雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

伊勢御息所 (1) ・ 今昔物語 ( 24-31 )

2017-02-10 14:34:10 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          伊勢御息所 (1) ・ 今昔物語 ( 24-31 )

今は昔、
延喜天皇(第六十代醍醐天皇)が、皇子の御着袴(オンハカマギ・男子が三歳(後世では五歳から七歳)の時に袴を着ける儀式。この後は、少年の処遇を受ける)の儀式に用いる御屏風を作らせなさったが、その色紙形(シキシガタ・屏風の面に色紙形の空白を設け、それに詩歌を書くようにしたもの)に和歌を書かせるために、歌人たちに、「おのおの、和歌を詠んで差し出すように」と仰せになられたので、皆が詠んで奉ったのを、小野道風(オノノミチカゼ/オノノトウフウ・小野篁の孫。能書家として名高く三蹟の一人)という書家に命じてお書かせになられた。ところが、春の帖に桜の花が咲いている山路を女車が行くところを描かせた所に当てた色紙形があったが、それを見落とされていたため、歌人たちに和歌をお求めにならなかった。そのため、道風が和歌を書いていくうちに、その部分の和歌がないことが分かった。

天皇はこれをご覧になり、「これは、どうすればよいか。今日となっては、急には誰も詠むことが出来まい。風情のある絵に和歌がないのは何とも残念だ」と仰せになって、しばらく思いめぐらされた上で、少将であった藤原伊衡(フジワラノコレヒラ)という殿上人を召された。
すぐさま参内したので、天皇は、「今すぐに伊勢御息所(イセノミヤスドコロ)のもとに行って、『このようなことになっている。この和歌を詠むように』」と命じて行かせた。この使者に伊衡を選んだのは、この人は容貌・容姿をはじめ、人柄も優れていたからである。それで、「御息所が使者に会っても、立派な人物だと思う者は、この人物である」と思われて、選んで使者にされたのであろう。

さて、この御息所(伊勢御息所を指す。御息所は后の総称。後には更衣を指すようになる)は、極めて諸芸に優れていた大和守藤原忠房という人の娘である。(但し、これは事実ではなく、伊勢御息所の父は、伊勢守になった藤原継陰が正しい)
宇多天皇の御時に宮中に仕えたが、天皇がたいそう御寵愛になり、御息所になさったのである。容姿や人柄をはじめ、何につけても奥ゆかしく風情があり、すばらしいお方であった。和歌については、当時の躬恒・貫之(ミツネ・ツラユキ・・凡河内躬恒と紀貫之のことで当時の和歌の一人者)にも劣らないほどである。ところが、宇多天皇が出家なされて大内山という所に深く入って仏道修行をなさったので、この御息所もこの世を無常に思われて、家に籠られて物思いにふける日々を送っていたのである。

かつて過ごした宮中でのことなどが事に触れて思い出され、もの寂しい思いにひたっている時、門の方で先払いの声がした。そして、直衣(ノウシ・男性貴族の平服)姿の人が入ってきた。
「誰であろうか」と思って見ると、伊衡の少将が訪ねて来たのであった。「思いもかけぬこと、何の用であろう」と思って、人を行かせて尋ねさせた。

伊衡は仰せを受けたまわって御息所の家に行ってみると、五条の辺りであった。庭の木立は繁っていて小暗くて、前栽はたいそう趣き深く植えられている。庭は青々と苔に覆われ砂が敷きつめてある。
三月の頃のことなので、庭先の桜は美しく咲き誇り、寝殿の南面にかけた帽額の簾(モコウのスダレ・上辺を布で縁取った簾。)は、縁取りが所々破れていて、それが古びた趣きとなっている。
伊衡は中門の脇の廊に立って、従者に、「帝の御使いとして、伊衡と申す者が参っています」と言わせると、若い侍の男が出てきて、「こちらにお入りください」と言うので、寝殿の南面に歩み寄って坐った。

ほどなく、内から奥ゆかし気な女房の声で、「中にお入りくださいませ」と言う。簾をかき上げて中を見れば、母屋(モヤ・寝殿の中央の間)の簾は下ろしている。朽木形(垂れ絹に朽木の模様を染めたもの)の清らか気な几帳が三間(ミマ・柱と柱の間三つ分)ばかり柱に添って立ててある。西東に三間ほど離して四尺の屏風(間仕切り用の高さ四尺の屏風)のほどよく古びた物が立ててある。
母屋の簾に添って、高麗端(コウライベリ・畳の縁の種類で、もとは高麗渡りの物で高級品)の畳を敷き、その上に唐錦の敷物が敷いてある。板敷は鏡のように磨き立てられていて、人の姿がすっかり映って見える。
屋敷の様子は、すべて古めかしく情緒深い。

                                        ( 以下(2)に続く )

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伊勢御息所 (2) ・ 今昔物語 ( 24-31 )

2017-02-10 14:33:25 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          伊勢御息所 (2) ・ 今昔物語 (24-31 )

     ( (1)より続く )

