小さな小さな物語 目次
NO.1801 新しい朝
1802 人も逆送する
1803 誰のせいでもないが
1804 選択の自由
1805 散らぬ間に行け
1806 高齢者が優しい社会
1807 天使もいるが悪魔もいる
1808 謙虚であれ
1809 AパターンBパターン
1810 プチ政権交代か?
1811 アホとバカの境界線
1812 ブレない男
1813 一生懸命頑張ります
1814 無我の境地
1815 それにつけても金の欲しさよ
1816 どっこいしょ
1817 理想への道中
1818 田毎の月
1819 人間到る処青山あり
1820 新たな政治体制への転換点
台風10号は迷走を続けていましたが、ようやく熱帯低気圧となり、当地から離れていきました。熱帯低気圧になった後も、なお広い地域に豪雨をもたらしているようで、今しばらく油断が出来ません。
わが列島の宿命とはいえ、毎年繰り返す台風の被害は、何ともやりきれない思いの繰り返しです。
ただ、ありがたいことに、台風の予報は年々精度が上がっていて、被害を抑えるのにずいぶん役立っていると思われます。正確な比較はなかなか難しいと考えますが、少なくとも人命に関しては、相当役立っていると思われます。その一方で、物的な被害は、なかなか予報の精度向上と比例して改善されるというわけには行かないようです。
土砂災害や河川の氾濫などは、個々の発生箇所だけ見ますと、事前に対策は出来ないものかと感じることもありますが、わが国全体ということになりますと、そうそう簡単なことではなさそうです。当面は、被災者への手当てや復旧工事の強化といった後追いの対策強化が現実的なのでしょうか。
幸い、当地は、何日にもわたって強風圏内にありましたが、少々激しい雨に見舞われた程度で無事に台風は去ってくれました。
それでも、三日間程度は朝の散歩も庭作業もまったく出来なくて、生活のペースがかなり乱されました。
そして、今朝(本稿は9月2日に書いています。)は、久しぶりに日常が戻ってきた感じです。朝の散歩時には、雲が多く小雨がぱらつく時間もありましたが、日頃たいして注目して見ることもない散歩コースが、四日目ぶりだというだけで新鮮な感じを受けました。
「新しい朝だなあ」なんて、オーバーなことを考えながら、蒸し暑さに汗を流しました。
少し日があいたからといって、散歩ごときで、「新しい朝だなあ」などと考えること自体、我ながら大げさすぎるとは思うのですが、考えてみますと、私たちは、毎日毎日「新しい朝」を迎えていることになります。
この世に生を受けて、今朝が何回目の朝なのかは数えていませんが、その朝ごとがすべて「新しい朝」であることは確かなことです。
これまでにも、何かの節目の時には、その朝を特別に意識したこともあったような気がしますが、ほとんどは、朝は朝でしかなく、若い頃には、その日のことを考えると憂鬱になる朝もありましたが、最近では、感動することもない変わりに、憂鬱になることもなく、淡々と朝を迎えていたように思います。
無意識のうちに迎える朝が幸せなのか、ある種の感激を持って迎える朝が正しいのかは微妙なところですが、考えるまでもなく、私に残されている「新しい朝」はそうそう多くはありません。
わずか三日、四日散歩に行けなかっただけで、「新しい朝」がいやに気になることを考えますと、何とはなく迎えていた朝、つまり日常というものは実にもろいものだと感じました。今回の台風においても、多くの方が相当の被害に遭っていらっしゃって、その方々は日常を歪められていることでしょう。
それでも、「新しい朝」は律儀に、そして残酷なまでに規則正しくやって来ます。
私たちは、夜寝る段階では、次の朝を約束してくれているわけではないのですが、朝起きたときには、「新しい朝」はやって来ているのです。
少々理屈っぽくなりましたが、「新しい朝」をもう少し大切に迎えようと教えられました。
( 2024.09.03 )
高速道路などで、逆走する車のニュースが増えているような気がします。悲惨な事故も幾つか発生しています。
