雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

二条の姫君  第十回

2015-06-30 09:57:55 | 二条の姫君  第一章
          第一章  ( 九 )


初秋の頃、御所さまの御正妃東二条院さまのお産が、角の御所でなさることになりました。
二条の姫君も女房のお一人として伺候されておりましたが、御歳も四十歳と少しご高齢ですし、これまでのお産でも難産だったことから、お世話の方はじめみなさま大変なご心配で、大法秘法は残りなく行われました。
それらの修法とは、七仏薬師、五壇の御修法、普賢延命、金剛童子、如法愛染王などだということです。五壇の軍茶利の法は、いつもは尾張国の負担で勤められていましたが、この度は格別に御所さまの御志を添えてということなので、金剛童子の修法は二条院の姫君の御父上である久我大納言殿がお世話することとなりました。その御験者には常住院の僧正が参上されました。

二十日ほど過ぎた頃、「産気づかれた」ということで、みなみな大騒ぎとなりました。
「もうすぐだ、もうすぐだ」と言いだしてから、すでに二、三日過ぎておりましたので、誰もが心配で心配で堪えがたいほどになっておりましたが、どうしたことか「ご様子が変だ」と御所さまに申し上げたらしく、御所さま自らおいでなりました。

東二条院さまはたいそう弱っておられるご様子なので、御験者をすぐ近くに召して、僅かに御几帳だけで隔てている様子です。
如法愛染の大阿闍梨として、仁和寺の御室が伺候されていましたが、
「女院はお命も危険な様子に見える。如何すればよろしいのか」
と御所さまが申されると、御室は、
「寿命をも延命させるのは、仏菩薩のご誓願でございます。さらさら大事はございません」
と申されて、ご念誦に添えて、御験者は、同院の開基証空の命に代えられたというご本尊でしょうか、絵像の不動尊を御前に掛けて、「奉仕修行者・・・」と不動経の偈を唱えて、数珠を押しすって、
「我は、幼少の昔は念誦を唱えて床に一夜を明かし、成人となった今は、難行苦行に日を重ねている。ゆえに信心が通じ仏のご加護が空しいことなどあるはずがない」
と、数珠をもみにもんで身を伏せると、すでにご出産の気配が感じられたのに力づけられて、ご祈祷の激しさはさらに増して煙が立ち上る程でありました。

女房たちが単衣襲(ヒトエガサネ)、生絹(スズシ)の衣をそれぞれ御簾の前に押し出しますと、御産奉行が手に取って殿上人に与えます。そして、それを上下の北面の武者が、それぞれご誦経を勤めた僧たちに差し上げています。
階(キザハシ)の下には公卿が着座して、皇子御誕生を待ちかまえている様子です。
陰陽師は庭に八脚(ヤツアシ・神への供え物をのせる台)を立てて、千度のお祓いを勤めています。殿上人がお祓いに用いた形代を取り次いでいます。女房たちが御簾の下から袖口を出して、それを受け取ります。
御随身や北面の武者は、神馬を引いてきます。

御所さまの御拝礼が行われ、祈願を立てられた二十一社へお引かせになられます。
人間としてこの世に生を受け、女の身を得たからには、このようにありたいものだと、つくづく思う光景でございます。

七仏薬師大阿闍梨が召されて、伴僧の三人は特に美声の僧ばかりで、薬師経をお読ませになられました。
「見者歓喜」というあたりを読む時に、ちょうどご出産なさいました。
まず内外の人々が「ああ、おめでたい」と申しているうちに、女御子であることを告げるべく、甑を内に転がしたことは残念ではありましたが、御験者たちに禄が順々に与えられたのは、いつもの通りでございます。

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二条の姫君  第十一回

2015-06-30 09:56:51 | 二条の姫君  第一章
          第一章  ( 十 )


東二条院さまが御出産された御子は、この度は姫宮でしたが、祖父の法皇さまは特別可愛がられていらっしゃいました。
この法皇さまと申し上げますのは、第八十八代の後嵯峨天皇のことでございますが、後深草上皇並びに現亀山天皇の御父上で、法皇となられました今も実質的な治天の君でございます。

五夜、七夜のお祝いなどもことさら盛大になさいましたが、七夜の夜、お祝いが終わって御所さまの常の御所でお話などなさっておりました時のことですが、丑の時の頃(午前二時頃)橘の御壺と呼ばれている御庭に、ちょうど大風が吹く時に荒磯に波が打ち寄せるような音が激しくし始めたのです。
「何事ぞ。見て参れ」
との御所さまの仰せに、二条の姫君らが見に行きました。
すると、頭は海坊主とでもいうのでしょうか、盃ほどの大きさのものや、陶器ほどの大きさのものなどが、青みがかった白い色の物が、次々と十ばかりも現れて、尾は細くて長く、おびただしい光を放っていて、飛んだり跳ねたりしているのです。
姫さまたちは、「ああ、怖ろしい」と大声をあげて御部屋に逃げ込みました。

