雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

現在を生きる ・ 小さな小さな物語 ( 90 )

2010-01-19 14:51:35 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
最近、「未来のために現在を犠牲にできるのは、若者の特権だ」と言った意味の言葉を見ました。
こちらはずっと以前に何かで読んだ記憶ですが、過去の思い出だけで現在を生きてゆく老人の話がありました。
若者は未来を見つめて現在を生き、老人は過去を思い起こすことで現在を生きる・・・、確かに納得性があるように思います。


しかし、考えてみますと、生きるということは現在だけのことであって、未来であれ過去であれ、それらは思い浮かべることはできるとしても、そこに生きるということはできないのではないでしょうか。SFの世界のような状況はあり得ないという前提ですが。


ある程度の年齢を重ねてきますと、おそらくかなり多くの人が認識していることだと思うのですが、果たして若い頃、未来のためにどれほどの努力をしたかと忸怩たる思いがあり、同時に、毎日の生活の糧になるほどの過去があったのだろうかと考えさせられることが少なくありません。


私たちは、いろいろ理屈を言ってみても、所詮現在にしか生きることができません。未来に夢を託し、過去の経験を糧にすることで、より豊かな現在を生きることができるとしても、やはり現に生きている今は現在でしかありません。
少々理屈っぽくなりましたが、むしろ若い人ほどたとえそれがいかに貧しいものであっても過去を生かすことが大切であり、歳を取れば取るほど未来の夢を大きく持つことが必要だと思うのです。
夢多き年寄りでありたいと思っています。

( 2009.09.13 )
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批判するのは簡単 ・ 小さな小さな物語 ( 91 )

2010-01-19 14:50:10 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
いよいよ新政権がスタートします。
鳩山政権の実現を強く願った人、強く反対した人、一度交代もいいなあと考えていた人、こんなに票を集めるとは思っていなかったと驚いている人、様々だと思います。
政権が交代することで、これまでにない斬新な施策が行われると期待している人、誰が首相になってもそう変わるはずがないと達観している人、これもまた様々でしょう。


わが国の民主主義がどのレベルのものなのか、あるいは、わが国の民主政治がどの程度のものなのか知らないのですが、たまには政権が変わるということは民主政治には必要なのではないでしょうか。
もちろん良い政権から悪い政権に代わることは困りますが、水と同じである程度の流れが必要なのではないでしょうか。


テレビなので外国の風土や生活などが紹介されることがよくあります。それらを見てよく思うことなのですが、その人たちが実に悠々とそして豊かに過ごしているように見えます。
ヨーロッパの人口や国土の小さい国などに特に感じることが多いのですが、それだけではなく、いわゆる後進国といわれる国や、僻地に住む人たちの生活ぶりも実に豊かに見えることが多いものです。
わが国が海外で紹介される時、その国の人々には私たちの生活ぶりがどのように映っているのでしょう。


豊かに生きるということには、経済力や、教育や、自然風土などの条件も影響するのでしょうが、もっと根本的な何かがあるように思われます。
新政権に対する期待ととも要求も厳しいものが聞かれます。一挙手一投足にいろいろな批判をするのでしょうが、どうのこうのと批判することは簡単なことです。
新しい政権に、豊かな生活を保障してくれる政策に舵を切ってほしい気持ちはやまやまですが、本当は、私たちこそ豊かに生きるための生活パターンに変わることの方が大切なようにも思います。

( 2009.09.16 )
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良い人ばかり ・ 小さな小さな物語 ( 92 )

2010-01-19 14:48:13 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
鳩山政権がスタートしました。
各大臣には、それぞれ専門知識が高く論客としても知られた人物が多く配されているようです。世論調査の支持率も高く、多くの国民が期待を寄せています。
それに応えるべく、得意のマニフェストの実現に向けて、スタートダッシュもよろしいようです。
しかし、その一方で、お手並み拝見というムードも否めません。


この一か月余り話題を集めてきた人気タレントの麻薬事件、ようやく保釈されお詫び会見。涙ながらの謝罪会見は、自ら播いた種とはいえ、その犠牲の大きさを考えると哀れを感じさせられます。
しかし、その一方で、質疑の時間がなかったとか、復帰を見据えた演技が見られたとか、なかなか厳しいご意見をされる方もいます。自分を何者だと思っているのでしょうと疑問を抱くほどの人もいます。
また、この時点では自らの犯した罪を皆が皆反省するが、多くの人が再び麻薬に手を出してしまうのだという、何とも辛いご意見もありました。


