枕草子 第百八十四段 大路近なるところ
大路近なるところにてきけば、車に乗りたる人の、有明のをかしきに、簾上げて、「遊子なほ残りの月にゆく」という詩を、声よくて誦したるも、をかし。
馬にても、さやうの人のいくは、をかし。
さやうのところにてきくに、泥障の音のきこゆるを、「いかなる者ならむ」と、するわざもうち置きて見るに、あやしの者を見つけたる、いとねたし。
大路に近い家の中で聞いていると、牛車に乗っている人が、有明の月の光が美しい下で、車の簾を上げて、「遊子なほ残りの月に行く」という詩を、すばらしい声で吟唱しいるのは、とても風情があるものです。
馬に乗っている人も、そのような風流な人が行くのは、よいものです。
同じような所で聞いている時に、泥障(アフリ・馬の両側につける泥除けの馬具)の音が聞こえてきたので、「いったいどのような人だろう」と、やりかけの仕事を放り出して覗いてみると、下賤なつまらない者だったりした時は、ほんとに腹が立ってしまう。
家の中から道行く人の気配を感じ取るさまが描かれています。
最期の部分の「するわざもうち置きて見るに」などは、少納言さまの、みいはあ振り(少々古い表現ですが)が伝わってきて可笑しいですよね。
大路近なるところにてきけば、車に乗りたる人の、有明のをかしきに、簾上げて、「遊子なほ残りの月にゆく」という詩を、声よくて誦したるも、をかし。
馬にても、さやうの人のいくは、をかし。
さやうのところにてきくに、泥障の音のきこゆるを、「いかなる者ならむ」と、するわざもうち置きて見るに、あやしの者を見つけたる、いとねたし。
大路に近い家の中で聞いていると、牛車に乗っている人が、有明の月の光が美しい下で、車の簾を上げて、「遊子なほ残りの月に行く」という詩を、すばらしい声で吟唱しいるのは、とても風情があるものです。
馬に乗っている人も、そのような風流な人が行くのは、よいものです。
同じような所で聞いている時に、泥障(アフリ・馬の両側につける泥除けの馬具)の音が聞こえてきたので、「いったいどのような人だろう」と、やりかけの仕事を放り出して覗いてみると、下賤なつまらない者だったりした時は、ほんとに腹が立ってしまう。
家の中から道行く人の気配を感じ取るさまが描かれています。
最期の部分の「するわざもうち置きて見るに」などは、少納言さまの、みいはあ振り(少々古い表現ですが)が伝わってきて可笑しいですよね。