雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

母の日には母のことを ・ 小さな小さな物語 ( 50 )

2010-01-07 11:52:03 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
今日は母の日、何かそれらしいことをしましたか。
個人的な考えはともかく、母の日の対応も年齢によって少しずつ違うようですね。


現在日本では、五月の第二日曜日が母の日とされていますが、これはアメリカ発祥の行事として戦後定着してきたもののようです。
戦前にも母の日はありましたが、別の日が当てられていました。
現在では多くの国で母の日の行事が行われているようですが、必ずしもアメリカ発祥の母の日に由来しているわけではないようです。記念日も違う日が当てられている国がありますし、プレゼントも多くの国でカーネーションが主役のようですが、さまざまな形があるようです。プレゼントの一番人気は現金だという、何とも合理的な国もあるようです。


わが国でも、それぞれの年齢や家族構成によって母の日の行事は変わってくるのでしょうね。
幼い子供と若いお母さんの場合は、ちょっと想像するだけで、微笑ましい光景が浮かんできます。
初めて実家を離れた人の場合は、ちょっぴり切ない気持ちで真剣な母の日を迎えているのでしょうか。
介護に明け暮れていて、今更母の日なんか勘弁してくれという人もいるかもしれませんし、すでに亡くされている人にとっては、ほろ苦い後悔とともに母を思い出しているのかもしれません。


母の日といえばカーネーション。それも母が実在している場合は赤いカーネーション、亡くなっている場合は白いカーネーション、とされています。
そもそもアメリカにおける母の日は、ある女性が亡き母を偲んで教会で白いカーネーションを配ったことに由来するそうです。
すなわち、最初は白いカーネーションで亡き母を偲んだのです。
母の日には、母がいる人はそれなりに、すでに他界されている人はもっと真剣に母のことを想うこともいいのではないでしょうか。

( 2009.05.10 )
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ミツバチよ お前もか ・ 小さな小さな物語 ( 51 )

2010-01-07 08:06:48 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
ミツバチが消えた・・・。
何ともショッキングな見出しですが、これは五月三日の日本経済新聞の記事の見出しです。
ミツバチが足りなくて、国内の園芸農家が悲鳴を上げているというのです。
今のところ、蜂蜜用には影響が出ていないようですが、花粉交配用が大ピンチなのだそうです。


ミツバチ不足の直接的な原因は「女王蜂の輸入がストップしたこと」だそうです。輸入元のオーストラリアとハワイでハチの伝染病が発生して輸入が停止したためなのです。
私には、ミツバチが減少しているということ以上に女王蜂が輸入されているということの方が驚きでした。


ミツバチ不足が単に女王蜂の輸入ストップだけが原因なら、やがて解決されるのでしょうが、それ以外の要因でもミツバチが減少しているようです。
減少の原因には、農薬やミツバチに寄生するダニなどが考えられていますが、農道の舗装や川の護岸工事などミツバチが住みにくい環境になっている面もあるようです。さらに、多くの養蜂業者が原因不明でいなくなったと報告しているそうです。
アメリカなどでは、大量失踪したという報告が数多くあるそうで、ストレスやウイルスなども原因として考えられ、謎を含んでいます。


当コラムでは、すずめの減少について書かせてもらったことがありますが、他にも急速に数を減らしている動植物も少なくないのでしょうね。
遠い過去に遡れば、巨大爬虫類をはじめ多くの個体が絶滅していっています。人間が環境を壊している部分も含めて、それが自然の流れなのかもしれません。
しかし、日本人が少しばかり減ったからと大騒ぎするのも大切でしょうが、もう少し周りに迷惑をかけないことも必要なのではないでしょうか。
ミツバチよ、お前も住みにくくなったのかい・・・。

( 2009.05.13 )
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「いつまでも」って、いつまで? ・ 小さな小さな物語 ( 52 )

2010-01-07 08:05:31 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
「いつまでも、お元気で・・」と、私たちはよく言います。
「いつまでも、友達でいよう」と、誓い合った経験があります。
「いつまでも、忘れません」とか「いつまでも、愛しています」とか「いつまでも、待っています」などという言葉を、ドラマで聞いたことが何度もあります。


