『 戦略的互恵関係 』
APEC(アジア太平洋経済協力会議)に出席中の
石破首相
短時間ではあるが 幾つもの首脳外交を行っているようだ
中国の習近平との会談では 「戦略的互恵関係」の推進などを
確認し合ったとか
会談出来たことは良かったし 関係良化の一歩であって欲しいが
この「戦略的互恵関係」という言葉は 「こんにとは」と
同程度の意味だと 感じてしまうのだが・・
同国との関係は 極めて微妙で難しいようだが
大国であり 永久に近隣関係にあるのだから
親密になれないまでも 公平で平安な関係を築きたいと願う
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『 敦良親王の誕生 ・ 望月の宴 ( 125 ) 』
こうしているうちに、中宮(彰子)のご懐妊のご様子は、御修法(ミズホウ)や御読経、様々な御祈祷、それほどでもない事なども、前回の例にならって、御指図なさったが、十一月二十五日になって産気づかれて、たいそう苦しげそうである。
例の聞きづらいほどの御祈祷など様々な声などが部屋中に満ちている。されど、御物の怪などの何の気配もない。
そうした事は安心していらっしゃれるのも、限りなくお尽くしになった御祈祷の効験であろう。たいそう平らかに、ほどなくして御子(敦良親王)がお生まれになった。
それからも、何よりも後産の御事がどうなるかと大騒ぎなさったが、それもほどなくお済みになった。まことにめでたいことだと思われてお喜びであるが、それも前に劣らぬ男御子の御誕生なので、殿の御前(道長)をはじめとして、これほどの慶事はあまりにも信じられなく、空言かとまでお思いになるほどであった。
帝におかれてもお耳になさって、早速に御剣(ミハカシ)を賜った。
すべて何事も、もっぱら前回の例を一つとして違うことなく引き合いになさる。女房の白装束などは、この度は冬なので、浮文・固文・織物・唐綾など、すべて言いようもなく立派である。この度は袴さえも白くしたので、こうあるべきだとばかりに、白妙の鶴の毛衣のようにめでたく、新宮の千歳のご寿命も推し量られる。
御湯殿の儀の有様などは、先の若宮(敦成親王)の時で分るはずなので、書き続けることはしない。
御文博士(読書博士。漢籍のめでたい一節を読む。)も同じ人(蔵人弁藤原広業)が参上した。すべてが全くすばらしく、何とも申し上げようがないほどである。
三日、五日、七日の御産養(ウブヤイナイ)などの御作法は、むしろ前回よりも盛大のように見受けられた。
この度は、行事にも慣れて、簡略になさることもなかった。
さて、帥殿(ソチドノ・伊周)は、このところしきりに水をお飲みになり、御食事などもどうされたのかと思うほどお召し上がりにならなくなり、とても以前の人のようではなくなり、お痩せになってしまわれた。
ご気分もたいそう苦しくお悩みのようである。ずっと、御斎(トキ・身を慎んで、勤行に励む生活を送っていた時のことを指す。)にてお過ごしの時は、たいそう太っていらっしゃったのが、いまは俗人の生活をなさっているのに、このようにお痩せになられたのをどうしたことかと、心細く思わざるをえないが、松君の少将(伊周の嫡男道雅。従四位下右近衛少将、十八歳。)のことが、万事につけ誰よりもご心配なさっているが、これからどうなるものかと、哀れに胸の詰まる思いで嘆かれているのも、まことに無理ならぬ事で、昔と違ってまるで変わり果てた中関白家の没落を、やるせなくお思いになるのも、まことにそうであろうとお見受けする。
帝におかれては、若宮(敦成親王)を恋しく思われるにつけても、今宮(敦良親王)をご覧になりたいお気持ちにつけても、「やはり、早々に宮中に参られよ」とばかり、中宮(彰子)にお申し入れなさる。
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『 与野党協議は生かされるか 』
衆議院選挙の 与党陣営の惨敗を受けて
与野党協議が 活発化しているように見える
果して この傾向が どのような結果を生み出すのか
民意がより反映するのか 混乱が平常化するのか
一方の米国 次期トランプ政権は
トリプルレッドを背景に さらに強烈な個性が発揮されそうだ
それが 世界に平和をもたらすのか 混乱をもたらすのか