伊衡が歩み寄り、敷物のそばに坐っていると、簾の内から空薫物(ソラダキモノ・それとなく薫る程度にたきにおわせること)の香りが冷ややかに香ばしく、ほのぼのと漂ってきた。清楚な女房の袖口などが簾に透けて見える。髪形の美しい女房が二、三人ばかり簾から透けて見えた。その簾の様子も由緒ありげで趣きがある。
伊衡は少し気後れしたが、簾の側に寄り、「帝の仰せ事にございます。夕刻、若宮の御着袴(オンハカマギ)の祝いに屏風を作って差し上げることになり、色紙形に書くために歌人たちに歌を詠ませてそれを書かせられましたところ、然々の所の色紙形を見落として、歌人たちに命じられなかったので、その所の色紙形には書かせる歌がございません。そこで、その歌を詠ませるべく躬恒・貫之をお召しになられましたが、それぞれ所用で出かけております。日限が今日となっており、これから別の人に命じることも出来ません。そこで、この歌を今すぐ詠んでいただけないかとの仰せがあり、私を使者に命じられたのです」と、経緯を説明した。

御息所は大変驚いて、「これはまた、仰せ事とは思われません。前もって仰せがあったとしても、躬恒や貫之が詠むようにはとても詠めるものではございません。ましてや、こう突然のこととなれば、困惑してしまいます。思いもよらぬことでございます」という声が、かすかに聞こえてくる。その気配は、気高く魅力的で、奥ゆかしい。
伊衡はこれを聞いて、「世の中には、こんなにすばらしい人もいるのか」と思った。

しばらくして、汗衫(カザミ・童女の正装時の上着)を着た愛らしい童女が、銚子を持って簾の中から膝をすって出て来た。
「どうするのか」と伊衡が思っていると、その簾の下から趣のある扇に杯を乗せて差し出されてきていたのである。愛らしい童女が出て来たのに気を引かれて気が付かなかったのだ。
次に、一人の女房が寄ってきて、蛮絵(バンエ・盤絵とも。円形の紋状の絵模様の称。草花や鳥獣などが多い)が描かれている蒔絵の硯箱の蓋に、清らかな薄様の紙を敷き、その上に数種の果物入れて差し出した。酒を勧めるので、杯を手に取ると、童女が銚子を持って酒を注いだ。
「もう十分です」と言っても、聞こうとせずさらに注ぐ。「自分が酒好きだと知っているのだ」と思うとおかしくなった。そこで、飲み干し、杯を置こうとすると、置かせずに次々と飲ませる。四、五度ばかり飲んで、ようやく杯を置いた。
すると、すぐに続いて、簾の下から杯が差し出された。辞退したが、「そんなお愛想のないことを」と言うので、杯を重ねているうちに酔ってきた。
女房たちが少将(伊衡)を見ると、赤みのさした頬や目元が桜の花の色に映りあって、この上なくすばらしく見える。

大分時間が経った頃、紫の薄様の紙に歌を書いて結び、同じ色の薄様の紙に包んで、女の装束と一緒に簾の中から押し出してきた。赤色の重ねの唐衣、地摺りの裳、濃い紫の袴である。色合いがとても清らかで素晴らしい。
「思いもかけぬ贈り物でございます」と言って、頂戴して立ち上がった。
女房たちは少将が帰るのを見送り、その様子を褒め称えた。門を出て見えなくなるまで見送ったが、歩いて行く後ろ姿はまことに優雅であった。
車の音や先払いの声などが聞こえなくなると、たいそう物寂しく思われ、先ほどまで坐っていた敷物に移り香がしみついていたら、それを取り除けるのが惜しいと思うのであった。

一方、天皇は、「まだ帰って来ないのか、まだなのか」と人を見に行かせたりしていた。
ようやく、殿上の間の入り口の方で先払いの声がして少将が参内し、「行ってまいりました」と申し上げると、天皇は、「早く、早く」と仰る。
道風は筆を湿らせて用意を整えて御前に控えており、然るべき上達部(カンダチメ・上級貴族)や殿上人も大勢御前に伺候していた。

そこへ、伊衡少将は賜った装束を頭上にかざし、それを殿上の間の戸の脇に置いて、御息所の文を御前に持ってきて奉った。天皇はこれを開いて御覧になったが、まず、その筆跡のすばらしいこと、道風が書いたものに少しも見劣りがしなかった。
御息所はこのように書いていた。
 『 ちりちらず きかまほしきを ふるさとの はなみてかへる ひともあはなむ 』
 ( 吉野山の桜はもう散ってしまったのか、まだ咲いているのか、聞きたいのだが、花見を終えて帰る人に 会えればいいのだがなあ。)
天皇は御覧になって、大変感嘆なされた。御前に伺候されている人々に、「これを見よ」と言ってお見せになると、一同はそれぞれに情緒豊かに詠じられると、ますます歌の背景が見えて、すばらしく聞こえること限りなかった。その後も、何度も詠じてから、道風が屏風に書き込んだ。

されば、御息所はやはりすばらしい歌人である、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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桜を詠む ・ 今昔物語 ( 24-32 )

2017-02-10 14:32:29 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          桜を詠む ・ 今昔物語 ( 24-32 )

今は昔、
小野宮太政大臣(藤原実頼)がまだ左大臣であられた時、三月の中旬の頃であったが、政務のため参内され陣の座(宮中で公卿が政務を行なう場所。ここでは左近の陣)に着いていると、上達部(カンダチメ・上級貴族)二、三人ばかりが会いにやって来ていた。
外には、南殿(紫宸殿)の御前の桜の大木がまことに神々しく、枝も庭までおおうほどに美しく咲き誇り、花びらが庭一面に隙間なく散り積もり、それが風に吹き立てられ水の面のように波立って見える。