ところで、この「いつまでも」というのは、どのくらいの期間を指しているのでしょうね。
つまらない質問だと言われますと、確かにその通りなのですが、最近少々考えさせられる現実に直面してしまいました。


私たちが「いつまでも」という言葉を使う時、殆どの場合、真剣な気持ちで使っているように思います。具体的にその有効期間を意識して使うわけではありませんが、相当長い期間を指しているはずです。
例えば、命のある限りとか、どちらかが死ぬまでとか、あるいは死んだあとまでも、という場合もあるかもしれません。
もちろんそのようなことを意識して使っているわけではないでしょうが、非常に短い期間を指して使っていないことだけは確かだと思うのです。


その反面私たちは、ごく軽い気持ちで「いつまでも」という言葉を使っています。別に約束するわけでもなく、単なる挨拶代わりに使うことも多いのが現実でしょう。
しかし、もし、真剣に「いつまでも」と誓い合った相手が数日後に亡くなってしまったような場合、残された人は、その「いつまでも」とどのように向かい合っていけばいいのでしょうか。
私には、慰める言葉さえみつからないのです。

( 2009.05.16 )
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進化と神化 ・ 小さな小さな物語 ( 53 )

2010-01-07 08:04:05 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
かつて、それも想像を絶するような遥か昔、一つの生命体が生まれました。そして、これもまた、想像を絶するような時間をかけて進化が行なわれ、やがて人間が登場してきました。
この進化という現象は、若干の紆余曲折はあるとしても決して止まることなく続くものであるとすれば、やがて人間を凌ぐ生命体が出現してくる・・・、これが自然の流れというものなのでしょうか。


この理論からいけば、現在の地球上における生命体の頂点にあるのは、人間だということになります。
それでは、この頂点にあるということは何が根拠になっているのでしょうか。
基礎体力、運動能力、寿命の長さ、数の多さ・・・、これらについては全生物中の一位でないことは明らかです。
それでは何かといえば、それは恐らく、知恵というか、脳の働きからくるものの優位性を根拠にしているのではないでしょうか。
しかし、その優位性というのも、人間の判断によるものだけですから、かなり不公平な判定と思われ客観的な判断が下されているとも思えないのです。


人間の一生についても同じような過ちが成されてはいないでしょうか。
壮年期を過ぎれば、基礎体力や各器官の衰えが顕著になってきます。病気も多くなり、認知症と呼ばれる症状も発生しがちです。高齢化とともに体力・精神力・脳の働きなど全てが劣化していくと考えられているようです。
しかし、本当にそうなのでしょうか。


ここ何年か私は百歳を超えている人物と親しく接する機会があります。その人は、特別な教育も社会的な経験もありません。平均的な人より優れた生命力を有していることは確かですが、体力や器官の衰えは激しく、認知症といった症状はありませんが物覚えの悪さは尋常ではありません。
ところが、幼い頃や若い頃の話を聞いていると、時々「あれっ」と思うような話や意見が出てくることがあります。とうてい若い人では思いつかないような感覚のものなのです。
人間の能力は、成長と共に進化して行き、やがて頂点に達して劣化して行くと考えられがちですが、ある種の能力は、むしろその頃から成長を始めるものもあるのではないでしょうか。それは、例えば「神化するもの」と呼びたいような何かが・・・。
そう遠くない未来、そのような能力が私たちに何らかの貢献を果たしてくれるような予感がするのです。

( 2009.05.19 )
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桃栗三年柿八年 ・ 小さな小さな物語 ( 54 )

2010-01-07 08:02:53 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
「桃栗三年柿八年」というのは、現在でも比較的耳にする機会が多い言葉です。
桃や栗は実を結ぶまで三年かかり柿は八年かかる、という意味ですが、どちらかといえば、物事を成すには辛抱が必要だという意味に使われることが多いようです。


