蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

思い出は作るもの?

2023-10-18 | わたし
ある人、Kさん。
絶対に人の話を聞かない。
自分の考えを曲げない。
自分がこうと思ったら、それ以外は全く認めない。
諸説ありますね、という柔軟な逃げ方、濁し方が出来ない。
カチンコチンで鋼鉄のよう。
なので、意見が合わない話になると、話の途中でわたしは降りる。

「はい、この話、おしまい。
これ以上は、不毛なので時間の無駄遣い!」

議論を戦わすのは理解を深める意味でも悪くない。
賛否両論あって当たり前。
「ふむふむ、そういう考えや見方もありますね、でも、わたしはこうです」
なら良いが、「ふむふむ」の部分がない。
頭から「違う」と決めつける。
なので、その話は切り上げる。切り捨てる。

これがもし、建国の話や領土の話しなら、大変なことになる。
しかも長い長い時間、解決できないことだとすると。
火種は火種として、そっと触らず温存するしかないのかも知れない。

上述のKさんなど、かわいいものだ。
わたしとしては、広く深く知った上で自分の考えや方針、意見を持ちたい。
そんな見聞や考えもあるのかと、驚く。
弊害としては、知るばかりで一向に考えがまとまらない、決まらない。
だが、熟考ではなく感覚で決めたのにもかかわらず、結果的には良い判断だった、なんていうこともある。
何が良く何が悪かったかなど、後になってみないとわからない。
検証は後から。

利害関係が絡むと複雑、深刻になる。
理想論では収まらない。
政治家の皆さんは、よくまああんなに大変な仕事を責任を持って引き受けるものだ。
政治学なんていうのもあるし、法律などと一緒に学ぶのだろう。
歴史、経済、文化、、、色々絡み合う。
1番小さなコミュニティである家族、しかもミニマム中のミニマム、二人だけでも、上手くいかないことがある。
難しいものである。

住めば都。
例えば、フランスと母国との比較。
軸足がある方に、重心がある。
いつまでもバランスよく両足で立てない。
しかし、片足より、やはり両足が揺らぎがない。
ではあるものの、片足だと、いつも次の動き、移動をスタンバイできる。
一長一短。
両足だと安定するが動けない。
片足だと、ぐらつくが、ハイブリッド・カーのように臨機応変にシフト出来る。
危機に瀕した時のピンチヒッター。
2本の大黒柱。
逃げ道があるか、ないか。
煮詰まった時に逃げ道がないと、壊れる。
空気抜き、息抜きがあると、しのげる。
皆さん、工夫しておられると思う。

Kさん。73歳。
軽い病気で診てもらったところ、再検査が必要になり、その結果、手術。
初期なので実に軽い手術であり、術後も爽快。
だが、手術、入院をキッカケに、人生を見つめ直したという。
これからは、思い出作りを積極的にするそうだ。

わたしは、思い出を作りたいために、あれこれするわけではない。
結果的に良い思い出になった、という流れ。
たぶん、性格の特徴、スタンスからだろう。
受け身、受動態的な生き方。
あまり自発的にしたいことはない。
むしろ、何もしたくなく、現状維持でその現状延長が続くことを願う。
そのための最低限の努力はする。
そうすると、意図したわけではないのに、また面白いことに出会う。
しかし、よく言われるが、偶然は必然。
受ける側に、喜んで受ける意識があるかどうかにもよる。
今までの経緯、積み重ねがあるからこそ、ほんの些細なことでも、喜びが倍増する。
わたしの感性が呼応する。

ちなみに、
谷村新司さん、亡くなりました。
ショック。
アリスを結成する前の、ロック・キャンディーズ(通称・ロッキャン)時代、桃山学院大学生の頃のチンペイさんは、中学生のわたしにとっては、近所のお兄ちゃん感覚で慣れ親しんでいた。
勉強机に置いたラジオから流れる、僕は〜呼びかけはしな〜い、と小椋佳の「さらば青春」の歌声と共に「3時30分前の男」として現れるDJチンペイ。
深夜ラジオで彼が語るH話を勉強そっちのけで聴いていた。
神戸でミニライブがある時は追っかけもやっていた。
思春期の頃、リアルタイムで一緒に過ごした思い出。
突然のお知らせに、なんだかピンと来ないわたしがいる。



乗り鉄・珍道中〜予告編

2023-10-17 | 日々のこと
忙しい週末、週明けだった。
バタバタ。
中でも1番上孫(小5男児)との、「乗り鉄」(鉄道乗車愛好家)のミニジャーニーには、振り回された。
イベントがらみで、夫の実家に長女一家、次女一家で泊まりに行った。
泊まった翌日、わたしはご近所をサイフとスマホをぶら下げ、やたら大きなゴルフ日傘をさして皆んなと散歩。
家周辺をぶらぶらウロウロしていたら、話が急展開し、いきなり、上孫との乗り鉄要員に抜擢され、電車に飛び乗ることに。
電車の中は、西洋人と旅人だらけ。
小学生男児と、大きな日傘ばあちゃんのペアは、明らかに浮いていた。

