食材に端を発した感はありますが、つい最近では、人気タレントのサインを偽造して売っていたという事件もありました。
これなどは詐欺行為であることに違いはないと思うのですが、その色紙を作る過程は偽造と表現すべきだと思うのですが、偽装とも模倣とも違う性格の行為なのでしょうか。
どう表現するかはともかく、偽物を作るという行為は、古くからあらゆる分野に登場しているようです。
贋金作りなどは、最も悪質で社会的な影響の大きな犯罪ですし、書や絵画、あるいは古美術の類などにも偽物は横行していて、現に本物と偽物の区別がつかないままに流通している芸術作品は相当あるらしいという話を聞いたことがあります。
現代社会においては、特許権や著作権や意匠登録など法律で守られている権利が沢山ありますが、そこには莫大な経済的な権益が付いていて、安易な偽装や模倣を許すわけにはいかない事情があるのです。
今回、このテーマを取り上げてみようと考えた発端は、十日の当ブログの『運命紀行』の中で、本多忠勝の辞世の句を紹介していて、「何だか変だなあ」と思ったことからです。
その句は、『 死にともない嗚呼死にともない死にともない 深きご恩の君を思えば 』というものです。ね、どこかで聞いたことがあると思いませんか。
松尾芭蕉の句とされる『 松島や ああ松島や 松島や 』と酷似していると思われませんか。
もっとも、この句は芭蕉の作品ではなく別人物のものらしいのですが、その場合でも忠勝の方が先で、「松島や」の方は盗作か模倣にあたるような気がするのです。あるいは、もしかすると忠勝以前に、同じような形態の作品があった可能性も考えられるような気もします。
平安や鎌倉の時代以降、先人の作品の一部を借りた短歌などが、「本歌取り」と呼ばれて、立派な技法の一つとされていたのですから、盗作や模倣に関して現代よりも大らかだったような気もします。
現代社会は、あらゆるものに経済的な利害が関係していることが多く、また利益をかすめ取ることだけを目的とした行為も多く、偽装にしろ模倣にしろ盗作にしろ、そうそう大らかには見逃すことが出来ないのでしょう。
ただ、「偽装」を辞書で見てみますと、「ほかの物とよく似た色や形にして人目をあざむくこと。またそのもの」とあります。他にも、戦場などでのカムフラージュの意味もありますが、「人をだます」という悪意が感じられるものを指すようです。
しかし、「模倣」となれば少しニュアンスが違ってきます。広辞苑によれば、「自分で創り出すのではなく、すでにあるものをまねならうこと。他者と類似あるいは同一の行動をとること」とありますが、さらに続いて「幼児の学習過程、社会的流行、さらには高度の文化活動など、人類の文化的・社会的なものにおいて重要な意義を持つ」とあるのです。
つまり、偽装・偽造・盗作などと模倣は、相当違う意味を持っているのです。私たちは、「模倣」に対して今少し寛大になる必要があると思うのですが、「偽装」と「模倣」の区別が、これがまたなかなか微妙なんですよね。
「食材偽装」や「贋金作り」には強気な発言も許される私だと思うのですが、さて「盗作」となれば、「盗作半分、模倣が半分、ところどころに偽装が見える」と評される可能性のある文章を書きまくっている身としましては、「模倣」や「見習う」ことには寛大であって欲しい気もしてしまうのです。
( 2013.11.12 )