辛抱することが大切だという教えには、「石の上にも三年」というのもあります。
こちらは、石の上でも三年座り続けると暖まる、という意味ですが、実践するとなると、こちらは少々大変です。桃や栗を三年育てる方がずっと楽だと思うのですがいかがですか。


最近は、といっても相当前からの最近ですが、カルチャースクールなどで習い事をする人が増えているそうです。それも、高齢者の方の勉強意欲は大変高く、各地の老人大学でも順番待ちが出ているそうです。
定年退職後などに、何事につけ新たなことを学ぶということは良いことだと思います。
これはある関係者から聞いたことなのですが、高齢者と呼ばれる年代の人でも結果を急ぐ人が結構多いそうです。
桃や栗を育てるのが待ち切れず、柿の八年などとんでもないと言うのだそうです。もっと結果がすぐ出る、ナスやトマトやキュウリの栽培がお気に入りだというのですね。


しかし、定年退職を迎えた人などにとって、最も贅沢できるものは時間だと思うのです。新たに何かを習得するのであれば、この時間という武器を十分に活用して、悠々と学びたいものですね。
桃や栗など小さい小さい、柿の八年でも物足りないくらいです。
そういえば、桃栗三年柿八年の後には、こんな言葉が続くのですよ。いわく「ゆずの大馬鹿十八年」と。
六十の手習いであっても、平均寿命まで生き抜く根性があるなら、大馬鹿のゆずを育てても間に合うのですよ。
悠々と生きましょうよ、ご同輩。

( 2009.05.22 )
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失われた富 ・ 小さな小さな物語 ( 55 )

2010-01-07 08:01:43 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
これは二カ月ほど前のニュースですが、アジア開発銀行の報告によれば、昨年消失した世界の金融などの資産が五十兆ドルに達したそうです。日本円にすれば、ざっと五百兆円もの金額です。
昨年来のサブプライム・ローン問題に端を発した経済危機は、世界中に大きな影響を与えているようです。


しかし、五百兆円なんて、とても想像さえすることができない金額ですね。
世界の人口が約六十七億人ですから、全員が七万円失った計算になります。世界中の赤ちゃんも含めた全員がですよ。しかも、わが国では七万円では一年間食べていくことはできませんが、すべての生活費用を賄えるという国はたくさんあります。
そう考えると大変なことが起こっているのですね。


それにしても、この五百兆円、どこへ行ってしまったのでしょうね。
米が五百キログラム焼失したといえば、それだけの食料がなくなったということは理解できます。五百万円盗まれたといえば、大変だろうなあ、とある程度納得できますが、盗んで得している人もいるわけですから世界の富としては変動ないともいえます。
本当は、この理論が当てはまっていて、消失したとされる五百兆円のうち混乱に乗じて、数百兆円程ちゃっかり手に入れている人たちがいるのではないでしょうかね。
まあ、その人たちは正当な投資によってだと説明するのでしょうね。


消失した五百兆円の内の大半は、この数年にどっさりと資産をため込んだ人たちの分でしょうから、どうってことはないと言えるのかもしれません。第一、五百兆円を大変な額かといえば、それほどのことはないかもしれません。遥かに超える借金を抱えていても大して危機感もない国民もいるのですから。
ただ問題なのは、儲ける時は一握りの人たちですが、損する時は世界中の貧しい人までも巻き込んでしまうことです。世界中で国家をあげて損失の大きな人たちを助けにいっていますが、本当は一番被害を受けている巻き込まれた人たちには、手が差し伸べられないということです。
わが国は、どうなのでしょうか。

( 2009.05.25 )
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あこがれ ・ 小さな小さな物語 ( 56 ) 

2010-01-07 08:00:14 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
田舎暮らしにあこがれたことがあります。
大分前のことですが、かなり真剣に何冊かの本を読んだり、テレビ番組を探しまわったり、経済的な面での計画を立ててみたりしたものです。
その一方で、おそらく自分は生活を転換させることなどできないだろうなあ、という予感もありました。