この乗り鉄への経緯を説明すると、この日は街おこしイベントの一環として、スタンプラリー的な仕組みで、予め決められた場所にコーヒースタンドが設置され、沿線電車に乗ってそのコーヒーを飲みに巡るというもの。
前払いでコーヒーチケットを買っていた長女に、残りのチケットと、乗り鉄ボーイ(1番上孫)を押し付けられた。
電車は30分か1時間に1本なので、時刻表を把握していないと、待ち時間がやたら多くなる。
乗り鉄孫は、乗り鉄のくせに、時刻表は参考程度にしかせず、行動時間の配分が非常に良くない。

ゴルフ用の日傘は持ち柄部分が曲がっていなくて真っ直ぐなので引っ掛けることが出来ず、急な坂を急いで駆け上がったり降りたりするには、超ジャマ。
足に引っ掛けそうになる。
たったったっと、あんな坂、ばあちゃんの歳を考えてほしい。
アスリートではないんだから。
やたら急がされて走って息もゼーゼーで駅に戻ったにもかかわらず、駅では電車内で10分も通過待ち。
走るだけ走らされて、時間待ちなんて、振り回されるにも程がある。
しっかりしろ!わたし!
だけど運動にはなった。

とは言うものの、夫の実家に行く時にいつも降りる駅を起点に、乗り過ごす方向に向かって電車は走る。
いつも目的駅に到着してそれでお終いなので、それより向こうの駅にはほとんど行ったことがない。
だが、一駅一駅、ゆっくり景色を見ながら乗る電車は悪くない。
山や谷は深まる一方。
一駅進む度に標高が高くなり、気温が低くなる。
外国から来た旅人気分である。
登山客やハイカーの中に、手ぶらに近い小さなポシェット、ビッグ日傘のおばあさんと男児孫。
絵になる?ならない?

でも、楽しかった。
こういうミニトリップ、悪くない。
また乗り鉄孫の鞄持ち、やってもいいなあ、と思った。
(その時は長い日傘は、折りたたみ晴雨兼用傘にして)
自分では思いもよらない行動展開が意外に面白い。
予期できるようで、予期できない。
「計画」と「予想」と「偶然」の合体。
ほんの近場に楽しみは潜んでいる。


ブログを読む楽しみ

2023-10-13 | ブログ
わたしがもし、人に騙されるとすると、、、
オレオレ詐欺は、あり得る。

息子だというだけで、頭のヒューズが飛ぶ。
大いにあり得る。
だが、現金を袋に詰めて郵送はしないだろう。
紙を長方形に切って重ねて束にして、「認知症新薬を買うつもりで貯めていたお金です。薬が買えず認知症が改善されず残念です」とメモを貼り付けて送ってもいいが、時間とお金がもったいない。

さて。
裕さんの「連載 フランスと日本」。
シャープにキレが冴え渡り、面白い。
こんなキレ味鋭いと、自分の刃で自分が傷つくリスクがある。
だが、読み物としては、「無料で読ませていただいていいの?」の世界である。
世の中に出ている著書、役立つものもあるが緩いものもある。
無料のものほど、なかなか発掘、確保しにくい。
書く人は、なんの縛りも制約もない。
だが、ご本人が、書く意欲が減退することがある。
じつにセンシティブな問題だ。

長年のブログ友はさておき、ブログ散歩をしていると、いろんな人がいる。
たまたま、ここgooのアピール記事に出会い、知ることがある。
ブログ村エッセイつながりではなく、gooつながり。
比較的ご近所に住んでおられ(同じ大阪府下)、おひとり様生活をアクティブに満喫されているご年配ブロガーさんを今日、見つけた。
こんな人と知り合えたらいいなあ、、、と思った。
が、「いいね」をつけただけ。
またアップされたブログでお目にかかることを楽しみにしている。


悪い縁はすぐ切れる

2023-10-11 | ブログ
SNSは、短所も長所もある。
ある大手SNSの新人コーナーに新会員さんが日記をアップされていた。
で、ふと(魔が差したのか)コメントを付けた。
すると、なぜか新人さんの怒りの鉄拳を喰らってしまった。
理由は無い、、、ということはないはずだが、わたしは悪気があったわけでも、言葉の奥に暗に批判を匂わせたわけでもないのだが、「論点がズレている。不快だ」と反撃された。
しかも、わたしのことを、年配の人がいかにもわかったようなことを言うのが頭に来るらしい。
わたし、年齢は明かしてないんだけど。
まあ実際に年配ではあるが、そのサイト自体が年配向け。

