『 女帝輝く世紀 (1) 』
国家創成の時
我が国が誕生したのはいつか?
この命題は、古来常に存在し、その時々に明快に確定されてきたと考えられる。しかし、現代において、この命題を万人に納得させる答えを提示することは極めて困難と思われる。
そもそも、わが国という国家を、どのような状態をもって成立とするのかさえ難題と言える。
現在の私たちが、それも市販されている程度の資料を基に推定することは、楽しいことではあるが、歴史的真実に迫れるものではない。本稿は、この前提のもとに、現在に至る日本という国家の創成期に想いを馳せようという試みである。従って、誰でも簡単に目にすることが出来る資料がベースであり、しかも筆者の好みで選定されている傾向は否めないため、研究者の方にお叱りを受ける部分も少なくないと思われるが、一つの考え方、一つの読み物として勘弁いただきたい。
さて、その前提に立ってわが国の古代の状況を探る場合、その基本となるものは『古事記』であり『日本書紀』であり、あるいは断片的に伝えられていて比較的容易に目にすることの出来る資料である。そして、この時代について文献を発表されている研究者の方々の苦心の成果を頂戴していることもお断りしておきたい。
さらに言えば、その当時の資料として伝えられている物の多くは、天皇を中心とした有力豪族たちが中心にならざるを得ない。つまり、存在や動向の真偽はともかくとして、歴代天皇に関する資料が中心となる。
その天皇の初代が即位した時をもって国家成立の時と考える場合、これまでにいくつかの説が存在している。
まず最初は神武天皇の即位である。第二次世界大戦に突入する直前の頃、「紀元二千六百年」とさかんに詠われたと伝えられている。つまり、神武天皇が即位してから二千六百年が経ったということを祝ったものである。さすがに現代においては、神武天皇並びにその後の数代ないし十数代は神話の世界と渾沌としていて、歴史的事実として捉えるのには無理があるというのが主流のようである。
ただ、古事記や日本書紀に伝えられているような神武天皇の伝承全てが史実とするのは無理があるとしても、その断片的な部分に国家創成時のヒントが隠されている可能性は否定できないような気がする。
その次は、第十代崇神(スジン/スウジン)天皇の即位を国家成立とする説である。
その根拠とするところは、それ以前の天皇の実在性が疑われることにあり、何よりも、この天皇の和風諡号か「御肇国天皇」とされていることにある。その読みは、「はつくにしらすすめらみこと」であり、始めてこの国を治めた天皇と言った意味になっている。神武天皇の和風諡号は、「始馭天下之天皇」であり、読みは同じく「はつくにしらすすめらみこと」である。
この和風諡号については、奈良時代に入って後の西暦762~764年の頃に、淡海三船によって歴代天皇の大半について一括撰進されたとされているので、後世作られたものとなる。それは同時に、当時の指導層の多くは、崇神天皇こそ初代天皇である、あるいは、神武天皇と同一人物であるとの認識があったということになるともいえる。
三つ目は、第十五代応神天皇をもって国家成立とする考え方である。
応神天皇は、当カテゴリー内の『空白の時代』の主人公である神功皇后の皇子である。父は第十四代仲哀天皇であるが、その崩御から応神天皇が即位するまでに七十年という時間を要している。その間は神功皇后が実質的な天皇として権力を護ったとされている。また、仲哀天皇の父があの日本武尊であることなどを考え合わせると、応神天皇即位の前に権力の断絶あるいは移行があったと想像することには、相応の納得性を感じる。
そして、現代の天皇につながる皇室の系譜として実在が確実視されているのは、第二十六代継体天皇に始まるという説もある。
継体天皇は、その諡号からして、「継体」となっているのであるから、あまりにも分かり易いと言える。神武以来の王朝は継体天皇によって簒奪されたという考え方もあるが、私個人は納得性が無いように思われる。
継体天皇が即位できたのは、応神天皇五世孫という系譜によるとされるが、これはかなり無理筋と思われる。また、継体天皇崩御後の二十七代・二十八代天皇は、継体天皇と尾張連の娘である目子媛(メノコヒメ)との間に生まれた御子である。つまり大和の王朝とは違う系譜が成立しそうになっているのである。しかし、第二十九代には仁賢天皇(第二十四代)の娘である手白香(タシラカ)皇女との間に生まれた欽明天皇が就いており、旧来からの系譜に配慮したものになっている。継体天皇が即位にあたって、前天皇までの系譜をひく手白香皇女を皇后に迎えることによって大和の政権と調和を図ったと考えられるが、それでもなお、大和の地に入るのに即位から十九年を要したとされている。
それにしても、継体天皇という人物は、実に秘密に満ちている。生没年も今一つはっきりしないし、単に次期天皇として迎えられたのか、強引に政権を奪いに行ったのか、いずれとも判断するのはなかなか難しい。その崩御についも、殺害されたのだという説は根強くあり、しかも、次代・次々代とされる御子と共に殺害され、欽明天皇の即位となったという説もある。
本稿では、継体天皇についてはここまでとするが、この頃に、大和の朝廷を支えてきた勢力と、継体天皇を頂点とした近江・越・尾張辺りの勢力との間で、あるいは、もっと複雑な絡みで勢力争いがあったと想像されるのである。
そして、その史実や、伝承の正否はともかくとして、継体天皇から欽明天皇へと繋がれる間に、政権の大きな動揺があり、新しい次の時代を生み出したのだと言えるのではないだろうか。
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