一般道路でも、中央に分離帯がある道路だと同様だと思うのですが、突然前方から逆走してくる車に遭遇した場合、どう対応すれば良いのかなどと考えますと、ぞっとします。
高速道路ならもちろん、中央分離帯がある道路などであれば、制限速度内であってもそこそこスピードが出ているはずです。正面衝突の危険を感じた場合、ブレーキを踏んだからといって避けられそうもありませんし、ハンドルで逃げるのも、交通量が多ければ相当危険です。まさか、向かってくる車と同じ早さでバックすることが出来ないでしょうし、急ブレーキを踏むだけでも後続車に追突される可能性があります。
反対に、逆走している運転手は、全く気がつかないものなのでしょうか。何らかの不注意で、逆走路線に侵入してしまうことはあるかもしれません。しかし、少し走れば、普通は気がつくのではないでしょうか。その段階で車を止めるとか、隙を見てuターンさせるとか、事故を防ぐ手段を取るのが普通だと思うのですが、何とも怖ろしい状況です。
個人的な経験として、確かに逆走路線に突っ込みそうになる道路はあるように思います。そうした道路に対する改善余地はあると思われますが、やはり、健康面も含めた個人の責任の部分が大きいとしか言えないでしょう。
車の逆走の恐ろしさは誰にでも分ると思うのですが、実は「人の逆走」も同じように危険で、なかなか目に見えないことが多いのが、さらに厄介なのです。
社会生活を送る中で、ごく当然のルールさえ守れない人は数多く存在しています。かく申す私も、おそらく、無意識のうちに、時には承知の上でルール破りを行った経験を否定できません。
しかし、これが、然るべき立場の人や多くの人に影響を及ぼす可能性のある人となれば、車の逆走を遙かに超える被害者を出す可能性があります。すれ違った人を傷つけ、もっと身近に接した人は、人生を歪められ、命を落す例も少なくありません。
そのような惨事をまき散らしながらも、本人はなかなか逆走をやめようとしません。逆走に気付いていないのか、気付いていても、相手が避けるのが当然だとでも思っているのかもしれません。
かつて、ある仕事を通じて、いわゆる金融屋と呼ばれるような人物と話す機会がありました。表面的な付き合いでしたが、ある相談を持ちかけられたことから、仕事を離れて少し突っ込んだ話になったとき、「でも、周囲の目も気になるでしょう?」という私の質問に対して、その人は、「わしの仕事は、あなたなどとは大分違う。あなた方は、右を見て、左を見て、さらに過ぎ去った出来事を参考にして、ようやく、そろりと足を出す。わしらは、そんなことでは飯は食えない。少々の危険は覚悟の上で、ただ、前に向かって突っ走るだけだ。後ろなんか見ない。わしが歩いてきた景色など、思い出したくもない。わしが睨んでいるのは、薄ぼんやりとした前だけなんだ・・」と淡々と話してくれました。
その後、間もなく私は転勤し、その人と接する機会はなくなりました。
その人は、法律に則った企業を経営していましたが、その歩いてきた道は、私などの想像を遙かに超えた過去を経験しているのでしょうが、それらを見返ることなく、「薄ぼんやりとした前」だけを睨んでいる、という言葉に、その時は引き込まれました。
しかし、それはその時だけのことで、遠い過去のことになりましたが、考えてみますと、「右を見て、左を見て、過ぎ去った過去に引きずられながら、恐る恐る半歩足を出そうとする」というのは、仕事だけでなく、私の生き様そのものを彼は指摘していたのかもしれません。
年を重ねるにつけ、自分の生き様に忸怩たる思いがあることは否定できません。
しかし、少なくとも、車を運転するにあたっては、「前方ばかりでなく、右も左も後方も」見る必要がありますし、然るべき立場にある人であれば、そうした確認はもちろんのこと、いつの間にか逆走しているのではないか、もしそうであれば、止まってみる勇気を出すことを、常に確認すべきだと思うのです。
( 2024.09.06 )
