雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

葬送の歌 ・ 今昔物語 ( 24 - 40 )

2017-02-10 14:21:56 | 今昔物語拾い読み ・ その6
         葬送の歌 ・ 今昔物語 ( 24 - 40 )

今は昔、 
円融院の法皇(第六十四代円融天皇)が崩御されて、紫野(ムラサキノ・平安京の北方一帯を指した)に御葬送申し上げたが、先年、この地に子の日の行幸(新年最初の子の日に、若菜を摘んだり小松を抜くなどして長寿息災を祈る行事)があったことなどが思い出されて、人々は深い悲しみに打たれていたが、閑院左大将朝光(カンインノサダイショウアサテル)大納言は、このような歌を詠んだ。
 『 むらさきの くものかけても 思(オモヒ)きや はるのかすみに なしてみむとは 』 と。
 ( 紫の雲(聖衆の来迎を意味する瑞雲)がかかっているこの紫野の地に、子の日の行幸を楽しまれたが、春の霞のように虚しくなられるとは誰が予期したとだろう)

また、行成(ユキナリ・藤原氏)大納言はこう詠んだ。
 『 をくれじと つねのみゆきに いそぎしに 煙(ケブリ)にそはぬ たびのかなしさ 』 と。
 ( 日頃の行幸には遅れないようにとお供申し上げていたのに、冥土への旅にはお供出来ないことが、とても悲しい)

このように詠んだのも哀れなことだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中宮の哀歌 ・ 今昔物語 ( 24 - 41 )

2017-02-10 12:55:18 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          中宮の哀歌 ・ 今昔物語 ( 24 - 41 )

今は昔、
一条院(第六十六代一条天皇)が崩御されて後、後一条院(第六十八代後一条天皇)がまだ幼い時、そばにあったなでしこの花を無心に摘み取られたのを、母后の上棟門院(藤原彰子)がご覧になって、このようにお詠みになった。
 『 みるままに つゆぞこぼるる をくれにし こころもしらぬ なでしこのはな 』 と。
 ( 父の天皇が亡くなられたのも知らず、無心になでしこの花を摘む幼い天皇を見ると、涙がこぼれて仕方がない。)
これを聞く人は、みな涙を流した。

また、一条院がまだ天皇の位にあられた時、皇后(藤原定子)が亡くなられたが、その後になって、御座所の御帳の紐に文が結び付けられているのに気付いた。ある人がこれを見つけたが、いかにも天皇のお目にとまればよいとばかりに結ばれていたので、ご覧に入れると、和歌が三首が書かれていた。
 『 よもすがら ちぎりしことを わすれずは こひしなみだの 夕(ユウベ)ゆかしき 』
 ( 夜もすがら 契り交わしたことをお忘れでないなら、私を恋い慕って涙を流して下さることでしょう。)
 『 しる人も なきわかれぢに いまはとて こころぼそくも いそぎたつかな 』 と。
 ( 知る人もいない死出の旅に、もうその時が来ましたので、心細いですが一人で旅立ちます。)
天皇はこれをご覧になって、この上なく恋い悲しまれた。

これを聞いた世の人々も、涙を流さぬ者はなかった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 藤原道長全盛期の頃で、藤原彰子には紫式部らが仕え、藤原定子には清少納言らが仕えていた。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先立たれた人の歌 ・ 今昔物語 ( 24 - 42 )

2017-02-10 12:54:12 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          先立たれた人の歌 ・ 今昔物語 ( 24 - 42 )

今は昔、
朱雀院の女御と申し上げるのは、小野宮の太政大臣(藤原実頼)の御娘であるが、この女御がはかなくお亡くなりになってしまった。

ところで、この女御のお側に仕えていた女房がいた。名を助(スケ)といった。容貌・人柄をはじめ、風雅の心映えも優れていたので、女御はこれを身近に置き可愛がったので、女房も心からお慕い申し上げて仕えていた。そのうち、女房は常陸守の妻となり、その国に下った。
女房は、女御には申し訳なく思ったが、強く[ 欠字あり。常陸守の名前が入るか? ]が誘ったので、その国に下りはしたが、女御のことを恋しく思っていた。
そこで、「女御にご覧いただこう」と思って、美しい貝を拾い集めて、一つの箱に入れて京に持参したが、「女御がお亡くなりになった」と聞いて、激しく泣き悲しんだ。