具体的内容を説明すると、新人日記をアップしたところ、出会い系と思われ、不愉快なコメントを寄せられた、というもの。
わたしの何気ない「目的を明確にするといいですね」(だかなんだか、文章は忘れた)というコメントに、誰かが拍手した。
これに、新人日記の主が逆上し、「自分でコメントもつける勇気がないくせに、人のコメントにこっそり拍手するとは、言語道断!!(TV時代劇・水戸黄門風)」とコメントした。
なんやらかんやら、あちこちからコメントが増え、わたしは、咄嗟にコメントと共に姿を消した。
言いがかりをつけられたり、危険な人と関わったりするのは嫌なので。
跡形もなく去る。

世の中にはちょっとしたことでキレる人がいて、それに便乗して面白がる人がいる。
よほど退屈なんだろう。
通りすがりに、真っ黒いへドロのような感情を吐き捨てる人もいる。

ちなみに、この新人さんは、何度もハンドルネームを変えて登録しているような雰囲気の人。
わたしは、新人さんをあまり信用していない。(よほどインパクトある面白い人は別だが)
コロコロ名前を変えて再登録して、それまでの黒歴史をリセットする人は少なくないようだ。

わたしは、変な人は近寄って来なかった。
相手を特定せず不特定多数の人に送られてくると思われるコメントは、無視。
縁もゆかりもない人から明らかに言いがかりをつけられたコメントもあったが、差し障りないコメント返しでスルー。
ケンカには乗らない。
のらりくらり。
手応えがなくて面白くないのだと思う。

わたしは、あ、この人、ダメ、と直感で臭いを嗅ぎ分ける。
この人は信頼できる人だ!と、かなり目の細かい網目に残るのは、16年で2〜3人。
これはある意味、スゴイ。
もう少し緩めると、5〜7人??
わたしがいかに用心深く、非社交家であることが、窺い知れる。
鉄のカーテンで覆われている。
(鉄のカーテン※は、違う意味で使われるようだが。
※冷戦時代のヨーロッパにおいて、東西両陣営の緊張状態を表すために用いられた比喩、だとか

わたしは、変に真面目で頑固で面白くないから、悪さして遊ぼうと思っても悪い方の遊びに発展しない。
おそらく遊びそのものが、お硬い論議だったりする。
そんなものを面白がってくれる人は、稀(マレ)。
だから、全然、チャラ男さんや、チャラ子さんとは接点がない。
人を攻撃してくる人に対しても、関わりを持たない。
知り合いは、穏やかな人が多いように思う。

悪い縁は自然に切れて、良い縁は繋がるんだそうだ。
振り返って思えば、そういう気がする。



黒歴史〜仕事編

2023-10-10 | 仕事
仕事のことは、ブログではあまり書かなかった。
とても恥ずかしくて人に言えない。
本人は一生懸命なのだが、仲間の足を引っ張っていた(と思う)。

先日、元・仕事仲間の一人が亡くなった。
まだ60歳(ぐらい)。
お子さんもおられないので、ご主人だけが家族。
彼女は長年、シリーズものを手掛けていて、まだシリーズは続いていた。
わたしは、彼女の足元にも及ばない。
彼女が独立する前の会社には、更にすごく有能な人がいた。
プロ軍団である。
が、おそらく日本にはもっともっと優秀な人がゴマンといることだろう。


彼らが手がける仕事は、ややこしい、めんどくさい、難解なものばかり。
中でも忘れられないのが、某企業の仕事。
担当者に手渡された資料は手書きの、悪筆、ミミズが這ったような文字。
さっぱり読めない、解読出来ない。
渡された人は、自分の仕事にかかる前に、あの字に取り組むが、ストレスの山が束になって襲って来る。
(古代エジプト文字の研究者で、解読こそが仕事という専門家ならいざ知らず)
解読困難文字と格闘しなければならない。
書く方も、いくら発注側だと言っても、もっと読める字を書くべきだ。
でなければ、潤滑に進まない。
立場が弱い者に対するイジメだ。
が、発注される側、受ける側は辛い。
よく脳が爆発、破裂しないものだと感心する。
読破。やらねばならない。
大変なのは、この仕事に限ったことではない。
皆んな、歯を食いしばって頑張る。


わたしは、結局、自立出来ずに負け犬となっている。
子供、孫、夫ありの負け犬。
負け犬ではあるものの、のんびりした落ち着いた日々。

自立して食べていかねばならぬ、まして、子供を育て、、、という状況ではなかったので、凄まじいエネルギーが枯渇した。
あったのは、個としての自己実現へのチャレンジ精神。
だが、そんなものは理想で甘い夢に過ぎない。
毎日のパンがなくては、闘えない。
まず、パンを得ることが大事。

そんな中、退路はしっかり確保しているわたしに不足しているのは、崖っぷち、後がない切迫感。真剣さ。
余裕がありすぎ、ぬるい。
周りのやる気を削ぐ。
今、書いていても恥ずかしい。