ともに『吉』と出ることを ひたすら祈る
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『 言霊の助くる国ぞ 』
磯城島の 大和の国は 言霊の
助くる国ぞ ま幸くありこそ
作者 柿本人麻呂歌集
( 巻13-3254 )
しきしまの やまとのくには ことだまの
たすくるくにぞ まさきくありこそ
意訳 「 しきしまの 大和の国は 言霊が助け給う国です どうぞ ご無事でありますように 」
* この和歌の作者は、「柿本人麻呂歌集」となっています。つまり、万葉集の成立以前に、柿本人麻呂が編集したらしい歌集があり、そこから採録したということです。
万葉集には、この歌集から約370首も採録されています。それらの作品いずれもが作者名が分っておりませんが、人麻呂自身の作品が多くを占めていると推定されます。
本歌も、その雄大さからして、柿本人麻呂の作品と考えています。
* この歌は、この前にある長歌に対する「反歌」として載せられています。
( 巻13-3253 )
葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども
言挙げぞ我がする 言幸く ま幸くませと つつみなく
幸くいませば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重波にしき
言挙げす我は 言挙げす我は
あしはらの みづほのくには かみながら ことあげせぬくに しかれども
ことあげぞあがする ことさきく まさきくませと つつみなく
さきくいませば ありそなみ ありてもみむと ももへなみ ちへなみにしき
ことあげすあれは ことあげすあれは
意訳 「 葦原の 瑞穂の国は 神意のままに 言挙げしない国です それでも 言挙げを私はします お元気で いらっしゃいますようにと つつがなく お元気でいらっしゃれば 荒磯波があっても またお会いできると 百重波 千重波のように 繰り返して 言挙げします私は 言挙げします私は 」
なお、「言挙げ」とは、「言葉に出して言い立てること」です。
* 長歌から、この歌が旅立つ人への無事を祈る歌であることが分ります。それも、海を越えていく旅のようですから、再び会えることが出来るかどうか保証されない、厳しい旅立ちだと想像されます。
その時に作者は、言葉の持つ霊力を信じて、懸命に歌い上げます、「友よ、無事で過ごしてくれ」と。
万葉の大歌人の絶唱の姿といえましょう。
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万葉集の風景 ご案内
万葉集は 現存するわが国最古の歌集です
二十巻 四千五百余首が採録されています
載せられている歌の大半は 七世紀前半から759年までの
およそ130年間の作品です
ただ、巻頭歌などに古歌が採録されていて
最古の作品の作者は 四世紀前半の磐姫皇后です
最新の時代の作品は 大友家持の759年に詠まれたものです
また 作者は 天皇・皇后や皇族 貴族や上下級の官人
農民や一般庶民 防人などあらゆる階層の作品が収められており
作者不明とされている作品が 二千百首を超えます
万葉集の完成は 奈良時代末期の759~780年の頃と
考えられています
一度に編集されたのではなく 何度かに分かれて編集されていったと
考えられていて 最終段階では 大伴家持が深く関わっていたようです
作品はすべて漢字が用いられていますが、そのほとんどは万葉仮名として
使われています
本稿は 作者不明の作品も含めた作者たちが それぞれどのような思いで
その歌を詠んだのかに思いを寄せて その風景や心の葛藤に近づきたいと
考えたいものです。
何分 専門知識は全く有しておりませんので 誤訳や誤解が
多発する恐れも心配しておりますが
どうぞ許容いただきまして お楽しみ下さいますよう
ご案内申し上げます
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『 兵庫県知事選挙は終盤 』
兵庫県知事選挙は 終盤に入り
大接戦と 報じられている
政策論争も なされているのだろうが
伝えられている情報は 泥仕合模様のように思われる
