麗しの枕草子物語
海の旅
およそ海の旅ほど油断のならないものはございませんよ。
うららかなお天気で、海の面はたいそうのどかで、浅緑色の絹布の艶出ししたものを敷き詰めたかのように、全く穏やかで、衵や袴などを着たまだ若い女や、侍風の若々しい男が、櫓というものを押しながら、盛んに歌など唄っている様子はとても楽しくて、高貴な御方にもお見せしたいなどと思いながら行くうちに、にわかに風が強くなり、海面がどんどん荒れてくるので、もう無我夢中で、目的地に漕ぎ着くまで船が波をかぶり続ける有様は、しばらく前の穏やかさは何だったのかと思われ、本当に海の旅は油断など出来ません。
考えてみますと、船に乗って往来する人ほど、恐ろしくて不安なものはまずありませんわ。とんでもなく深い海にだって、あんな頼りないものに乗って漕ぎ出して行くんですからねぇ。そうですよ、底も知れず、千尋ほどもある海に漕ぎだすのですよ。
荷物を沢山積んでいる船などは、水面まで一尺もない所まで沈んでいるのですから。
ある程度の身分の御方は、船などに乗るものではないと思いますわ。陸路の旅も恐ろしいそうですが、それでもまだ地に足がついているだけ安心というものです。
それにつけても、海女が海の底まで潜る仕事は、辛いでしょうねぇ。
腰につけている綱が切れでもしたら、どうするというのでしょう。せめて男がするというのならまだしも、女の仕事としては並大抵のことではないでしょうに。
それに、あれは何なのですか。男は舟に乗って、のんきそうに歌など唄いながら、命綱を頼りに潜っている女を見ているだけで、心配ではないのでしょうか。
海女が上にあがろうという時に命綱で合図を送るそうで、その時だけは男も必死になって引っ張るそうですが、当たり前のことですよ。
舟べりに手をかけて、大きな音を立てて呼吸するさまなどは、まことに哀切で、そばで見ていても涙が出そうになりますのに、その海女を再び海に放り込んでいる男ときたら、見てはいられないほど憎らしく、あきれ果てた情け知らずですよ。
(第二百八十六段・うちとくまじきもの、より)
海の旅
およそ海の旅ほど油断のならないものはございませんよ。
うららかなお天気で、海の面はたいそうのどかで、浅緑色の絹布の艶出ししたものを敷き詰めたかのように、全く穏やかで、衵や袴などを着たまだ若い女や、侍風の若々しい男が、櫓というものを押しながら、盛んに歌など唄っている様子はとても楽しくて、高貴な御方にもお見せしたいなどと思いながら行くうちに、にわかに風が強くなり、海面がどんどん荒れてくるので、もう無我夢中で、目的地に漕ぎ着くまで船が波をかぶり続ける有様は、しばらく前の穏やかさは何だったのかと思われ、本当に海の旅は油断など出来ません。
考えてみますと、船に乗って往来する人ほど、恐ろしくて不安なものはまずありませんわ。とんでもなく深い海にだって、あんな頼りないものに乗って漕ぎ出して行くんですからねぇ。そうですよ、底も知れず、千尋ほどもある海に漕ぎだすのですよ。
荷物を沢山積んでいる船などは、水面まで一尺もない所まで沈んでいるのですから。
ある程度の身分の御方は、船などに乗るものではないと思いますわ。陸路の旅も恐ろしいそうですが、それでもまだ地に足がついているだけ安心というものです。
それにつけても、海女が海の底まで潜る仕事は、辛いでしょうねぇ。
腰につけている綱が切れでもしたら、どうするというのでしょう。せめて男がするというのならまだしも、女の仕事としては並大抵のことではないでしょうに。
それに、あれは何なのですか。男は舟に乗って、のんきそうに歌など唄いながら、命綱を頼りに潜っている女を見ているだけで、心配ではないのでしょうか。
海女が上にあがろうという時に命綱で合図を送るそうで、その時だけは男も必死になって引っ張るそうですが、当たり前のことですよ。
舟べりに手をかけて、大きな音を立てて呼吸するさまなどは、まことに哀切で、そばで見ていても涙が出そうになりますのに、その海女を再び海に放り込んでいる男ときたら、見てはいられないほど憎らしく、あきれ果てた情け知らずですよ。
(第二百八十六段・うちとくまじきもの、より)