ではあるが、社会構造、社会の厳しさや、仕事の仕組みは少しわかった。
わたしの仕事は、社会全般を見渡す社会勉強程度のものである。
だから、堂々と書けなかった。
今も書けない。
戦争経験者のお年寄りが、体験を語らないのと似ている?
口を開きたくない。重い。

だが、下請け、孫請け、、、と、何重にも経て仕事が行われる社会システムは、揺らがないと感じた。
1番下で仕事を請け負う人々がいることを知った。

そして、雑誌やTV番組などで紹介されている内容は、制作側、発信者のフィルターを通しての意図が含まれている。
構成、演出を通して、想いを伝えることがある。
嘘ではなくても、誤解を招く場合もある。
見る側は、自分の目で真実を見極めなければならない。



あがくことが、生きること

2023-10-10 | わたし
わたしはこれまで、自分の理想と現実の乖離に対して、目標変更と妥協で、うやむやに切り抜けてきた。
理想を下げて、実現可能な目標に設定し直す。
第一希望から、第二希望、第三希望へと移り、あるいは、がらっと分野の変更をしたりした。
価値観は(たぶん)同じでありながら、尺度、方法、表現を変更、修正した。

なんだい、あんなの、たいしたことないじゃない。
その分、別の他のことが出来ないではないか。
と、自分に都合よく解釈を変える。
いつまでも叶えられない理想にしがみついて、不毛な時を過ごして、達成できないまま挫折感だけを味わうのは嫌だった。
性格が捻じ曲がり、卑屈にひねくれてしまうのは避けたい。

例えば、表裏一体のものであれば、裏側の逆の方向から見たりして、諸説あることを逆手に取り、卑怯で姑息な手段で、自分は負けているわけではない、と、自分に言い聞かせ、納得させた。
全ての面で完璧、優れている人はいない。
いるとすれば、大谷翔平ぐらいか??
でも身体を壊したり寿命を縮めたりしたら、それは望んだことか?
命と引き換えに、目標を達する人もいる。
超難易度の高い山で命を落とす人は、勇気があるとみなされるのか?
残された家族は?

ちなみに、
挫折を味わったことがない人はいるのだろうか。
いるとすると、脳みそが、ちょっとふやけているだけで、挫折だと気付かない、自覚がないのかも知れない。
それはそれで、一方からだけしか見えないというのは、明るく天真爛漫で結構なことだが。

ピーク、絶頂、頂上の先は、下山が待っている。
それが嫌なら、絶頂期を自分で見極め、その瞬間に引退すると良い。
だが、バブルが弾けた時のように、それが絶頂だったというのは、弾けて初めてわかる。
が、だいたいは予兆がある。
予兆を敏感に嗅ぎ取る、察知する。
あと少し頂上まであるのに、その分を見越して(残っているのに)、可能性やエネルギーを使い切らずに下山する。
後ろ髪を引かれる思いが残る。
ではあるが、勝ち逃げだ。
燃焼して幕を引く人もいる。
スッキリやり切った感があるそうだ。
(出し惜しみ気質のわたしは、おそらく経験出来ないだろう)

頂上に行ける能力はたっぷりあり、邁進中に、道途中で不慮の事態で断念せざるを得ないことがある。
悔しいことだろう。
それもまたそういう運命。
気を取り直して、また、再スタートすることもあるし、すっぱり止めることもある。

自分は何がしたいのか、何が出来るのか、何をすべきなのか。
選択肢がありすぎると迷う。
自分が選んだ道に確信が持てない。
幸せになりそこねる。

「何がしたい」と、「何が出来る」では、なりたい自分になれる場合と、なれない場合がある。
仕事を選ぶ場合、かなり重要である。
したいことと、出来ることのギャップがあると、能力に問題があり、その仕事が出来ない。
優しい言い方をすると「向いていない」。
(周りの状況で、能力はあるのに出来ない場合もある)

好きか、嫌いか、というのも重要だ。
いくら出来ても、嫌いな仕事で人生を過ごすのは悲しい。
だが、生活のために割り切る、という方法もある。

「好きこそものの上手なれ」
「ヘタの横好き」
真逆の例え。
諸説あるということだ。
しかし、「好き」は結構だが、「嫌い」は厄介だ。

お金を稼ぐのは、大変だ。
収入や拘束時間にとらわれなければ、選択肢はある。
楽して稼ごうという発想は、甘いと思う。
宝くじでも、なかなか当たらない。
買わなければ当たらないからと、買い続ける人もいる。

まとまったお金があれば、嫌な仕事をしなくてもいい。
のではあるが、、、
「幸せ」や「喜び」は、得ることを目的、目標にするのではなく、全く別の何かをしていて、その過程で偶然、得ることがある。
幸せを得よう、得ようと、がむしゃらになっている時は、幸せは案外、遠くにある。