大臣は、「何とも情緒ある眺めかな。毎年美しく咲くが、これほど美しく咲いた年はなかった。土御門中納言(藤原敦忠・三十六歌仙の一人)が参内すればよいのになあ。これを見せたいものだ」と仰る。
その時、遥か向こうから上達部の先払いの声が聞こえてきた。役人を呼んで、「あの先払いの声は、誰が参内されたのか」と尋ねられると、「土御門権中納言が参内されたのでございます」と申し上げた。大臣は、「それは、なかなか良い具合のことだ」とお喜びになっていると、中納言がやって来て座に着くや否や、大臣は、「あの花が庭に散っている様子を、如何ご覧になられるか」と仰った。
中納言が「まことに趣がございます」と申し上げると、「それにしては、遅うございますな」と大臣は歌の催促をされる。中納言は心の中で、「この大臣は、当代の和歌の名人であられる。そうであるのに、自分がつまらない歌でも臆面もなく詠もうものなら詠まずにいるより拙いことになろう。そうとはいえ、高貴なお方がこのようにお求めになっていることを、強いて辞退することも不都合な事であろう」と思い、袖を掻きつくろい姿勢を正して、このように詠じた。

 『 とのもりの とものみやつこ 心あらば この春ばかり あさぎよめすな 』
 ( 主殿寮(トノモリョウ)の 掃除にたずさわる者よ お前に風流の心があるならば この春の間だけは 朝の庭掃除はしないでくれ )
大臣はこれをお聞きになって、とても感嘆なされ、「この歌の返歌は、とても出来るものではない。見劣りするような歌を詠もうものなら、長く汚名が残るだろう。といって、これに勝る歌が詠めようはずがない」と言って、「仕方がないので、古歌でも詠じて何とか格好をつけよう」と思われて、忠房(藤原忠房)が唐へ行く時に詠んだ歌を詠じられた。

この権中納言は、本院の大臣(藤原時平)が在原棟梁(アリハラノムネヤナ)の娘である北の方に産ませられた子である。年は四十ばかりで、容貌・容姿の美しい人であった。人柄も良いので、世間の評判も華やかで、名を敦忠といった。[ 意識的な欠字。「本院」か? ]に通っていたので、[ 欠字。同じく「本院」か? ]の中納言ともいわれた。
和歌を詠むことに優れていたが、このような歌を詠んだので、たいそう世間で褒め称えられた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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彰子の御屏風 ・ 今昔物語 ( 24-33 )

2017-02-10 14:31:43 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          彰子の御屏風 ・ 今昔物語 ( 24-33 )

今は昔、
一条院の天皇(一条天皇)の御時に、上棟門院(ジョウトウモンイン・藤原彰子。道長の長女)が初めて参内されることになった時、御屏風を新しく作られ、その色紙形に和歌を書かせるために、歌人たちに「歌を詠んで奉るように」と仰せ言があった。
四月の藤の花が美しく咲いている家を描いた御屏風の一帖が公任(キントウ・藤原公任)大納言に当てられ、歌を詠むことになった。
やがて定められた日となり、他の人々は歌を作って持ってきたが、公任大納言はいつまでも参内しないので、関白殿(藤原道長)が使いを出し、遅くなっている理由を何度も催促させた。

行成(ユキナリ・藤原行成。能書家で、三蹟の一人)大納言は、これらの和歌を書く役で、早くに参内して御屏風を受け取り、いつでも書きましょうと立ったり坐ったりしながら待っていた。
ようやく公任大納言が参内された。「歌人たちはそれほど良い歌を詠んでいないが、この大納言に限ってはつまらない歌はお詠みになるまい」と誰もが期待をかけていたが、御前に参るや否や関白殿が、「どうされたか、歌が遅かったな」と仰せられると、大納言は、「どうしても気のきいた歌を作ることが出来ません。つまらない歌を奉るのであれば、奉らない方がましでございます。他の歌人たちにも格別優れた歌がないようでございます。それらの歌が控えになり、ごく平凡な私の歌が書かれたりすれば、この公任は長く汚名を残すことになります」と盛んに辞退されたが、関白殿は、「他の者の歌ならなくてもかまわぬ。しかし貴殿の御歌が無くては御屏風の色紙形に歌を書くことなど出来ないのだ」と、[ 欠字あり。「真剣に」といった意味の言葉か? ]責められたので、大納言は、「大変困りました。今回は、総じてどなたも歌が上手く詠めないようでございますなあ。そうとはいえ、特に永任(ナガトウ・人物未詳)には期待しておりましたが、このように『きしのめやなへ』(意味不祥。岸のめやなぎの誤記か?)と詠んでいるようでは、どうしようもないことです。されば、このような者でさえ詠みそこなっているのですから、この公任が詠めずにいるのは当然のことでございますから、なにとぞお許しください」と、様々に理由をつけて辞退しようとされたが、なお関白殿は執拗に催促されたので、大納言はひどく困惑され、ため息を大きくつき、「本当に汚名を長く残すことでしょう」と言いつつ、懐(フトコロ)より陸奥紙(ミチノクガミ・高級紙)に書いた歌を取り出して関白殿に奉った。

関白殿はこれを受け取り、開いて御前にお置きになった。御子の左大臣宇治殿(藤原頼通)同じく二条大臣(ニジョウノオトド・藤原教通)殿をはじめ、多くの上達部、殿上人たちは、「とは言っても、この大納言はそうそうつまらない歌など詠まないだろう」と期待しながら、除目の大間(ジモクノオオマ・人事の結果を行間を広く開けて書いた物)を殿上の間で開いたように、皆寄り集まって大騒ぎして見る。
関白殿が声を高くして詠み上げられるのを聞くと、
 『 むらさきの くもとぞみゆる ふぢの花 いかなるやどの しるしなるらむ 』
 ( 紫の雲かと見えるほどに 美しく咲き誇っている藤の花は この家の どのような吉兆なのだろうか。なお、藤の花は藤原氏の象徴。 )

