蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

蘇るシーン

2024-01-18 | 思い出
蝶ブログには同じ内容を最低1回は書いている。
何度も書く。認知症予防の一環。

なぜ、同じ内容なのか。
しかも、書いたことを忘れているわけではなく、ハッキリ覚えているにもかかわらず。
過去の同じ光景が鮮明にこころに残っているのだろう。

と、最近は前置きが以前にも増して長くなっている。
同じ歯磨き粉を何個も何個も買ってきていると思われたくないのだろう。
自分ではちゃんと買ってきて洗面所に何個もストックしているという自覚がある、と訴えたいのだろう。
しかし、こう前置きが長くなるのも、何度も鍵を閉めているかどうか確認しているのと、似たようなものか。
念押しが重なるのは、脳のキャパシティが小さくなっている証拠。
容量低下。はい、そうですが、何か?
人を責めていない、自分も責めていない。
科学的分析、生物の特徴を述べているだけだ。

前置きにこんなに長々書くなんて、、、これは一種の新しい切り口だ。
こりゃいい、採用しよう。ネタになる。

と、どうでもいいことは、どうでもよく。
さて本題。

最初に戻る。
蝶ブログに最低1回は書いたことなのだが。
わたしが幼稚園に初めて通園する初日。(孫ではない)
横断歩道を渡る前、信号の見方を父が教えてくれた。
父はわたしの身長に合わせて、しゃがみ、向こう側にある信号機の色毎の説明をしてくれた。
緑になったら行く、赤は止まる、黄色は、、、。
わたしは、初めて信号機の説明をちゃんと直に受けた。
当時5歳。幼稚園年少さん。
その時、姉は小1、兄は小3。
幼稚園はわたし一人なので、何も知らないと危ないから教えてくれたのだろう。

と、そのシーンを書いただけで、涙がポロポロ流れた。
これぞ、セルフ ヒーリングではなかろうか。
セルフ セラピー。
朝から天然の目薬。
これは目にもこころにも良い。

信号機の前でわたしは何を思っていたのだろう。
目の前を走る車に、注意しなければ、と思ったのか、
今日から一人で通園、頑張ろうと思ったのか。
大人になってもいつも思い出すのは、父がしゃがんでわたしに説明してくれたこと。
それだけであり、当時の心情は全く思い出せない。
だだ、この一コマで、60年以上経っても涙が溢れてくるという事実は、わたしにとっては宝物なのだろう。
恐怖でもない、辛い思いや寂しい思い、不安など、マイナスの要素は全くなかったということが、わたしの幸せの根源を作り上げているように思う。
だが、嬉しかったとか、期待感ワクワクとか、そんなプラス感情も記憶にはなく、淡々とシーンだけが蘇る。
実写の一コマ。

わたしは、幼稚園ぐらい?の時から、もう一人の自分がペラペラおしゃべりすることに対して、とても不思議だった。
わたしが考えてもいないのに、もう一人が話す。
その話声がこころの中だけであり、無声なことが不思議だった。
たぶん、今思えば、言い換えると、音声ではなく、文字なんだろう。
だが、それは、特別なことでもなんでもなく、2番目孫Kも、もっと幼い4歳?ぐらいの時にそういう意味のこと、自分の思いを言っていた。
皆んな自覚しても、言葉に出して説明できなかったり、周りにその思いを理解してくれたり見つけてくれたりする人がいなかっただけではないだろうか。
そのうち大人になって忘れてしまう、成長の一過程ではないだろうか。

2番目孫Kは、今も(1番目孫の兄に比べると)言葉は少なく、こちらが尋ねてもちゃんとした返事は返ってこないことが多いが、アタマの中では何かを思い、感じている(はず)。
パパ(娘婿)は、「Kは、なんにも考えていない」と言うけれど、そんなことはない(はず)。(なんにも考えてないことも多々あるが)
これは、幼児脳を実体験しているわたしには、想像できる。

言い方を変えると、幼少期の体験、感性はその人の芯となり核となるのかも知れない。
個性の根源。
それに色んな要素が肉付けされていく。

わたしは父に叱られた思い出が強烈ではあるが、その他にも父娘のこころの交流はあった。
学校には一度も顔を出してくれたことは(記憶に)ないものの、数少ない共にした家族イベントも、鮮烈に覚えている。
一コマ一コマが蘇る。

(わたしは父を尊敬していた)

これから毎朝、父の思い出を書けば、ヒーリング タイムになる。これは妙案。
(が、たぶん書かない)
信号機の説明シーンだけで、今朝のわたしはとても爽やかな絶快調になった。
ベルを鳴らすとヨダレを垂らす犬。
条件反射。
そのあたたかい元になる体験をしっかりこころの芯の部分に持ち続けているわたしは、まわりに感謝しなければならない。






