雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

偽装と模倣 ・ 小さな小さな物語 ( 568 )

2014-02-24 19:18:37 | 小さな小さな物語 第十部
このところ、偽装とか模倣とか誤表示とか、さまざまな言葉が躍っています。
食材に端を発した感はありますが、つい最近では、人気タレントのサインを偽造して売っていたという事件もありました。
これなどは詐欺行為であることに違いはないと思うのですが、その色紙を作る過程は偽造と表現すべきだと思うのですが、偽装とも模倣とも違う性格の行為なのでしょうか。

どう表現するかはともかく、偽物を作るという行為は、古くからあらゆる分野に登場しているようです。
贋金作りなどは、最も悪質で社会的な影響の大きな犯罪ですし、書や絵画、あるいは古美術の類などにも偽物は横行していて、現に本物と偽物の区別がつかないままに流通している芸術作品は相当あるらしいという話を聞いたことがあります。
現代社会においては、特許権や著作権や意匠登録など法律で守られている権利が沢山ありますが、そこには莫大な経済的な権益が付いていて、安易な偽装や模倣を許すわけにはいかない事情があるのです。

今回、このテーマを取り上げてみようと考えた発端は、十日の当ブログの『運命紀行』の中で、本多忠勝の辞世の句を紹介していて、「何だか変だなあ」と思ったことからです。
その句は、『 死にともない嗚呼死にともない死にともない 深きご恩の君を思えば 』というものです。ね、どこかで聞いたことがあると思いませんか。
松尾芭蕉の句とされる『 松島や ああ松島や 松島や 』と酷似していると思われませんか。
もっとも、この句は芭蕉の作品ではなく別人物のものらしいのですが、その場合でも忠勝の方が先で、「松島や」の方は盗作か模倣にあたるような気がするのです。あるいは、もしかすると忠勝以前に、同じような形態の作品があった可能性も考えられるような気もします。
平安や鎌倉の時代以降、先人の作品の一部を借りた短歌などが、「本歌取り」と呼ばれて、立派な技法の一つとされていたのですから、盗作や模倣に関して現代よりも大らかだったような気もします。

現代社会は、あらゆるものに経済的な利害が関係していることが多く、また利益をかすめ取ることだけを目的とした行為も多く、偽装にしろ模倣にしろ盗作にしろ、そうそう大らかには見逃すことが出来ないのでしょう。
ただ、「偽装」を辞書で見てみますと、「ほかの物とよく似た色や形にして人目をあざむくこと。またそのもの」とあります。他にも、戦場などでのカムフラージュの意味もありますが、「人をだます」という悪意が感じられるものを指すようです。
しかし、「模倣」となれば少しニュアンスが違ってきます。広辞苑によれば、「自分で創り出すのではなく、すでにあるものをまねならうこと。他者と類似あるいは同一の行動をとること」とありますが、さらに続いて「幼児の学習過程、社会的流行、さらには高度の文化活動など、人類の文化的・社会的なものにおいて重要な意義を持つ」とあるのです。
つまり、偽装・偽造・盗作などと模倣は、相当違う意味を持っているのです。私たちは、「模倣」に対して今少し寛大になる必要があると思うのですが、「偽装」と「模倣」の区別が、これがまたなかなか微妙なんですよね。
「食材偽装」や「贋金作り」には強気な発言も許される私だと思うのですが、さて「盗作」となれば、「盗作半分、模倣が半分、ところどころに偽装が見える」と評される可能性のある文章を書きまくっている身としましては、「模倣」や「見習う」ことには寛大であって欲しい気もしてしまうのです。

( 2013.11.12 )

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ドードーを想う ・ 小さな小さな物語 ( 569 )

2014-02-24 19:17:23 | 小さな小さな物語 第十部
「ドードー」という鳥をご存知でしょうか。
「不思議の国のアリス」に登場してきますし、最近ではゲームやアニメのキャラクターとしても使われていますので、ご存知の方は多いと思われます。
また、テレビや雑誌などで絵姿を見たことがある方は、何とも愛敬のある姿や愛らしい名前などの印象が残っているのではないでしょうか。