ああ今日も仕事か、あの嫌な人の顔をまた見なければいけない、あーあ、、、
と鬱陶しさ満載でいたら、意図しない、あるふとした瞬間に、何かが開けるキッカケに触れることがある。
そのキッカケに出逢うのは、長い長い歳月がかかる場合もあるし、意外に、すぐだったりもする。
誰もわからない。予想できない。
一つの方向からだけを攻めるのではなく、上手くいかない時は、手を止めて、別の方向を見るか、あるいは、ちょっと引き下がって、もう一度、戻ってやってみる。
方法は一つだけではない。
回り道をすることもある。
一生、ぐるぐる回っていたとしても、退屈はしない。
諦めかけた時に幸運はやってくる。
諦めてしまうと、生きる輝きを失う。
原動力がなくなる。
なので、少し休憩してから、また初めからやり直すのも悪くない。

具体性に欠ける中身で、面白くもなんともない話になってしまった。

そんな思いはとっくに卒業した人にとっては、つまらない、どうでもよい内容になった。


※補足です。
日仏文化比較論、楽しみにしています。




出る杭の出方

2023-10-09 | わたし
裕さん曰く
「フランスでは全員が出る杭。
打っている暇なんぞだれもない。
一番出たやつの勝ち。
森と一緒で小さな杭は朽ちるのみ」

これ、痺れた。
わたしは、最も日本人的タイプの典型のようだ。
絶対、出ない。
だが、「小さな杭は朽ちるのみ」でもない。
森の中で生き続ける。
小さな杭は、地面の下部分が大きい。
根を広く深く張り巡らしている。
ちょっとやそっとでは枯れない。
それは杭ではなく、生きている「木」だからだろうけれど。

上記は裕さんが言いたいことではない(と思う)。
「出る杭」は集団の中での目立ち方、活動の仕方を例えて言っている。
協調、同調、調整、、、、「調」という漢字が多い。
調子を合わせる、ということか。

学校でも校則は、服装、髪型、細部にわたってガチガチに決められている。
規則に反した者は、反逆者と言わんばかりに目をつけられる。
悪い芽は、出始めたらすぐに摘まねば、と。

わたしは学校では規則に従っている風で、実は内面は自由にしていた。(半世紀も前の話)
上辺だけの同調。
摩擦が、めんどくさい。
そんな争いに時間やエネルギーを取られるのが嫌だった。
なので、地下に隠れて波風を立てなかった。

そもそも、家庭が波風、強風、台風、嵐の毎日だったので、学校という避難場所があり、そこで寛ぎ楽しんでいた。
今もそうかも知れない。
わたしにとって、家庭は寛ぐためにあるのではなく闘いの場であり、家庭の外にこそ、癒しがあるような感じ。
だが、この感覚は、絶対におかしい。
にもかかわらず、不思議と調整が取れている。

子供や孫たちは、わたしの家庭ではなく、別の家庭。
なので、喜びや楽しみを分けてもらっている。
わたしが闘った家庭から生み出された、一種の戦利品、ご褒美のようなものだ。
異種の人物、異物との複合体である家庭は、常に苦しい闘いを強いられる。
受け入れられなく拒絶反応を示す。一心同体の真逆。
お互い面と向き合わないが、同じ方向に進んでいる。
摩擦や矛盾や未解決事項を抱えながら、進んでいる。
止まらないし、逆行しないだけマシ。
娘一家たちが、わたしの傷を癒してくれる。

親夫婦は、闘いの連続であるが、現実は絵に描いたような幸せだけが詰まっているわけではないことを示す、見本のようなもの。
ある程度、理想に反する見本があるのも悪くない。
幸せの追求には、「スイカに塩」「ぜんざいに塩昆布」効果となる(はず)。
矛盾を含めて「幸せ」を構成する。
表面上の目に見えるものと、目に見えないものは、同時に存在する。
同じ意義、意味、存在力はあるが、今日はどっちが外に現れているかな?と、常に交代する。
表裏一体になっている。
「幸せと不幸せ」だったり、「善と悪」だったり、シーソーのように、行ったり来たり。
悪は、自分には縁がない、存在しないと思っている人は幸せだ。
では、自分には悪はあると感じている人は、不幸なのか?
だが、自分は悪くないと盲信して進むと、他人を不幸に陥れることがある。
微妙で複雑でデリケートな問題を孕む。

なんだかんだ言っても、そのうち、老いた者から順番に介護が始まる。


ちなみに、話は変わる。
家族は子供にとっては選べない。
子は親を選んで生まれてくるわけではない。
大人は離婚再婚と再編成して組み替えるなり、流動性があり、可動、可変、選択肢がある。
わたしの場合、親が離婚するわけでもなかったので(考えもしなかった)、家庭に問題がるとそれが全て。
受け入れるか、逃げるか、諦めるか、否定するか、迎合するか、融合するか、無視するか、などなど。
たまたま学校は、わたしにとって、家庭よりは楽しかった。
わたしは図太い神経をしているので、少々、学校で成績不振だと先生に咎められても、ほとんど鉄の精神で、吹っ飛ばしていた。
先生がナンボのもんじゃい、と、タカをくくっていた。
ああなんと可愛くない生徒。
なので、先生に呼び出されてお説教されても、へっちゃら。
「言いたいのはそれだけ?」みたいな感じで説教が終わるのを待っていた。
あの、強いメンタルは、いったいどこから来ているのだろう?