というものであった。
その場にいる大勢の人は、これを聞いて胸をたたいて、「すばらしい」と大声で褒め称えた。
公任大納言も、人々が皆、「すばらしい」と思っている様子を見て、「これでやっと安心しました」と関白殿に申し上げた。
この大納言は、何事にも優れておられたが、中でも和歌を詠むことは自分でもいつも自賛されていた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 文中にある、頼通と教通(ノリミチ)は共に藤原道長の子供であるが、この時、八歳と四歳でこの場にいたとは考えにくい。長女の彰子(後に中宮)の入内が決まるなど、藤原氏の絶頂期に向かうころの逸話であり、誤記と言うより、誇張されているもののようです。

     ☆   ☆   ☆

 
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和歌の名人 藤原公任 ・ 今昔物語 ( 24-34 )

2017-02-10 14:30:46 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          和歌の名人 藤原公任・ 今昔物語 ( 24-34 )

今は昔、
公任大納言は、春の頃、白川の家においでになっていたが、そこへ然るべき殿上人が四、五人ほど訪れて、「花が大変美しいので見に伺いました」と言うので、酒など勧めて遊んだが、その時、大納言は歌をお詠みになった。
 『 春きてぞ 人もとひける やまざとは 花こそやどの あるじなりけれ 』
 ( 春が来て 人が訪れてくれた。 この山里では この花こそが 家の主人なのであろう。)
殿上人たちはこれを聞いて、たいそう感嘆して詠み上げたが、これに比べ得る歌は誰も詠むことが出来なかった。

また、この大納言は、父の三条太政大臣(藤原頼忠)が亡くなられた年の九月中旬のある夜、月がたいそう明るいので、夜が更けていくなか空を眺めていたが、侍の詰所の方から、「実にきれいな月だなあ」と人が言っているのを聞いて、大納言は、
 『 いにしへを こふるなみだに くらされて おぼろにみゆる あきの夜の月 』
 ( 父が生きていた頃を 恋い悲しむ涙に 曇らされてしまって 明るいはずの月がおぼろ月のように見える 秋の夜の月かな )
と詠んだ。

また、この大納言は、九月の頃、月が雲にかかるのを見て、こう詠んだ。
 『 すむとても いくよもすぐじ 世中に くもりがちなる あきの夜の月 』
 ( いくらきれいに澄み渡っていても 幾夜も続くものではあるまい。この世に生きている私も すぐに曇ってしまうことだろうなあ、秋の夜の月よ。 )

また、この大納言は、宰相中将(サイショウノチュウジョウ・参議兼中将)であった時、然るべき上達部や殿上人を大勢連れて、大井河(京都保津川の嵐山の辺り)に遊びに出かけたが、紅葉が川の中の堰にせき止められているのを見て、こう詠んだ。
 『 おちつもる もみぢをみれば 大井河 いせきに秋は とまるなりけり 』
 ( 落ちては積もる あの紅葉を見ると ゆく秋は 大井河の堰の所で 止められているのだなあ。 )

また、この大納言の御娘は、二条殿(藤原教通)の北の方でいらっしゃったが、雪の降った朝、その方のもとに差し上げた歌。
 『 ふるゆきは としとともにぞ つもりける いづれかたかく なりまさるらむ 』
 ( 降る雪はしだいに積もっていくが 私の白髪も年とともに増えていく 雪と白髪と どちらが高く積もるのだろうか。)

また、この大納言が世の中を恨んで蟄居した時、八重菊を見て詠んだ歌。(長女、次女に続いて先立たれ、世をはかなんで長谷に蟄居している)
 『 をしなべて さくしらぎくは やへやへの 花のしもとぞ みえわたりける 』
 ( いちように 白く咲き誇っている白菊は 八重に咲く花に一面に霜が 置いているように見える。)

また、出家する人が多くあった頃、大納言はこう詠んだ。
 『 おもひしる 人もありける 世中に いつをいつとて すごすなるらむ 』
 ( この世の無常を知って 出家する人もいるのに 私はどうしていつまでも 世の中に関わっているのだろう。)

また、関白殿(藤原頼通)が饗宴をなさった時の屏風に、山里に紅葉見物に来ているところを絵に描いている所に、このように詠んだ。
 『 山里の もきぢみにとか おもふらむ ちりはててこそ とふべかりけれ 』
 ( 紅葉の盛りに行くと、山里の 紅葉を見に来たと 人は思うだろうなあ。紅葉がすべて散り果ててから 訪れるべきであった。)

このように、公任大納言は、すばらしい和歌の名人であった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆



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業平の東下り ・ 今昔物語 ( 24-35 ) 

2017-02-10 14:29:45 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          業平の東下り ・ 今昔物語 ( 24-35 )

今は昔、
在原業平中将(アリハラノナリヒラノチュウジョウ)という人がいた。世に知られた[ 欠字あり。「好き」が入るか? ]者であった。
だが、自分では、わが身はこの世にいても必要のない者だと思い込み、もう「京にはいまい」と決心し、東国の方に「自分が住むべき所があるのではないか」と思って出かけた。
以前から仲の良い一両人を伴ったが、誰も道を知らず、迷いながらの旅であった。