嫌いな人とは接点を持たない

2024-01-17 | わたし
自分にはもう一人の自分がいて、慰めてあげたり、励ましてあげたり、許してあげたりするそうだ。
わたしは叱ったり、恥じたり、嘆いたり、反省したり、諦めたりは、よくするが、あんまり褒めたりはしない。
自虐傾向があるからだろう。

褒められて伸びるタイプではなく、言われなければ動かないタイプ。
わかっていても、なかなか動かない。
ギリギリまで動かない。
張り切って頑張らず、脱落からの脱出を図る。
ウサギとカメの、カメのくせにウサギコース。
慌てて最後の力を振り絞るパターン。

いつでも出来る🟰いつまでも出来ない
いつでもよい🟰期限がないから今はしない

小学生の頃、「こんなことも知らないのか。お前は、ダメだダメだダメだ」と父に言われ続けた。
まあ仕方ない。
わたしは5人きょうだいの末っ子なので、はやく子育てから解放されたい親にとっては、もどかしいのだろう。
というか、生まれつき、どんくさい。
シャシャッと行動できない。

母に、「行動が遅い」と、どれだけ言われたか。
しかし、客観的に見ると、母の指摘は合っている。
もともとトロいのに、これだけ年齢を重ねて今更、シャカシャカさっさと素早く行動できない。
なので、時間がかかるため、行動開始時間を前倒しにすることにした。
持って行くものに、うかっと忘れものがあるため、気がついたものを先に玄関に並べておく。
これは、姑のマネ。
重要なモノの場合は、鍵置き場の鍵の上に置く。
鍵を閉めないと家を出られないので、鍵を持つ時に嫌でも目に付く。
これは、わたし(たち)のオリジナル。

最近では、忘れもの防止には、時間の余裕を持つことにしている。
ゆっくり準備をしていると、ふーっと、あ、アレ、アレ、アレを忘れた!とアタマに浮かぶことがある。
逆にバタバタすると、必ずと言っていいほど何か忘れものをする。
注意力散漫、集中力低下。

脳には何らかの負荷をかけるほうがトレーニングになると思う。
わたしの場合は、脳トレドリルや塗り絵、手芸などではなく(10年後にお取り置き?)、実際に実践として必要な事態が効果的と考える。
ただし、まわりの人々に迷惑をかけるリスクはある。
既製品の脳トレものなら、やってもやらなくても良いので、迷惑はかけない。
が、脳の刺激には、やはり、「リスク」が1番の薬。
「失敗してはいけない」と緊張するから。

実践は、やはりストレスだと感じるなら、クリエイティブなことが脳には良いと感じる。
無から生み出す。ゼロから創作する。
退屈な時間はなくなることだろう。

ちなみに、他のブログで壮絶波瀾万丈日記を読んだ。
長くてなかなか読み終えられず、2日に渡ったが、まだ完了していない。
こういう経験をしている人には共通する特徴がある。
悲惨な経験をしていない人には絶対に理解してもらえないだろうと逆ギレする展開が多い。
べつに逆ギレしなくてもいいのに。
それぞれ個々の経験は、他人にとっては自分の経験ではないので、わからないのは、お互いさまだ。
この「お互いさま」精神が欠如している。
わからなくて当然なのだから、想像力を働かせるしかない。
実際に経験しなくても想像する。
思い遣る。

わたしがそう考え始めたのは、わりと最近だ。
自分のことで精一杯、わたしが、わたしが、わたしが、、、と主張しているうちは、人のことなど眼中にない。
なぜわかってくれない?と、逆ギレ。
そんなことを言われても、人のことは、わからない。
それを根気よく少しずつわかるようにしていく。

わたしだって、相手をかちんこちんの石頭と決めつけ、かちんこちんを認めようとせず、自分の主張を口に泡飛ばして発している。
人のブログを読むと、ブロガーさんの主張を客観的な目で見るから、相手をこき下ろすだけでは、論議が噛み合わない。
自分が相手を理解しないのと同様に、相手も自分を理解していない。
それを一方的に非難して訴えても賛同されない。
じっくり時間をかけて歩み寄るか、事態が少しずつ動くのを待つか、、、
一方的ではなく、お互いに理解し合うには、時が必要だ。

自分と同じような人が集まる。
類は友を呼ぶ。
引き寄せ合うのだろう。
自分はどんな人が好きで、どんな人が嫌いか。
好きな人に近づき、嫌いな人には距離を取る。

わたしは、近づきたくないタイプの人には近寄らない。
相手も近寄って来ない。
お互い避け合う。接点がない。
だから、嫌いな人たちとは衝突がない。
お互い、棲み分けをしているから、近くで顔を合わせることはない。
お互いに、ベストである。