自民党総裁選挙は、12日の告示を前にすでに六人が立候補を表明しており、さらに数人の立候補が実現しそうです。20人の推薦人というのは簡単な条件ではないようで、立候補への強い意志がありながら、未だ推薦人確保が出来ていない人もいるようです。
推薦人は、自民党の衆参国会議員に限られていますので、現在367人いますから、立候補を目指すからには、20人程度は当然支援者はいるようにも思うのですが、現実には、ごく一部の人を除き、そうそう簡単ではないようです。
計算上は、最大17人が立候補できるのですが、1人で50人ほども確保している人がいるかもしれませんし、「支援はするが、推薦人として名前を連ねるのは困る」という人が、結構いるようです。今後の政治活動上、支障を来たすことを懸念しているのでしょうね。
自民党員でない私などは、全く関係のない選挙なのですが、そうとはいえ、この選挙結果は岸田現首相の後任を決める選挙でもありますから、無関心でいるわけにもいきません。
それに、立候補予定者の一人である小泉進次郎氏は、もし総裁選に勝利した場合は早期に解散すると明言しています。今後の論戦にもよるでしょうが、どうやら、誰が総裁・首相になっても、早期解散の流れになりそうな気配です。つまり、すでにスタートしている立憲民主党の代表選挙も含めて、衆議院選挙の参考となる事象がたくさん見られるかもしれません。
自民党総裁選挙に限った場合、あと数人立候補者が増える可能性がありそうですが、そこに女性が入っていれば、四十代の若手、女性、ベテランと実にバラエティーに富んだすばらしい選挙になりそうです。
大見得を切っている公約がそう簡単に実現させることが出来るとは思いませんし、すでに、当初の発言を微妙に修正している人もいますので、何もかも鵜呑みには出来ないかもしれません。
しかし、立候補されるそれぞれの方々の主張は、それぞれの方々が描いているわが国の進路の一端を表現しているのだと思われます。現時点では、裏金問題という国家の将来像という面からはまことに貧弱なテーマに乗っ取られがちですが、どういう姿を思い描かせてくれるのか楽しみにしています。
民主主義政治というものを正しく理解できているわけではないのですが、わが国は、少なくとも国政・地方政治ともに、選挙を基盤として行われているということは間違いありません。その選挙制度その物が万全とは言えないかもしれませんが、選挙は概ね公正に行われ、投票に足枷が付けられることもありません。
しかし、残念ながら、選出された議員や首長の中には、とんでもない人物も混じってしまいます。チマチマとした物欲に汲々としたり、選出された地位の重さや権威を勘違いする人物が、どうも目立つような気がしてなりません。しかも、その誰もが、私たち国民が選んだ人ばかりなのです。
それも民主主義政治のコストだと言われると反論できないのですが、わが身は逃げ切れるとしても、次の世代が蝕まれている状態を知らぬ顔をしてはならないと思うのです。
今少し、地方政治を含めて、政治に関心を持つべきだと思えてなりません。
( 2024.09.09 )
自民党総裁選挙は、本日が告示日です。すでに9人が立候補を表明していて、大変な乱戦が予定されています。
投開票日は27日なので、なかなかの長期戦のような気がします。もっとも、立候補を決めていた人にとっては、推薦人集めに苦慮した人もいるようですから、すでに選挙戦としては中盤に達しているのかもしれません。
第一回目の選挙は、国会議員票367票と党員票367票の合計で争われます。おそらく、国会議員の投票先は九割以上が決まっているでしょうから、党員票をいかに獲得するかが主戦場になっているように伝えられています。
第一回目の投票で、過半数を獲得する人がいない場合は上位の二人で決選投票となります。決選投票では、国会議員票367票と都道府県連票47票の合計の争いとなりますので、国会議員票の動向が圧倒的な比重を占めます。
告示後の選挙戦では、有力者は、決選投票に向けた議員票の奪い合いが主体になるのかもしれません。