やがて、三河の国の八橋(ヤツハシ・愛知県知立市内らしい)という所に来た。そこを八橋というのは、川の流れが蜘蛛の手のように分かれてるため橋を八つ渡しているので、八橋というのである。
そこの沢のほとりに木陰があった。業平は馬から下りて坐り、餉(カレイイ・干飯と同じ。米飯を乾した物。携帯食)を食べたが、小川のほとりに劇草(カキツバタ・杜若に同じ)が美しく咲いているのを見て、連れの人々が、「カキツバタという五文字を、句の頭ごとにおいて、旅の思いを和歌に詠みなさい」と言ったので、業平はこう詠んだ。
 『 からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ 』
 ( なれしたしんだ妻を京に残してきているので、それを思うと はるばると来たものだと 旅情が迫ってくる。「からころも きつつ」までは、次の「なれにし・・」の序詞。)
人々はこれを聞き、哀れに思って涙を流した。餉の上に涙が落ちて、ふやけてしまった。

そこを立って、さらに遥々と行き行きて、駿河国に至った。
宇津の山という山に分け入ろうとしたが、進もうとしている道はとても暗く、心細いこと限りない。蔦やかえでが茂っていて物寂しい所である。
「とんでもない目に遭うことになった」と思っていると、一人の修業僧に出会った。よく見ると、京での顔見知りの人であった。
僧は業平を見て、驚いた様子で尋ねた。「このような所で、如何なされたのですか」と。
業平は馬から降りて、京のある人のもとに手紙を書き、この僧に託した。
 『 するがなる うつの山べの うつつにも ゆめにも人に あはぬなりけり 』 と。
 ( 駿河の 宇津の山まで遥々と来て せめて夢の中ででもあなたに逢いたいと思っているのに 現実はおろか 夢でさえも お逢いできないのです。)

そこからさらに行くと、富士の山が見えた。五月の末なのに、雪が高く降り積もって、白く見える。
それを見て、業平はこのように詠んだ。
 『 ときしらぬ 山はふじのね いつとてか かのこまだらに ゆきのふるらむ 』 と。
 (季節を知らない山だなあ、富士の嶺は 今はいつだと思って 鹿の子まだらの 雪を抱いているか。)
その山は、京の辺りに例をとると、比叡の山を二十重ね上げたほどの高さの山である。形は、シホジリ(塩尻か? 製塩のため砂をすり鉢を伏せた形にしたものらしい)の形に似ている。

なお旅を続けて、武蔵国と下総国との国境にある大きな川までやって来た。その川を角田河(スミダガワ)という。
その川の岸辺にそれぞれ思い思いに腰を下ろしていると、「限りなく遠くまで来たものだなあ」と、侘しさが身に染みる。
すると、渡し守が「早く船に乗りなされ。日が暮れてしまいますぞ」と言うので、乗りこんで渡ろうとしたが、誰もが京に大切な人がないわけがなく、感慨しきりであった。
ちょうどその時、水の上に鴫(シギ)ほどの大きさの白い鳥で、くちばしと足の赤いのが飛び交いながら魚を取っている。京では見たこともない鳥なので誰も名前を知らない。渡し守に、「あれは何という鳥か」と尋ねると、渡し守は「あれは都鳥と言います」と答えた。
業平は、これを聞いてこのように詠んだ。
 『 なにしおはば いざこととはむ 都どり わがおもふひとは ありやなしやと 』 と。
 ( お前が都鳥という名を持っているのならば都のことはよく知っているだろう。さあ、お前に尋ねよう 都にいる私の想い人は 今もつつがないかどうか。 )
船中の人はこれを聞いて、皆ことごとく涙を流した。

この業平は、このように和歌をすばらしく上手に詠んだ、
となむ語り伝へたるとや。

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業平は和歌の上手 ・ 今昔物語 ( 24-36 )

2017-02-10 14:27:01 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          業平は和歌の上手 ・ 今昔物語 ( 24-36 )

今は昔、
右近衛の馬場で五月六日に騎射が行われたが、在原業平(アリハラノナリヒラ)という人は中将であったので、大臣屋(オトドヤ・公卿などの観覧席)に着席していると、女車がその大臣屋の近くに止まって見学していた。
その時、風が少し吹いて、車の下簾(シタスダレ・牛車の簾の内側に垂らした布)がひるがえったので、その隙間から見えた魅力的な女の顔に心引かれて、業平中将は小舎人童(コドネリワラワ・宮中に仕える小童)を使いとして、このような歌を詠んで届けさせた。
 『 みずもあらず みもせぬ人の こひしくは あやなくけふや ながめくらさむ 』 と。
 ( ちらっと見ただけで よく見たわけでもない人が 恋しく思われて わけもなく物思いに暮らした今日は 一体どういう事なのでしょう。)
女からの返歌は、
 『 しるしらぬ なにかあやなく わきていはん おもひのみこそ しるべなりけれ 』
 ( 顔を知っているとかいないとか あなたはうるさく言われますが 恋というものは思いの深さだけが 道しるべではありませんか。)
と、書かれていた。