わたしは、器が小さい

2024-01-16 | 日々のこと
(皆さんのこころの中で)ボコボコにされること間違いなしの、全く世間に通らない、非常識な心情を吐露する。
まず、まずは自分に(も)非がある。
ちゃんと時間の余裕を持って時間を見積らなかった自分が悪い。
いつも通常はそうだからといって、意図しないトラブルなどで、時間を取られることがある。
誰も責められない。
もちろん、わたしが相手を責める権利は1ミリもない。
わたしが悪いわけではないと思うが、百歩譲って、余裕の時間を取らなかったことが悪い。
予期せぬトラブルは、誰の責任でもなく、「危機管理が不十分だ」と非難できない。

と、まずは、自分の非を認めた上で、感情にまかせて愚痴ります。
(不快でしょうからスルーしてください)

と、ここまで書いて、負の気持ちの3分の2は鎮まった。
感情が乱れた時は、深呼吸は良いとされるわけだ。
こころが、落ち着く。
と、まだ前置きを書いている。
またまた6分の5ぐらいまで鎮まった。
しかしまあ、自分にこころの余裕がなくなると相手を責める傾向があることを再度、実感した。

で、愚痴。
最寄りの郵便局。
郵便局経由でバスに乗り、電車に乗るスケジュールだった。
郵便局は、バス停から少し離れていて、我が家からだと、いつもはバス停へ一直線だが、寄り道コース。
その徒歩時間と、郵便局での受付作業時間を通常の感じから想定する。
逆算して前倒しの時間に家を出る。

郵便局は日頃より利用客が多かった。
悪い予感はしたが、わたしは、レターパックで郵便物を出すだけなので、時間を取られるとすると、レターパックの宛先と差出人の住所、氏名、電話番号を記入して書類を封入して閉じること。
2〜3分もあれば完了しそう。
だが、レターパックを持っていないので、窓口で買い求めるのが先。
そのあとは書いて出すだけ。

なのではあるが、今日はいつもいる郵便物窓口の女性がいない。
男性2人だけ。
電話は鳴ってもなかなか出られないわ、待つ人はいつもより多いわ、で、てんてこ舞い風。
郵便物受付で前の前の人が終わるのを待つ。
待ち時間を利用して先に宛名を書いておきたいわたしは、内心(勝手に)イライラ。
で、次の人(一つ前の人)の順番になる。
この方、高齢の女性。
わたしと同じレターパック(A4書留)なのだが、すでに宛名等はご自分で記入済みではあるものの、封はしてないわ、「わからないんです」と質問はするわ、時間がかかる。
何がわからないのか、わからない。
わからないのは、どうやら郵便番号。
受付の男性がご丁寧に(もたもた)ご親切に郵便局番号を探し出す。

(※ちなみに、蛇足だが、わたしが出した年賀状、住所は合っているのに、郵便番号が下二桁違っていて昨日、舞い戻ってきた。
記入を下二桁間違ったわたしが、明らかに悪い、、、のではあるが、、、
正確な(神経質な)読み取り機械のせいで、配達し直しさせられる配達人の方はご足労いただき、お気の毒。
マンパワーの使い方が効率的ではないように思う)

で、続き。
ご丁寧に(もたもた)シールを剥がして郵便局の人が封をする。
さらに追跡番号シールを剥がすのもご丁寧(に見える)。
その間、電話に出て、調べてご丁寧に対応。
この男性は、きっと性格の良い、おっとりした方なのだろう。
あるいは、いつもの窓口女性がいないため、日頃の業務ではない、慣れない作業だったのかも知れない。
が、あくせくバタバタして間違っては、元も子もない。
封を自分でしない、郵便番号を調べない人、そういう人に代わりに親切にゆっくり封をする、郵便番号を調べる人、後ろでバスの時間と闘う人、、、。

と、これは昨日の話。
書けば書くほど、その嫌味ったらしい遠回しの書き方に、わたしがカンジワルイ人物だということが露呈される。
カンジワルイついでに、もうひとつ。

今日、バス停でバスを待っていた。
2人ぐらい既に先に待っていて、バス停到着はわたしが3人目ぐらい。
わたしは、バス停の中でもバスのドア停車近くで待っていた。
その後から数人やって来た。
で、バス到着。
後からやってきた何人かのうちの1人の年配女性が、会釈をして、わたしを通り越してバスに乗った。
前から順番を待つわたしは、べつに譲っていない。
何も言わずに順番を抜かすのはケシカラン、、、が、会釈をすればオッケーなのか?
順番を譲る場合、足の悪い人だとか、乳幼児連れだとか、明らかに譲る原因がある人。
譲る原因がないのに、会釈でスキップ(飛ばす)システム?
会釈はオールマイティの万能ツール?
ごめんあそばせ、と。