「ドードー」は、アフリカ大陸南東部のインド洋に臨むマダガスカル沖のモーリシャス島に生息した「実在の鳥だった」のてす。
大航海時代と呼ばれた西暦1507年頃(諸説ある)、ポルトガル人によって生息地であるマスカリン諸島が発見され、同諸島が寄港地として利用されるようになると、飛ぶことも早く歩くことさえできない「ドードー」は入植者たちに乱獲されていきました。
食糧や見世物用として片っ端から捕獲されるうえ、入植者たちによって持ちこまれた犬やネズミなどによって雛や卵を喰い荒らされていきました。
天敵という物を知らない「ドードー」は、大きなくちばしはあっても戦う武器などほとんどなく、飛んだり走ったりの逃げる術も持たず、巣も地上に作っているという無防備さでした。
そして、1681年にイギリス人に確認されたのを最後に、西洋人に発見されてから僅か180年足らずで地上から姿を消してしまったのです。

地球上に生命が誕生して何年たつのか知りませんが、その過程において、次々と新しい「種」が誕生していくとともに、多くの「種」が次々と絶滅していったのでしょう。
私たちがよく知っている恐竜たちの劇的な絶滅の原因は、さまざまな仮説がなされてはいますが、やはり今なお大きな謎を感じます。
わが国においても、ごく近代のことに絞ったとしても、例えば「日本オオカミ」は絶滅したものと考えられていますし、小型の昆虫や微生物、あるいは植物となれば、その数は推定さえも困難と思われます。
「ドードー」の絶滅を想うと、実に切ない気持になるのですが、それが地球の営みの一つなのだと言われればその通りなのかもしれません。

しかし、「ドードー」絶滅の直接原因は、本当に地球の営みの一つなのでしょうか。直接原因が人類の無謀な振舞いにあることは疑いの余地がないはずですが、そのような人類の登場も地球の営みの一つだと達観していてよいのでしょうか。
各地で、環境に関する様々な問題が発生していて、その対策や討議もなされています。
しかし、例えば、中国の大気汚染を声高に避難することは出来ても、原発事故が起こったことを大義名分にしているわけではないのでしょうが、ほんの少し前、何を根拠にされたのかは知りませんがCO2を大幅削減させると大見得を切った某首相の発言は、単なる冗談でしたで済ませるつもりなのでしょうか、私たちの国は。
地球にも寿命というものはあり、やがて滅びるのだから、人類の好き勝手に振る舞わせておけばよい、というのも自然の摂理なのでしょうか。
人類の知恵や努力なんて、ごくごく微力なことは分かっているつもりですが、それでも、私たちは自然に対してもう少し謙虚でなければならないように思うのです。

( 2013.11.15 )
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人口構成 ・ 小さな小さな物語 ( 570 )

2014-02-24 19:16:16 | 小さな小さな物語 第十部
中国で、一人っ子政策の見直しが検討されているというニュースを見ました。生産年齢人口の減少が深刻になりつつあることがその理由だそうです。
一人っ子政策は、1979年に導入されたそうですが、相当厳格に守られてきているとすれば、三十五歳以下の人口比率は相当低くなっていることになりますから、生産年齢人口の減少ということは十分考えられることです。
それにしても、十数億の人口を有していても、生産年齢人口が不足してくるということを聞きますと、人口問題というものは実に難しいものだと思われます。

もっとも、人口問題ということになれば、わが国の方が遥かに深刻だというのが多くの人の意見ではないでしょうか。
ある記事によりますと、地方経済にとって最も深刻なことは、生産年齢人口の減少だそうです。
ここ二十年ばかりのわが国の経済面での停滞は、働く場所の減少を主因として勤労者の所得が減少してきたことだと、私は認識しておりました。現に、今もそう思っています。
しかし、地方経済にとって生産人口の不足が深刻だといい、一方で若年者を中心に働きたくてもその機会を与えられない人が数多くいるといニュースもよく聞きますので、何をどう考えればよいのか、よく分からなくなってしまいます。
その上、今回の中国のニュースを見たりしますと、人口問題というのは、つくづく難しいものだと思ってしまいます。