廂の間に控えていた公卿たちは、
「何を見てそれほど騒ぐのか。人魂であろう」
という者がいます。
「大柳の下に布海苔とかいうものを溶いて、まき散らしたかのようなものもある」
などと大騒ぎになりました。

すぐさま御占いが行われました。法皇さまの御人魂であるということを、陰陽師が御所さまにご報告されました。
その夜から直ちに、招魂の御祭(遊離した魂を呼び戻す祭り)が行われ、泰山府君(道教で、人の寿命を司る神)などが祭られました。

そうしているうちに、九月になって、法皇さまが御病気だということが聞こえて参りました。御足など御身体が腫れるということで、御灸を次々と据えたりなさいましたが、これというほどの効果はなく、一日ごとに病は重くなっていくご様子でありました。
やがて、この年も暮れてゆきました。

そして、新しい年を迎えましたが、やはり法皇さまの病状は良くならず、新年の諸行事も湿りがちなものとなりました。
正月の末になると、「もう回復は難しいご様子だ」ということで、法皇さまは嵯峨殿にお移りになられました。
法皇さまは御輿にて参られ、御所さまも御幸されることとなり、二条の姫君もその御車の後部に陪乗なされました。法皇さまの中宮であらせられ後深草・亀山両天皇の御母上でもあられる大宮院さまと東二条院さまのお二人は一つの御車に乗られ、御匣殿(ミクシゲドノ・後深草院の女房の一人)は後部に陪乗されました。

嵯峨殿に向かう途中でお飲みになる煎じ薬を典薬係の種成・師成の二人が、御前にて御水瓶二つに調合して入れ、中御門経任殿・北面の武者信友に命じて持参させたものを、内野にて差し上げようとしましたが、二つ共に露ほども入っていないのです。とても不思議な出来事でした。
「それからいっそう御容態が重くなられたように見えます」などと、姫さまのもとにも聞こえて参りました。

御所さまは、嵯峨殿内の大井殿の御所にお移りになられました。
御所さまのもとへは、ひっきりなしに蔵人や女房、上臈・下臈の区別なく「ただいまのご様子は、このようでございます」と申し上げる御使が夜昼休むことなく中の廊下を行き交っていましたが、大井川の波の音が、ひときわ激しいように思われました。

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二条の姫君  第十二回

2015-06-30 09:47:52 | 二条の姫君  第一章
          第一章  ( 十一 )


二月の初め頃になりますと、法皇さまの御病状は、もう時間の問題というご様子でありました。
九日には、幕府の京都の長官である南・北の六波羅探題がお見舞いに参上されました。お見舞いのご様子は、関東申次の要職にある西園寺実兼大納言殿が御所さまにご報告されました。
二条の姫君は、雪の曙殿とお慕い申し上げている大納言殿とは、ほんの少し視線を交わす程度のことだけで、公式の場でございますから、それ以上のお話など望めるはずもありません。

十一日には亀山天皇の行幸があり、十二日はご逗留され、十三日にはご還御と大騒ぎではありましたが、大井殿の御所の内はしめやかで、姫さまたち女房方の話される声も密やかなものになっています。
御所さまも弟君でもあられる天皇とご対面なされましたが、お互いに涙にむせんでおられ、少し離れて伺候している人々も皆が皆涙を浮かべておりました。

そのような時に、十五日の酉の刻(午後六時頃)の頃に、都の方角におびただしい煙が立っているのが見えました。
「どなたの家が焼けているのだろう」
と話しているうちに、
「六波羅探題の南方、式部大輔時輔殿が討たれたそうです。その屋敷が焼かれた煙です」
との報告がありました。あまりにも儚い出来事です。

九日には法皇さまの御見舞いに参られ、今日ともしれぬ法皇さまに先立って亡くなられるなんて、この世が無常であることは今に始まったことではないけれど、まことに哀れな出来事でございました。
その法皇さまは、十三日の夜からは、物を仰せになることもほとんどなくなったとのことですから、このような無常も、ご存じございませんでしょう。

そして、十七日の朝からは、御容態が急変と大騒ぎとなりました。
臨終の際の導師となる御善知識には経海僧正、また往生院の長老も参上し、さまざまな念仏をお勧めし、
「今生においては、十善を行い帝王の位に就かれ百官にかしずかれたのですから、黄泉路も後生もご心配ありますまい。早く上品上生の台(ジョウボンジョウショウのウテナ・極楽往生の九段階のうちの最上位)にお移りになられて、そして娑婆世界の故郷に残された衆生をもお導き下さい」
などと、さまざまにご説教され、教化し申し上げたりされましたが、法皇さまは三種の愛着心(妻子等への愛着、自身の命への愛着、善い所に生まれ変わりたいという愛着、の三つ)に執着されて、懺悔の言葉に往生への道も分からなくなられ、とうとう教化の言葉に妄念をひるがえされるご様子もないままに、文永九年二月十七日、酉の時(午後六時頃)、御歳五十三歳で崩御となられました。
一天はかき曇り、万民は悲しみに沈み、今まで華やかであった人々の衣服はたちまち黒い喪服へと変わってしまいました。