しかし、どうすることも出来ず、その貝一箱を、「これを御誦経(ミズキョウ)のお布施にしてください」と、女御の父の太政大臣に奉ったが、貝の中に、助の女房のこのような歌が書いて入れてあった。
 『 ひろひをきし きみもなぎさの うつせがい いまはいづれの うらによらまし 』 と。
 ( 君(女御)に差し上げようと拾い集めた貝殻ですが、あなたが亡くなったと知って、これからの私はうつせ貝のように、何を頼りにすればいいのでしょうか。) 
太政大臣はこれをご覧になって、涙にむせ返り、泣く泣くこうご返歌された。
 『 たまくしげ うらみうつせる うつせがい きみがかたにと ひろふばかりぞ 』 と。
 ( あなたの深い思いが込められた貝殻を、私は亡き娘の形見として拾うばかりです。 なお、「たまくしげ」は「身」にかかる枕詞。ここでは、「うらみ」の枕詞とされている。)

まことに、当時は、これを聞いて泣かぬ者はいなかった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛児を亡くす ・ 今昔物語 ( 24 - 43 )

2017-02-10 12:53:08 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          愛児を亡くす ・ 今昔物語 ( 24 - 43 )

今は昔、
紀貫之という歌人がいた。土佐守になってその国に下っていたが、やがて任期が終わった。

貫之には、年の頃七つ八つばかりの男の子がいたが、かわいらしい子であったので、とても慈しんでいたが、数日患ったのちに儚く死んでしまった。貫之の悲しみは大きく、泣きまどい病気になるばかりに思い焦がれていたが、やがて数か月が経ち、国司の任期も終わったことでもあり、このようにいつまでも悲しんでばかりいるわけにもいかず、上京することとなった。
「いざ、出発」となると、あの子が此処で、いろいろと遊んでいたことなどが思いだされて、どうしようもなく悲しくなって、柱にこう書き付けた。
 『 みやこへと 思ふ心の わびしきは かへらぬ人の あればなりけり 』
 ( 都へ帰るとなれば楽しいはずなのに、これほどわびしく思われるのは、帰ることの出来ない子が、いるからなのだ。)
京に戻った後も、その悲しみの心は消えることがなかった。

その国司の館の柱に書き付けた歌は、鮮やかに今も消えることなく残っている、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 本稿は、あの『土佐日記』からのものであるが、土佐日記では亡くなった愛児は女の子になっている。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異国からの絶唱 ・ 今昔物語 ( 24 - 44 )

2017-02-10 12:52:11 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          異国からの絶唱 ・ 今昔物語 ( 24 - 44 ) 

今は昔、
安陪仲麿という人がいた。遣唐使として様々な事を習わせるために、その国に行かせた。   
長年を経ても、帰国することかできなかったが、また、日本から[ 欠字あり。遣唐使の名前で「藤原清河」らしい。]という人が遣唐使として派遣されてきた。
この人が帰国するのに伴って帰ろうとして、明州(メイシュウ・中国浙江省あたり)という所の海岸辺りまで来た時、彼の国の人たちが送別の宴を設けてくれた。夜になって、月がたいそう明るく美しいのを見て、異国での日々が思いだされ、また日本のことか懐かしく思い浮かんできて、恋しく悲しい気持ちに襲われ、遥か日本の方を眺めて、
 『 あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさの山に いでしつきかも 』 
と詠んで、涙を流した。

これは、仲麿が帰国して語ったのを聞いて、
語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 本稿は、諸書に収録されている著名な話です。但し、史実としては、仲麿は藤原清河と帰国しようとしたが失敗し唐で没している。

     ☆   ☆   ☆ 
    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流罪途上で ・ 今昔物語 ( 24 - 45 )

2017-02-10 12:51:17 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          流罪途上で ・ 今昔物語 ( 24 - 45 )