病室という小さな世界のお話。そこは四人部屋で、それぞれが違う病状にありますが、それぞれ懸命に闘病生活を送っています。自分の身だけでも苦しい状況にありながら、同室の人の病状を、別に知りあいでも仲間でもないのに気遣いしています。
それでいて、それぞれの人がどこかに同室の人に耐えられないほどの不満を持っていることがよくあります。


「みんな良い人ばかり。しかし、私のコートとは出てきません」
これは、スペインのことわざだそうですが、なかなか含蓄のある言葉です。
良い家族やよい隣人や良い仲間に囲まれて生活していながら、時々鬱々たるものを感じるのは、なぜなのでしょうか。

( 2009.09.19 )
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シルバーな生き方 ・ 小さな小さな物語 ( 93 )

2010-01-19 14:46:41 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
連休の真っ最中。
いろいろ計画を立てて楽しんでいられる方が多いことでしょう。
連休の間は全国的にお天気は良いとの予報だったと思うのですが、当地は朝から降ったりやんだりのぐずついた天候です。
ただ、行楽中の方には申し訳ないのですが、なんだか「ほっと一息」ついたような感じがしています。


この連休を「シルバーウィーク」というそうですが、今年は例年にない大型になっています。
「シルバーウィーク」とは、どなたの命名なのか知らないのですが、もともとは、五月の「ゴールデンウィーク」に対する形で命名されたと記憶しています。
ただ、今年のように、連休の中に敬老の日が混ざっていますと、シルバー世代といいますか、高齢者のための連休のような気がしてしまうのは私だけでしょうか。


そもそも、祭日を連休になるよう振り替えることに反対なのですが、国民の祝日というものは、その実効性はともかく、定められた日そのものにそれなりの理由なり歴史なりがあるはずです。
ただ休みが増えればいいとか、連休の方がいいというものではないと思うのです。


まあ、役にも立たないことをぐすぐす言っても仕方がありませんので、シルバーウィークを大いに楽しむことを考えましょう。
「シルバー」すなわち「銀」ですが、金銀珊瑚といわれるように財宝の象徴とされるものの一つです。また、かつては毒殺に対する用心として銀の箸が使われたとか、近代産業においては、電気伝導率が高いことから工業用品としても貴重な存在です。
最近では、高齢者を指してシルバー世代などと表現することがあるようですが、昔から「いぶし銀」という言葉で表現されるように、若者とは一味違う人格を銀を用いて表現しているのです。
「シルバーウィーク」とは、シルバー世代が自らの生き方を見つめなおして、より豊かな生活を楽しむ週間だと理解することにしましょう。

( 2009.09.22 )
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計画的な計画 ・ 小さな小さな物語 ( 94 )

2010-01-19 14:44:11 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
計画性のある人間と、そうでない人間は確かにあると思います。


例えば旅行の計画。
ある人物が幹事になれば、数人による僅か一泊二日の旅行でも綿密な計画表を作り上げ、分単位の行動予定表が全員に示されます。宿泊先の電話番号などは当然で、緊急の場合の連絡方法、迷い子になった時の落ち合い場所等々至れり尽くせり。しかもそのメンバーは、コケが生えるほど生きてきた連中なのにです。
また、別の人物がリーダーの旅行では、宿泊先は決まっているものの、数台に分かれた車に対して、二時間ほど走れば休憩するので先頭車は適当な所を見つけて後続車に連絡せよとのご命令。確かに、ほぼ全員が携帯電話を持っているので無茶な話ではありません。ところが、ある一台の運転手は携帯の電源を切っていて、同乗の二人は携帯を鞄に入れていて、その鞄は後部トランクに入れられていて、しかも少々道を間違えて果てしなく走って行ったという嘘のような本当の話・・・。


小学生の頃から、あるいはもっと幼い頃からかもしれませんが、両親や先生などから計画的な生活をせよとか、あるいは計画を立てなさいとかよく言われた記憶があります。
私自身は計画を立てることは好きな方です。当ブログで「ラスト・テンイヤーズ」という作品を発表させていただきましたが、これは人生における最後の十年の生き方がテーマになっています。
ただ、私の場合、計画を立てるのは好きですし、よく色々な計画を立てるのですが、それを実行する力が、少々といいますか、かなりといいますか、劣っているようです。


先に述べました旅行の計画の話、どちらも私自身が経験したものをベースにした話です。それで、どちらの旅行が楽しかったかといえば、案外失敗の多い旅行は楽しいものですよ、ね。
ただ、人生の計画となれば、旅行と同じようにはいかないと思いますので、ある程度綿密な計画が必要だと思うのですが、これがまた、その場限りと思えるような直感で突進する人が成功者といわれることも少なくないようです。
人生難しいものです。
でも、やはり計画を立てることは楽しいことです。私のように実行力が乏しいとしても、計画的に計画を立てることは楽しいものです。
失敗したり、頓挫したりするたびに、新しい計画を立てましょう。