自民党員でない私などは、テレビなどの報道をもとに、あれやこれやと楽しませていただくだけなのですが、この選挙が実質的には新首相選定の選挙ですから、単に楽しんでいるというのも何とも歯がゆいことです。
せめて、自民党所属の国会議員や党員の方々に最良の選択をして下さるよう願うばかりです。
立候補した方々は、自民党そのものの改革や政治体制の改革、さらにはわが国の将来を憂いてお立ちになったと思うのですが、それもこれも、この選挙に勝利してこその事となります。そして、勝利するのは一人だけですが、今後の政権を機能させるためには、党内の力を結集させる必要があるでしょうから、表面上の戦いとは別に、決選投票に向けての思惑が渦巻いていることでしょう。
いずれにしても、立候補者も含めた自民党員の方々に、優れた選択を示して下さることを期待しています。
今回の選挙において、「選択的夫婦別姓」が一つのテーマになっていることが気になっています。この問題が表面化して久しいと思うのですが、なかなか結論に至らないようです。「女性が結婚によって姓を変えることの不利」な面があることだけを考えれば、何でそんなに難航しているのかと思ってしまいますが、「子供の姓をどうするのか」「戸籍制度をどうするのか」などと考えていきますと、なかなか厄介です。
そして、米国においては、昨日、大統領選挙のテレビ討論がありましたが、このテーマの中にも、「人工妊娠中絶」の選択をめぐる問題が大きなテーマになっています。
これに象徴されるように、世界中で、大きな対立を生むような『選択』を迫る問題が多発しているような気がします。
「選択の自由」は、私たちの幸せな生活において大きな意味を持ちますが、何もかも自由というわけにはいかないらしいことは、両国の政治テーマになっていることで分るような気がします。
私たちの日常も、常に「選択」を求められています。
その多くは、「食事のあとでコーヒーにするか紅茶にするか」「雨傘を持っていくか否か」といった程度のものが大半ですが、時には苦しい選択を迫られることがあります。
テーマにもよりますが、苦しい選択や厳しい選択を迫られたときにこそ、その人の品格や知恵が表面化するような気がします。
他人様が選択を迫られている姿には、好き勝手に、まるで正義の味方のような意見は言えるものですが、時には、わが身に置き換えて、謙虚な気持ちで自身を磨くことが必要なのでしょうねえ。なかなか出来ないのですが・・・。
( 2024.09.12 )
人間の目は、前方を見ることを第一とする構造になっているように思われます。
専門的な知識に基づいていませんので、その点はご承知いただきたいのですが、身体そのものを動かさなくても、頭を少し動かすだけで、左右上下の視野をかなり広めることが出来ますし、後方もかなりの部分を確認することが出来ます。
さらに身体そのものまで動かせば、視力そのものや障害物の有無といった条件が付くとしても、かなりの物を確認することが出来ます。
私たちの身体には幾つかの感覚器官があり、もしかすると第六感と呼ばれるようなものも大きな働きをしているのかもしれません。
その中で、目が前方を見ることを第一にしているのは、何か意味があるのでしょうか。獲物を見つけるためなのか、敵をいち早く確認する為なのか、それとも未来に向かって第一歩を踏み出すためなのでしょうか。
ただ、いずれの目的だとしても、あるいはそれらの全てのためであったとしても、前方だけでは不足であることを想定して、左も右も上も下も、そして後ろも見ることが出来るように身体を動かせるように造物主(そうした存在が居ればですが)が備えてくれていたのでしょう。
しかし、残念ながら、私たちは自分の背中を見ることが出来ません。とても柔軟な身体の持ち主や、鏡があるではないかという意見もあるでしょうが、ふつうは実体の自分の背中を見ることが出来ません。これは、造物主の手落ちなのか、あえてそうしたのか、ぜひ確認したいものです。