わが国で語られる人口問題の大半は、少子高齢化といった人口ピラミッドの歪みを切り口にしたものが大半と思われます。
しかし考えてみますと、「少子」即ち生まれてくる子供が少ないということは、将来に渡って人口が減少してゆくという問題を含んでいますが、ここ十年、あるいは二十年で考えた場合、本当は、わが国経済にとってそれほど深刻な問題ではないように思えてならないのです。
わが国の人口はすでに減少を始めていて、今世紀末頃になれば、日本人が少数民族の仲間入りする方向が見えてくるという心配もあるそうですが、世界の人口は、ぼつぼつ地球の能力を超えるほどの人口に達しようとしているのですから、世界各国が産めよ増やせよの政策をとることは考えもののように思います。
そして、生産年齢人口の減少なんて、大して心配など要りませんよ。政治や経済や社会問題の有能な方々が、ほんの少し知恵を働かせさえすれば簡単に解決することですから。
それに、一時的に労働市場がひっ迫することは良いことだと思うのです。もう少し働く人を大切にすることを教える必要があると思われる人が、少なくないように思われるからです。

もう一つは、高齢者の問題です。
わが国は、これまで世界中のどの国も経験したことのない速さで、高齢化社会が進んでいるそうです。
すでに、超高齢化社会に突入していて、深刻さは増すばかりで、増え続ける社会保障費を消費税だけで賄うとすれば、税率を50%位にしないといけないそうです。
そんな試算は冗談じゃないですよ。冗談じゃないというのは、税率の高さを言っているのではなく、その税率になっても現在と同じだけの消費があると考えている試算の方がです。
それでは、高齢者の問題は絶望的かといえば、全然そのようなことはないのです。
そもそも、わが国では65歳以上を高齢者とするのが一般的ですが、この考え方は19世紀末のドイツから始まったそうですから、当時の平均寿命、健康状態などを考え合わせれば、いかに科学的根拠に乏しい設定かということが分かると思うのです。
高齢者の定義を変更し、それに応じられる労働市場などの社会設計を構築して行けば、120歳くらいまで生きる人がどんどん登場してきても、どうってことありませんよ。
原発を廃止するとかしないとか、ということも大切ですが、高齢者問題をダイナミックに解決してくれる指導者が早く登場してくれることを願っています。

( 2013.11.18 )
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朝練習の是非 ・ 小さな小さな物語 ( 571 )

2014-02-24 19:14:42 | 小さな小さな物語 第十部
「『朝練習は睡眠不足を招き成長に弊害がある』として、原則としてやめるべだという報告書をまとめた」という報道がありました。
これは、長野県の教育委員会が、中学校での運動部の練習が生徒に与える負担を検討するため教育委員会が設置した有識者委員会が、このように答申したそうです。
これを受けて長野県教育委員会は、年内にも「朝練」の原則禁止を求める指針を各中学校へ示すらしいのです。

テレビ番組でも、中学生の「朝練」の是非についてコメンティターの方々が意見を述べられたりしていました。
それらの方々の意見や、幾つかの番組での取材などを見る限り、簡単に是非を断じることは出来ないような気がしました。
幾つかの意見を紹介してみますと、
「ある調査によると、クラブ活動の時間が連日五時間に及んでいるものもあり、何らかの規制が必要」
「早朝練習の良さは確かにある。一概に禁止してしまって良いものかどうか」
「子供たちの自主性に任せるべきだ」
「子供たちが早起きするようになり結構なことだ」
「朝早くに朝食の準備が必要となり家事や仕事に支障がある」
後の二つは親の意見ですが、やはり賛否は別れるようです。