例えば、トイレの順番など、激しく著しく急を要している人の場合は仕方ない。
年嵩いかない子供の場合も。
譲る。
特別な状況を除くと、電車の時間と競い合いながらの場合、広いこころが狭くなる。
電車、一本、乗り遅れる、、、
だがしかし、それはこちらの事情。

会釈で許せる場合は、周りに「どうぞ」と先に譲られてから。
「どうぞ」と言われなくても、状況から判断して、それどころではない、緊急を要する場合や、明らかにハンディがある場合は、皆さん、無言で譲るだろう。

そうでもない場合は、妙に引っかかり、納得出来ない。
なんで、順番を守らない?
なんて、こころが小さい、狭量の器なんだろう。わたし。

今日も、自己チューなわたしは、他の同レベルの自己チューを見逃せないでいる。


趣味は書くことです

2024-01-14 | ブログ
認知症予防のために、好きなことを書く。
自分はキモチイイ。
ほんとに、予防になるのか。
読む人は、、、自己防衛してください。
毎日、書き流しているので。

さて。
わたしは自分の日記をいくつも持っている。
SNSは、蝶ブログと趣味関連日記、合計2つ。両方とも大手が運営。
趣味関連日記は、リアル人でお互い顔も人物も知っている人も読むし、コメントのやりとりもする。
ただし、リアルタイムで閲覧数や拍手が公表されるので、恐ろしい。
恐ろしさよりアップしたい勢いが上回る時にしかアップしない。
リアル人も知っているという点では、蝶ブログと少し似ている。
なので、ほんの少しだけ、他人の目を意識する。
ただし、書いているうちに忘れることが多い。
リアル人は、自分のことがひょっとして書かれていては毒入り饅頭を食べた気になる可能性があるので、あまり読まない。
というか、長すぎてうんざりして読まない。
彼らは実生活に多忙を極め、他人の私生活や内面をのぞくヒマもない。
一年に一度、紙の年賀状で近況を一行報告する。

紙の日記は5年連記ハードカバー製本(記録用)と、文庫本サイズ1冊。
今年は文庫本サイズに期待して、人工革製ブックカバー(昔々の使い古し)を掛けた。
にもかかわらず、ちっとも進んでいない。
その文庫本日記の本の中に紹介されている、活用の仕方、書き方例が多岐に渡りすぎて、かえって書く気を削がれている。
メモがわりでもいいそうな。
しかし、誰の目にも触れないからお気楽だ。
とは言え、お正月以来、書こう書こうと思いながら書いていない。
蝶ブログの書き散らしで満足しているのだろう。

最近は、どんどん好奇心が薄れてきている。
興味のないことはパスするため、益々アタマの中は空白に。スカスカ。
数週間前のことはすっかり忘れ、脳内にあるのは、昔々の過去の出来事ばかり。
が、悪い面ばかりではない。
子供の頃に習ったことはよく覚えている。
インプットしてから一度も使わなくても(アウトプットしなくても)、時空を超えて突然、何かのキッカケで記憶が甦ることがある。
間違って覚えていたりすると悲劇だが。

生活に必要な基本的なことは、ほぼ小学校卒業までに習う。
プラス・アルファのオプションは義務教育期間に教えてもらっている。
あとは、自分で付け加える。
加算法。専門、応用編。
基本だけでも、付け加えなくても生きて行ける。

わたしは、10歳の時が人生で、どん底。
15歳は緊張MAX。多分、成長もMAX。
18歳で解放。
25歳で完成。再スタート。
35歳でリセット。
50歳で卒業。
現在、不惑の(40歳ではないが)老後。
自分を終わらせるまで、あと約25年。
選択肢がある間は長く感じる。
なかなか終わらないと思うから。
選択肢がなくなる時が勝負の時。


※追伸。(個人的伝言)
裕さんへ。ブログ中、名前の漢字、間違い。「裕」を「祐」と書いていました。
(訂正済み)

人より上だ、下だ、標準だ

2024-01-13 | ブログ
わたしのブログは、(一般的な方々には)不人気。
なぜか、よくわかっている。
わたしは、真ん中がなく、最上とボトム(最低)の2つしかない。
平均値は真ん中、中央値ではあるが、自分自身には真ん中がない。
この上と下の差で、ずいぶん苦しんできた。
まあ、わたしの個性だからしかたない。
なので、普通の人の感性と一致しない面が多々ある。
第一、具体性のない個人のつぶやきは何の役にも立たない。