私たちは、少しでも前に進もうと懸命な毎日を過ごしています。まるで、今進んでいる一本の道しかないように、必死になって歩いているうちに、心ならずも、多くの人を傷つけ犠牲を強いているかもしれません。そうした澱(オリ)のようなものが背中にこびりついていても、私たちは見ることが出来ません。しかし、後ろに続いている人には、前の顔は見えなくても、背中は丸見えなのです。
好意を持ってくれている人や心ある人であれば、その澱の存在を教えてくれるかもしれません。その声は、後方からであっても聞こえるのですが、私たちの耳は、痛い言葉は聞き取りにくくなっているようです。
「人の行く裏に道あり花の山」という名句があります。
今日では、この句は相場(株式投資)の名言として知られています。「人と同じ手法では、大きな成果は得られない」といった意味で使われているようですが、実は、この句は、あの利休の句の一部なのです。
「人の行く裏に道あり花の山 いずれを行くも散らぬ間に行け」というものです。
全体としても相場の格言として立派なものですが、おそらく利休は、人生訓として後世に残してくれたものだと思うのです。
私たちは、今立っている場所にこだわりがあり、今歩いている道が唯一の道だと思いがちです。けれども、本当は裏道があり、そこには美しい花が咲いています。
私たちは、それも、指導的立場にある人ほど、背中の澱を伝えてくれる声を耳にした時には、立ち止まり、今歩いている自分の姿を冷静に見直すべきなのです。そして、場合によっては、勇気をもって別の道を模索すべきだと思うのです。ただし、そのチャンスはそうそうあるものではなく、「散らぬ間」に決断することが必要だと、利休は教えてくれています。
心したいと思います。
( 2024.09.15 )
9月16日は「敬老の日」でしたが、周囲でどういう行事がありましたか。
私が属している町内会では、75歳以上の人に対してカステラが贈られました。5~6百円の物ですが、十年以上続いています。市からの補助金らしいものもあったのですが、支援条件が難しくなり、当町内会は数年前から受け取っていません。受け取る人の数は年々増えていますので、乏しい町内会会計は厳しくなりつつあります。
以前は、町内会とは別に、「老人会」という親睦団体もありましたが、これも数年前に解散しました。入会者が減ってきたことと、世話する人、つまり役員のなり手が減り、自治会の上位の役員が全て高齢者であることもあって、消滅に至りました。
そして、今日は9月18日ですが、身の回りで、高齢者に関する行事や話題は何か出ていますでしょうか。
もっとも、こうした事は何も「敬老」に関してだけでなく、何々記念とか、あれから何年といった物の多くはそういうもので、1年365日の中には、かなりの記念日などがありますから、そうそう関わっていられないというのはよく分ります。たとえ1日でも拘ってもらえる記念日は、まだ結構だと言うことかもしれません。
それでも、敬老会の当日には、テレビでは各地の催しの様子が幾つも伝えられていました。幼い子供たちがお年寄りたちにお手紙を書いたとか、ちょっとしたプレゼントしたとかといった、あたたかな話題は、見ていてとても嬉しいものです。まあ、動物園などで、高齢の動物にプレゼントしているニュースの方が、視聴率が稼げるという話もあるらしいですから、複雑な気持ちもありますが、「高齢者に優しい社会」は、やはり良いものだと思います。
敬老の日の新聞には、高齢者の数がこれまで最多の3,625万人になったという見出しが大きく出ていました。65歳以上の人の人口を指していますが、総人口の29.3%で先進国で突出しているそうです。さらに、まだまだこの比率は高くなり、2040 年には34.8%まで上昇する見込みだそうです。
敬老の日はご承知の通り国民の祝日の一つですが、その法律には、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としています。
ところが、残念ながら、一面のかなりのスペースを割いているその記事には、老人への敬愛のかけらも見受けられず、高齢化社会の大変さを述べ続けているように見受けましした。