また、この業平中将は、惟喬親王(コレタカシンノウ・文徳天皇の第一皇子。弟(清和天皇)との皇位争いに敗れ小野に隠棲した)と申される方が住んでいた山崎に狩りをしに行ったが、天の河原(大阪府枚方市)という所で馬から降りて、酒など飲み交わしている時、親王が「天の河原ということを題材に歌を詠んで、杯を差せ」と仰せになったので、こう詠んだ。
 『 かりくらし たなばたつめに やどからむ あまのかわらに われはきにける 』 と。
 ( 一日中狩りをして日が暮れました たなばた姫よ 今夜の宿を貸してください せっかく天の河原まで来たのですから。 なお、「タナバタツメ」は「七夕つ女」で織女星のこと。)
これに対して、親王は返歌をなさることが出来なかったので、お供していた紀有常(キノアリツネ・親王の伯父に当たり、娘の一人は業平の妻)という人が、このように詠んだ。
 『 ひととせに ひとたびきます きみまてば やどかす人も あらじとぞおもふ 』 と。
 ( わたくし(たなばた姫)は 一年にたった一度おいでになる お方(彦星)を待っていますから 他に宿をお貸しする人は ございません。)

その後、親王はお帰りになり、中将と終夜(ヨモスガラ)酒を飲み、話などされていたが、やがて二日の月(二日の月は夕方には没してしまうので、十一日との誤記か?)が山の端に隠れようとした。親王はすっかり酔って寝所に入ろうとなされたが、業平中将が、
 『 あかなくに まだきも月の かくるるか 山のはにげて いれずもあらむ 』
 ( もっと月を眺めていたいのに もはや隠れるというのか 山の端よ お前の方が逃げて 月を入れないようにしてくれ。)
と詠むのを聞くと、親王はおやすみにならず、そのまま夜を明かされた。

中将はこのようにたえず親王の所に参上して、遊びなどのお相手をされていたが、親王は思いもかけず出家されて小野(京都の八瀬・大原辺りの古名)という所に籠られた。業平中将は親王にお目にかかろうと、二月の頃に出かけられたが、雪がたいそう深く降り積もり、もの寂しげな様子であったのを見て、中将は、
 『 わすれては ゆめかとぞおもふ おもひきや ゆきふみわけて きみをみむとは 』 
 ( 現実であることを忘れていて すべてが夢ではないかと 思い疑うのです このような山里の雪を踏み分けて あなたにお会いするとは。)
と詠んで、泣く泣く帰って行った。

この中将は、平城天皇の皇子である安保親王の御子であるので、家柄もたいそう良い方である。しかし、この世に背を向けて、心を澄まして、このように振る舞って、すばらしい和歌を詠んだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


 

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幼児に先立たれる ・ 今昔物語 ( 24-37 )

2017-02-10 14:26:03 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          幼児に先立たれる ・ 今昔物語 ( 24-37 )

今は昔、
藤原実方朝臣(フジワラノサネカタノアソン)という人がいた。小一条の大将済時(ナリトキ)という人の子である。
一条院(一条天皇)の御時に、左近中将として[ 欠字あり。位階が入るか? ]の殿上人であったが、思いもかけず、陸奥守になり、その国に下ることになった。
ところで、右近中将源宣方(ミナモトノノブカタ)朝臣という人は、[ 欠字あり。「重方」か ]の子である。実方と共に宮中に仕えていた時は、何事につけ隔てなく語り合い、特別に仲の良い友人であった。実方は親友と別れ泣く泣く陸奥国に下って行ったが、その国より宣方中将のもとに歌を詠んで送った。
 『 やすらはで おもひたちにし あづまぢに ありけるものを はばかりのせき 』 と。
 ( 何のためらいもなく 気楽に旅立ってきた 東国赴任だったが やはりためらう心があったのか ここにも「はばかりの関(こういう名の関所があったらしい)」がありましたよ。)

また、道信中将という人がいた。この人も実方中将と大変親しい友人であったが、九月の頃、一緒に紅葉を見に行こうと約束していたが、その道信中将が思いかけず亡くなったので、実方中将はたいそう悲しみ、泣く泣く独り言で、
 『 みむといひし 人ははかなく きえにしを ひとりつゆけき あきのはなかな 』
 ( 一緒に紅葉を見に行こうと言っていた人は 露のように儚く 消えてしまった 今はたった一人で露に濡れた 秋の花を見ています。)
と詠んで、恋い悲しんだ。

また、この実方中将、愛しい幼き子に先立たれた頃、この上なく恋い悲しんで寝たある夜の夢に、その子が現れたので、目が覚めた後に、
 『 うたたねの このよのゆめの はかなきに さめぬやがての いのちともがな 』
 ( うたたねの 今宵の夢に現れたわが子の 儚さよ このまま覚めることのない 命であってほしい。)
と詠んで、泣く泣く恋い悲しんだ。

この中将は、このように和歌を極めた達人であった。ところが、陸奥守になって、その国に下って三年目に儚くも世を去った。哀れなること、まことに限りないことであった。
その子の朝元という人も、和歌の上手であった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

  
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道信中将の和歌二十首 ・ 今昔物語 ( 24-38 )

2017-02-10 14:24:52 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          道信中将の和歌二十首 ・ 今昔物語 ( 24-38 )

今は昔、
左近中将藤原道信という人がいた。法住寺の為光大臣(母は醍醐天皇の皇女。太政大臣。法住寺を建立)の子である。一条院(一条天皇)の御時の殿上人である。姿形、心映えも優れた人で、和歌をたいそう上手に詠まれた。

まだ若い頃、父の大臣(オトド)が亡くなられ、嘆き悲しんだが甲斐もなく、虚しく日は過ぎて年が変わった。悲しみは尽きないが、限りあることで、喪服を脱ぐことになり、道信中将は、こう詠んだ。
 『 かぎりあれば けふぬぎすてつ ふぢ衣 はてなきものは なみだなりけり 』
 ( 限りあることなので 今日喪服は脱ぎ捨ててしまったが 限りのないものは 止まることのない涙です。)
と詠んで泣いた。

