伊勢御息所 (1) ・ 今昔物語 ( 24-31 )
今は昔、
延喜天皇(第六十代醍醐天皇)が、皇子の御着袴(オンハカマギ・男子が三歳(後世では五歳から七歳)の時に袴を着ける儀式。この後は、少年の処遇を受ける)の儀式に用いる御屏風を作らせなさったが、その色紙形(シキシガタ・屏風の面に色紙形の空白を設け、それに詩歌を書くようにしたもの)に和歌を書かせるために、歌人たちに、「おのおの、和歌を詠んで差し出すように」と仰せになられたので、皆が詠んで奉ったのを、小野道風(オノノミチカゼ/オノノトウフウ・小野篁の孫。能書家として名高く三蹟の一人)という書家に命じてお書かせになられた。ところが、春の帖に桜の花が咲いている山路を女車が行くところを描かせた所に当てた色紙形があったが、それを見落とされていたため、歌人たちに和歌をお求めにならなかった。そのため、道風が和歌を書いていくうちに、その部分の和歌がないことが分かった。
天皇はこれをご覧になり、「これは、どうすればよいか。今日となっては、急には誰も詠むことが出来まい。風情のある絵に和歌がないのは何とも残念だ」と仰せになって、しばらく思いめぐらされた上で、少将であった藤原伊衡(フジワラノコレヒラ)という殿上人を召された。
すぐさま参内したので、天皇は、「今すぐに伊勢御息所(イセノミヤスドコロ)のもとに行って、『このようなことになっている。この和歌を詠むように』」と命じて行かせた。この使者に伊衡を選んだのは、この人は容貌・容姿をはじめ、人柄も優れていたからである。それで、「御息所が使者に会っても、立派な人物だと思う者は、この人物である」と思われて、選んで使者にされたのであろう。
さて、この御息所(伊勢御息所を指す。御息所は后の総称。後には更衣を指すようになる)は、極めて諸芸に優れていた大和守藤原忠房という人の娘である。(但し、これは事実ではなく、伊勢御息所の父は、伊勢守になった藤原継陰が正しい)
宇多天皇の御時に宮中に仕えたが、天皇がたいそう御寵愛になり、御息所になさったのである。容姿や人柄をはじめ、何につけても奥ゆかしく風情があり、すばらしいお方であった。和歌については、当時の躬恒・貫之(ミツネ・ツラユキ・・凡河内躬恒と紀貫之のことで当時の和歌の一人者)にも劣らないほどである。ところが、宇多天皇が出家なされて大内山という所に深く入って仏道修行をなさったので、この御息所もこの世を無常に思われて、家に籠られて物思いにふける日々を送っていたのである。
かつて過ごした宮中でのことなどが事に触れて思い出され、もの寂しい思いにひたっている時、門の方で先払いの声がした。そして、直衣(ノウシ・男性貴族の平服)姿の人が入ってきた。
「誰であろうか」と思って見ると、伊衡の少将が訪ねて来たのであった。「思いもかけぬこと、何の用であろう」と思って、人を行かせて尋ねさせた。
伊衡は仰せを受けたまわって御息所の家に行ってみると、五条の辺りであった。庭の木立は繁っていて小暗くて、前栽はたいそう趣き深く植えられている。庭は青々と苔に覆われ砂が敷きつめてある。
三月の頃のことなので、庭先の桜は美しく咲き誇り、寝殿の南面にかけた帽額の簾(モコウのスダレ・上辺を布で縁取った簾。)は、縁取りが所々破れていて、それが古びた趣きとなっている。
伊衡は中門の脇の廊に立って、従者に、「帝の御使いとして、伊衡と申す者が参っています」と言わせると、若い侍の男が出てきて、「こちらにお入りください」と言うので、寝殿の南面に歩み寄って坐った。
ほどなく、内から奥ゆかし気な女房の声で、「中にお入りくださいませ」と言う。簾をかき上げて中を見れば、母屋(モヤ・寝殿の中央の間)の簾は下ろしている。朽木形(垂れ絹に朽木の模様を染めたもの)の清らか気な几帳が三間(ミマ・柱と柱の間三つ分)ばかり柱に添って立ててある。西東に三間ほど離して四尺の屏風(間仕切り用の高さ四尺の屏風)のほどよく古びた物が立ててある。
母屋の簾に添って、高麗端(コウライベリ・畳の縁の種類で、もとは高麗渡りの物で高級品)の畳を敷き、その上に唐錦の敷物が敷いてある。板敷は鏡のように磨き立てられていて、人の姿がすっかり映って見える。
屋敷の様子は、すべて古めかしく情緒深い。
( 以下(2)に続く )
☆ ☆ ☆
今は昔、