ただ、この意見の中で、子供の自主性に任せるべきだなどというのは論外だと思うのですが、ちゃんとした調査らしい結果として、中学生が、毎日五時間以上クラブ活動に携わっているということには、いささか疑問を感じました。
その調査には、土曜・日曜については触れられていませんでしたが、義務教育である中学校において、正規の授業時間を超えるようなクラブ活動がなされているのには何らかの調査なり規制が必要だと思うのです。そのようなクラブの多くでは、休日の日にもかなりの時間が練習に当てられていることが少なくなく、しかも、それらの指導にあたっている人たちが、そうそう優れた指導者ばかりでないことは多くの事件で学習してきているはずです。

個人的には、私は今回の問題、「朝練」の是非というよりは、中学校における運動クラブについて徹底した討議や研究がなされる発端になってくれることを願っています。
一部の生徒や父兄において、あるいは教育者でさえ、スポーツをまるで神聖なもののように取り扱っている風潮を感じているのです。
スポーツは楽しいものであり、心身によい影響を与えるものでなくてはならない、というのが原則だと思うのです。
大会で勝つことや、プロ選手になって行くことが何よりも優先されることと思ってしまったり、そのために、身体能力にやや劣っている子供たちや運動嫌いの子供たちを、スポーツからますます遠ざけているという弊害を、少なくとも義務教育においては重視して欲しいと思うのです。
全国でトップレベルになることを目指したり、プロ選手を目指すような子供を指導するのは、その養成機関を作ればよいことであって、スポーツ嫌いの子供を続出させる上に名選手を誕生させることなど、義務教育においては正しくないと思うのです。

中学校ぐらいまでの子供たちは、可能な限り全員に近い生徒が、スポーツを通じて心身を鍛えたり、楽しんだりできる機会を作り、将来に渡って、何らかのスポーツを愛好できるようにすることこそが大切なのではないでしょうか。
多くのプロスポーツ選手が、健康的には必ずしも優れているわけではなく、身体に相当の負荷をかけて一流選手になって行くのですから、それに堪えうる一部の生徒に標準を合わせたような義務教育におけるクラブ活動は、根本的に見直すべきなのです。
「朝練」の是非を検討することも大切かも知れませんが、もっと根本的なところに問題があるのではないでしょうか。
それともう一つ、「有識者委員会」ですが、この名前何とかならないのでしょうか。この名前を聞くだけで、何だかうさんくさい感じを受けるのは私だけなのでしょうかねぇ。

( 2013.11.21 )
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スポーツは誰のものか ・ 小さな小さな物語 ( 572 )

2014-02-24 19:13:34 | 小さな小さな物語 第十部

前回の当コラムでは、中学校の運動クラブの朝練習に触れました。
その後、この問題はあまり広がりを見せていないようですが、今回も、スポーツについてもう少し考えてみました。
わが国においては、という言い方は大袈裟かもしれませんが、一般的にスポーツをしている人に対して好意的なように思われます。
子供の場合でも、スポーツに打ち込んでいる人に対して仲間内で非難されることは少ないようですが、勉強に熱心すぎる場合は「ガリベン」などと陰口されるのは現在も変わらないようです。
この差はどこから来るのか分からないのですが、いつも不思議に思っているのです。

スポーツを楽しむといった場合でも、さまざまな形が考えられます。
「観て楽しむ」というのは、もしかするとスポーツを実際にやって楽しむより、人数も多く熱心さも上回っているかもしれません。だって、わが国の野球やサッカーなども熱烈なフアンが沢山いるようですし、海外などでは、何年かに一度はスポーツ観戦者同士のトラブルで死者を出したというニュースが報じられます。選手同士の場合、過ちではなく、試合に熱中するあまり相手を殺してしまったなどというのはボクシングなど特殊なものを除けばそうそう多くはありません。
「実際に行う」という場合でも、目的は様々です。プロまたはそれに近い選手となり職業とする場合もあれば、学校や職域のクラブで、プロを目指すわけではないが、やるからには他の学校やチームに勝ちたいという、闘争本能がかき立てられる場合もあります。
もっと気楽に、そのスポーツをしていることそのものが楽しい、という人も少なくないでしょうし、単に健康のためとか、気晴らしに、という人も少なくないと思われます。