他の人気ブログが注目されて出る度に、ため息を通り越して、やっぱりね、と納得する。
正しい常識的な内容が書かれていると感じる。
しかしながら残念なことに、ちょっと見かけたブログは好きであり続け、興味を持ち続けるのが難しいことがある。
飛びつくと、冷めやすい。
わたしにとって、安定のブログが長持ちする。

で、裕さん。
デビューの時は桜色のほっぺ、ワクワクしました。
でも、先輩風、吹かせる気はゼロ。1μもない。
彼の独特の目線、感性。
シャープでキレが良く直球。
あの方、IQが高い。なおかつ、とてもナイーブ。
わたしとは正反対。というか、異次元。

ちなみに。
一般の方々を見て、自分より上と感じる方々や、自分と同じと感じる方々、自分より下と感じる方々がいる。
どの面、どの分野に焦点を当てるかで違ってくる。
くくり方による。

大枠、地球上の生物。
少し縮めると、地球上の人間。
もう少し縮めると、同じ国、同じ地域、同じ職場、同じ学校、などなど。
で、居合わせる人々をどう感じるか。
環境、DNA、能力(身体、技能、頭脳)、実績、評価、性質、、、などなど。
同じレベルだと、トラブルが起きやすい。
うんと違っても、トラブルが起きる。
人間関係は、トラブルの巣窟。
大会に出て競える分野なら良いが、そうは行かないものもある。

人は上も下もなく、皆、平等。
福沢諭吉さんの教えを今頃、紐解いてみる。
ところで、保育所や小学校での運動会のかけっこは、名前順でもなく、身長順でもなく、能力別に分けられ競う。
大きく優劣がつかないように横並び配慮がなされている。
ある意味、不思議。
全員、鶏口牛後。
いくら隠しても、差はじわりじわり出てくるのだが。
差イコール違い。違っていて当たり前。
それが個性。
でも、それを受け入れられない人は大勢いるように思う。
受け入れられないのも個性だとしたら、個性って何?
よくわからなくなってくる。

自分と関わりがあるかどうかがキーになってくる。
自分にどう影響するか。
関係なければ、どうってことがない。
関係あるからこそ、波立ったり、励ましあったり、ケンカしたりする。
他人事とは思えない事態(災害など)には協力を惜しまない。

上だ、下だ、同じだ、と分けても、将来はどうなるか、わからない。
過去は良くても悪くても、将来が安泰だという保証はない。
一寸先は闇。
なので、あまり一喜一憂していては、先が持たない。
まだ今後の後半がある。
時間や健康の調整は出来ても、調節は出来ない。
とかなんとか、先はわからないなら、それなりに自分が納得できるような今を過ごせば良い。
アリになったり、キリギリスになったり。
上だ下だの、こだわりもメリハリ。
人それぞれ。なんでもありだ。

手癖の悪い人

2024-01-12 | 人生
悪い人ではないのだが、人のモノを盗む人がいる。
その時点で悪い人か。
大勢が出入りする場での傘や靴。
わたしの経験では、傘はなくなるままだが、靴はボロズタ靴が残されている。

ちなみに。
わたしは、靴は学生の頃から度々被害に遭っている。
高級なブーツなど、即、なくなる。
傘は自治会館で、初めて使った買ったばかりの新品がなくなった。
身近なところでは、学生の頃、服、現金が、自宅の自室から消えた。
犯人は特定できているが、決定的証拠がない。
目につくところに置いて、刺激したのなら仕方ないが、わざわざクローゼットの中から持って帰る。
お金は最初はわたしのお小遣いで少額だったが、最後はわたしの親のお金に手を付けた。
お互い、まだ10代後半。
経済事情がほんの少しだけ違うといっても、親御さんは国家公務員をされ、彼女の下にも妹がいて、2人とも、まともに育っている。
やはり彼女は手癖が悪いと言える。
こんな人でもちゃんと教職に就いている。
美人でスタイルが良く、頭脳明晰だったのだが。
世の中、しれっと善人の顔をして真面目に暮らしていても、手癖の悪さはブレーキが効かない病気のようなものか。

わたしは自分で防御することを学んだ。
騙されたり、貸したお金を返してくれなかったりすることは世の中、ザラにあるので、お金は一切貸さないことにしている。
それで人間関係が壊れるなら、仕方ないことだ。
貸すのではなく、あげる、寄付する、という気持ち。
返ってくると思ってはいけない。
なかなか他人にあげる気にはならないが。