最近もテレビで古民家を改装した住まいが紹介されているのを見る機会がありました。そこの住人夫婦は、定年退職後に田舎暮らしを始めたそうで、裏には雑木林があり、前面には花畑や菜園が広がっています。
少し足を延ばせば山菜の宝庫のようなところがあり、ひなびた温泉もあります。


「いい生活をしているなあ」と思わずつぶやき、以前かなり真剣に田舎生活にあこがれたことを思いだしたのです。
家人に、あんな生活にあこがれないかと話しますと、鮮やかな答えが返ってきました。
いわく、「一週間程度だと楽しいでしょうね」「病気になったら、どうするのでしょうね」「良い空気で健康そうですが、蚊などの虫が大変でしょうね」「冬は雪に埋まるそうよ」「お花や野菜もよく育つのでしょうが、雑草はもっと育つわよ」「あの広い裏山、持っていると自慢する以外にどう利用するのでしょうね」などなど・・・


もう結構。そんな夢の無い話はもう結構、と口に出す前に家人の方からさらに一言。「第一、ここは十分田舎じゃないですか」と。
なるほど、まったくもってその通りです。
田舎暮らしは他人のすばらしい報告を見て楽しむことにして、とりあえずは、わが家のささやかな花畑の、どんな田舎にも負けないほど逞しい雑草でも抜きますか。

( 2009.05.28 )
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心にかなはぬもの ・ 小さな小さな物語 ( 57 ) 

2010-01-07 07:58:24 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
『賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞ我が心にかなはぬもの』
これは、平家物語の中で白河法皇の言葉として書かれているものです。
賀茂河の氾濫で都が再三被害を受けていたことや、比叡山の荒法師の強訴に悩まされていたことなどが窺えますが、サイの目を自由にできないことを気に入らないらしいのは、何だか人間臭さを感じさせます。


最近、古典に少々惹かれて読んでいます。もちろん、十分すぎるほどの解説や現代語訳が付いているものを図書館から借りてきて、気が向いたときに眺める程度ですが、十分楽しいものです。
前にも書いた記憶があるのですが、特に覚える必要もなく、いわんや試験などない勉強というものは、少々実力以上のものでも楽しいものです。


ただ、今回、程度の程はともかく、かつて読んだことのある代表的な古典といわれるものを読み直してみますと、どうも素直になれないことに気がつきました。
例えば平家物語にしても、大体の筋書きは承知しているわけですから、ストーリーの展開にそれほど刺激があるわけでもありません。あちらこちらにちりばめられている美文調の名場面には今も嬉しくなっては来るのですが、それ以上に、現代社会や自分の生活と比べてしまって、変な突っ込みを入れてしまうのです。


白河法皇がままにならぬと嘆いたことは、現代に至ってもなお変わっていないように思います。
賀茂河の氾濫は久しく発生していないと思いますが、わが国全土でみれば毎年のように水害の被害が報じられています。
サイコロの目を自分だけ自由に操ろうとする輩は、白河法皇以来千年を経ても消えることがありません。
自己主張を強訴する山法師は、比叡山はじめ多くの宗教組織からは消えているのかもしれませんが、それを遥かに超える我利我利の輩や団体がいることも事実でしょう。何も変わっていないということなのでしょうか。
この言葉をわが身においてみますと、白河法皇は「心にかなはぬもの」として三つあげていますが、私がそれに倣ってあげていけば、幾つになるのでしょうね。
まあ、法皇と一緒にすること自体無謀ですが、私としましては「心にかなうもの」を一つだけでも見つけられるように、残りの人生を生きて行くことにしましょう。

( 2009.05.31 )
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祇園精舎の鐘の声 ・ 小さな小さな物語 ( 58 )

2010-01-07 07:56:36 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす・・・
ご存知平家物語の冒頭部分です。


米ゼネラル・モーターズ(GM)が、ついに米国連邦破産法11条の申請に追い込まれました。
米国政府が中心となって、短期間のうちに新生GMとして蘇えさせる計画のようですが、やはり、倒産は倒産です。
GMの危機は早くから噂されていましたし、数日前からは11条の適用申請がほぼ確実視されていましたので、改めて驚くほどのことではないかもしれませんが、世界の大事件であることには間違いないでしょう。


