ。
人の姿に映し出される無意識の己のこころを知り、戒めよ、という教えなのだが、
わたしは自分を開示せず消して透明人間になっているため、人の姿に映し出されない。 
なので、己のこころもわからない。
明らかにどこかでコースがズレて迷子になっている。
無理矢理、己のこころを探すなら、こころを読まれたくないというこころ。
そんなこころは、他人の姿には映し出されにくい。
映し出されたところで、自己開示しないことが別に悪いことだとはわたしは思ってない。
さて、どうする?
三代前の姑の教えと一致しない、方向性がズレている。
まあ、そういうこともあるということで
いいんじゃないかと、ここでマイオリジナル鈍感力を発揮する。


日本人ファッション???

2021-07-12 | ファッション
服装について。
外国に住む人から見て「日本人らしい服装」というものがあるそうだ。
ちゃんとした服装のことかな?と想像する。
確かに海外で見る日本人観光客は、一目みてファッションでわかる。
現地に住んでいる日本人はまた違うかも知れないが、わたしは、海外旅行先で、現地に住む現住民と間違われることがある。
主張しなさ過ぎ、溶け込み過ぎ、普通過ぎか?

まあそれはいいとして。
わたしは、日本に住む日本人なのだが、ちゃんとした服装が苦手。
かといって、ジーンズにTシャツはもっと苦手。
これは年齢にもよると思う。
体型も自分の理想ではない、年齢に応じた体型になっている。

メキシコに旅行した3年前、街のスーパーで見かけたメキシコ女性たちは、結構ふくよかだった。
老いも若きも、お腹ぽっこりを隠すわけでもなく、そのままぴっちりした服を着ていた。
わたしは、カルチャーショックを受けた。
お腹ぽっこりは、何も恥ずかしいことではないのだ。
気にすることなんかではないようだ。

わたしは、お腹ぽっこりは、上からフワリとしたものを着て、はっきり、くっきり、お腹のラインを出さない、出したくない。
自分のぽっこりが醜いと感じているから。
気にならない人にとれば、理解出来ないだろう。

自分の理想を自分で描き、がんじがらめにしている。
あるTV番組で、お腹を隠すファッションばかりしているシニア女性を取り上げて、ファッション改革を促す企画のものを最近、見たことがある。
確かに、隠せば隠すほど、よけいにそこばかりに目が行くようなかんじがした。
それに、ファッション傾向が完全にワンパターンになる。
あんまりカッコ良くなかった。
本人が好きでその格好をしているのなら何の問題もないが、好きではないものの、よかれとリスクを回避しようとして選んだ消極的な守りのファッション。
変なのが嫌なんだろう。
ローリスク、ローリターン。

わたしは、好きな格好をする。
だが、鏡に映る自分の姿を見て、これ、嫌だなあ、ブサイク、と思うと止める。
まだこれなら許せる?と感じると着る。
あまり、行き過ぎた格好は自分が快適ではないので、避ける。
あきらかに似合ってない。
自分の気持ちと格好が合ってないと、却下する。

誰かの目を気にしてではなく、わたしの目に自分がどう映るかが、ジャッジ基準だ。
顔や年齢、スタイルをトータルして自分が自分を見て、これでオッケーというものはマル。
ただし、着心地がよいものが好き。
快適性を犠牲にして、見てくればかりにこだわる年齢はとっくに過ぎた。
そこまで頑張っても、頑張りほどの成果は現れない。
頑張り損。
努力に見合う、合理的な線に落ちつく。

他人からどう思われようが、全然気にしない。
問題は自分にどう映るかだ。
そして、他人はあんまり他人のことなんか見ていない。
なら、自分が好きなようにするほうがいい。