遠い親戚の中に、母にお金を借りたまま、返していない人がいる。
知らん顔して、年賀状も毎年、送ってくる。
その人の兄弟に実情を話したが、彼に返すよう進言してくれたものの、全く返す気配がない。
客観的にハイスペックで、評価されるだろう、ちゃんとした人生を歩んでいる人なのだけれど。
彼の家族が代わりに弁済する義務はないだろうし、彼の奥さんの親御さんにも借りているようだ。
明るい楽しい頼もしい人なんだが、わたしは「信用ゼロ」の烙印を押した。
彼は自分の罪をつぐなわないまま、自然に罪が消滅するかと言うと、、、気が収まらないわたしは、わたしの子供たちに、お金を返さない現実を伝えた。
彼本人は、自分がこの世を去ればそれで終わり、リセットだと思っているだろうけれど、負の伝説は言い伝えられる。
ではあるものの、あの世からはわからないから、彼自身は気楽だ。
いずれ、返って来ないお金のことなど皆んな忘れ去ることだろう。

後世、わたしの子孫が頭の隅っこにインプットされたことは、そのうち流れてしまう。
彼の子孫はそんな事実を全く知らないまま。潔白なまま。
不公平だ、アタマに来る、と思うなら、裁判で訴える手もあるが、しない。
こんなかんじで、人と人、国と国は、解決されないままのいざこざ、揉めごとは、やがて紛争の火種を抱えたまま、時が進んで行くのだろう。

わたしは自分の代ではマイナス要素はできる限り持ち越さないことをこころがける。
トラブルが怨みに発展しないように、気を付ける。
人に与える怨みは、なかなか消えない。
自分が抱える怨みは、ブログにでも書いて発散させる。
もちろん誰か特定できないように。

知人で、過去の行いを浄化しようとして仏門に入った人がいる。
人生の後半のある時期、思い立ったそうだ。
かなり強引な手法で、のし上がり成功を納めた人だが、事あるごとに、世の中に寄付をしたりして、清めようと頑張っておられる。
アーリーリタイアをして坐禅に励むブロガーさんもいるが、坐禅の境地とはちょっと毛色が違う。

人生、終盤戦に入り、あの世へ行く前の準備として、自分の垢や埃、汚れを落として、綺麗に身を清めようとするのだろうか。
そういう意味では、老後、何もすることがない退屈な人には朗報だ。
かなり忙しい。
ちょっとやそっとでは清められない。
今、わたしのアタマに浮かぶのは、書道のお稽古を兼ねて、写経。
単なるアイデアラッシュだけで、実際に実践するかどうかは別として。
仮に病気で体調が優れなくても、写経をしている時間だけは、身体の不調を忘れるかも。
逆に体調不良なら何もする意欲がなくなる可能性も大だ。
(どっちやねん)

話は脱線に脱線を重ねるが、
とりあえず、老後は、自分の汚れを落とすため、仏門研究を一つの課題にしよう。
て、誰も興味ないと思うけれど。



何ごとも光と陰がある。

2024-01-11 | わたし
「憧れる」と「羨ましい」は違う。
わたし次元の解釈では、うんと手が届かない高いところにあるものに対しては「憧れる」。
ひょっとして手が届くかも知れないものが「羨ましい」。
隣の芝生。
どんぐりの背比べで、嫉妬する。

超絶的に高度な、異次元のものに対して、羨ましいと思う人は、ある意味スゴイ。
わたしなどは、カスリもしない。
ほほう〜、と、天を見上げる。
羨ましがるどころか、「憧れるのをやめましょう」という大谷翔平。
やはり偉人は別世界。

自分の能力を無限大だと捉えている。
だが、天才にも頭打ちは必ず訪れる。
類を見ない天才領域で、活発に活動している時に、ポテンシャル全ての能力を出し切る。
そんな人は、ごろごろそこらへんには居ない。

既存枠から抜け出し、全く新しい概念を生み出す。
ただし、分野によっては認められるかどうかは、時代にもよる。
歴史を振り返ると、精神病院に放り込まれたり、死罪になったりすることもある。


趣味仲間Aに、問われた。
「表現力って何?」
すごく良い質問だったので、わたしは前のめりになり、かぶり付くように熱弁をふるった。
、、、が、、、Aには全く通じなかった。
そもそもAとわたしは、別の次元で趣味に取り組んでいる。
わたしは、それを十分理解しているのだが、Aに説明しても、きっと理解出来ないだろう。
というか、わたしは、究極のホンネを打ち明けない。
いくらホンネでも言ってよいことと、よくないことがある。
ホンネなど、言ってしまえば、相手を傷つけ、一瞬で崩壊する。
口にしないほうがよいホンネは言わないほうが、日常生活を送るのには、支障をきたさない。
生き易い。
わたしは、あえて生き辛いことは選ばない。避けて通る。
片目をつぶって生きる。
少し曇ったメガネをかける。
クリアな目で見ると、見なくてもよいものも見えてしまう。
何ごとも表裏一体。
一方だけを追求すると破綻する。

なので、わたしは、Aとの趣味活動には、ある意味、部分的には同床異夢。
これは夫に対してもそうである。
これはわたし流。大きな流れだけを重視して、枝葉は目をつぶる。
いちいち熱く燃えない。
燃えるとすると、何に?
長い道のりを考えて、長い目で見る。
情熱の出し惜しみ、甚だしい。
だから、わたしは最初から芸術とは無縁で、芸能でもなく、商人なんだろう。
(そこが裕さんとは違うところ)

とは言え、自分が楽しめる道を選ぶ。
楽しむためには、その陰で努力や思案も必要だ。
天から無条件に「楽しみ」は降って来ない。

健康でいられる時間は限られているので、目一杯、時を享受したい。



あったはずの所に、ない、ない、ない、よくある話

2024-01-10 | 日々のこと
ダンスウエアのショルダー部分から下着のストラップがズレて見えないように、固定するための工夫をしようとした。
針と糸で、チクチクお裁縫。

前回、1着目、初めてその作業をすることになった時、材料(極小サイズのスナップと、綿テープ)をアマ◯ンで取り寄せた。
今回は2回目。2着目。
さて、作業に取り掛かろう、と、材料を探すと綿テープはすぐ見つかったが、スナップ(透明ビニール袋入り)が見つからない。
裁縫箱だけでなく、裁縫箱周辺や、裁縫グッズを入れている箱、手作りキット入れなど、何度も何度も探した。
前回、作業したのは去年の夏。
半年も経っていない。
失くすはずがない。
必死で探したが、スナップはない。
メガネもかけて、気合いを入れて探し直す。
あああ、、、なんで探せないの?どこ行った?見つからない、、、なんで、なんで??
目も悪くなり、注意力も減退、根気もなくなっている。
アマ◯ンのアイコン、ニコニコマークが頭をよぎる。
再度、注文する?
それしか方法はない。
しかし、小さい細かい安い発注になる。
でも無いのだから、、、
諦めかけた。

ではあるものの、昨年、夏に同じ所にあったものがないのは、おかしい。 
しかも、ピンポイントの置き場所。
わたし以外には誰も触らない。
最後の気力を振り絞って探した。
根気強く、執念で。
すると、3段になっている裁縫箱の引き出しの壁側(引き出し外側とケース内側の間)にペタっと引っ付いていた。
スナップが黄金色に輝いて見えた。
(実際は銀色)

思わず声をかけてしまった。
「どこ行ってたの?
よく居てくれたね!」
感激の対面。
裁縫箱の見えない場所に貼り付いていたスナップに感謝。
さあ、今から裁縫、作業に取り掛かろう。
と、意気揚々とスタートしたが、スナップを探すのに手間取り、時間がかかり、今日の出発までの時間を圧縮し、気が焦る。
しかも、手先が不器用なのを再認識。
寒いから手がかじかんでいるせいもあるだろう、と、少し自己擁護したとしても、やはり不器用は否めない。
帰ってからゆっくり、続きをしよう、と、途中で放り投げ、出掛ける準備、次のルーティンに移った。

こんなことの繰り返し。
ない、ない、どこへ行った?
やったぁ!あった!
あ、こんなところに。でも、なぜ?
全然、ない。やっぱり、ない。絶対、ない。
思い違い、勘違い、ど忘れ、もの忘れ。
、、、これからも自分の行動、所作に、一喜一憂しそうだ。

て、些細な、どうってことない1日1日の積み重ねが、つながっていく。


成長って楽しい

2024-01-09 | 日々のこと
昨年末から、わたしは「バーコ」という愛称で呼ばれている。
(ちなみに夫は、もし呼ばれるなら「ジーコ」。呼ばれてないけど)
ネーミング人は、3番目孫(6歳女児)。
彼女は去年前半までは、自分のことを「うる」と名乗っていた。
名付けは自分。
「うる」の後、「ハート」だとか、「◯◯(忘れた)」を名乗るとのことだったが、定着せず流れた。
今は、本名で、とりあえずいっている。

わたしは、「バーコ」という名前、気に入っている。
関係性もよくわからないし、女性なんだか、どこの国の人なんかんだか、年齢、性別、国籍不明で楽しい。
彼女は、お話作りが高じて、自分の文と絵、紙作品をセットして製本している。
材料はうちにある紙と鉛筆とボールペン、使用済みのシール、セロハンテープとハサミを使う。
本の後半は、手作りの立体的なリボンや指輪などが貼り付けてあり、最後のページでは、絵付きクイズが付いている。
「クイズまで付いてるんやね」とわたしがクイズの答えを言おうとすると、
「(自分よりずっと)『小さい子』用やから」と一言説明。
どうやら(自分より小さい)幼児向けらしい。
物語は、「たからじま」というタイトル。
(「ゆびわつき」という文字が表紙の下あたりに書かれている。作者のペンネームかと思ったが、ちがった)
「のんきい」という名前の象が旅に出るお話なのだが、1ページにつき1文、1つの絵。

「ぞうの のんきいが いました」
「のんきいは ぼうけんがだいすき」
「あるひ、たびにでました」
「おわり」
で、話は始まったかと思いきや、いきなり終わる。
次のページからは「ぬりえ」と文字が書かれ、塗り絵の元絵(線画のみ、着色なし)が描かれ、その次のページは「ツールつき」と書かれ、付録に移る。
面白い発想。
色んな販売されている本やキットを参考にしていると思われる。

インプットされた情報を自分流にアウトプットしている。
紙を細く切って丸めて作った指輪や、両端が膨らんだリボンなど力作のチャームグッズの数々をセロハンテープで貼り付けてあるのを見ると、一生懸命作った様子がうかがえて微笑ましい。
上2人孫(男子学童)は大阪市内で催されている電車関連イベントに、おじいちゃんが連れていってくれている。
そして、両親が用事で居ない間、我が家に先行投入されたちびっこ女児孫たち。
彼女のパパは、作品を見て、「象の名前が良い名前やなあ」と言っていた。
わたしは、パパの感性が良いなあ、と思った。

ピンチヒッターで保育所お迎えに行くと
「ばあちゃん嫌い。ママがいい」と泣かれたことも度々あるが、まあ普通によくあること。
成長をたっぷり楽しませてもらっている。
ありがとう。


羨ましいとは思わなくなった

2024-01-08 | ブログ
今日でお正月モードもお終い。
今日は成人式だとか。
わたしは成人式は1月15日という思い込みがある。
いつから1月8日になったのだろう??
1999年までは1月15日だったようだ。
それ以降は、第2週目の月曜日になったとか。
年齢も少し修正されたようだ。
2023年以降は20歳の集いになったらしい。
成人対象者が18歳に引き下げられたものの、18歳はまだ高校生だったりして忙しいという配慮。

わたしの脳内カレンダーは、1999年で停止していると思われる。
24年目にして更新、アップデートしよう。
て、わたし、社会性ゼロ。

それはそうと。
トップ画像は、お菓子の重箱。
長女一家が、4つのバラバラに離れた県を転々と、長い移動の日程を終えた最終日に、帰りに自宅を目前にして最後の乗り換え駅で買い求めたもの。
ほっとしたのだろう。
自分へのご褒美、お土産。
あちこち、行ったり来たり、ご苦労様。
一昨日は朝4時、始動。東京から移動。
4人の子供を引き連れ(1番下は3歳)、皆タフだ。
若いということはパワフルだ。
長い長い年末年始モードがいよいよ終わる。

さて。
gooブログ、アピール記事で紹介されているブログを時々、拝読する。
その中で素晴らしい生活をされていて、写真と共にそのゴージャスでハイスペックな家族の皆さんの暮らしぶりが惜しげもなく披露される。
そう言えば、かつて、そういうブログに触れて同じような心境に陥ったことがある。
その素晴らしさに、うっとりを通り越して、複雑な想いに駆られた。

が、今は気持ちが変化した。
16年の間に少しずつ変わったようだ。
足元にも及ばない質やレベルの高さに、憧れとも違う、もちろん嫉妬などとんでもなく、ただ感心するものの、自分とは違う道を感じた。
そして、興味や好奇心の対象にはなる。
違いをはっきり自覚したが、別に卑屈にはならない。
お手本にしようと熱心に、かぶりつかない。
真似はしない、したいとは思わない。
はっきり違うことに対して、別に歩み寄る必要はない。
背伸びする必要もないし、崇め奉る必要もない。
人は人。
各人の持つカラーである。
自分には自分に合った快適、満足がある。

しかしながら、こういうタイプのブロガーさんは、似たようなトラブルに巻き込まれる。
過去にブロガーさん同士、ケンカをしておられるる。
何故なんだろう?
自分を防御しないからか。
何かが飛んで来るかも知れないから、家の外では身をかがめて歩くほうが無難だ。
身の安全は自分で守る。防御する。
まあ色々な人がいる。

人のことは羨ましくないということだ。
他人は自分ではない。自分は自分。
羨ましいと思うなら、努力すれば良い。
努力もしないで羨ましがっても意味がない。
(もちろん、災害や不幸は突然、努力とは関係なく訪れるので想定外)

老年になると、他人や自分の過去と比べず自己肯定。
ありのままの自分を受け入れる。
それが明るい老後を築く。