( 2009.09.25 )
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ご多忙ですか? ・ 小さな小さな物語 ( 95 )

2010-01-19 14:42:57 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
やたら忙しいと強調する人がいます。
多分、スケジュールがぎっしりで猫の手も借りたいほどの状態なのでしょうが、私の個人的な経験からすれば、やたら忙しいと強調する人の半分以上は忙しそうにしているだけのように思います。
同じような状態であっても、涼しい顔で物事をこなしている人もいます。性格もあるのでしょうが、あまり忙しさを強調しますと、能力や人格が浅いように見えてしまいます。


昨日の毎日新聞の「余禄」欄に、アラブのことわざとして「急いでいると悪魔が手伝う」という言葉が紹介されていました。面白い言葉だと思いました。
また、これは誰が言い出した言葉か知りませんが、「忙しいという字は、心を亡くすと書く」というのもあります。
忙しい忙しいと振舞うのはあまり良いことではないようです。


私たちが忙しいという言葉をつい口にしてしまう理由の一つに、多忙な状態にある時には、ある種の充実感を感じていることにあるような気がします。忙しいから助けてくれという気持より、自分はこんなにやっているぞという自己主張のようなものが垣間見られるような気がします。
こんな受け取り方は性格悪いですか、ね。
でも、バタバタと騒ぎ立てるより、山ほどのスケジュールを悠々とこなしている方が格好いいですよね。


いくら忙しいといっても、私たちには一日に二十四時間しか与えられていません。
もっとも今年の一月一日は一秒のおまけがありましたが(当コラム第五回ご参照)、いくら忙しくても一日に三十時間も四十時間も動けるわけではありません。計画通り出来ても出来なくても一日は終わります。もっと悠々と行きましょう。
ところで私、このひと月、滅多やたらと忙しいのです。

( 2009. 09.28 )
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変革の時 ・ 小さな小さな物語 ( 96 )

2010-01-19 14:41:04 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
新しい政権になって、大きな変化が起きそうな予感です。
義理やしがらみでがんじがらめだった慣習を打ち破るのには、大ナタを振るう必要があるのでしょう。各大臣はじめ積極的な言動や行動が目立ちます。


テレビなどでも、これまで延々と続けられてきた信じられないほどとんでもない組織や制度が紹介されています。それらにメスが入れられることだけでも、政権が変わった価値があるのかもしれません。


靴が足に合わない時、子供は靴が小さいと言い、親はお前の足が大き過ぎるのだと言います。双方に言い分があり双方が無理を言っているのかもしれませんが、どちらが正しいとしても子供は靴ずれしてしまうでしょう。


新政権が頑張って、あらゆる無駄や不条理を正してくれることに期待しています。
しかし、同時に、激しい変化にはついて行けない人が出てきます。大きく傷つく人もいるでしょう。
正義の変革を行って傷つくような人は、これまで美味しい思いをしてきた人たちなので少々傷付くくらいは当たり前だという意見があります。そうかもしれませんが、世間というものはそれほど単純なものではなく、これまで大いに甘い汁を吸っていた人は、言われているような変革などどうということもなく、次の鉱脈をすでに作り上げているものです。
いつの世も、変化によりもっとも傷を受けるのは、これまでも大して恩恵を受けなかった人たちなのです。
大切なことは変革ではなく、たとえ少しでも人々の生活を向上させることなのです。
変えることが目的ではなく、良くすることが目的であるべきです。

( 2009.10.01 )
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右利き? 左利き? ・ 小さな小さな物語 ( 97 )

2010-01-19 14:39:56 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
ずいぶん前にメモしたものなので、どの程度正しい統計なのか分からないのですが、日本人の場合、およそ90%の人が右利きだそうです。
この数字、日常生活に当てはめてみますと若干違和感があるように感じられます。


日頃の生活、あるいは職場などでの交友関係を思いだしてみますと、10人に1人の割で左利きの人がいたかというと、とてもそれほどはいなかったように思うのです。
一方で、プロ野球の選手を考えてみますと、数えてみたわけではないのですが、左利きの人がかなり多いように思われます。野球というスポーツは、打者にとって左利きが圧倒的に有利(一塁までの距離が近い)という極めて不公平なルールを当然のように採用し続けている珍しい競技なので、右利きでありながら左打者として訓練する人が多いことも左利きが多いように見える理由かもしれません。しかし、右利きの人が投げるのを左利きに変えたという例はあまり聞きません。