私たちの社会は、果して「高齢者に優しい社会」なのでしょうか。
高齢化社会が、若い人への負担を増大させ、社会全体を疲弊させると考えるのであれば、高齢者の数を減少させ、全人口に占める比率を低下させるしかありません。その為に、「姥捨て山政策」が取れないのであれば、高齢者の定義を変更させるしかありません。すでに医療保険制度では、前期高齢者と後期高齢者を75歳で区切っていますが、例えば、これを参考とするならば、75歳までの労働環境を劇的に整備を進めるべきだと思うのです。折から、自民党総裁選挙では、各候補者が働き方改革も話題にしていますが、75歳までの人が快適とまではいかなくとも、それなりの生きがいと経済的利益を得られる環境を構築して欲しいと願います。
そして、同時に、高齢者となり、あるいは差し掛かろうとしている人たちは、「あれも欲しい、これも欲しい」はそこそこにして、別の価値観を手にする必要があります。
「高齢者に優しい社会」は豊かで心温まる社会です。わが国の伝統としてそうした社会を守っていきたいと思いますが、わが国の現状を考えたとき、ここは一つ覚悟を決めて、「高齢者が優しい社会」の構築に向かうべきではないでしょうか。
( 2024.09.18 )
いやいや驚きました。
昨日の大谷翔平選手、あっという間に「50-50」を達成し、「51-51」まで記録を伸ばしました。「40-40」を達成したとき、その快挙に喝采した一人ですが、その時点で、その次は「45-45」だと、さらに次の目標を掲げる声が報道されていましたが、「言うのは勝手だが、贅沢な願いだ」なんて思っていました。
しかし、そうした多くの人々の願いなどを軽々と飛び越えていきました。
確か「47-48」の頃の事でしたが、ある解説者の方は、「50-50」の達成は五分五分より低いような見通しをされていました。これまでのペースから推し量れば達成可能の状況でしたが、プロ野球経験のないコメンテーターなどは、十分可能だと勇ましい意見が多かったようです。そのプロ野球経験者の方の意見としては、「同じ1本のホームランでも、49から50への1本は重さが全く違う。これまでの名選手の多くは、その壁に苦しめられた」と理由を述べ、「大谷選手も人の子であれば、その壁に苦しめられるはずだ。もし、楽々とその壁を越えるようであれば、それは人間業ではない」と強調されました。
もちろん、その方の発言にはウケを狙った部分あるのでしょうが、大谷選手はその壁を数十分で越えてしまいました。でも、やはり大谷さんは人間でしょうねぇ。
昨日は、兵庫県知事の不信任案可決を受けての対処方法も話題を集めていました。
議会から不信任を突きつけられた知事には、「議会を解散させる」「辞職する」「失職する」の対処方法があります。「議会を解散させ、自らも辞職する」方法もあるようですが、いずれにしても、「議会を解散させる」のは、今回の場合は大義名分がなく、不用な資金が掛る、として反対を述べる解説者などが多いようです。中には、「これだけ常識外れのことを行ってきた知事なので、どう動くが分らない」という意見を述べる人もいるようです。
この話題には、もうあまり触れたくないのですが、問題視されている一連の経過の中で、お二人の方が亡くなっていることは事実ですから、知事や議員の今後がどうなろうとも、その関係性などについて厳正な調査が行われるべきだと思います。
この地球上には多くの人々が生活しています。当然様々な価値観の人々がおります。
ある人から見れば「白馬に乗った天使」であっても、別の人から見れば「悪魔が天から降りてきた」と見えるかもしれません。また、同一人物であっても、ある人には天使に見えある人には悪魔に見えるかもしれませんし、その人物自体も、時には天使となり時には悪魔になるのかもしれません。
この社会には、とんでもない英雄的な人物は存在していますし、とんでもない悪魔のような人物も存在していますが、ほとんどは、少しばかり天使の性格を持っており、少しばかり悪魔の性格を持っているのではないでしょうか。