十八日、御なきがらは薬草院殿にお送りいたしました。
内裏からは、頭中将が弔問の御使者として参られました。
御室、円満院、聖護院、菩提院、青蓮院など、門跡でいらっしゃる法皇さまの皇子方は、皆さま御葬送のお供に参列なさいました。
その夜の皆さまの悲しみは、とても表現できるものではございません。

中御門経任殿は、あれほど亡き法皇さまの御慈悲を賜った人なので、当然出家するであろうと皆々噂したり思ったりしていましたが、御骨を安置申し上げる時、なよなよとしたしじら織の狩衣で瓶子に入れられた御骨を持っていられたのは、全く意外なことでした。

御所さまのお嘆きは大変なもので、夜昼御涙の乾く間もないご様子で、二条の姫君やお仕えしている女房たちも、もらい泣きの涙で袖さえ絞れそうな日々でございました。
天下は諒闇(リョウアン・天子が父母の喪に服す期間)となって、音楽の演奏や先払いの声もなくなって、桜の花も、ここの山のものは墨染色に咲くのだろうかと思われるほどです。

久我大納言殿は、他の人より黒い喪服を賜り、姫さまも父大納言と同様の喪服を着るべきではと申されましたが、「まだ幼い年齢なので、世間一般の喪服でよいだろう。特別に濃く染めなくても」と、御所さまの御意向があったようでございます。

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二条の姫君  第十三回

2015-06-30 09:46:56 | 二条の姫君  第一章
          第一章  ( 十二 )


ところで、二条の姫君の御父上である久我大納言殿は、たびたび大宮院や御所さまに出家のための辞任をお願い申し上げましたが、「考えていることがある」ということで、お許しが出ませんでした。
他の人より深い悲しみを抱いておられたからでしょうか、毎日のように法皇さまの御墓にお参りなどしつつ、重ねて大納言源定実殿を通じて、御所さまにお気持ちを伝えたようでございます。

「九歳の時、故法皇さまにお見知りおきいただき、朝廷にお仕えするようになってこの方、機会あるごとにお恵みを蒙らないということはありませんでした。
特に、父に先立たれ、母の不興を蒙っても、君恩を重んじて奉公に励んで参りました。そのお陰をもちまして、官位の昇進は当然得るべき運を遥かに上回り、人々に面目を施しましので、叙位・除目の朝には、聞書きを開いては喜び、内外ともに怨みに思うことなどなく、公事に奉仕するのに辛いことがありませんでした。
仙洞御所の月を愛で、豊の明りの節会には清涼殿の酒宴や舞楽の席に加えていただき、多くの年に臨時祭の折々に、小忌の衣(オミのコロモ・神事に奉仕する時の衣)を着て舞人として奉仕して、御手洗川にわが影を映すことが出来ました。
すでにこの身は、位は正二位、官は大納言の最上位で、源氏の氏の長者を兼ねています。以前、大臣の位をお授け下さろうとされた時、近衛大将を経なくてはならないと兄の通忠右大将が書き残しておりますゆえ、ご辞退申しておりましたが、法皇さまはお隠れになってしまわれました。
私は、こののち世にあっても、頼みとする木陰は枯れ果てて、身を寄せるところはなく、いかなる職にあってもその甲斐もないと思われるのです。年齢もすでに五十となりました。余命はあと幾年ありましょうか。
御恩を捨てて無為に入るのは真実の報恩とか申します。どうか出家をお許しくださいまして、法皇さまの御霊をお弔い申し上げたいのでございます」

と、懇切に申し上げましたが、御所さまは、それはならないと重ねて仰せになり、また直接にお申し付けになられることもあり、一日二日と日が経ち、お忘れになったということではないのですが、姫さまの御父上、久我大納言殿の出家は叶わないままでした。

ご仏事や、さまざまなご用に明け暮れているうちに、御四十九日にもなりましたので、ご仏事などが終り集まってきていた人々も皆さま都へ帰って行かれました。
御所さまは、ご政務のことで鎌倉に御使者をお出しになるなど、面倒な事態になって行くうちに、いつか、五月になってしまいました。

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二条の姫君  第十四回

2015-06-30 09:45:58 | 二条の姫君  第一章
          第一章  ( 十三回 )