延喜天皇(第六十代醍醐天皇)が、皇子の御着袴(オンハカマギ・男子が三歳(後世では五歳から七歳)の時に袴を着ける儀式。この後は、少年の処遇を受ける)の儀式に用いる御屏風を作らせなさったが、その色紙形(シキシガタ・屏風の面に色紙形の空白を設け、それに詩歌を書くようにしたもの)に和歌を書かせるために、歌人たちに、「おのおの、和歌を詠んで差し出すように」と仰せになられたので、皆が詠んで奉ったのを、小野道風(オノノミチカゼ/オノノトウフウ・小野篁の孫。能書家として名高く三蹟の一人)という書家に命じてお書かせになられた。ところが、春の帖に桜の花が咲いている山路を女車が行くところを描かせた所に当てた色紙形があったが、それを見落とされていたため、歌人たちに和歌をお求めにならなかった。そのため、道風が和歌を書いていくうちに、その部分の和歌がないことが分かった。
天皇はこれをご覧になり、「これは、どうすればよいか。今日となっては、急には誰も詠むことが出来まい。風情のある絵に和歌がないのは何とも残念だ」と仰せになって、しばらく思いめぐらされた上で、少将であった藤原伊衡(フジワラノコレヒラ)という殿上人を召された。
すぐさま参内したので、天皇は、「今すぐに伊勢御息所(イセノミヤスドコロ)のもとに行って、『このようなことになっている。この和歌を詠むように』」と命じて行かせた。この使者に伊衡を選んだのは、この人は容貌・容姿をはじめ、人柄も優れていたからである。それで、「御息所が使者に会っても、立派な人物だと思う者は、この人物である」と思われて、選んで使者にされたのであろう。
さて、この御息所(伊勢御息所を指す。御息所は后の総称。後には更衣を指すようになる)は、極めて諸芸に優れていた大和守藤原忠房という人の娘である。(但し、これは事実ではなく、伊勢御息所の父は、伊勢守になった藤原継陰が正しい)
宇多天皇の御時に宮中に仕えたが、天皇がたいそう御寵愛になり、御息所になさったのである。容姿や人柄をはじめ、何につけても奥ゆかしく風情があり、すばらしいお方であった。和歌については、当時の躬恒・貫之(ミツネ・ツラユキ・・凡河内躬恒と紀貫之のことで当時の和歌の一人者)にも劣らないほどである。ところが、宇多天皇が出家なされて大内山という所に深く入って仏道修行をなさったので、この御息所もこの世を無常に思われて、家に籠られて物思いにふける日々を送っていたのである。
かつて過ごした宮中でのことなどが事に触れて思い出され、もの寂しい思いにひたっている時、門の方で先払いの声がした。そして、直衣(ノウシ・男性貴族の平服)姿の人が入ってきた。
「誰であろうか」と思って見ると、伊衡の少将が訪ねて来たのであった。「思いもかけぬこと、何の用であろう」と思って、人を行かせて尋ねさせた。
伊衡は仰せを受けたまわって御息所の家に行ってみると、五条の辺りであった。庭の木立は繁っていて小暗くて、前栽はたいそう趣き深く植えられている。庭は青々と苔に覆われ砂が敷きつめてある。
三月の頃のことなので、庭先の桜は美しく咲き誇り、寝殿の南面にかけた帽額の簾(モコウのスダレ・上辺を布で縁取った簾。)は、縁取りが所々破れていて、それが古びた趣きとなっている。
伊衡は中門の脇の廊に立って、従者に、「帝の御使いとして、伊衡と申す者が参っています」と言わせると、若い侍の男が出てきて、「こちらにお入りください」と言うので、寝殿の南面に歩み寄って坐った。
ほどなく、内から奥ゆかし気な女房の声で、「中にお入りくださいませ」と言う。簾をかき上げて中を見れば、母屋(モヤ・寝殿の中央の間)の簾は下ろしている。朽木形(垂れ絹に朽木の模様を染めたもの)の清らか気な几帳が三間(ミマ・柱と柱の間三つ分)ばかり柱に添って立ててある。西東に三間ほど離して四尺の屏風(間仕切り用の高さ四尺の屏風)のほどよく古びた物が立ててある。
母屋の簾に添って、高麗端(コウライベリ・畳の縁の種類で、もとは高麗渡りの物で高級品)の畳を敷き、その上に唐錦の敷物が敷いてある。板敷は鏡のように磨き立てられていて、人の姿がすっかり映って見える。
屋敷の様子は、すべて古めかしく情緒深い。
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