とてつもなく変ではないと思う。
理想と現実の折り合いをうまく自分なりにつけていると自分では思っている。
ここまで大口をたたき自慢げに長々と書いて、はい、全部、服はユニクロですーー、では、皆さん、こけそう。
全てユニクロではなく、一部ユニクロ。
あとは、直近〜数十年のうち、好きだった服をちょいちょい取り出して、組み合わせて着ている。
自分が好きだった服なので、今、着ても割と好き。
人からはどう思われようが、年齢を積み重ねた先にある、自分の世界である。
ここまで来ると、服なのではなく、自分が好かどうかなような気がする。
パリの地下鉄の窓ガラス、ショーウィンドウに映る自分はブサイクで嫌悪感があったが、今、同じ姿の自分を見ても、きっと愛おしい、自分らしい姿だ、自分らしくて悪くないと思うことだろう。
これは、自己肯定感が強い、たんなる勘違いかも知れないが、ファッションは自分のためにあると考えている。
人のマネでもなければ、ファッション誌のパクリでもなく、シニア世代のゆるゆる楽々服、でもない。
少し今のテイストも取り入れたい。

ファッションは自分を包む外側。
外側だけ頑張っても、中身との乖離があれば、調和を生ない。
とかなんとかいって、たんなる自分流であります。

苦しい苦しい

2021-07-11 | 日々のこと
しんどいよ〜。
結構、もうこんなに早くからアゴ出してます。
次女、産後、どんどん母乳製造のためか、よく食べる。
多すぎたかと思いきやペロリ。
昼食終了後、食糧買い出しに走り、晩御飯作りに着手しようとしたが、(長女の)1番上孫男子Aが宿題をしない。
2番目孫男子Bはまだ小学1年ということもあり、ちゃちゃっとすごいスピードで仕上げる。
問題は、にいちゃん。
いつもなかなか始めないスロースターターなのだが、昨日は特に。
おじいちゃん(夫)が見るに見かねて、さあ、宿題しようか、と小3孫Aの重い腰を上げさせる。

小3孫Aは、消しゴムが無いと言い始める。
「あれじゃない」「これか?」「それじゃない」「じゃあ、どれ?」
たんに、言いがかり風。
まともに消しゴム探しに付き合っていたら、日が暮れる。
わりと簡単に消しゴムは出て来たのだが、、、。
国語は、漢字と平仮名をなぞるだけなので、スイスイ。 
たんたる作業。
問題は、算数。
彼は算数がだいきらい。
ベージュの、わらばん紙に印刷された2桁の割り算20コと、文章問題1題。
最初の左一列は終わっている。
右一列が、難関。
63÷3=
88÷2=
ざざざーっと続く。
先に式の後ろに=だけ、全問題、書く。

ちなみに、夫は、学習内容がわからない人の気持ちがわからない。
なので、2桁の割り算を孫Aに説明する時も、まだそんな用語や概念は習ってないかも知れないような言葉を使っていた。
わからない言葉を軸に説明されると、投げ出したくなる、、、これは、わたしの経験。
わからない人の目線にまで降りてきてもらわないと。
しかし、2桁の割り算は、用語もへったくれもないかも。
10の中に5は、いくつある?
30の中に5は、いくつある?
80の中に8は?
じゃあ88÷8=?

じいちゃんも、苦戦。
ばあちゃんも、苦戦。
宥め、すかし。
「この計算、出来なかったら大事なお小遣いでお菓子買ってお釣りもらっても、ごまかされてもわからないよ」

「あんたのおばちゃん(わたしの次女)は、幼稚園の時、プリント10枚全部間違えて、わーわー泣きながら始めからやり直してたよ。
あんたは、小3なんだから」
(他の子と比較したら逆効果とは思いながら)

「やらないといけないものは、やらないといけないよ」

じいちゃんの真顔、ばあちゃんの真顔に、孫Aの顔は歪む。
涙をポロポロこぼす。
机に突っ伏せて泣く。
いびつな口元から歯がのぞく。
プリントは、涙で、ぼたぼた。

それはまあいいとして、難関は文章問題。
アタマの大門が、ガシャっと大きな音を立てて閉まるような、漢字と平仮名が長々と続く出題。
視覚から拒絶反応。
わたしのアタマの門も一瞬、閉まったが、無理矢理こじ開ける。
いくらなんでも、小3算数は、出来ないと恥ずかしいから。 