五月という月は、人々の袖に露がかかる時候ですが、それ故でしょうか、久我大納言殿の嘆きは一層深く秋以上に露が袖を濡らす日々を送っておられました。
一夜とて空しく独り寝はしないとされていた御方なのに、そのような女性とのこともなく、宴席などの遊びからもすっかり遠ざかれ、「ひどく、痩せ衰えられた」などと噂されるようになりました。

そして、五月十四日の夜、大谷という所で念仏の法会がありましたが、聴聞して帰る牛車の中で、前駆として付いていた者が、
「あまりにもお顔が黄色く見えます。お悪いのではないでしょうか」
などと心配するものですから、お付きの方々も少しご様子がおかしいということで医師に見せましたところ、
「これは黄病(キヤマイ)というご病気でございましょう。余りにも物を思い詰めるとなる病でございます」
と言って、灸治療を沢山するものですから、その結果どうなるのかとみな心配していましたが、病状はむしろ悪化している様子なのです。

姫さまもたいそうご心痛の様子でしたが、六月に入った頃からは、姫さまご自身のお身体が普通ではなかったのです。
最初は、姫さま自身は気鬱の病かと心配されていたようですが、お付きの者が気付き、ご妊娠の徴候であることが確認されました。
ただ、このような状態なので、御父上にいつ申し上げるべきか迷っておられました。

姫さまのそのような悩みをご存知でない大納言殿は、
「どうやら回復が難しいように思われるので、故法皇の御供をすべく、一日でも早く死にたいものだ」
などと言って、祈祷もしないで、しばらくは六角の御屋敷の方にいらっしゃいました。七月十四日の夜になって河崎の御屋敷に移られましたが、その時も幼い子供たちはそのまま残るように命じられました。
心静かに、臨終の時に備えてご用意をしておくつもりのようでございました。

大納言殿の申し付けはございましたが、姫さまは、自分はもう大人なのだからと申されて、ひとりで御父上のもとに参りました。
大納言殿は、ご自分のお苦しみにも関わらず、姫さまがおやつれの様子に気付かれ、自分の病を心配して食事も十分取っていないのだと考えられ、何かと姫さまを慰めたり諭されたりされておりましたが、何かはっきりと感じとるものがあったのでしょうか、
「そなた、おめでたなのか」
と、声を張り上げられました。

「もうこれまでの命だ」などと申されていた大納言殿ですが、姫さまのご懐妊を知ると、「何としても生き延びなくては」と強く思われるようになられたようです。
これまで祈祷など見向きもされませんでしたのに、早速に、比叡山の根本中堂で法式に則って泰山府君を七日祭らせ、日吉(ヒエ)神社では七社奉納の七番の芝田楽、石清水八幡宮では一日の大般若経の転読、賀茂の河原では石塔供養をなさるなど、あらゆる御加護を求められました。

これらの供養は、大納言殿自らのお命が惜しいからではないことは、姫さまには痛いように感じられました。姫さまのご懐妊の結果を見届けたいという切なる願いが、ひしひしと伝わって来たからでございます。
姫さまは、御父上のお気持ちが有り難く、ただただ涙を拭うばかりでございましたが、同時に、後生安楽の妨げとなる煩悩を御父上に抱かせたことに、我が身の罪深さを感じられるのでした。

二条の姫君のご懐妊は、ほろ苦い味がするものでございました。

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二条の姫君  第十五回

2015-06-30 09:44:36 | 二条の姫君  第一章
          第一章  ( 十四 )

七月の二十日頃には、大納言殿の容態は大分落ち着かれまして、今すぐどうということはない様子なので、姫さまは御所に出仕なさいました。
姫さまご懐妊のことはすぐ皆さまにも伝わり、御所さまも特別な計らいを示されるようになりました。

しかし、姫さまは、周囲の方々や御所さまのお心遣いをありがたいと思いながらも、お部屋に下がられた時に、「いつまで草の・・・」と、ふと呟くことがありました。
さる御方の和歌などを思い浮かべられたのでしょうが、「このお情けがいつまで続くのでしょうか・・」といったお気持ちがつい言葉に出てしまったのでしょう。
この頃は、姫さまのご体調があまり良くなかったこともあって、御所さまなどのお気持ちを素直に受け取ることが出来なかったのでしょうが、この六月に女房の御匣殿(ミクシゲドノ)がお産でお亡くなりになっておりますので、そのこともお気持ちを重くさせていたのです。

御父上の病状も、少し落ち着いているとはいえ、とても全快が望めない様子なので、「この先、我が身はどうなるのか・・」と嘆かれることも多い日々が続きました。
そして、七月も末の頃、確か二十七日の夜だったと思いますが、御前に伺候する人々もいつもより少ない時でしたが、御所さまが「寝殿の方へ、さあ」と姫さまにお声をかけられました。
姫さまが御供して参りますと、お部屋にはどなたも居られませんでした。