兄も姉も個性が強い生徒(良い意味ではない、、、と思う)で、学校でわたしは大人しく目立たなかった。(きょうだい比)
ではあるが、兄も姉も家では窮屈にはしていなかった。
後から考えると、同じ現象が家庭で起こっていても、わたしは、全く何も見てない、聞いてない、関心がない、考えていない、感じていない、理解してなかったと思われる。
捉え方が違っていた。
脳みそ停止。
よくあんな状態で学校に行っても普通に学業をこなし、生活出来ていたものだと感心する。

まあ、いろんな生徒がいるわけで。
(解明できなさそうだと、手を離し、いきなり紋切り常套句を出して、途中で放り投げる)

しかし今、思えば個性豊かな生徒や親はたくさんいたように思う。

話が逸れてまくって、もはや何の話をしていたのか忘れた。
・・・・・
ああ、家庭の話。
兄も姉も、同じ親、同じ環境に育っているのに、やはり家庭から受ける影響は同じではない。
家庭に居場所がなく、家から逃げたかったのは、わたしぐらいだ。
だから、学校で、何があっても、へっちゃらだったのではないだろうか。
先生も生徒も何もわかっていない、バカばっかりだ、と思っていたフシもある。

ところで、、、
今、文字数を見るとスゴイことになっている。
今日は不燃物ゴミ回収の日なのに、時間が過ぎて缶瓶ゴミを出すのも忘れている。
どうなってる?わたし?
いったい何が言いたいんだろう。
何かに触発され、何かを吐き出したかったようだ。

まあそんな日もある。








東京暮らし

2023-10-08 | 思い出
書きたいことが思い浮かばない時は、、、他のブロガーさんの記事を読む。

ちなみに、わたしのブログに開設間もない頃からよく訪れていただくブロガーさんがいる。
その人が住んでおられる地域にはなんとなく懐かしい思いがある。

わたしは40年ぐらい前に東京に2年間暮らしていた。
結婚したばかりで、東京で第一子(長女)を妊娠、出産し、彼女が1歳になるまでいた。
(出産は、里帰り出産)
世田谷区の静寂な住宅街にあるマンション。
立地は芦花公園駅から徒歩5分ぐらい?
成城も近くにあり、付近の神社や公園にも行った。
(上記ブロガーさんの記事内にも懐かしい地名が時々出てくる)

夕方になると、芦花公園駅から隣の千歳烏山駅の途中まで、ベビーカーを押して散歩した。
夕暮れの、静かな住宅街のなんとも言えない静寂を感じていた。
ごく近所には漢方製剤老舗T会社の創業者一族のお宅と蔵があった。
(行ったことはないけれど、敷地が広いから隣接する場所も多い?)
わたしが駐車場で住居の鍵をなくして途方に暮れていたところ、そこに駐車していた誰かの車が移動して出て行ったら、その車の停められていた下に、鍵があった。
やれやれ、、、という思い出がある。
その困り果てた駐車場から見上げた場所が、創業者宅の蔵だったような、、、。
おぼろげな記憶だが。
また、学生時代の同級生(実家も婚家も大阪)が、目黒に住んでいて、遊びに行ったことがある。

わたしの結婚が決まった時、夫のいとこが住んでいる芦花公園にあるマンションに空きが出たと知らせてくれ、そのマンションに住むことになった。
いとことは別の階だったが、毎日、いとこの家に遊びに行っていた。
当時3歳と幼稚園児だった、いとこの子供たちはもう立派な大人になっている。
何年か前に、いきなりTV番組で(当時3歳だった)彼の大人になった顔を見た時にはびっくりした。
画面を見て、こんな顔になったんだ、、、と、想像は出来た。
名前もテロップで出ていたが、彼の名前だった。
大きくなるものだ。
後日、親戚のお葬式(お互い、親戚は共通)で会った時、幼い頃の話が出た。
彼は3歳だったにもかかわらず、わたしと部屋で遊んだ、マッチ棒を使った立体図面の遊びの様子を覚えていた。
これには、またまた驚いた。
幼児といっても覚えているものだ。