わが国のスポーツで実施している人数が最も多いのは、「ジョギング・ウォーキング」だというのを、何かの本で見たような記憶があります。正しいデーターかどうかは自信がないのですが。
私も、ほとんど毎日ウォーキングらしいことをしています。これがスポーツだというほどの自覚はありませんが、身体を動かす役には立っています。
これも何かのテレビ番組で断片的に見た記憶なのですが、「筋肉は何歳になっても鍛えればそれなりに効果が出る」ということを聞きました。
つまり、私程度のウォーキングでも、老人ホームなどで実施されている体操なども、それぞれの人の心身にとって、それなりの有用な効果が期待できるそうなのです。

つまり、スポーツは、多くの人々にとって、肉体的に、あるいは精神的に、有用であることが多いのです。従って、多くの人が、どのような形のスポーツであっても、楽しみ、実践できる機会を持てるようにしていくことは、とても重要な気がするのです。
プロ選手による神業的な妙技を見ることは実に楽しいものです。オリンピックでメダルを獲得するほどの活躍をする選手には敬意を表し、エールを送りたいと思います。
しかし、スポーツは、一部の有能な人だけのものでないことは当然ですし、他の人のスポーツを楽しむ機会を奪う形で養成されるべきものでもありません。
国民すべからくが、生涯に渡って、どんなにささやかなスポーツであっても、楽しむことが出来る環境を整えることはとても大切なことなのです。
その第一歩としても、義務教育における体育授業とスポーツクラブについて、抜本的な見直しがなされることを願っています。

( 2013.11.24 )

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健康生活 ・ 小さな小さな物語 ( 573 )

2014-02-24 19:12:20 | 小さな小さな物語 第十部
何か健康に心掛けていることありますか?
普段不摂生を絵にかいたような生活を送っていた人が、突然何かの病気で入院したり、そこまでいかなくとも、健康診断か人間ドッグなどでかなり深刻な異常が見つかり、医師から厳しい注意が与えられたりすると、今度は神経質すぎるのではないかと思うほど健康について配慮する人に出会うことは珍しくありません。
よく言われることですが、大病を経験した人は、平凡な健康な生活がいかに有り難いかを熱心に語られることも、よく経験することです。

最近のテレビのコマーシャルを見ていますと、二十年ほど前の頃まで、つまりバブルとやらが崩壊する前の時代に比べて、提供企業や商品が大きく変わっているように思われます。
データーを取ったわけではないのですが、最近際立って目立つ商品は、健康に関するものです。
医薬品や医療器具はもちろん、健康補助食品といわれるものや、食品・衣料・住居・日用品、そして、スポーツや生活習慣、呼吸方法から気候変動への対処方法など、およそ朝目覚めて夜眠るまでのすべての行動について、まことに親切に健康に関するアドバイスしてくれるコマーシャルやテレビ番組に困ることがありません。
健康は命より大切、というわけではないでしょうが、平均寿命が延びた今日、自然体で一生を終えることはなかなか難しいのでしょうね。

ただ、それらの中で、若干気になることもないわけでもありません。
国民すべてが健康志向に動くことはまことに結構なことではありますが、中には、健康を必要としているのか、健康そうな身体を必要としているのか、少々疑問に感じるものもあります。
健康そのものより健康そうな身体を望む傾向は、昔からよく見られた傾向のようです。
ただ最近は、青春を三回ほど迎えられたと思われる人たちの中にも、健康そうな身体、健康そうな振舞いを重視される方が少なくないようです。まあ、何事も形から入ることも重要なそうですから、健康そうな身体を作ることが健康そのものに役立つ面もあるのかもしれません。