人格 政策能力 協調性 カリスマ性 等々
切り口は多いが さて 県民はいかなる判断をするのか
どういう結果が出るとしても 次期知事には
議会 県職員ともども 品格のある県政を目指して欲しい
☆☆☆
「好事魔多し」という言葉があります。
一見、難しそうな文字に見えますが、その意味は「良いことや、上手く行きそうなことには、とかく邪魔が入るものだ」といったような意味で、大人に教える格言というほどのものではなく、まだ成長過程の子供たちに教える言葉とばかり思っていました。
ところが、この度、私の認識の未熟さをつくづくと教えられました。
衆議院選挙は、一応、わが国の政権を委ねる人々を選出する重要な位置付けになっていることは、間違いないことだと思います。
その選挙の投開票は終ったとはいえ、それによって生ずる変化、特に今回の場合は激変と言っていいほどの選挙結果が出ており、その中でも、おそらくしばらくはキャスティングボートを握るであろう党の党首が、事もあろうか「不倫」が報じられたのには、驚きよりあきれかえってしまいました。
伝えられている報道がどういう内容で、どの程度の倫理的問題があるのか知りませんが、当事者本人の謝罪会見を見る限り、笑い飛ばすような問題ではなさそうです。
この種の問題を、わが国は大袈裟に取り扱いすぎるという意見もありますし、本来当事者の問題だと思うのですが、その口で天下国家を憂いているような発言をしても、何とも説得力がないような気がします。
「好事魔多し」という言葉は、中国の戯曲「琵琶記」から生れたようですが、古来、絶頂期にある人には、油断が生れたり、足を掬いに来る人が出てきたりするようですから、子供に限った教えではないようです。
「有頂天になるな」という言葉も、ほぼ同様の意味を持っていますが、こちらの「有頂天」となりますと、もともとは仏教の言葉ですから、奥はなかなか深くなります。
拙い知識で若干説明させていただきますと、仏教の教えでは、私たち衆生は、生まれ変わり生き変わり六道を輪廻転生するそうです。六道とは、天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道を指しますが、そのうちの天人が住むという天道(天上界)も、二十七段階に分かれていて、その最上位が「有頂天」だそうです。因みに、織田信長でお馴染みの「人間五十年 下天のうちにくらぶれば 夢幻の如くなり・・」の「下天」は天上界の最下位に位置するそうです。
仏教の教える世界はなかなか厳しくて、幸運にも天上界に生まれることが出来ても、そこは永住の世界ではなく、有頂天になっていると地獄の中でも最下位の「無間地獄」に堕ちることがあるそうです。
まあ、今私たちが生きている世界は「人間道」ですから、「天道」ほどのモラルは問われないでしょうから、よほど悪辣なことでもしない限り、いきなり「無間地獄」に堕ちるようなことはないのでしょうが、かの久米の仙人は、飛行出来る神通力を得るほどの修行を積んだ人ですが、若い女性の脹脛を見て墜落したと言いますから、何ら神通力を持っていない凡人は、せいぜい身を慎むことが大切で、有頂天になるなどは百年早いと肝に銘じておく必要がありそうですねぇ。
『 二期目のトランプ大統領 』
大統領選挙に圧勝した トランプ氏の
次期政権の陣容が 少しずつ明らかになっている
小差とはいえ 上下院とも共和党が多数のようなので
トランプ氏にとって 一期目より追い風になるだろう
いくつかの訴訟も 棚上げになりそうだし
次の選挙を 心配する必要がないので
思い存分の人事と 政策推進が可能だろう
一回りパワーアップしそうな トランプ次期大統領は
世界にとって 吉か凶か
アメリカ国家と人民にとって どんな栄光をもたらすのか
祈る思いで 見守るしかないのだろうか
☆☆☆
今昔物語 巻第三十一 ご案内
本巻が最終巻に当たります。
全体の中での位置付けは「本朝付雑事」となっています。
本巻には三十七話が収められていますが、実際に、それぞれの物語の分野は
やや雑然としています。
研究者によっては、本来「今昔物語」は三十巻で完了させる予定だったものが、
各卷から落ちこぼれたもので、捨て難い物を、この巻に集めたと考えているよう です。