御所さまは、静かに昔のことやつい最近の出来事などをお話されて、「この世の無常の習いも、実に切なく思われる」など、いろいろとお話を続けられました。そして、
「大納言も、結局は助かるまいと思われる。大納言が亡くなれば、いよいよ頼りとする者がいなくなってしまうであろう。わたし以外には、いったい誰がそなたを護っていくというのか」
と仰せになり、涙をこぼされたのです。
御所さまの優しいお言葉は、姫さまを一層悲しくさせたようでございます。

まだ月もない頃でしたので、灯篭の火もかすかで薄暗い部屋の中で、御二人だけに通じ合う話などを夜更けまでされておりました。
突然、騒がしい音が聞こえてきて、誰かを探している様子が伝わってきました。
「どなたを?」
と、姫さまがお顔を見せますと、河崎の屋敷からの使いが息を切らせていました。
「ご臨終が近いとのことです」
と告げるのです。

姫さまは、何もかもそのままに直ちに退出致しましたが、車中にある間も「はや、お亡くなりになりましたという言葉を聞くのではないかしら」などとお考えのご様子でした。
牛車は懸命に走らせているのですが、「もっと速く」と心急かれておられる姫さまには、余りにも車の速度は遅く、河崎への道は遠く、まるで東路への旅に出たのかと思われるほどの時間に感じられたことでございましょう。

ようやく辿り着き、姫さまは身重であることを忘れたかのようにお部屋に向かわれましたが、まだ生きていらっしゃったことに安堵して、その場に崩れ落ちるかと心配されるほどでした。
大納言殿は、姫さまのご到着が分かった様子で、
「吹き散らす風を持っている露のようなわが命も、なお消えないでそなたの身の上のことを心配しているのだが、ご懐妊という姿を見ていながら、そなたを残してあの世へと赴くことを思うと、とてもその気にならず、なお命を保っているのだ」
などと、とても弱々しく話され涙を流されるのでございます。

夜更けを告げる鐘の音が、寂しく聞こえてきたばかりの頃、「御幸」という声が聞こえてきました。
たいそう思いがけないことで、病人の耳にも聞こえたのでしょうか、大納言殿は身体を起こそうとされるのでした。

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二条の姫君  第十六回

2015-06-30 09:43:00 | 二条の姫君  第一章
          第一章  ( 十五 )

御車を建物に寄せる音が聞こえて来ましたので、姫さまも急いでお迎えに出られました。
御供は僅かに北面の武者二人と殿上人一人だけで、御所さまのお姿も目立たない地味な装束をなさっておられます。
二十七日の月が、ちょうど山の端を分けて姿を見せたところですが、その光もとても寂しく、吾亦紅(ワレモコウ)を織った薄色の小直衣をお召しになっていて、取り急ぎお見舞いに出向かれたご様子がうかがえます。

「今は狩衣を着るだけの力がございませんので、拝謁申し上げるなど畏れ多いことでございます。このように、お出ましいただきましたことをお聞きするだけで、今生の思い出でございます」
と、お付きの方が申し上げる間もなく、御所さまは自らお部屋の襖を引き開けて、お入りになりました。
大納言殿はその気配を察しられたのでしょう、懸命にお身体を起こそうとなさるのです。とても叶わないことは誰の目にも明らかですが、なお身体を起こそうとされているのです。

「そのまま、そのままで良いのだ」
と、御所さまは大納言殿の枕もとに御座(オマシ)を敷かせられて、お坐りになるやいなや袖の外まであふれるほどの涙をお流しになられたのです。
「私の幼い頃から大納言は仕えてきてくれた。今は限りと聞くのは悲しく、何としてももう一度会いたいと思ってやってきたのだ」
などと仰せになられる。

大納言殿も、絞り出すように声を張り上げて、
「このような御幸を拝する嬉しさに、身の置き所もないほどでございます。ただ、この娘の行く末が心残りでどうすることも出来ません。母には幼少の頃に先立たれましたので、世話する肉親はわたしだけだと養育して参りましたが、普通の身体ではないのを見ていながら、このまま置いてゆくことが、多くの愁いのどれよりも大きく、悲しさも哀れさも、言い表せないほどでございます」
と、申されるのです。いくら力の限りを尽くしても、その声はかすれがちで、さらに涙が言葉の力を奪っているのです。

「この娘を護るには狭い袖だが、わたしがきっと引き受けよう。安心して、この娘のことで菩提の道の障りにならぬように」
と、御所さまは、大納言殿に御身を寄せられて、頬の涙を拭おうともされません。
二条の姫君も、お二人の側近くで、ただただ袖を濡らすばかりでございました。