大切なことは、その微妙な性格をどう生かし、どう抑えることかなのでしょうねぇ。
かつて、ある企業経営者の方が、このようなお話をして下さいました。
「社員の中で、会社に大きく貢献している社員は2割に過ぎない。2割の人は、会社にとっては重荷になっているだけで、残りの6割の人は、何とか自分の食い扶持を稼いでくれているかどうかという社員たちだ」と。
当時、こうした理論を述べる人はいましたので、特別目新しい話でもありませんでした。ただ、そのお方は、さらに言葉を続けました。
「出来る社員をさらに伸ばすのか、重荷になっている社員を切り捨てるのか、その中間の多くの社員の底上げを図るのか、それによって経営者の資質が評価されるのだと思う」と。
私たちの日常生活の、ちょっとしたグループにおいても、同様の傾向はよく見られます。もし、リーダー的立場であればリーダーとして、重荷になっている立場であればその立場で、どのように身を処するのかが、知恵であり品格であるように思うのです。但し、重荷の立場にある場合は、なかなか自分では認識できないようですよ。
( 2024.09.21 )
立憲民主党の新代表は野田佳彦氏に決定しました。ほぼ、事前の予想通りの結果に終わりました。低迷気味の党勢をどのように立て直すのか、元首相の手腕が問われるとになるのでしょう。
自民党総裁選挙の方も終盤に差し掛かっていますが、こちらは、当初の予想から少し変化が見られるような報道が増えてきています。こちらは、一自民党の代表というばかりでなく、次期首相を選ぶことになるわけですから、やはり、かなり気になります。投票権がある方々の賢明な判断を願っています。
二つの代表戦が報道され、わが県に関連しては知事の不信任案が成立という問題もあり、政治について考えさせられる機会が度々ありました。さらには、海の向こうとはいえ、米大統領選挙も、民主党大統領候補がハリスしに変ってから状況が変化しており、直近の全国的な世論調査では、若干ハリス氏が優位に立っていると報じられています。もっとも、米国の大統領選挙は、独特の選挙方法が行われていて、ほとんどの州では、1票でも多くの票を獲得した候補者がその州に割り当てられている選挙人数を総取りする方法がとられており、しかも、8割以上の州では伝統的に支持政党が決まっているようです。つまり、今日から変化する可能性がある州は、7州前後と言われていますから、全国総計の世論調査はあまり意味がないようです。
お陰様で、テレビでの断片的なものですが、多くの方々の主張や考え方、あるいはコミュニケーションの取り方の技術や巧拙などを勉強させていただきました。
例えば、同じ自民党員といっても、九人のお方が立候補すると、考え方にかなりの差があることがよく分ります。また、そうでなければ困るので、全員が同じ方向を見ているようでは、わが国の民主主義が心配になります。同時に、厳しい争点となっている事項については、党内を取りまとめるのは大変なことでしょう。
そう考えますと、派閥解消を断行し、今は一つだけが残っている状態ですが、派閥という名前はともかく、いくつかのグループでの意見集約が必要と考えられ、裏金問題のような仕組みは論外ですが、グループは必ず復活することでしょう。
それぞれの主張や意見を聞かせていただいていますと、個人的な好き嫌いもあるにはありますが、それぞれに魅力を感じます。一度、この国の舵取りを任せてみても良いのではないか、という気がする瞬間が起ります。
さすがに、資質もあるのでしょうが、政界という厳しい社会で磨かれてきた方々だけに、どなたにも光るものを感じました。
ところが、残念ながら、そうした光る物がありながら、その反面で多くの犠牲を強いながら我が道を行くという人物も決して少なくないことも現実と思われます。
わが兵庫県は、目下、まことに恥ずかしい状況に陥っています。
