蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

この人に感動した

2021-12-01 | 人々の風景
わたしを含め、団塊の世代前後の人々。
わたしは、その世代よりちょっと若い、高度成長期、ウルトラマン隙間世代。
老人(高齢者)の中では1番若く、現役世代の中では最長老。
さらに最最最長老の方々もいるが。

サラリーマンならだいたいリタイアしている人が多いが、まだ70歳まで働く人も少なくない。
80歳を超えてもまだまだ働く人もいる。
生き甲斐や、生活のため。
身体が動く間は働くという。

わたしの周りにいる、現役とリタイアの境目の人々。
親戚を見渡すと、親世代はほぼ順送り、順調に天に召され、自分のきょうだいや、いとこたちは、ほぼほぼ同じ世代。
いとこも亡くなる人も出始める。
といっても、自分の親は存命なのだが。

自分の血が繋がる濃い関係者が、目の前であの世に行く人や、生まれてくる人が次々待った無しで出現すると、何かしら感じるものがある。
ところてん方式だが、ところてん製造機の出来がよくないか、故障していると、詰まる。
あるいは、ところてんそのものの材料やレシピに問題がある?
詰まらないで、すいすい行くと、混乱しないエスカレーターのごとく。
自分もエスカレーターの下のほうに右側通行でちょこんと乗っている。
左側を歩きながら登っていくのは(関西では)NGとされるのだが、急いでいると、やってしまう。
さして時間に追われるわけでもないのに、ゆっくり行くのが待てない人もいる。
性格だ。
それぞれの人生。


昨夜、NHK TVのニュースで登山の最高賞を受けた人が紹介されていた。
登山人生の頂点で挑んだ最高峰の山で雪崩に遭い、両手両足の指の何本かを失くした。
そこで彼は、絶望どころか、これ以上、上がない自分の能力をリセットされる良い機会を得たと感じた。
新しく現れた不具合、不自由な面をいかに工夫して頑張ればいいか、課題がたくさんあり、わくわくしたという。
能力の全てを出し切った自分を十分経験した上に、また別の前向きに取り組める自分。
上へ上へとは言えない状況だが、上には色んな意味がある。

人と比べるのではなく、自分の過去と比べるのでもなく、今、ある自分そのものの可能性を追求する。
老いや能力低下の現状を嘆くのではなく、新しい自分がその条件でどれだけ工夫して頑張れるか、、、。
その挑戦や楽しみは一生続く。
そう仰っていた。
何よりも笑顔が素晴らしく素敵だった。

瀬戸内寂聴さんより、わたしは、あの人がいい!!
わたしより7歳ぐらい若いし、ハンサムだからか?
愛だの、恋だの、も、人々には需要があるのだろうけれど、そういう、人間関係や対象物との間に生まれるものではなく、目を向ける先は自分。
他ではなく自分に向かう自分。
わたしは、とても感動した。

彼は修学旅行で皆んなで景色の素晴らしさを共有するより、自分一人で(苦労して)登った、自分だけの景色は何にも替えられない感動があるという。
皆んなでわいわい、皆んなで夕陽、皆んなで朝陽、皆んなで、、、
わたしは、あんまり、そういうタイプではない。
それもわたしのキャラ。
人それぞれ。


何を残すでもない。偉業もない。
先日、亡くなった親戚のおばあさんの家族葬、司会者の紹介は、「多くの孫子たちに恵まれた幸せな一生を送られました」のようなことを言っていた。
それしかないのか?

人の人生を簡単にくくって欲しくないが、本人はもう生きていないから、何を言われても知らぬが仏とはこのこと。
葬式なんてそもそもそんなものだし、家族なら皆んなそれぞれの胸のうちは推測できるだろう。

家族葬であろうがなかろうが、多くの人が故人を悼むために自主的に集まるのは自然な流れだとは思う。
だが、まだわたしは自分のなかでクリアしていない部分があるから、また今後、見解が変わるかも知れない。


もう一つ、NHK TVの「プロフェッショナル」で旋盤職人(85歳)が紹介されていた。
ご本人を「歩」に例える。「王」ではない。
「歩」が歩む「歩の人生」。
一歩一歩、歩いて重ねていくしかない、と。
生活のため、食べるため、家族を食べさせていくため、、、。
深かった。
共に歩んで支えてきてくれた2歳年上の認知症の奥さんを、これからも(施設に入れず)手元で見守って行くと。
わたしのような自己チュー人間は、人のために身を削って尽くさず、そんな風に感謝されることは絶対にない。
熱いストーリーが好きなのは、わたしがクールだからだろう。
直近では、セリフが一切ない、ディズニー映画本編の前に出てくるショート動物アニメでさえ、涙。
言葉は要らない。
人間である必要もない。

真実や真理は、説明する必要がないと感じる。