蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

結婚観(昭和〜平成〜令和)

2021-12-07 | 人生
撮りたい被写体が目の前に現れても、スマホの操作をモタモタしていると、希望ショットは撮れない。
が、まあよい。
かわいいペイントの電車に最近よくお目にかかることができて楽しんでいる。

さて。
今朝、読んだウェブ週刊誌サイトに寄稿されていた酒井順子さんの記事。
食いいるように読んだ。
無料で、作家、エッセイストの記事が手軽に読めるなんてラッキー。
酒井順子さんは、1966年丙午の生まれ。
「負け犬の遠吠え」で一躍、脚光を浴びた。
30代、子なし独身は負け犬、という内容。
今までの、自立した妙齢女性の、黄金独身生活が羨望のマトであった考えに、一石を投じた。
わたしは、お気に入り過ぎて、肌身離さずバイブルにしたほど。

今回の釘付け記事は、眞子さまの結婚を通して見る結婚考察。
眞子さまの母親である紀子さまと、小室圭さんの母親である女性と、酒井順子さんは、3人とも同じ年、1966年丙午生まれ。
この丙午は、男性を食い殺すとかで、出生女子が少ないそうだ。

女性の結婚観の変遷。
わたしの祖母世代、母世代、わたし世代、娘世代、、、
そのうちの、母世代と、わたし世代と、娘世代の結婚の特徴が述べられていた。
母世代は、美智子さま、わたし世代は、雅子さま、紀子さま、娘世代は、眞子さまを例に取って。

祖母世代はもちろんのこと、母世代は四年制大学を出る女性は少なく、学歴を活かした職に就けるのは、わずか。
上方婚を目指し、結婚に自分の居場所を求める。
わたし世代では女子大滅亡論が盛んになったりで、短大卒というのが過度期としては収まりどころがよかったようだ。
内館牧子さんの「今度生まれたら」(2020年)は、まさに、その当時の短大卒結婚事情が等身大に表現されていて興味深い。
だが、娘世代では結婚に人生を賭けることはなく、結婚するなら自分と共に人生を歩く人を選び、上方婚も目指さない。
収入も家事も子育てもそれぞれで半々に引き受ける。

紀子さまは就職経験もなく(当時の結婚平均年齢より若い)23歳という若さで結婚。
対極であるかのような、バリバリキャリアウーマンの雅子さまの出現で、能力ある個性が光り輝き国民は理想の女性像に魅了された。
これからは女性は結婚に埋没し存在価値を見つける時代ではないという、そんな時代に紀子さまは逆流したかのように見えたが、実際のところはかなり策士、剛腕、やり手とのこと。
ふむふむ。
40歳を超えて逆転ホームランを打った。
王子様を高齢出産で産んだ。
強かだったのか、偶然だったのか?
しかし王子様ではなく、第三子も姫だったら、紀子さまは、逆転ホームランどころか、、、、、これ以上は言うまい。
自分で自ら女性の地位を低めるような発言はしたくない。

とまあ、女子大と短大と四年制大学あたりの時代をふらふら何の意思も持たずに浮き流れるように生きてきたわたし。
じつは、幼稚園児の時から将来の希望は「お嫁さん」だったのだ。
しかも、競争に負け落ちる自分をすでに5歳で予想していた。
ある意味、鋭い5歳である。
まさに、結婚こそが自分の人生のゴールであり全てであるかのごとく。
やがて時は進み、「王子様と結婚したシンデレラは、幸せになりました」とそこで終わるストーリーを皮肉たっぷりにニヤニヤして読んでいる時代もあった。
当然ながら、そこからがスタートである。
(今は、般若心経を唱えながら、シンデレラストーリーを読み流している)


結婚以外に自分のアイデンティティを見出し、結婚は自分のアイテムのひとつであるのもよし。
アイテムから外すのもよし。
結婚は、全てではない。
5歳のわたしは、結婚から外れた自分を想定していなかったから、選択肢は少なかった。
しかし、無いわけではなかった。
自らの意思で、泥船から沈没船に乗り移っただけである。
泥船はどうしようもないが、沈没船は泥船よりはマシ。
起死回生を掛けて、苦心、工夫して沈没から逃れることも出来るだろう。

自分の人生は、自分でどうにかしなければならない。
(究極の死活問題でもない限り)、人に頼ったり、人のせいにしたり出来ない。
仮に最悪だったとすると、それは運命、宿命みたいなものだから、抗おうとしないほうがいい。
もがくと、益々、悪い方向に進む。
(こころの病気になり悪化する人もいる)
じっとして時を待つ。
明けない夜はないが、地球の位置によっては明けない夜ばかりの地域もある?
それはそれ。
引っ越しするなり、その地で生涯を終えるなり、なんらかの動きがあるだろう。
動かないという動きはない。
自分は動かなくても、周りは動いている。
動かないまま、時間は動いている。
じっと止まったまま時間は経過しているので、時が止まったままということはない。
たんなる比喩表現である。

「朽ち果てる」という時の進み方もある。
どこかの国の超お偉いさんのように、死後も永遠にプリザーブド・フラワーのごとくまるで生きているかのような姿のまま、国民や訪れる人に姿を見せることもある。
銅像より、よりリアル。
昆虫採集の見本のようでもあるが、いくつもの虫をピンで留めているモノとは、扱いが全く違う。当たり前。

生きモノとしてではなく、語り継がれる、という伝達方法もある。
これは、後に書き変えられることもあるし、時代によって受け取り方や解釈が違うこともある。

何しろ、本人は止まったままでそこでジ・エンドでも、時代は動く。
朽ち果てようが、永遠に語り継がれようが、本人としては終わっても、周りは動く。
うーん、、、脱線ばかりして戻って来れない、、、で、わたしが何が言いたいのか、、、と考えてみる。
広義の意味で無常であるということ。

いつも色々考えていると最終的に「無常」の心境に辿り着く。
わたし流解釈では、「諦観」や「達観」も、目の前の事実を直視して、さらにどうあがこうが、物事の本質は変わらない。
が、本質の解釈が時代により変わる。
本質は変わらなくても、善とみなすか、悪とみなすかでは大違い。
「大衆」って死語かも知れない。
SNS的大衆が新たに出現した?
一人一人の個が、バラバラにたくさん集まったもの。
俯瞰的に見ると、鳥の大群や、海魚の大群みたいな?
お一人様だけが集まる群みたいな?
(前に、お一人様専用の団体ツアーに参加したことがあるが、へんに納得した)

行き先が不透明ながら、「無常」が繋がって動くと不動になる???
こんがらがってきた、、、


ちなみに、話はころっと変わるが、、、
SDGsって、なんだかどこかの企画課が考え出した、今期のコンセプト・キーワードみたいだ。
謳っている中身には共感を覚える。
が、地球規模なので多岐に渡り広すぎて抽象的なことを言語化したことには賛同するものの、誘導感がどうしてもある。
ではあるが、資源を大事にすることは大賛成である。

と、結婚観とまったく関係ないところで今日の長々ブログ記事を終えるあたり、わたしは大して何も考えていない。