「あまり明るくなれば、この服装が人々の目に触れるのは良くあるまい」
ということで、急いでお帰りになられました。
その際に、大納言殿の父である久我太政大臣の琵琶ということで父が持ち伝えていたものと、後鳥羽院が遥か隠岐にお移されになられる折に同じく久我太政大臣に下賜されたということで伝来していた御太刀を、御車の内へ差し上げましたが、その御太刀の緒に縹色(ハナダイロ・薄いあい色)の薄様の札が結びつけられておりました。

『 別れても三代の契りのありと聞けば なほ行く末を頼むばかりぞ 』

御所さまは、二度三度読まれて、
「ああ、悲しいことかな。何事も安心しておるように」
と、姫さまに繰り返し仰せになられてお帰りになられましたが、すぐに自らの御手跡で御返歌が届けられました。

『 このたびは憂き世のほかにめぐりあはむ 待つ暁の有明の空 』

御返歌を姫さまが御父上にお届けになられましたが、
「どうやらお気に入られたらしいのが嬉しい」
などと、苦しい息をつきながらも姫さまの行く末に心を奪われているご様子が、何とも哀れで悲しゅうございました。

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二条の姫君  第十七回

2015-06-30 09:41:55 | 二条の姫君  第一章
          第一章  ( 十六 )

八月二日、早くも善勝寺大納言殿が、「御帯です」と言ってお持ちになられました。
「御所さまが、『服喪姿ではなく参れ』と仰せ下さいましたので」
と、故法皇さまの服喪中に関わらず、直衣姿で、前駆の武者たちもきらびやかな晴れ姿でやってきましたのも、病人が見ることが出来る間にとの配慮から、お急ぎになったのでございましょう。

姫さまの御父上の大納言殿もたいそうお喜びになられて、
「お盃を差し上げよ」
などと、いつになくお元気な様子でお接待の指図をされておられましたが、これが最後ではないかと、姫さまも、善勝寺大納言殿も沈みがちになる気持ちを押さえて振舞っておられました。
仁和寺から賜って大切にしていた、塩竃(シオガマ)という牛を引き出物にされましたが、御父上のお喜びの大きさが、一層切なさを感じさせるのでした。

今日などは大納言殿のご容態は随分と落ち着いており、姫さまも、もしかするとこのまま快方に向かうかもしれないとの気持ちの安らぎからでしょうか、夜が更けてきたことでもあり、お側で少し横になっておられるうちに、ぐっすりと寝入ってしまわれた様子でございました。

どのくらいの時間が経ったのでしょうか、大納言殿の声に姫さまは起こされました。
「何とも頼りにならないないことよ。今日明日とも分からぬ死出の旅路に赴く嘆きもつい忘れて、そなたの行く末ばかり思い悩んでいたのに、何事もないかのように寝入っているそなたを見るにつけ、悲しさが増してくる。
それにしても、そなたは二つの時に母と死に別れ、以来父親のわたしだけがそなたを見守ることになってしまった。わたしには多くの子供がいるが、ちょうどあの玄宗皇帝が三千人もいる后妃たちの中で楊貴妃だけを寵愛したように、わたしもそなたばかりに心を砕いてきたように思う。
そなたの微笑む顔を見れば、百の媚を生じたという楊貴妃のように、実に美しいと思う。愁いに沈んでいる様子を見れば、共に嘆き悲しみながら十五年の春秋を送り迎えてきたことが思い出され、今はもう先立とうとしている。
御所さまにお仕えし、特に不満が無いのであれば、宮仕えを慎み深くして、決して怠ってはならない。しかし、思い通りにならないのは世の習いだから、もしも御所さまや世間に対しても不満があり、その生活に堪えられない時には、直ちに仏の道に入って、そなた自身の後生を願い、二親の供養もし、一つの蓮の台(ハスノウテナ)に生まれ変われるように祈願するがよい。
世間から見捨てられて、生きてゆくすべがないからといって、また別の君に仕え、またはいかなる人であれその家に身を寄せて世過ぎをするならば、わたしが死んだ後といえども親不幸なことだと思うべし。
夫婦の間のことは、この世だけのことではないので、どうすることも出来ない。しかし、それも、髪をつけたまま色好みなどという噂を残すことは、返す返すもよろしくない。
ただ、世を捨てた後は、いかなる振る舞いをしようと差し支えない」

と、大納言殿は、かぼそい声ながら、いつになく切々と姫さまにお話になられるのです。
姫さまも、これが御父上の最後のお教えかもしれないとの思いもあって、すがるように聞き入っておられました。
折から、夜明けを告げる鐘の音が二人の時間を遮るように聞こえてきました。
その鐘の音を合図に、姫さまの乳母の子でもある藤原仲光殿が、いつものように床の下に敷くおおばこの葉の蒸したものを持って参り、
「敷き変えましょう」
と申し上げますと、
「もう死期が近づいたように思われるので、何をしても無駄だ。それより、何でもよいから、この娘に食べさせよ」
と言われるのです。