問題に説明されている文章は以下の通り。
ビーズの連なりが5個ずつあって、赤白赤赤黄に並んでいます。
61個目のビーズは何色ですか?
わたしは文章の意味を図で示そうと、○を5つ描いて色鉛筆で一つ一つに赤白赤赤黄と色を塗って、うーむと考えた。
5個ずつ1セットにして60個にするには何セットのビーズが必要か。
絵に描いて、わたしがうんうん唸りながら考えていると、小3孫Aは、閃いたようだ。
「赤!!」
早いじゃないの。
ぐちゃぐちゃな苦しい顔はいっぺんに爽やかな抜けるような晴れになった。




弱者の訴え

2021-07-07 | 老い
手が取れて、シュールな表情で耐えていたスペイン闘牛士。
夫に手術をお願いしたら、あらまあ綺麗にくっついていた。
ただし、よく見ると人差し指の指先がちょっと欠けている。
落としたと見られるトイレの床をよく見てみたが、さすがに指先らしきものは見つからなかった。

しばらくは、術後スペイン闘牛士、トイレには戻さず、ちびっ子ギャングの迫害を逃れるために、キッチン窓際に避難させた。
何かしら気のせいか、スペイン闘牛士の顔に安堵の色がうかがえる?(これを「主観」と言います)

ちなみに夫は、
「こんな小さな手だったら、落とした本人も手が取れたことに気づかなかったんじゃないか?」と言っていた。
この人は、優しい。
難点は、自分にも優しいことだ。
あ、これ、わたしも。
どうなるんだろう、こんな優しさコンビ。
別名、だれだれダラダラ・コンビ。
夫唱婦随なんだか、負傷付随、不詳付随なんだか、わからないが。

兎にも角にも、スペイン闘牛士には落ち着いてもらい、、、。

さて、去年、今年は、激動の年だった。
世界的には未曾有のパンデミック。
世界と対極にある、ミニマム・コミュニティである家庭では、、、。
1人死去、2人誕生。プラマイ合計1人、人口が増えた。
年齢的には歳の順。
1人のお年寄りを2人の若者で支える構図、今や、もっと多くのお年寄りか。
上から順番にトコロテン方式に順送り。
次はわたしが送られる順番。

送られるまでに、子育ての手助けをしないといけない。
若い人の世話になる前に、若い人を世話せにゃあ。
姑は末孫誕生時は、今のわたしより10歳若い時で、舅は5歳若かった。
だから元気。まだ現役バリバリ。なんといっても戦中派バイタリティの持ち主だし。
その点わたしは、よれよれ。
すっかりアゴを出している。

しかし、年寄り色を最大限にアピールして、あまり無理は出来ないことを息切らせながら訴えている。
実際には身体よりアタマが相当心配、不安なのだが。
身体はどうにかなるが、アタマはどうにもならない。
声を大にしてアピールしなくても、毎日、なにかしらヘマをしている(LINEでのやり取りを聞き漏らしたり、指示されたことを間違えて勘違いしたり)。
アピールする手間が要らないが、著しい脳劣化ダダ漏れもキツイ。

わたしの将来は絶対に身体はピンピンして、アタマが楽園だと想像する。
状況やヘマを認知していないため、きっと嘆いていない。
それはそれで、楽しい老後だろう。
(ただし、家族は楽しくない)



犯人は誰だ?!

2021-07-06 | 日々のこと
昨日、おばあちゃん食堂を店終いして、孫たちが帰った後、、、
いつもトイレのミニ時計の上、定位置に置いているスペイン闘牛士が、時計の横に移動していた。
かわいいなあ、孫がちょっと動かして遊んだんやね、とにっこりしていた。
次にトイレに入ると何やら大きめの埃みたいなものが目に入った。
(わたしは裸眼視力が弱い)

ん?
と拾い上げてみると、、、「手」!!
闘牛士の手ではないか。
誰だ?犯人は?
誰も何も言わなかった。

容疑者は3人。
だが、最後の1人は、トイレ満室のため、2階のトイレを使っていた。
実質2人。
わたしは、真ん中孫が怪しいと睨んでいる。
彼は何かとモノを触る。
そして隠れたスイッチやメカの構造に気づいたりしている。
が、闘牛士は、たんに落としただけか。
ワシントンの桜事件のように、自発的に、名乗り出る子供はいなかった。
うちからは、偉人は出ないなあ。