東京は、バブル景気、前夜。
当時、マンションを買った、いとこの仕事仲間が大儲けしていた。
いとこも、別に儲けるつもりではなかったとは思うが、たまたまバブル崩壊前夜にマンションを最高値で売り抜け、ラッキー。
世の中には、幸運を掴む人と、逃す人がいる。
わたしは、いつも儲け損ねる派。
あの時、ああしていれば、、、とタラレバで、悔し涙を流す、欲深い人間。
損をしたと嘆くより、得をし損ねたと嘆くほうが、より欲どしい。欲張り。

バブルは崩壊し、土地神話はガラガラと音を立てて崩れ落ち、、、、
言うまい、タラレバ悔し負け話。
命まで取って行かない。

借金して派手な攻め、切り込みをしていた人は痛手を被っただろう。
が、またゾンビのように復活している(こともあるし、復活しないこともある)。
時の運。
わたしは時機を掴むのが下手なので、勝負や賭けには出ない。
ローリスク、ローリターンを狙う、、、が、時には、ローリスク、ノーリターンなんてこともある。
ハイリスク、ノーリターンよりは、マシか。
ギャンブルは嫌いなので、それでよい。
リスクを取らないため、得るものも少ない。
まさに、ノーリスク、ノーリターン、省エネ。
省エネということでは、終始一貫か。
別に意図したわけではないが、結果的にそうなった感あり。

と、話は相変わらず逸れている。
どんどん枝葉に行って、戻って来れない。

東京に話を戻す。
東京は、大都会で、一つ一つの街がとても大きくて、その大規模な街がいくつもある、と感じた。
有名な人、もの、コトが身近にあり、人の層の濃さを物語っていた。
政治、経済、文化の中心地。日本の中心部、巨大な首都。
一人一人は、その大きなものの中の、一つだった。
遊ぶには事欠かない、あちこちに魅力が詰まっていた。
ではあるが、わたしは遊びには飽和状態になり飽きた。
遊びは、刺激にはなるが慣れてくると充実感を得られない。
麻薬のように、更にもっともっとと求め蟻地獄に陥るかと言えば、そんなことは全くなかった。
良い体験、経験が出来た、と享受できてラッキーだった。
たぶん、この遊びの経験は、脳と身体には形となって残っていないが、血液に混じって滋養の一部となって溶け込んでいることだろう。
拒絶反応も禁断症状も、どちらも示さず、流れる川のごとく。
一駅一駅、停まったり通過したりする駅のごとく。

若い時に経験していて良かった。
今のわたしの年齢では、都会の刺激より地方の落ち着いた静寂が心地よい。



女が自分と向き合わないとき

2023-10-06 | わたし
ジャムセッション、良い響き。
多面的なジャムセッションは、絶妙なリズム、音色だろう。

さて。
母より3歳若い女性の著書「女が自分と向き合うとき」を読んだ。
サラサラサラとあっと言う間。
48年ぐらい前に「婦人公論」や「婦人生活」などに、掲載されたものを集めた「知的生きかた文庫」。
1975年〜1979年にかけて、4年ぐらいにわたって、いくつかの雑誌に、ちょこちょこ掲載されたようなので、比喩表現で同じ文章が何度も使われていた。
そういうのは、気になる。
「牡蠣のように口を閉ざす」
1回や2回ならまだ良いが4回使われていた。
文芸作品ではないので、別に構わないが。
重箱の隅を突くような姑根性(偏見発言)である。
が、気になるものは、気になる。
さほど長編でもない、難解でもない読みやすい、大きな文字の、すぐ読める内容だっただけに。
同じ事例と思われるエピソードが、名前だけを変えて何度か出てきたのも気になる。
締切に追われ、苦しんで一度発表したら、クリアした喜びと共に、使ったフレーズは忘れてしまうのだろうか。

と、相当、意地悪なコメントを書いた。
わたしって、プロの著者に対しては、陰険なようだ。
わたしは、せこい狭い了見の持ち主。
まるで、素人、アマチュアならどんな間違いやミスをしても許されるかのような、自己擁護を含んだ嫌味なコメントだ。
小さい、わたし。

それはそうと。
そんな細かい重箱の隅は、見て見ぬフリをして、、、
女性による女性への、足の引っ張りは、凄まじいと感じた。
女性教師に対する、保護者である母親。
半世紀も前のことではあるものの。
問題は、母親たちが自分がやっていることはその結果、何を引き起こすのか、何を生み出すのか自覚せず、正しいのは自分で、対象人物は悪い、
そういう自分の言い分を全く多方面から検討、精査せず、自己正当していること。
微塵も自分が悪いと思っていない。
想像力が欠如している。
至近距離から一直線に真っ直ぐ見ている。

それにしても、、、
半世紀経つと、ずいぶん世の中は、変わる。
しみじみ、しみじみ思う。
専業主婦の激減。 
少子化で、現在、出生率は1.26人に。
著書では1978年に刊行された「婦人生活」などの記事の中では1.4人と何度も出てきたので、半世紀も経っているのに、あまり変わっていないと思った。
おかしいと感じた。
なんだ、今調べたら1978年は1.79人とされているものがあった。
数値にズレがある。
いくらなんでも1.4人はちょっと違うのではないかと思うのだが、、、。
どうなってるの?
この数字、信用出来るのか?