また、この中将、殿上の間において、多くの人々と世の中のはかなさについて様々話し合っている時、朝顔の花を見るという題材で、このように詠んだ。
 『 あさがおを なにはかなしと 思ひけむ 人をも花は さこそみるらむ 』 と。
 ( 朝顔を どうしてはかないものと 思っていたのだろう 花の方も人を はかないものと思っているだろう。)

また、この中将、屏風の絵に、野山に梅の花が咲いている所に、女がただ一人住んでいるもの寂しい家を描いてあるのを、このように詠んだ。
 『 みる人も なき山ざとの 花のいろは 中々かぜぞ おしむべらなる 』 と。
 ( 見に来る人も いない山里の 美しく咲いた花の色は さすがに風も 散らすのではなく惜しむように吹いているようだ。 )

また、この中将、九月の頃にある女のもとを訪ねたが、親が隠したので、女がいるのに逢うことが出来ずに帰ったが、その翌日このように詠んで持って行かせた。
 『 よそなれど うつろう花は きくのはな なにへだつらむ やどのあきぎり 』 と。
 ( 放っていても 自然に色あせて行く花 それが菊の花です。それなのに、どうして隔てるのですか 宿の秋霧は。)

また、この中将、菊の盛りの頃、山里に行こうとして、人に言づけてこう詠んだ。
 『 わがやどの かきねの菊の 花ざかり まだうつろはぬ ほどにきてみよ 』 と。
 ( わが家の 垣根の菊の花は 今が盛りですよ 色があせぬうちに きてご覧ください。)

また、この中将、八月の頃、桂の知っている所に出かけたが、月がとても明るく水に映っているのを見てこう詠んだ。
 『 かつらがは 月の光に 水まさり 秋の夜ふかく なりにけるかな 』 と。
 ( 桂川は 月の光に 水かさが増したように見える 秋の夜も すっかり更けたなあ。)
そこから帰って三日ほどしてから、桂で共に月見をした人のもとに、このように詠んで届けた。
 『 おもひいづや 人めながらも 山ざとの 月と水との 秋のゆうぐれ 』 と。
 ( 思い出されますか 人目もない 山里で見た あの美しい月と水との 秋の夕暮れのことを。)

また、この中将、弟の公信朝臣(キンノブノアソン)と共に壺坂という所に行った時、道に萩が咲いているのを見て、こう詠んだ。
 『 おいのきく おとろへにける ふぢばかま にしきのこりて ありとこたへよ 』 と。
 ( 菊は老いて すっかり衰えてしまった 藤袴だけは 錦が残っていて 美しいと答えておくれ。・・萩の花を見て詠んだとされているが、歌の内容は納得できない。どこかで混乱があったか?)

また、この中将、極楽寺の辺りに紅葉を見に行こうと約束していた人が来なかったので、このように詠んで届けた。
 『 ふくかぜの たよりにもはや ききてけむ けふもちぎりし やまのもみぢを 』 と。
 ( 吹く風の便りに すでに 聞いていることでしょう 今日一緒に見に来ようと約束した 山の紅葉が美しいことを。)

また、この中将、奝然法橋(チョウネンホウキョウ・清涼寺を建立。東大寺別当に任じられる)という人が唐へ渡る時、この中将のもとを訪れ、菊の花を見て、「またお会い出来るのは、何年先の秋でしょうか 」と言うのを聞いて、中将はこう詠んだ。
 『 あきふかみ きみだにきくに しられけり この花ののち なにをたのまむ 』 と。 
 ( 深まりゆく秋に咲いている菊を見て 別れの悲しみなど超越されているはずのあなたにさえ いつ再会できるかと聞くのですから この花が終わった後 私は何を頼りに出来るというのでしょうか。・・この和歌は奝然への返歌。)

また、この中将、ある人の所に大破子(オオワリコ・薄板で作った折箱状の容器)というものを作って奉ったが、子日(ネノヒ・正月の子の日に行われた野遊び。小松の根や若菜を摘むなどして長寿・息災を祈った)の遊びを描いたところに、このような歌を書き付けた。
 『 きみがへむ 世々の子日を かぞふれば かにかくまつの おひかはるまで 』 と。
 ( あなたがこの後迎えられる 年ごとの子日を 数えますと 小松が再び生い代わるまでの長い年月でございますでしょう。)

また、この中将、女院(東三条院詮子。円融天皇の女御)が長谷寺に参詣され、お帰りになるのにまだ夜が深かったので、しばらくお待ちになられた時、お付の多くの人々が、有明の月がたいそう美しいのを眺めていたが、その時この中将はこのように詠んだ。
 『 そむけども なをよろづよを ありあけの 月のひかりぞ はるけかりける 』 と。
 ( ご出家なさっても なお女院のご栄光は 有明の月のように はるか万世まで照らしておいでです。)
人々は、たいそうこの歌を褒め称えた。

また、この中将、宮中に仕えていたある女が、「私が宮中を退出するときは、必ずお知らせします」と約束していたのに、何も知らせずに退出してしまったので、翌朝、このように詠んで届けさせた。
 『 あまのはら はるかにてらす 月だにも いづるは人に しらせこそすれ 』 と。
 ( 大空を はるかに照らす 月でさえ 出る時に人に 知らせるものですよ。)