それにしても、手を失った闘牛士、何とも言えないシュールな表情をしている。

もし、真ん中孫が真犯人でなければ、ゴメンね。
罪を憎んで人を憎まず。
怪しんだばあちゃんが1番の悪者か。

結婚

2021-07-04 | わたし
読者様、貴重な1人か2人、、、なのに、蝶ブログ、感じ良くないなあ、、、と、去っていかれそうなのだが、、、あえて、まあ迎合せずに嫌われてもいいから、好きなことを書く。

ああ、前置きが長い。
結婚のことを書きたい。

わたしは、結婚するなら今の自分の育成歴や背景と同じようなトーンの人、環境が良いと考えた。
そういう目で見ると、高校のクラスには一人もいなかった。
街にもごろごろ転がっていなかった。

そして、当時、マスコミや本などを見ると、女性たちが憧れとする一つのステイタスのようなものが、あった。
女性たちは、努力して手に入れようとする。
背伸びする人もいる。
わたしは別に頑張らなくても、横滑りするだけなので、どおってことがない。
というより、世間のなかで、多くある価値観のうち、あるひとつの価値観を持つ女性たちが頑張って手に入れようとするものを、頑張らずに手に入れられるのなら、優待席を活用しない手はないと思った。
逆ハンデをもらっての結婚レースである。

なので、苦労している人から見るとムカつかれると思う。
だから、神経を逆なでしないように、目立たないように頭を低くしている。

しかし、結婚には女性であることの最強の武器を行使する人がいて、その分野ではわたしは勝負できない。
とりあえずは、女性だけど。
最初からレースに参加していない。
選ばれる立場としても、選ぶ立場としても、キラキラした華やかな、そしてドキドキする異性アピールからは程遠い。
農薬を使わない自然派野菜みたいなものなので、虫はくっていないが、見かけが悪い。
街にいっぱいいる、キラキラ系からは目も入らないだろう。
大地に根をおろす自然派なので味は良いのだが、なにしろ見てくれを重視しない。
モテようとする努力を怠っている。
若い頃は容姿が9割。
きつい、、、。

街には美人、美女、チャーミングな、自分の魅力を知り尽くし磨きをかける女性がいっぱいいて、とても太刀打ち出来ない。

その中で一つ、結果的にわたしが良かったと感じることは、、、。
わたしは、見かけ倒しのペラペラした男性が苦手だった。
街にいるイケメンや、俳優、タレント、ミュージシャンには、興味がなかった。
顔から受けるアピール力に対して、あまりわたしは影響を受けなかった。
わたしは、偏った学校一貫教育を受けていたため、知的ではない人は結婚相手としては透明人間のごとく目に映らなかった。
見かけばかりの遊び人は、理屈抜きでハナから選ばないので、堅実な人のみ人選に上がった。

よくよく考えると、わたしは父を基準に結婚相手を探していたから、父みたいな人など(時代も違うし)いないのはわかっていたので、基準点数を引き下げた。

親や生きてきた道、価値観がほぼほぼ同じなら、柱となるところでオッケーかな、と大まかに判定した。
自分のメリットなのに、デメリットと捉えられるような価値観や受け取り方、視野の違いは、悲劇で不毛なので避けた。
国際結婚ぐらい文化が大きく違うと、それはまた承知の上だから、違い&ギャップを楽しむぐらいの気構えが良いかと。
わたしは、余裕無しなので、出来れば摩擦無しコースを選択した。

入れ物がちょっと変わるぐらいで、中身はさほど変化無しのまま、変換を余儀なくされないような、エココース。
入れ物ごと、がっさり変わると、あわあわして、順応するまでが大変。
プラスに順応なら苦労は報われるが、マイナスに合わせるとなると、わざわざ自分の持っている価値を引き下げる努力などはしたくない。
なので、同じような入れ物を探した。
似たような現象は姉にも当てはまり、まあ申し合わせたように似たような入れ物のところに嫁いだ。
そっくり。
コンテンツは各それぞれ違っていたが。