いずれにしても、膨大な量を誇る「今昔物語」の最終巻を楽しみたいと思います。
『 放生会を競い合う ・ 今昔物語 ( 31 - 1 ) 』
今は昔、
天暦の御代(天暦年間というより、村上天皇の治世全般 ( 946 - 967 ) を指すことが多い。)に、粟田山の東山科の郷の北に寺があった。建立と同時に藤尾寺(伝不詳)と名付けられた。
その寺の南に別の堂があった。その堂に一人の年老いた尼が住んでいた。その尼は、たいそう豊かで、何事も思いのままに長年過ごしていた。
その尼は、若い時から熱心に八幡(石清水八幡宮)に帰依していて、 常にお参りしていた。
いつも心の中で、「わたしは長年八幡大菩薩を頼み奉って、朝夕に念じ奉っています。同じことなら、わたしが住んでいる辺りに大菩薩をお遷しして、思うままに常に崇め奉りたいものです」と思っていたが、さっそく、住まいの近くに土地を選んで、宝殿(お堂)を造って立派に飾り立てて、大菩薩を勧請し奉った。
そして、長年崇め奉っていたが、尼はさらに願いを立てて、「本宮(石清水八幡宮)では毎年の行事として、八月十五日に法会を行い、放生会といっている。これは、大菩薩のお誓いによるものである。されば、わたしもこの宮において、同じ日にこの放生会を行おう」と思いついて、本宮のように年中行事として、あちこちで放生会を行い、八月十五日には、本宮と同じように放生会を行った。
その儀式は、本宮の放生会と同じようにした。様々な高貴な僧を大勢招き、妙なる音楽を奏し、歌舞を調えて法会を行ったが、尼はもともと裕福で何の不足もなかったので、招いた僧への布施も、楽人への祝儀なども十分なものであった。
そういうことで、本宮の放生会に見劣りしないものであった。
このようにして、毎年行って数年が経ったが、本宮の放生会がしだいに新宮に劣るようになり、祝儀なども見劣りするので、舞人や楽人などもこの粟田口の放生会に競って行くようになり、本宮の放生会は少し廃れた。
この事を、本宮の僧俗の神官たちは、皆嘆きながら相談して、使者をあの粟田口の尼の許に遣わして、「八月の十五日は、大菩薩の御誓いによって、昔から今に至るまで行われている放生の大会(ダイエ)である。人が考え出したものではない。ところが、本宮とは別に、この所で放生会が行われている。そのため、本宮の恒例の放生会がまさに廃れようとしている。されば、ここで行われている新しい放生会を八月十五日には行わず、日延べして別の日に行うべきである」と伝えた。
尼はこれに答えて、「放生会は、大菩薩の御誓いによって、八月十五日に行うことです。されば、この尼が行う放生会も、同じく大菩薩を崇め奉るゆえに行うことですから、やはり八月十五日に行うべきです。決して他の日を以て行うことがあってはならないのです」と言った。
使者は帰って、尼の答えを伝えると、本宮の僧俗の神官などは全員がこれを聞いて大いに怒り、集まって相談し、「我等は今すぐ尼の新宮へ行って、その宝殿を壊して御神体を奪って、本宮に安置し奉るべきである」と言って、大勢の神人らが集まって気負い立ち、かの粟田口の新宮に押しかけて、尼が夜昼構わず崇め奉る新宮の宝殿をすべて打ち壊し、御神体を奪って本宮にお遷しし、護国寺(石清水八幡宮の境内にあった寺。)に安置し奉った。
こうしたことがあり、その御神体は今も護国寺に安置されていて、霊験あらたかである。粟田口の放生会は、その後絶えてしまった。
その尼は、もともと朝廷の許可を得て行っている放生会ではなかったので、訴えることはしなかった。
ただ、世間ではこの尼を非難した。本宮より、「日延べして他の日に行え」と言われたことに従って、他の日に行うようにしておれば、今も両宮で放生会が行われていたであろう。やたらと我意を通して、日を変えなかったことが悪かったのである。
しかし、それもしかるべき[ 欠字あるも不詳。]事であろうか。大菩薩を崇め奉ると言いながら、古来尊ぶべき放生会であるのに、それを競い合うようにするのを、大菩薩が「悪いことだ」とお思いになったのであろうか。
その後、本宮の放生会はいよいよ盛大で、今に至るまで栄え続けている。
此(カク)なむ語り伝へたるとや。
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