今は昔、
小野篁(オノノタカムラ)という人がいた。
ある事件により、隠岐国に流された時、船に乗って出発しようとして、京の知人のもとにこのように詠んで送った。
 『 わたのはら やそしまかけて こぎ出(イデ)ぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね 』 と。
 ( 小野篁は、大海原の多くの島々をぬって、漕ぎ出していったと京の人々に告げてくれ、釣り船の猟師よ。)

明石という所に行き、その夜は泊った。九月の頃のことなので、夜明けまで寝付かれず、海を眺めていたが、沖を行く船が島に隠れていくのを見て、しみじみと我が身が思いやられ、このように詠んだ。
 『 ほのぼのと あかしの浦の あさぎりに 島かくれ行(ユク) 舟をしぞおもふ 』
 ( ほのぼのと夜が明けようとしている明石の浦の朝霧の中に、島に隠れていく舟を見ていると、しみじみと先のことが思われる。)
と詠み上げて、涙を流した。

これは、篁が京に帰ってきてから語ったのを聞いて、
語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 小野篁は、遣唐副使に任ぜられながら、大使の藤原常嗣と争い、病と称して乗船を拒否した。これにより、隠岐への流罪となっている。
* なお、『 ほのぼのと あかしの浦の ・・・ 』の歌は、古今集に収録されていて、「読人しらず」とされていて、「ある人のいわく、柿本人麿が歌なり」と注釈されているもので、篁の歌とは考えられない。
     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

衰退する河原院 ・ 今昔物語 ( 24 - 46 )

2017-02-10 10:18:54 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          衰退する河原院 ・ 今昔物語 ( 24 - 46 )

今は昔、
河原院に宇多院(宇多法皇。第五十九代宇多天皇)がお住みになっていたが、崩御された後は住む人もなく、院の中は荒れてしまっていたが、紀貫之が土佐国より上京し、この様子を見て哀れに思い、歌に詠んだ。
 『 きみまさで 煙(ケブリ)たえにし 塩がまの うらさびしくも みえわたるかな 』 と。
 ( きみが亡くなり、塩焼く釜の煙も絶えてしまった塩釜を見ると、何とも寂しいことか。)
この院は、陸奥国(ミチノオクノクニ)の塩竃の浦の様子に似せて造り、海水を満ちるほど汲み入れていたので、こう詠んだのであろう。

その後、この院を寺にして、安法君(アンポウノキミ・源融の曽孫。歌人)という僧が住んだ。
この僧が、冬の夜、月がたいそう明るく輝いているのを見て、こう詠んだ。 
 『 あまのはら そこさへさえや わたるらむ こほりとみゆる ふゆのよのつき 』 と。
 ( 大空が底までさえわたっているのだろうか、氷のように見えるすばらしい冬の月だ。)

西の対屋の西側に、昔からの大きな松がある。その頃、歌人たちが安法君の僧坊に来て歌を詠んだ。
古曽部の入道能因(ノウイン・著名な歌人)は、
 『 としふれば かはらに松は おいにけり 子日(ネノヒ)しつべき ねやのうへかな 』 と詠んだ。
 ( 長い年月が経ったので、河原に松が生えてしまった。これほど生えると、子の日の遊びが寝屋の上で出来るというものだ。なお、子日は、新年最初の子の日に、青菜や小松の根を採って、無病息災を願う行事。)
[ 欠字あり。「大江」らしい。]善時は、
 『 さと人の くむだに今は なかるべし いた井のしみづ みぐさいにけり 』 と詠んだ。
 ( 水を汲みに来る里人も今はいないだろう。板囲いの井戸の清水は、水草に覆われてしまった。)
源道済(ミナモトノミチナリ)は、
 『 ゆくすえの しるしばかりに のこるべき 松さへいたく おひにけるかな 』 と詠んだ。
 ( 後世、ここに河原院があったというしるしとして残るはずの松でさえ、すっかり老いてしまったものだ。)