また、この中将、藤原為頼朝臣が遠江守になってその国に下った時、その途中のある所から、扇を送ってきたが、その使いと行き会い、このように詠んで送った。
 『 別れぢの よとせの春の はるごとに 花のみやこを おもひをこせよ 』 と。
 ( 別れている 四年間(任期がおよそ四年であった)の 廻ってくる春ごとに 花の都にいる 私のことを思い出してくださいよ。)

また、この中将、ある人が遠い田舎に下る時に、このように詠んで送った。
 『 たれが世に わがよもしらぬ 世中(ヨノナカ)に まつほどいかに あらんとすらむ 』 と。
 ( あなたにもわたしにも どうなるか分からないこの世の中で あなたを待っている私は どう過ごせばいいのでしょうか。)

また、この中将、藤原相如(スケユキ)朝臣が出雲守になって、その国に下る時、このように詠んで送った。
 『 あかずして かくわかるるを たよりあらば いかにとだにも とひにをこせよ 』 と。
 ( 官命ゆえに このように別れることになったが 何かの便があれば どうしているかでも 便りを送ってくださいよ。)

また、この中将、[ 欠字あり。「藤原」らしい。]の国範朝臣の帯(石帯。束帯(正装)の時、袍の腰を締める帯。位階により種類があった。)を預かっていたが、それを返す時に、このように詠んだ。
 『 ゆくさきの しのぶぐさにも なるやとて つゆのかたみを をかむとぞもふ 』 と。
 ( 将来 あなたを偲ぶよすがに なると思い これをわずかな形見として 残しておきたい気がします。)

また、この中将、屏風絵に遥か沖に出ている釣り船を描いたところを見て、こう詠んだ。
 『 いづかたを さしてゆくらん おぼつかな はるかにみゆる あまのつりぶね 』 と。
 ( どこを目指してゆくのだろう 気がかりなことだ はるか遠くに見える あの釣り船は。)
また同じ屏風絵に、霧が立ちこめた中を行く旅人を描いたところを見て、こう詠んだ。
 『 あさぼらけ もみぢばかくす 秋ぎりの たたぬさきにぞ みるべかりける 』 と。
 ( 夜明け方 美しい紅葉葉を隠す 秋霧が 立ちこめないうちに 見るべきでした。)

また、この中将、ある人が「これをご覧ください」と言ってよこした絵に、もの寂しい山里に小さな川が流れていて、そこにもの思わし気な男がいるところが描かれているのを見て、このように歌を詠み添えて送った。
 『 ながれくる 水にかげみむ 人しれず ものおもふ人の かほやかはると 』 と。
 ( 流れてくる 水に姿を映して見る 人知れず 思い悩んでいる人の 顔つきが変わってしまっているのではないかと。)
絵の持ち主は、これを見てたいそう褒めた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


  
 
 


 


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彼の国からの歌 ・ 今昔物語 ( 24-39 )

2017-02-10 14:23:15 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          彼の国からの歌 ・ 今昔物語 ( 24-39 )

今は昔、
右近少将藤原義孝という人がいた。
この人は、一条の摂政殿(藤原伊尹 コレマサ)の御子である。容貌・人柄をはじめ気立ても才能も、すべて人より優っていた。また、信仰心も深かったが、たいそう若くして亡くなったので、親しい人々は嘆き悲しんだが、どうすることも出来なかった。

ところが、亡くなって後、十か月ほど経って、賀縁(ガエン・天台宗寺門派)という僧の夢に少将が現れ、とても気持ちよさそうに笛を吹いているように見えたが、よく見ると、ただ口笛を吹いているだけであった。
賀縁はこれを見て、「母上があれほど恋い悲しんでいるのに、どうして、そのように気持ちよさそうにしていらっしゃるのですか」と尋ねると、少将は答えることなく、このように詠んだ。
 『 しぐれには ちぐさの花ぞ ちりまがふ なにふるさとの 袖ぬらすらむ 』 と。
 ( 俗世で時雨の降る頃は 私が住む極楽浄土では様々な花が 咲き乱れています それなのに どうして私の古里である俗世では いつまでも私の死を悲しんで袖を濡らしているのですか。)
賀縁は、夢から覚めて涙にくれた。

また、明くる年の秋、少将の御妹の夢に、少将が妹と会って、このように詠んだ。
 『 きてなれし ころものそでも かはかぬに わかれしあきに なりにけるかな 』 と。
 ( あなたの着なれた 喪服の袖の涙も まだ乾いていないのに はや お別れした秋に なってしまいましたねぇ。)
妹は、夢が覚めた後、激しくお泣きになった。

また、少将がまだ病床にあった時、妹の女御(同母の長姉と思われるが、後の文章からすれば、「母」のように思われる)に、少将はまだ自分は死ぬとは思わず、「経を読んでしまいたい」と言ったが、読み終えないうちに亡くなってしまった。その後、少将の言っていたことを忘れて、その身を葬ってしまった。
その夜、母の御夢の中に少将が現れて、こう詠んだ。
 『 しかばかり ちぎりしものを わたり川 かへるほどには わするべしやは 』 と。
 ( あれほど 約束していたのに 私が三途の川から 立ち返る間に 忘れてしまうことなどあるのですか。)
母は、夢から覚めて、泣き、途方にくれられた。

されば、和歌を詠む人というのは、亡くなった後に詠んだ歌も、このようにすばらしいものなのだ、
となむ語り伝へたるとや。

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