まあそれはよいとして。(よくないが)
男は仕事、女は家庭、の弊害が子供の病理となって現れてきたようだ。
スウェーデンを手本に、男女協働を目指しはじめたかも知れないが、まだまだ行政も人々も意識は昔のものだった。

半世紀も経って、やっと少し変わった、というかんじだが、やはりまだ意識が変わっていない男性は根強く存在する。
若い男性ですら。
長い時間、培われてきた価値観は、なかなか変わらないのか。
それでも、少しずつ、変わりつつあるが、わたしはまだ楽観的な気持ちになれない。
世の中はどうであれ、自分の家庭内ではどうか。
それが大事だ。

夫は、初めて会った時、「僕は古風な考え方をしています」とサラっと言っていた。
別に気にも止めなかったわたしが、悪い。
今更だけど。
決して変わることはない。
絶望的な気持ちになるが、目を背け直視しないことにする。逃げる。
正面から向き合わない。
著書の中身とは、正反対だ。

辛抱強く、忍耐強く、夫を再教育した妻もいる。(実際に知っている)
わたしの姉である。
姉の姑にガチガチに洗脳されていた、姉の夫の洗脳を解くのは、さすがに難易度が高いのではあるが、少しずつ、少しずつ。
諦めず粘り強く。
姉に比べると、わたしはダメな人間だと、つくづく思う。
パワーが明らかに不足している。
そもそも、自分とは対等ではない弱い者を最初に(本能的に)選んだ、選ばれた、そこに根元がある。
無意識だったとしても、同等、または自分より強い女性は、ハナから選ばなかっただろう。
楽天家のわたしではあるが、どうしようもない事態を前に、すっかり気が滅入ることがある。

「女が自分と向き合うとき」を読んで、結局、自分は向き合わないという結論に達したようだ。




ブログについて

2023-10-05 | ブログ
母国・日本に里帰り後、リターンしてフランスへ。
帰国してからは、ブログを書く気持ちが起こらなくなったというブロガー、裕さん。
残念である。
読者がいる限り、書いて欲しい。
この人を通して見る世界は、自分の世界観とは異なるので、興味深い。
同じなら、刺激にはならない。
違うからこそ、面白い。
かと言って、全くなんの賛同もしない、否定ばかりするのでは、つながる意味はない。
違うけれど、気になる、どこか共通するものがある、、、
だから、背景や環境、個性は違っても、なぜか知りたいのだ。
ということで、ファンがココにいるので、ブログ、続けてください。


ちなみに。
全くのアカの他人のことを知ることが出来るのが、ブログ。
アカの他人が自ら発信して口を開かなければ、知ることは出来ない。
ただし、なりたい自分を(ねつ造して)発信している実例もある。
実像とブログの一致は、誰も実証できない。
(出来る場合もあるが)
演出や嘘、作り事、見栄が入っている可能性はある。
だが、それはブログだけでなく、実社会でもなりたい自分や期待される自分を演じていることがある。
アイドルなどは、演じること自体が職業になっている。
ただ、実社会の場合、大きな嘘はいずれバレる。
破綻する。
嘘を重ね、やがて辻褄が合わなくなり、自分で自分の首を絞める。
ブログの場合は、わからないだろう。
ブロガーが実態とは違う自分を演じて現実逃避することもある。
自分に酔うこともあるだろう。
逆に、自身の内なる声を吐露したり、活動をPRしたい人もいる。
色々だ。
読む人も、それぞれの好みで選別して読む。

だが、かつて流行ったように(今もなのかも知れないが)、ブロガー同士、あちこち訪問し合い、お互いに営業努力をして閲覧数を増やすこともある。
今はブログよりもYouTubeやInstagram、X(元Twitter)のほうが、発信力はあるようだが。

わたしに関して言えば、2007年から16年間、飽きもせず、工夫もせず、延々と趣味でブログを書いている。
毎日の歯磨きや洗顔ぐらいの慣習となっている。
が、ごく最近は、あまり胸につかえるものも、吐き出したい思いもなく、あっさりした日々を送っているせいでなのか、ブログに自分が救われることも減ってきた。
また、歳を取ってきたからなのか、赤裸々に胸のうちを吐露するのが恥ずかしくもあり、抵抗感もある。
思春期後に、それまでのお笑い系の自分が恥ずかしくなり、お笑いを封印した経緯と少し似ている。
が、おとぼけは、生まれつきなので、どうしようもない。
隠しようがない。
こんな見ず知らずのわたしのブログに貴重な時間を割いてお立ち寄りいただき、恐縮するとともに、有り難く感謝している。
こころの支えになっている。