実は、このような傾向は、何も健康面だけではないようです。
金持ちでもないのに金持ちだと見られたいとか、賢くもないのに賢く見られたいとか、正直でもないのに正直に見られたいとか、いろいろ例を挙げればきりがありません。
もしかすると、それが人間の本質なのかもしれません。それを、経験や研鑽を経て、実質をともなった人物になって行くのかもしれません。
ただ、その経験や研鑽を積み重ねることはとても難しいらしく、この数日のテレビ報道を見るだけでも、やはりあの人物もこの程度だったのかと、がっかりしてしまうからです。
まあ、とりあえず、まるで正しいような意見はそこそこにしておいて、健康のために、最もお金のかからないウォーキングに出るとしますか。

( 2013.11.27 )
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セピア色の写真 ・ 小さな小さな物語 ( 574 )

2014-02-24 19:11:13 | 小さな小さな物語 第十部
思わぬ所から一枚の写真が出てきました。
小ぶりの名刺ほどの大きさで、色はすっかりセピア色になっています。
裏にはちょっとしたメモ書きがしてあり、何というほどの内容ではないのですが、何とも切ない気持になってしまいました。

私の机の中から出てきたのですから、相当前に写真を整理したことがありますので、おそらくその時に無意識のうちにとっておいたのか、何かと一緒に紛れ込んでいたのでしょう。
もちろん私は、以前にも見た覚えのある写真ですが、その人がまだ十代か、せいぜい二十歳を過ぎたかどうかという年齢だと思われる頃の写真で、セピア色になったのは最近のことではなく、ずっと前からこの色でした。

写真というものは、写っているその人にとって、生涯のある瞬間を切り取ったものともいえます。
少しはにかんでいるようにも、少し緊張しているようにも見えるその瞬間は、その人にとって、人生のどのような瞬間だったのでしょうか。
そして、その人には、その写真に写し込まれている時間より前に、十数年の生涯があり、その後には、八十年を超える時間を生きていたのです。
その後の八十年余の生活は、経済的には必ずしも豊かなものではなかったと思われるのですが、それ以上に第二次世界大戦後の厳しい時代を大勢の子供を抱えて、どのような思いで切り抜けて行ったのでしょうか。

写真の裏のメモ書きは、誰が書いたのか分かりません。本人でないことは確かなのですが、まだ将来の厳しい時代など思ってもいなかったと取れるメモなのです。
それでも、少女の面影さえうかがえるこの人は、あの厳しい時代を生き抜いてきたのです。
生前、そのようなことを尋ねた記憶があります。
「さあねぇ、そんなことを考える暇さえなかったなあ」と、ただ笑っていたのを覚えています。
ふと気がつくと、つい先日が、その人の誕生日でした。私は、ほんの一瞬さえも思い出すことがありませんでした。そんな私が一枚の写真だけで、ついついあれこれと思いを巡らしてしまうのは、やはり、年の瀬が近付いているからなのでしょうか。
はや十一月も、今日で終わりですねぇ。

( 2013.11.30 )
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アイソン彗星 ・ 小さな小さな物語 ( 575 )

2014-02-24 19:09:51 | 小さな小さな物語 第十部
アイソン彗星が話題になっています。
11月29日未明、NASA(米航空宇宙局)は、「ばらばらになって蒸発したとみられる」と発表しました。
相当明るい彗星として期待されていただけに多くの天文フアンをがっかりさせたようですが、翌日になって、その一部、あるいは破片が生き残っている可能性があると訂正の発表をしています。
その後、わが国の国立天文台や、NASA、ESA(欧州宇宙機関)、太陽観測衛星SOHOなどが、生き残ったとみられる彗星の画像を発表しています。

崩壊した後の彗星は寿命が短くなるため、今後地上からどの程度観測できるかは未知数のようですが、『ガンバレ、アイソン彗星』と応援したいような気持にさせられてしまいます。
それにしても、この遥か彼方からの繊細で美しい使者の姿を、現在の人類が持っている最先端の技術を駆使してその動向を注視しているのかと思うと、何だかほっとするような、嬉しいような気がしてしまいます。