姫さまは、とても食べ物がのどを通るような状態ではございませんでしたが、大納言殿は、
「わたしが見ているうちに、早く、早く」
と、承知されません。
今は見ることは出来ても、この次はどうなのだろうかなどと、悲しみが一層増したご様子でした。
あわてて持参したものといえば、芋巻(イモマキ)という蒸し菓子で、とても今の姫さまのお口には合わないだろうと思われましたが、「懐妊中にはこんなものは食べさせないものだ」などと大納言殿が申されるのを心配したのでしょう、ほんの一口二口お食べになられたようでした。
二条の姫君が、健気に振舞えば振舞うほど、その悲しみが伝わってくるのでございます。

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二条の姫君  第十八回

2015-06-30 09:35:50 | 二条の姫君  第一章
          第一章  ( 十七 )

すっかり明るくなった頃、大納言殿が、
「聖(ヒジリ)を呼びに行かせよ」
と仰せになりました。

七月の頃に、大納言殿は、八坂の寺の長老をお呼びになられて、剃髪し、五戒を受けて、蓮生という法名を受けられていて、この長老を引導僧にと思っておられたご様子でしたが、どういうことがあったのでしょうか、三条の尼上さまが「河原院の長老の浄光房という僧にお世話させよ」と強く申し出され、そのように決まっておりました。
そこで、「容態が変わりました」と伝えましたが、急いで来る様子がないのです。

そのうちに、もはやと思われる頃、大納言殿が「起こせ」という様子を仲光に示しました。
仲光というは、家司の藤原仲綱の嫡子で、母は姫さまの乳母でございます。大納言殿は仲光を幼い頃から養育され、常に身辺において使っておられました。
大納言殿は、その仲光を呼び寄せて力を借りて身を起こされました。そして、そのまま後ろに居させて脇息に寄りかかりました。その前には女房は一人控えているだけで、あとは姫さまがお付きしているだけでした。

「手首を持っていてくれ」
と、大納言殿は姫さまに申され、姫さまがしっかりとそのお手を握られると、「聖からいただいた袈裟はどこにある」と袈裟を請われました。
御父上の大納言殿と姫君との意思はしっかりと伝わっておりましたが、大納言殿のお言葉はほとんど声にはなっておられませんでした。
大納言殿は長絹の直垂の上だけを着て、その上に袈裟を羽織られました。
「念仏を、仲光もお唱え申せ」
と姫さまが命じられ、二人して半時ばかりもお唱えされました。

日が少し上った頃、大納言殿は少しうとうとされたようで、左の方へ身体が傾きましたので、しっかりと目を覚まさせて念仏をお唱えしようと思われ、姫さまが膝を揺すられますと、今度はしっかりと目を見開らかれて、姫さまのお顔を認められたようでございました。
そして、「どうなるのだろうか」と呟かれたと思う間もなく、全身のお力が抜けてゆきました。
時に文永九年八月三日辰の刻の初め(午前八時前頃)、御歳五十歳での旅立ちでございました。

念仏を唱えながら御臨終を迎えていたならば、行く末も頼もしいことであったろうにと姫さまは大変辛いご様子でした。
無理に目覚めさせようとして、今生に未練があるかのようなお言葉が最後の言葉であったことが、姫さまには残念だったのでしょうが、同時に、そのようなことにひどく心が引かれていることは、いま何が起こっているのか、姫さまのお心も尋常な状態ではなかったのでしょう。

そして、その一瞬後には、姫さまは天を仰ぎ、何かを求めているような仕草をされましたが、その目には何も映らず、真暗闇の中に立ち尽くしているかのようでした。
それは周りの者が心配するほどの長い時間でしたが、突然倒れるように身を伏せたかと思いますと、声を上げて泣き出されました。その声は、すでに旅路に着かれた御父上にまで聞こえるばかりで、流す涙は川となって流れ出すかと思われるほどでございました。

御母上と死別されました時は、姫さまはまだ二歳でございました。まだ幼く、御母上とのお別れの悲しみさえ理解できず、記憶にさえ残っていないお別れでした。
御父上とは、姫さまがお生まれになって四十一日目に初めて膝の上に抱かれてから、十五年の春秋を送り迎えてきているのです。朝には鏡をみる度に御父上に似ていることを喜び、夕べには美しい着物を身にまとうにつけ御父上のご恩に感謝してきたのです。
今生の御縁が長ければ長いほど、その悲しみは深いものでございます。

五体満足な身体を与えてくれたご恩は、いかなる山の頂よりも高く、教え育ててくれたお心は、母代りのご苦労を思えば、そのご恩はいかなる海の底よりも深い。
どのように感謝し、どのようにご恩返しをすればよいのかと思うにつけても、折々の御父上のお言葉が思い浮かび、今を限りという時の名残惜しさは、この身を引き替えにしてもなお及ばない・・・。
二条の姫君の悲しみは、いつまでも果てることなく続いておりました。