まあそれはそれとして。
入れ物が似ていると大きな変化はない。
相手はその入れ物で育った人間なので、よほどの突然変異でもない限り、大天才や大芸術家、大プレイヤーなどは発生しない。
その代わり、大悲劇の主人公や、大犯罪人になるような展開にも(多分)ならない。
平凡極まりないが、この平凡を維持するのは結構労力や、力量が必要である。
これこそ、目に見えない、日々の積み重ね。
ただし、ちょっとした自分に課すものはある。平凡を維持させるために意識する、小さな小さな努力。
それがあって今日がある。

だが、昨今は、結婚は、入れ物や器ではなく、パートナーシップ。
今時、入れ物論を唱えていると、昔人間は老害としてゴミ箱に放り込まれる。
縦の関係ではなく、横の関係。
ただ、パートナーを知るには縦を紐解くと、難解で理解できない謎が解けるヒントが詰まっている。
本人さえ気づかない深層に隠れたものも見つけられる参考書のようなもの。
相手の眩い若さにクラクラしても、その親を見れば、だいたい本質や未来がわかる。
だが、少なくとも男女どちらか一方に、あわよくば両者に、このクラクラがなければ、結婚には至らない。

選ばれた中から選ぶのが、最もエコである。
選ばれてないのに無理矢理行くのも、血の気が多い人には良い。
なんでもありだ。

やたら長くなってしまった。
文字数を見て、びっくり。
読んでくださった方、老害ブログに影響を受けられませんように。
それより、長すぎてヘキヘキ。
時間泥棒にお付き合いいただき、すみません。




ブログ読者実数

2021-07-03 | ブログ
目心体、痺れました。
すごくすごくすごくよく理解できる。
ただし、わたしの悪い癖は、パクることだ。
無意識のこともあるし、意識している確信犯であることもあるし、あとから気づくこともある。
コピーではなく、影響を受け、取り入れる血肉化なら許してもらえるだろうか?

10000冊の本を読むより、1冊の本との出会い。
しかし、その1冊の価値は、10000冊を読んでこそ深みがわかる。
なかには、100000冊読んでも(※0ひとつ増やしてます。ミス入力ではない、とわざわざ説明するミス多発自覚の哀しい色合い)さっぱりわからない人もいて、ああ、自分はわからない人なんだ、、、と、わかればそれで意味がある。得るものがある。
なぜだ?なぜだ?なぜだ?と闇雲に読み漁る時こそ、脳細胞がすごい勢いで分裂している。
(学生時代、理数系教科書問題を前に、なぜだ?なぜだ?なぜだ?と延々向き合い、自分は理解できない脳だということが理解できた実体験あり)

分裂しない、ツルツルのお花畑、ただただ快適な化繊の衣類を無意識に纏っているのは、、、まあそれはそれで、純粋で美しい。
不純と純粋って、見方によると、真逆。明と暗。
両方あるから、両方意味をなす。
片方だけなら、無なのではなかろうか。
自分への取り入れ方、自覚の仕方だと思うが、千差万別、人の数だけある。
大きくグループ分けは出来ると思うが。


さて、話はころっと変わる。
ブログ村、わたしのブログにOUTのほうがINより多いのは、、、

ブログを始めた頃からそうだった。
正統派ではなく、清く正しく優等生的ではないからだろう。
真正面ではなく、斜め切りだから仕方ない。
わたしのボヤキ、何いってんだかさっぱりわからない人も多いことだろう。

人間には二種類ある。
○自分を正しい賢いと思っている人。(本当に賢い場合と、そうでない場合がある)
○自分はバカだと思っている人。(本当にバカな場合と、そうでない場合がある)

賢いことを自覚している人が、バカな人から「あなた、それ、前と後ろ、反対ですよ」などと言われようものなら、松の廊下になる。
殿中でござる、殿中でござる。(昭和とか、古いとかのククリはもはや無い)
何だと?と、斬りつけられる。
万人が認めている賢い人に言われたら素直に納得して聞くが、アホな人に言われると、ブチ切れる傾向にある。

「お前が何を言う!!」
と凄い剣幕。
どうどうどう。はいどうどう。
はい、あなたは正しい、はい、はい。
と、なだめなければポキンと折れてしまう危うさ、脆さを持っている。
なので、アホにはアホの役割があり、偉い人に機嫌よく(アホでは出来ないような)仕事をしてもらわなければならない。