アイソン彗星は、2012年9月21日に発見された新しい彗星です。
核の大きさは4.8kmだそうですが、これが彗星として大きいのか小さいのか知らないのですが、地球や月に比べればもちろんですが、宇宙という広大な空間を旅する使者としては、決して大きな物ではないともいえます。
2013年6月13日に観測された時点では、ダストテイルが30万kmの長さに伸びていて、二酸化炭素を主成分としたガスを一日当たり1000トン、ダストを5万4000トン放出していると推定されているとのことですから、宇宙空間ならともかく、地球上の物体と比べれば、なかなかの迫力だともいえます。

彗星は、太陽や地球などの惑星などが誕生した時に、太陽から遠く離れた所にあったため、氷などが多く混じった天体がそのまま生き残ってきたものと考えられています。そして、現在もなお、太陽から遠く離れた辺りには、そのような小型の天体が無数に集まっている所があり、それらが何かの切っ掛けでいろいろな方向に飛んでいくらしいのです。それらのうち、たまたま太陽に近づいてくる物が私たちは彗星として観測されていると考えられています。
アイソン彗星は、太陽に極めて近い距離まで接近する軌道を描いていましたが、それが何らかの原理や理由からなのか、あるいはアイソンと名付けられた彗星の意志なのか、これは、人類の最先端の科学技術を駆使しても分からないことではないでしょうか。
アイソン彗星の生き残りをかけたすさまじい戦いの様子は、私たちには珍しいショーのように見えてしまうかもしれませんが、この宇宙空間では、同じようなことが数限りなく起こっているのではないでしょうか。
つまり、生きとし生きるものすべてが、それは私たちが命がない物と勝手に思い込んでいる物体や現象も含めて、生まれ来て消えて行く循環を繰り返しているように思うのです。
私たちは、そのような厳しい循環の奇跡のような狭間に生存していることに感謝して、とりあえず、紅葉でも鑑賞しますか。

( 2013.12.03 )
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自分の姿 ・ 小さな小さな物語 ( 576 )

2014-02-24 19:08:39 | 小さな小さな物語 第十部
自分の姿を正確に見ることは、なかなか難しいように思われます。
テレビに登場する人物に限ってみても、あまり良くないニュースの対象者の場合、特にそれを感じられてしまいます。
最近でいえば、まだ問題はこれから発展していくのでしょうが、某知事の何とも見苦しい言い訳会見などはその最たるもので、かつて、この人が公営企業や官僚などに対して、まるで正義の味方のような発言をしていたのは、あれは一体何だったのかと思ってしまいます。
最近の言い訳会見などを見ていると、少し前の食材偽装が問題になった時の苦しい言い訳が可愛らしく感じてしまいます。
いくら写真や録画の技術が発達しても、自分の姿を正しく見ることは無理なのでしょうかねぇ。

「人のふり見て我がふり直せ」ということわざがありますが、まことに至言だと思います。
自分の姿は、人のふりを見て思い当たるだけで、自分では見えないものだということを、私たちの先人たちはよく知っていたのですよ。
このことわざを知らない人はそう多くはないでしょうが、私を含めた多くの人は、このことわざは、人(他人)に注意しているものであって、自分に注意してくれているものだなんて、まったく思っていないのでしょうね。

「鏡に写す」といえば、ありのままであるとか、公正無私といった意味に使われることが多いように思われます。
古来私たちは、おそらく人類発生とほとんど同時に、自分の姿を見る手段を求めたのではないでしょうか。
一番最初は、水に移る姿を見たのでしょうし、石や金属などを磨くことで鏡を生み出してきましたが、その努力の目的は自分の姿を見てみたいという欲望を満たすためだったのではないでしょうか。
鏡に神聖なものや、霊的なものを感じるのはわが国だけでなく多くの地域の人が感じていたようです。
天皇の三種の神器の中に鏡が加えられていることはご承知の通りですし、白雪姫の物語には霊力を持って登場してきます。