     * * *









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二条の姫君  第十九回

2015-06-30 09:34:50 | 二条の姫君  第一章
          第一章  ( 十八 )


御父上の亡骸から離れようともされない姫さまは、このまま朽ち果てるまでも見守りたいとさえ申し出られましたが、そのようなことがゆるされる道理もございません。

八月四日の夜、神楽岡という山に野辺の送りがなされました。
荼毘の煙は何も語らず、わずかにたなびきながら消えゆくさまは、共に消えてゆきたいとの思いを姫さまを襲っておりました。
しかし、それもこれも、無常の世の常と心では分かっておられるのでしょうが、なすことといえば、ただただ涙で袖を濡らすことだけが、御父上との最後のお別れだったのでしょうか。

帰ってみれば、御父上のいなくなった床の跡を見るにつけ、夢ではなく現実にこのようなことがあるのかと、再び悲しさが増し、つい昨日のことの面影を偲ばれるのでした。
そして、今際のきわに語られた御父上のお言葉が思い出され、泣き崩れるのでした。
『 わが袖の涙の海よ三瀬川(ミツセガワ・三途の川)に 流れて通(カヨ)へ影をだに見む 』

八月五日の夕方、家司の藤原仲綱殿が、濃い墨染の袂(タモト)になって参りましたが、その姿を拝見しますと、故大納言殿が大臣(オトド)の位にあれば、やがて四位の家司になれると考えていたことでしょうに、ただ今はこのような袂の姿となっているのは、お気の毒なことであります。
しかし、仲綱殿は、自分自身を奮い立たせるような声で、
「お墓へお参りいたします。何かお言付けがありますでしょうか」
と気強く尋ねておられますが、その墨染の袂はしっとりとして渇いている所がないのを見ますと、もらい泣きしない人などありません。

九日は、初七日で、北の方さまと女房お二人、侍お二人が出家なさいました。
八坂の聖をお呼びして、「流転三界中」と唱えて剃り落とされた頭を見ていますと、有り難きことながら哀れさを覆い隠すことなど出来ません。
姫さまも、同じように後出家を望まれているご様子が伝わって参りますが、ご懐妊中の御身でございますから、願っても叶わぬことはご承知されていて、涙を流すほかに何のすべさえお持ちではなかったことでしょう。
三七日(サンシチニチ)を特に入念に供養申し上げられましたが、その際には御所さまからも真心のこもったさまざまなご弔問がございました。

ご弔問の御使者は、一日とて空くことなく次々とお見えいただきましたが、故大納言殿の生前の善行のたまものと拝察されますが、この様子を何とかお見せすることが出来れば、どれほどお喜びのことかと、姫さまの身のみならず、家中の誰もの思いでございました。

京極の女院と申されるお方は、洞院実雄の大臣殿のご息女で、今上天皇の后、皇太后として、帝のご寵愛も格別に深く、春宮の御母でいらっしゃり、ご身分といい、まだ二十八歳という御歳といい、当然惜しまれるお方でしたのに、いつも物の怪に悩まされておられましたので、この度もそのせいだろうと皆さまお考えのようでしたが、早くも事切れてしまわれたと大騒ぎされているのをお聞きしますと、さらに世の無常が身にしみて参ります。
姫さまも、女院の御父であられる大臣殿や、帝の御嘆きが、ご自分の悲しみと重なり合って、悲しみに打ちひしがれておりました。

五七日(ゴシチニチ)にもなりました時、御所さまからは、水晶の数珠を金銀で作った女郎花の枝に付けて、諷誦文(フジュモン・死者追善のため読経を僧に請う文)にと下賜下さりました。そして、その枝には御歌も添えられておりました。
『 さらでだに秋は露けき袖の上に 昔を恋ふる涙そふらむ 』

姫さまは、このような御手紙を頂戴すれば御父上がどれほど喜び、下にも置かず、どれほど入念な御返事を申し上げたかと、ひとしきりお悲しみの上次のような御返事をされたようでございます。
「亡父がこのような御手紙を頂戴し苔の下でさぞ喜んでいることでしょうから、御手紙の置き場所がございません。
『 思へたださらでも濡るる袖の上に かかる別れの秋の白露 』」

折も折、秋の長夜の寝覚めは、何もかもが悲しくないということなどありませんが、千度も万度も打つという砧(キヌタ・艶出しや柔らかくするため布を打つ道具)の音を聞くにつけ、袖に砕ける涙の露を床に片敷いて、故御父上の面影と語り合う日々なのです。
二条の姫君の悲しみの日々に終わりはないのでございましょうか。

     * * *


 
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