日常生活では、左利きの人に不便なことが多いようです。このため幼いうちに左利きの子を右利きに変えさせる訓練をする例も多いようで、これが統計より左利きの人が少なく感じさせるのだと納得していました。
ところが、左利きの人の割合は5%程度だという記事を見ました。どうも以前の記事は間違っていたのかと思いながら読みすすんでみますと、両手利きの人が5%程いるとありました。
私は両手利きという人がいることを知りませんでしたので驚きました。両手を器用にこなす人を何人か知っていますが、これまでは左利きの人が訓練により両手が同じように使えるようになっのだとばかり思っていました。


利き手がどのようにして決定するのかというメカニズムは諸説があるようです。
言語を操るようになった人間は左脳が発達し、それにともなって右き手が利き手になっていったという納得してしまいそうなものから、まゆつばのようなものまであります。
それにしても、両手使いとはうらやましいですね。左利きならプロ野球選手を目指し、両手利きならピアニストを目指すのがきっといいのでしょうね。
えっ、わたしですか? 掃いて捨てるほどいる右利きです。
(右利きの人には失礼ですよね、すみません)

( 2009.10.04 )
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新しく生まれるもの ・ 小さな小さな物語 ( 98 )

2010-01-19 14:38:14 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
鳩山政権誕生とともに、わが国の政治に変化の兆しが見えることは前にも書かせていただきました。
少々張り切り過ぎと思われる発言や、与党にならなければ大した記事にもならないと思われる各議員のスキャンダルめいたものも表面化してきています。これらも、新しいものが生まれるための関門なのでしょうか。


以前に何かで読んだものですが、こんな言葉がありました。
「終わるものは見えるが、新しく始まるものは見えない」というものです。
書かれていたものも覚えていませんし、言葉も正確ではないと思うのですが、人物でも、組織でも、秩序でも、あるいは歴史でも、いつかは終わるのが世の常だが、必ず代わるべき新しいものが生まれてくるといった意味で使われていたと覚えています。


そして、終わるのは誰にでも見えるが、代わって生まれてくるものは誰にも分からない、というのです。
新しいリーダーであれ、新しい秩序であれ、それが本当にこれまでのものを凌ぐものなのかどうかは、ある程度の時間を経なければ誰にも分からないというのです。


今、わが国の政治が大きな転換期にあるのかどうかは意見が分かれるところでしょうが、大切なことは、終わろうとしているものは多くの人に見えるとしても、新しく生まれてくるものは、そう簡単に見えるものではないということです。
新しく生まれ変わるなどとあまりはしゃぎ過ぎることは控えて、じっくりと、地に足をつけた前進こそが大切なのだと思うのです。

( 2009.10.07 )
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失われてゆくもの ・ 小さな小さな物語 ( 99 )

2010-01-19 14:36:45 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
あるテレビドラマの中で、アルツハイマー病に罹っていると思われる登場人物が語るセリフに胸が詰まりました。
曰く、「たった今食事を終えたところなのに、また食べている自分に気付いた時・・・、これは、なかなかきついですよ」


記憶がどんどん失われてゆくという状態を考えるだけでも怖ろしさを感じるのですが、そのことに気付いた時の気持ちは、それこそ想像を絶するほどの衝撃なのではないでしょうか。
忘却などというものは、何もかも忘れてしまうからこそ人間にとって幸せな現象なのであって、薄れてゆく記憶を客観的に見せられるのは、きっと辛いことだと思います。


記憶に限らず、何ごとにつけ、また何ものであれ失ってゆくということは淋しいものです。
しかし私たちは、生まれたその日から確実に今生の命というものを減らし続けて行く定めにあります。
多くのことを学び、懸命に働いて蓄財に努めているように見えても、その根本にある寿命というものは確実に、それも極めて確実に失われているのです。西行法師や鴨長明の言葉を借りるまでもなく、考えさせられるドラマの中のセリフでした。
やはり、秋ですかね。


ところで、当コラムは今回が第99回にあたります。
古来九十九歳を白寿の祝いとされています。百から一を引けば九十九歳になることから起こった祝いのように辞書にも書かれていますが、私は少し違う感覚を持っています。
すなわち、来年は百歳を迎えようという祝いのように思うのです。
毎年毎年命を削りながら生きてきたことを思えば、失う命の残り少ないことは誰にでも想像されます。しかし、それでもなお、失われてゆくものを嘆くより、与えられているものを大切にしていこうというのが白寿の祝いのように思うのです。
当コラムも、拙作の積み重ねではありますが、まだまだ続けて行きますのでよろしくお願いします。

( 2009.10.10 )
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