「憧れる」と「羨ましい」は違う。
わたし次元の解釈では、うんと手が届かない高いところにあるものに対しては「憧れる」。
ひょっとして手が届くかも知れないものが「羨ましい」。
隣の芝生。
どんぐりの背比べで、嫉妬する。
超絶的に高度な、異次元のものに対して、羨ましいと思う人は、ある意味スゴイ。
わたしなどは、カスリもしない。
ほほう〜、と、天を見上げる。
羨ましがるどころか、「憧れるのをやめましょう」という大谷翔平。
やはり偉人は別世界。
自分の能力を無限大だと捉えている。
だが、天才にも頭打ちは必ず訪れる。
類を見ない天才領域で、活発に活動している時に、ポテンシャル全ての能力を出し切る。
そんな人は、ごろごろそこらへんには居ない。
既存枠から抜け出し、全く新しい概念を生み出す。
ただし、分野によっては認められるかどうかは、時代にもよる。
歴史を振り返ると、精神病院に放り込まれたり、死罪になったりすることもある。
趣味仲間Aに、問われた。
「表現力って何?」
すごく良い質問だったので、わたしは前のめりになり、かぶり付くように熱弁をふるった。
、、、が、、、Aには全く通じなかった。
そもそもAとわたしは、別の次元で趣味に取り組んでいる。
わたしは、それを十分理解しているのだが、Aに説明しても、きっと理解出来ないだろう。
というか、わたしは、究極のホンネを打ち明けない。
いくらホンネでも言ってよいことと、よくないことがある。
ホンネなど、言ってしまえば、相手を傷つけ、一瞬で崩壊する。
口にしないほうがよいホンネは言わないほうが、日常生活を送るのには、支障をきたさない。
生き易い。
わたしは、あえて生き辛いことは選ばない。避けて通る。
片目をつぶって生きる。
少し曇ったメガネをかける。
クリアな目で見ると、見なくてもよいものも見えてしまう。
何ごとも表裏一体。
一方だけを追求すると破綻する。
なので、わたしは、Aとの趣味活動には、ある意味、部分的には同床異夢。
これは夫に対してもそうである。
これはわたし流。大きな流れだけを重視して、枝葉は目をつぶる。
いちいち熱く燃えない。
燃えるとすると、何に?
長い道のりを考えて、長い目で見る。
情熱の出し惜しみ、甚だしい。
だから、わたしは最初から芸術とは無縁で、芸能でもなく、商人なんだろう。
(そこが裕さんとは違うところ)
とは言え、自分が楽しめる道を選ぶ。
楽しむためには、その陰で努力や思案も必要だ。
天から無条件に「楽しみ」は降って来ない。
健康でいられる時間は限られているので、目一杯、時を享受したい。