前回でも引用しましたが、たまたま平家物語をポツリポツリと見ているものですから、GMのニュースから「祇園精舎の鐘の声・・・」の名文が連想されたのです。
新聞やテレビなどでさんざん紹介されていることですが、米国にとってGMは大きな存在でした。
創業が1908年ですから101年前、フォードを抜いて販売台数世界一になったのが1931年、以来昨年トヨタに抜かれるまでの77年間世界に君臨し続けてきたのです。かつて「我が国にとって良いことは、GMにとっても良いことだ。逆もまた真なり」と同社の元社長が議会で言い放ったという有名な逸話もあります。


しかし、平家物語の名文は、単なる美文調の物語ではなく、人の世の厳しさ哀しさを描いているのだと、つくづく感じさせられました。
GMの経営の在り方についての非難が様々報道されていますが、それらの指摘はいずれも正しいのでしょうが、やはり企業にも寿命のようなものがあるのではないかと思わされます。現在絶頂期にある企業であっても、明日は我が身といえぬことはないと思うのです。
世界の歴史をみれば、あらゆる地域で巨大国家が消え去っており、誰にも避けることのできない原理なのかもしれません。
人であれ、企業であれ、国家であれ、いずれも盛者必衰の理から逃れることなどできないのでしょう。
さて、そこで、盛者に全く縁のない私などでも、必衰の理だけは適用されるのでしょうか、ね。

( 2009.06.03 )
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眠りましょう ・ 小さな小さな物語 ( 59 )

2010-01-07 07:54:49 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
私たちは一日平均どのくらい眠っているのでしょうか。
少し前になりますが、日本経済新聞に総務省がまとめた社会生活基本調査をベースにした記事が出ていました。
それによりますと、日本人の睡眠不足は年々深刻化しているそうです。
2006年の十五歳以上の平均睡眠時間は七時間三十九分で、ここ三十年のうちで一番短くなっているそうです。その原因としては、通勤時間を含めた労働時間や、携帯電話やゲーム機などの普及が睡眠を削っているようです。


では、何故睡眠が減ることが良くないのでしょうか。
睡眠の持つ効用として考えられているものは、「心身の休養」「記憶の再構築など脳の働きに深くかかわっているらしいこと」「子供の成長や、傷の治癒、肌などの新陳代謝などは睡眠中に特に促進される」「ストレスなどの解消」など数多くあるそうです。
ここにあげた項目でも、私たちの日常生活で実感することは多いと思われます。例えば、寝る子は育つ、睡眠不足は肌に悪い、ああ疲れた眠ろう・・・、など、どなたにも心当たりがあるはずです。


しかし、私がこの記事で一番意外に感じましたのは、平均睡眠時間が七時間三十九分だということでした。ええ、漠然と考えていた時間よりかなり多かったからです。
それを逆に言いますと、現役の壮年期にある人の睡眠時間は平均より遥かに少ないのではないかということです。
統計のマジックとでもいうのでしょうか、平均を高める人たちの存在で、極端な睡眠不足の生活を続けている人の深刻さを薄れさせているのではないでしょうか。


必要な睡眠時間には個人差があって、六時間から八時間程度だそうです。これも統計によりますと、七時間の人が平均寿命が一番長いそうですから、長く寝れば良いというものではないようです。
また、単に時間の長さばかりでなく、安眠の環境を作るとか、午後に十五分程度の昼寝をするとか、工夫次第である程度時間不足を補うことはできるようです。
但し、睡眠時間が四時間を切るような生活が恒常的になっていると、大半の人は肉体的、精神的、さらには脳機能にも悪影響があるそうですから、睡眠時間の確保に真剣に取り組んでほしいものです。
一日の時間は誰にとっても限られています。まずは、しっかり眠るようにしましょう。

( 2009.06.06 )
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