ごく身近に百歳を超えた人がいます。
いまどき百歳を超えた人を見ても別に驚きもしませんが、さて、わが身に置き換えてみますと、百歳を超えて生きるということはそう簡単なことではないように思われます。
長寿社会といえば、百歳を超えて生きることは人々にある種の夢や希望を伝える存在のようにも思われます。
しかし、一方で、少子高齢化が大きな社会問題として懸念されている現状を見れば、百歳を超えて生きる人がどんどん増えて行くことは、ますます問題を難しくしてしまいます。
わが国の祝日には「敬老の日」があります。その前後には様々な行事が行われたり、長寿の方を祝ったりしています。
しかし、もともと「敬老」とは、単純に老人を敬うということではないように思うのです。長い年月を生きてきた年寄りたちの経験や生活の知恵のようなものを大切にする気持ちから生まれたものではないでしょうか。
ところが近年では、生活様式の変化が激しいこともあって、古老の知恵などあてにする人は少なくなっており、その存在感は薄れてきています。年金制度のおかげもあって、かつての年寄に比べ現在の年寄は小金を持っている人が多いですから、これが辛くも敬老精神を支えているのではないでしょうか、ね。
いずれにしても、私たちは年々歳々老いて行きます。百歳を超えて生きることは大変だとしても、超えて生きなくてはならないかもしれません。
社会制度など云々することも大切でしょうが、その時になってもなお悠々と生きていける根性を育てていく覚悟は必要かもしれませんよ。
( 2009.10.13 )
いまどき百歳を超えた人を見ても別に驚きもしませんが、さて、わが身に置き換えてみますと、百歳を超えて生きるということはそう簡単なことではないように思われます。
長寿社会といえば、百歳を超えて生きることは人々にある種の夢や希望を伝える存在のようにも思われます。
しかし、一方で、少子高齢化が大きな社会問題として懸念されている現状を見れば、百歳を超えて生きる人がどんどん増えて行くことは、ますます問題を難しくしてしまいます。
わが国の祝日には「敬老の日」があります。その前後には様々な行事が行われたり、長寿の方を祝ったりしています。
しかし、もともと「敬老」とは、単純に老人を敬うということではないように思うのです。長い年月を生きてきた年寄りたちの経験や生活の知恵のようなものを大切にする気持ちから生まれたものではないでしょうか。
ところが近年では、生活様式の変化が激しいこともあって、古老の知恵などあてにする人は少なくなっており、その存在感は薄れてきています。年金制度のおかげもあって、かつての年寄に比べ現在の年寄は小金を持っている人が多いですから、これが辛くも敬老精神を支えているのではないでしょうか、ね。
いずれにしても、私たちは年々歳々老いて行きます。百歳を超えて生きることは大変だとしても、超えて生きなくてはならないかもしれません。
社会制度など云々することも大切でしょうが、その時になってもなお悠々と生きていける根性を育てていく覚悟は必要かもしれませんよ。
( 2009.10.13 )