大阪の知事と市長を経験された松井一郎氏は、兵庫県知事に関する番組で意見を求められ、その中で、「知事に最も必要な資質は?」という質問に対して、「謙虚さでしょう」と即座に答えられました。そして、知事に限らず、地位が高くなればなるほど謙虚さが重要になる、といった意見を述べられていました。
権限など何もない身ですが、心に刻んでおくべき言葉だと思いました。
( 2024.09.24 )
注目の自民党総裁選挙は、本日投開票が実施されます。
午後には新しい総裁が選出され、新しい首相が実質的には決定となります。
昨日までの様々な予想によれば、第一回目の投票で決定することはまずなく、上位二人による決選投票が確実視されています。ただ、その上位二人への戦いは、かなりの接戦のようで、予想している機関によって順位は少しずつ違っています。
党員票はすでに終了していますから、後は国会議員票の奪い合いということになりますが、昨夜は各所で大変な駆け引きが行われていたのでしょうし、その流れは、今現在も続いていることでしょう。
下馬評は、上位三人による三つ巴となっていますが、三位では決選投票に進めませんから、「二位でも良いんです」が、これが簡単に票読みができないようです。
特に、今回は九人が立候補しており、下位の六人はほぼ決選投票に進むのが無理なのは、それぞれの陣営は承知しているでしょうから、第一回目からの投票から他陣営の支援に入る手段もあるように思うのですが、あまりひどい成績だと今後の政治活動に影響があるかもしれないので、そうそう早く白旗を揚げるわけにはいかないようです。
さらに、決選投票ともなれば、下位六人の陣営に加え、三位となった陣営も加わって、決選投票でどちらに入れるかを考えておく必要があります。
麻生派を除き派閥は解消されたことになっていますが、現実としては、かつての派閥内が幾つかに分かれているとしても、相談し合う仲間はいるでしょうし、立候補者を支援している人たちは、それぞれが仲間意識を持っているでしょうから、投票行動についても意思疎通を図ることでしょう。
第一回目の結果が判明してから、決選投票に移る時間はほとんどありませんから、前もって意思を固めておく必要がありそうです。
かつての総裁選挙においても、決選投票の場合にどういう行動を取るか、様々な作戦がとられたり、支援する相手に自分が支援していることを明らかにしておく必要がありますから、様々な手段が取られたと伝えられています。
この場合は誰に、この場合には誰々にといったように、Aパターン、Bパターンといったように決めていたのでしょう。
ところが、今回の場合は、上位三人のうち誰と誰が決選投票に残るか判断が難しい状態ですから、「Cパターン」も用意しておく必要があることになります。しかも、新総裁による政権運用に然るべき地位を得るためには、自分がいかに貢献したかを伝える必要がありますから、なかなか大変です。
そもそも、人間模様などと言うものは、複雑怪奇と言わないまでも、そうそう簡単なものでないようです。
交際範囲が極めて狭い私ですが、それでも、長く生きてくるうちに、多くの人と接してきました。積極的にご縁を結びに行った人はごく少なく、ほとんどは職場などの関係で広がっていったご縁で、国政に関わるような社会的に重要な場面に直面したことはありませんが、それでも、人間関係で辛い立場に追込まれたり、それなりの決断を迫られた経験はあります。ただ、Aパターン、Bパターンといった選択の経験はなかったように思います。
立候補しているご本人はもちろん、いずれかの陣営について票読みや自陣の引き締め、他陣営からの引き抜きと大活躍されている人も少なくないことでしょう。選挙は勝たなくてはいけませんし、ルール内であれば可能な限りの手段を尽くすのは当然のことでしょう。
ただ、与党である自民党総裁選挙は、首相となり組閣し、わが国民を守っていただかなくてはなりません。決選投票になればどのパターンで行動するかも大切ですが、一票を投ずるお方は、その頭の片隅には、この国の首相に最良と思われる人を選ぶ意識は持ち続けて欲しいと願っています。
( 2024.09.27 )