その後、この院はますます荒れ果てて、その松の木も先年大風で倒れたので、人々は哀れなことだと言い合った。
その院の跡は、今は小さな家々になり、お堂だけが残っている、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 最初の歌、『きみまさで ・・・』の「きみ」は、この物語としては「宇多院」を指していると思われるが、古今集などの詞書では、河原院の旧主である源融(ミナモトノトオル)を指している。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忍びあい ・ 今昔物語 ( 24 - 47 )

2017-02-10 10:17:38 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          忍びあい ・ 今昔物語 ( 24 - 47 )

今は昔、
伊勢の御息所(宇多天皇の更衣)が、まだ御息所にもならず、七條の后(藤原温子。宇多天皇の女御、後に中宮)のもとに仕えていた頃、枇杷左大臣(ビワノサダイジン・藤原仲平)はまだ若く少将であったが、たいそう人目を忍んで通っていた。だが、いくら忍んでといっても、人はいつの間にか自然にその気配を感じていた。
その後、少将はお通いにならず、音沙汰がなくなったので、伊勢はこのように詠んで送った。
 『 人しれず 絶(タエ)なましかば わびつつも なき名ぞとだに いはましものを 』 と。
 ( 人に知られることもなく絶えてしまったような仲であるなら、あなたとのことは何もなかったのだということが出来ますのに、こう噂がたってしまいましてはねえ・・。)

少将はこれを見て、「哀れなことだ」と思われたのか、それから後は、かえって人目をはばかることなく、通われたということである。

     ☆   ☆   ☆


* 本話は、物語としては成立しているが、「となむ語り伝へたるとや」という文言がないことから、今少し続きがあった可能性が感じられます。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さらば鏡よ ・ 今昔物語 ( 24 - 48 )

2017-02-10 10:16:09 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          さらば鏡よ ・ 今昔物語 ( 24 - 48 )

今は昔、
大江定基朝臣が三河守であった時、世の中は飢饉に襲われ、まったく食べ物がなくなってしまったことがあった。その五月の長雨の頃、一人の女が定基朝臣の家に鏡を売りに来たので、呼び入れてみると、五寸ばかりの布張りの蓋のある箱で、漆塗りの地に金の蒔絵が施してあり、それを香ばしい陸奥紙(ミチノクガミ・高級紙とされる)に包んであった。
開いて見ると、鏡の箱の内の薄様の紙を引き破って、美しい筆跡でこう書かれていた。
 『 けふまでと みるに涙の ますかがみ なれぬるかげを 人にかたるな 』 と。
 ( 使い慣れたこの鏡も今日までと思うと、いっそう涙がこぼれる。鏡よ、これまで見慣れたわたしの顔を、人には語らないでおくれ。)

定基朝臣はこれを見て、ちょうど出家を考えている頃でもあったので、たいそう涙を流し、米十石を車に入れて、鏡は売主に返してやり、米を積んだ車を添えて女を送り届けてやった。女の歌への返歌は鏡の箱に入れて渡したが、その返歌は語り伝えられていない。
その車につけてやった雑色(雑役の小者)の男が帰ってきて言うのを聞くと、五条油の小路あたりの、荒れ果てた檜皮葺の家の中に車を置いてきた、ということであった。
それが誰の家だとは言わなかったのだろう、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

露ほどのお供え ・ 今昔物語 ( 24 - 49 )

2017-02-10 10:14:57 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          露ほどのお供え ・ 今昔物語 ( 24 - 49 )

今は昔、
七月十五日の盂蘭盆の日に、たいそう貧しい女が、亡き親のための食物を供えることが出来ず、着ているたった一枚の薄紫色の綾の着物の表を解いてお盆にのせ、その上を蓮の葉で覆い、それを持って愛宕寺(オタギデラ・珍皇寺のこと)に参り、伏し拝んで泣く泣く帰って行った。
その様子を見ていた人が不審に思い、その供え物を見ると、蓮の葉にこのように書かれてた。
 『 たてまつる はちすのうへの 露ばかり これをあはれに みよのほとけに 』 と。
 ( 三世の仏さま、蓮の上の露ほどのお供えしかできませんが、どうぞ、露ほどのお情けをかけてください。) 
人々は、これを見て皆哀れに思った。

その女が何という者であるかは分からないままであった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする