『 もう がっかり・・ 』
石破首相の 商品券贈与が問題視されている
首相は 「法的に問題ない」「初めてではない」
などと 弁明しているようだが
金権政治云々で 国会の討議時間を無駄遣いしている最中
10万円など ほんの手土産だとばかりに
配布する神経が どうしても理解出来ない
もう がっかりで 好きなようにしていただきますか・・
☆☆☆
「字余り」って、何とも味のある言葉だと思われませんか。
ご承知の通り、「字余り」とか「字足らず」というのは、俳句や短歌において、規定よりも文字数が多かったり少なかったりするものを指します。
「破調」という言葉もありますが、俳句などにおいては、字余り・字足らずに加えて、切れ目と言葉の意味が一致しない場合も、定型から外れた破調となるようです。
私は、俳句も短歌も本格的に学んだことはありませんが、かつて、先輩に俳句に熱心な人がいて、むりやりに誘われて句会に何度か参加した経験はあります。
きっと私だけではないと思うのですが、俳句の初心者の場合、目にした光景や心に浮かぶ思いなどを表現すること以上に、「5・7・5」と指を折って、字数(正しくは音数)を合せるのに神経を注いでいたような気がします。
俳句の魅力は、僅か「5・7・5」の17文字という制限の中に、季語を詠み込んでピリッとした作品に仕上げることにあると思うのです。
ところが、字余りも字足らずも、季語無しさえもOKだと言うのですから、私の苦労は何だったのかと思うことさえありました。
幾つか例を見てみますと、
『 かれえだに 烏(カラス)のとまりけり 秋の暮れ 』
『 芭蕉野分けして 盥(タライ)に雨を 聞く夜かな 』
この二句は、いずれも松尾芭蕉の作品です。それぞれに味があることは認めるとしても、「5・7・5」に苦しむ素人にすれば、「芭蕉が詠んだから俳句になったのだろう」と思ってしまいます。
こんな句もあります。
『 夜桃林を出て 暁に嵯峨の 桜人 』 (ヨルトウリンヲデテ アカツキニサガノ サクラビト)
これは、与謝蕪村の作品ですが、これなどは漢詩の仲間という気さえしてしますます。
どうも、ぼやきばかりになってしまいましたが、実は、「字余りでなければこの句は輝かない」と思わせる句も数多くあるようです。
幾つか紹介させていただきます。
『 旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる 』 松尾芭蕉
『 白梅に 明くる夜ばかりと なりにけり 』 与謝蕪村 辞世の句とされる。
『 ざぶりざぶり ざぶり雨降る 枯野かな 』 小林一茶
『 雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る 』 小林一茶
『 目に青葉 山ほととぎす 初鰹 』 山口素堂 季語が三つ
こうした名句を見ますと、「規則破り」だと声を荒げるのは正しくないように思われます。
もちろん、俳句に限らず、さまざまな芸術やスポーツなどにおいて、規則を守らないことには成立しなくなることがあります。規定をはみ出すにしても許容の限度はあることでしょう。
私たちの日常も全く同様のような気がします。
一言多い人は、嫌がられる場合が多いですが、もしかすると、「字余り」的なヒットを放つかもしれません。
三言も四言も多いさる指導者には世界中が振り回されていますが、もしかすると、大事を成就させてくれるかもしれません。
私たちは、出来る限り、定められたルール内での振る舞いを心がけたいと思いますが、同時に、少々の規格外れを、全く疎外してしまうことも正しくないのかも知れません。字余りの句が、それだからこその輝きを見せることもあるのですから。