蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ある日の宗教記事

2024-01-26 | 
ちょっと元気がない。
涙がぽろぽろ出る。

食べたいものを食べ、欲しいものを手に入れ、行きたいところに行き、やりたいことは、もう、やった。
だが、前人未到の超絶秘境地に行きたいわけでも、わざわざ飛行機に乗って食べたい店に行きたいわけでもない。
話題の美男美女に会いたいわけでも、教祖様に会いたいわけでも、推しのアイドルや俳優に会いたいわけでも、トップ政治家や有名人に会いたいわけでもない。
この世にいない人に会いたいわけでもない。

べつに、何がしたいわけでもない。
何も、新しいことはしたくない。
今のままで、十分満足。十分楽しい。
鬱なわけではない。
なぜなら、気分はいつも良く、明るい。
しょげかえってなど、いない。
だから、鬱ではない。
やる気がないわけではない。
今の状態を維持するために、多少は努力している。
こういうのは、あまり向上心がないと言われるのだろう。
いいの。
無理はしない。
自分が良ければよい。

だが、他人から手は差し伸べられても、他人にエネルギーを分けてあげるほどの元気はない。
自分を楽しく保つことで精一杯。
他人に尽くすタイプではない。

自分と向き合う。
競争相手は他の人ではなく自分。
自分に打ち勝つとか言うけれど、勝たなくてもよいではないか。
なぜ、勝たなければならないのか。
しかも相手は、他ならぬ自分。
自分に負けて、何が悲しい?
自分に勝って、何が嬉しい?

では、
自分に負けて、嬉しい? 
自分に勝って、悲しい?
別に嬉しくも、悲しくもない。
自分同士の闘いなんて、観客もいないし、必死になっても仕方ない。
第一、ジャッジも観客も自分だし。
何を今更、闘う???

自分はどうしたいのか?
自分が楽しいようにしたいだけ。
そんな大それたことは、したくない。
毎日、小さな喜びを見つけて、小さく暮らす。
それではダメなのか?
出来るうちに、どんどん何でもすべきだと思っていたが、べつにしたくなければ、出来てもしなくてもいい。
したければ、すればいい。
世の中の本やSNSの、声の大きい立派な意見やライフスタイルばかりを取り入れなくてもよい。
あくまでも参考意見の一つとして見聞きする。
小さな声もあるし、声をあげていないこともある。

毎日、薄い水の中で静かに暮らしているのが、今のわたしの幸せ。
また変わるかも知れないが。
欲求がどんどん薄く軽くなってきている。
ひょっとして、もうすぐ、、、魂がなくなるのかなあ???
それはそれで、負の感情や考えもなくなる。
プラスとマイナスの振れ幅が小さくなる。
不純物がなくなり浄化されるということか。
いや、不純物こそ生きるには欠かせない要素だ。
美しく清められなくてもよい。
菌に強くなければ生きていけない。
雑菌はそこらじゅうにウヨウヨ。
純正栽培は生命力が弱い。

ちみに。
どなたかが、昔の蝶ブログ記事を引っ張り出して読んでおられる。
その中で、「宗教①」というものがあり、興味深く読んだ。
(自分が書いているのに内容を忘れている、、、)
信心していないのにお経を読めと姑に言われ、思いっきり減らず口をきき、反抗した話。
「家の宗教を内容もわからず頭から信じるのはおかしい。
わかっているなら、内容について詳しく正しく説明してください」と、姑Aに食ってかかるわたしに、Aは、
「先代の姑たちは、立派だった。
こんな未熟な何も知らないわたし(Aのこと)に、怒りもせず優しく包み込んでくれた」と答えた。
当時の若いわたしは、当時のAとオーバーラップするのだろう。 
皆んな来た道、歩む道。
だがしかし、明らかにわたしの質問に答えず話しをはぐらかして、話の内容を変えている。
わたしは、「説明してください」と言っているのに、説明せずに、わたしを未熟だと非難して従わせようとしている。
一時的には人情的にうまく丸め込まれたような気になったが、話の論点は明らかにズレている。
ごまかされている。
そうやって、ごまかし、ごまかし、疑問はクリアに解明されず、今日までどうにか引き継ぎ持っているのだろう。(Aは故人だが)
お坊さんのように何時間も正しく説明されたら、かえってわたしが困ってしまうところだった。
面白くなくて居眠りしてしまうだろう。

人を自分の思い通りに動かそうとするのは難しい。
駆け引きや策略が必要だ。
信じていない宗教のお経を読むことに関しては、自分が能動的に読むのではなく、その道のプロ(お坊さんや神主さん)が読むのを聞く、受け身なら抵抗はないと感じる。
日本には地鎮祭やお葬式、七五三など、強い信者ではなくてもお経や祝詞を聞いている。
初詣やお寺詣りも、抵抗ないイベントとなっている。
あまり深く考えていない、慣わしのようなものか。
へんに抵抗して流れを止めて摩擦を生じさせ、前に進む邪魔をしないようにしたほうが、よいのか。
信心というよりは、おみくじやジンクスみたいなものか。
そのあたりを姑Aは、わたしが納得できるように説明してほしかった。
教義が大事なのではなく、誰もわかってないけれど手を合わせているんですよ、と認めてくれたら、また違った展開になっていたかも知れない。

わたしは、わからないこと、理解できないことに対して、無条件に、何でもいいからツベコベ言わずに頭を下げるんだ、と強制されても不満しかなかった。
自分なりの解釈、納得が必要だった。
古今東西、宗教はとてもデリケートな問題だ。