まあそういう偉いタイプの人はわたしのブログは大嫌いだろう。
正面玄関から、いいね!チャイムを押す人はいたって少ない。
だが、勝手口に回ってみると、あなた、アホでちょっと可哀想だけど、わかるわぁ〜と、大根やら白菜やらを置いていってくれる人がいる。
ごくごく稀にブログ人生でほんの稀に、宅急便で商品券を送ってくれる人もいて、商品券は使わず眺めるだけで、人生の宝物にしている。
(これは比喩表現。
「商品券」を本当にホンモノの商品券だと捉える方には、申し訳ありません。
わたしは、演出表現をよく使います、、、と、とりあえず説明を)
ふぅ、、、。
アホ(わたし)とカシコの間には橋渡しをしなければならないので、時折、説明が要る。

わたしは、たくさんの賛同は必要としない。
一人や二人、実数で十分である。
そして、、、自分がアホなくせに、わたしは賢い人が大好きで、賢い人々の中で自分がアホやっていると、なんだか落ち着くのだ。
アホ同士では、泥沼試合になる。

というわけで、表玄関からのINポイントは少ないのだと推測する。
マイナーな感じで憚られるから隠れるようにこっそり応援してくださる方もいて、こちらもこんな愚ブログ、照れ恥ずかしい。
表舞台で華々しく応援していただくと、わたしは「カタツムリに塩」みたいに溶ける、潜在的自意識過剰マイペースタイプなので。
(ナメクジにすると、わたしがちょっと可哀想なのでカタツムリ)

ほんとに可愛げがない。




悲しい自分

2021-07-01 | 日々のこと
悲しいを通り越して絶望的気分になっている。
連続、連日、ハンカチを失くす。
ブログで自戒の念を込めて、いや、さらっと軽い気持ちで、あはは、あほだねー、と書いたのに、、、
今日、出かけようとすると、昨日、おろしたばかりの新品ハンカチがない、、、。
な、あほな、、、。
爽やかさは消え伏せている。

諦め自嘲気味に、拗ねながら一応、探す。
あれ、気に入っていたのに。
たった1日のお付き合い。
あんまりだ、、、。
どこで失くしたんだろう?
最寄り駅トイレ?
出先トイレ?
しかし、何故失くす?
落とす?
置き忘れる?

そのかわり、と言ってはなんだが、予兆を感じたのか、同じタイプのハンカチを昨日、2枚買っていた。
いつまで持つのか。
もはや、ハンカチはティッシュのごとく、使い捨てとなっている。
ハンカチは100円(税別)以外では買わない主義を確定、確信、確立した。

それに比べて、、、長パンツ(ズボン)のポケットには、大嫌いなハンカチが長々く延々と失くさず入っている。
失くせばいいのに、、、と思うぐらい、嫌いなハンカチ。
昨日も使った。
トイレに行って手を拭くときも、上に着ているチュニックをめくり、パンツ(ズボン)のポケットからわざわざ出してくる。
全然失くならないで、いつもいつもわたしに引っ付いて離れない。
柄が嫌いな男ものハンカチなので、大事にしてない、どうでもいい感まる出しで、丁寧にではなく荒っぽく使う。
わたしに相当嫌われているにもかかわらず、ずっとわたしを支えてくれているのだが、、、
そこそこお気に入りの100円ミニタオルハンカチはどんどん、どこかに行く。
しかし、使ったハンカチはしっかりあって、使わないハンカチはどこかに行くって、どういうこと?

あーあ。
ハンカチの神様に翻弄されている。


※蛇足。
ハンカチの神様は、神様の中でも末席。
あまり重要なポストではない。
水の神様、火の神様、木の神様、トイレの神様、、、日本には伊勢神宮以外にも、あちこち大小の神様やお地蔵様がいる。
しかし、ハンカチの神様を侮っていると神様連合が力を連結、集結させて、どかんと大物神様が神風を吹かせるかも知れない。
とりあえず、気をつけよう。
ハンカチには。