しかし、磨いて磨いて作り上げても、鏡は私たちを正しく写し出してくれるわけではないようです。
「鏡は左右が反対に映るのに、上下はどうして反対にならないのか」と、何だか分かったようで分からないことで悩んだ人も少なくないはずです。それに、鏡は対面している部分しか写してくれませんし、体内までは透視してくれません。
現代では、レントゲンだとかCTだとか、体外・体内すべてを立体的に写し出してくれる技術もあるようですが、心の中までは、正確に描き出せる技術はまだないのではないでしょうか。
あるいは、小さな手鏡であっても、あるいは水に写る姿であっても、心の奥の奥までも正しく写し出してくれているのに、単に私たちが読み取ることが出来ないだけかもしれません。
そうだとすれば、誰かの無様な姿は、友人か誰かが教えてやるしかないのでしょうねぇ。
お友達、いませんかァ・・・。

( 2013.12.06 )
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議会政治とは? ・ 小さな小さな物語 ( 577 )

2014-02-24 19:07:29 | 小さな小さな物語 第十部
その内容や是非はともかくとして、秘密保護法案とやらをめぐる国会の様子をテレビで見ていますと、議会政治とはいったい何なのかと考えてしまいます。
わが国の立法府の最高機関たる国会は、衆議院と参議院に分かれているわけですが、よく言われることですが、現在の体制での二院制は、本当に何らかの意味はあるのでしょうか。
確かに、つい少し前までのいわゆる「ネジレ」の状態であった時には、衆議院を通った法案を参議院が頑張るという場面が数多く見られましたが、果たして、あれは役に立っていたのでしょうか。

少なくともこの一年ばかりは、やはり「ネジレ」状態では国政はスムーズに運営されないという判断を、国民は下したと思うのです。
しかし、さて、その状態になってみたところで、おそらくゴタゴタしながらも以前とは違う形で案件は処理されていくのでしょうが、国会が建設的な意見が討議される場になっているとは私のような素人には思えないのです。しかもそれが、衆議院、参議院と回っていくのですから、大概うんざりしてしまいます。
絶対多数を握った政党は、内部分裂をしない限りは、行政府を握り立法府を掌握できることになっているわけですから、多数決を「数の横暴だ」と叫ぶのもいかにもナンセンスだと思いますし、過半数を超える議席を握れば何をしてもよいというわけではないことも承知しておいてほしいものです。

こう考えますと、議院内閣制という制度が果たして良いのかという問題にもなってきます。
わが国では、県や市町村などの地方自治は、首長を議会の議員とは別に直接選挙で選出することになっています。ある意味では、知事や市長などは、その行政区域内では相当思い切ったことが出来る体制になっているわけです。
ところが、さて、思いきって出来るということを、かなり思い違いをしているような知事や市長などが登場してきていることも、ご承知の通りです。これはこれで、厄介なものです。

結局、なんだかんだと言いながらも、第二次世界大戦の敗戦以来今日まで、他国の支援や幸運に恵まれながらも今日まで無事やってきているのですから、今の体制で満足しなければならないという意見に押し負かされてしまいそうです。
ただ、参議院だけは、早急に何とかなりませんかねぇ。
今回の法案審議の中でも、やたらに「諮問委員会」とか「第三者機関」とか、私の大嫌いな「有識者会議」の設置などが、話題に上がってきます。困った時の「第三者機関」は、政治・経済・教育・スポーツを問わず、わが国では「水戸ご老公の印篭」のような状態になっていますが、国会までもが、自分たち議員の能力や資質や清廉さに自信がないというのも情けないことだと思うのです。
ここは、参議院を、そのような「第三者機関」的な組織を輩出する機関に衣替えが出来ないものでしょうか。
どの程度の働きが出来るかは人材次第ですが、少なくともここ数年の参議院よりは、国家国民のためになるような気がするのですが。

( 2013.12.09 )
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