迷える名医 (2)・ 今昔物語 ( 巻24- )
( (1)より続く
七日ばかり治療を続けると、すっかり良くなった。典薬頭はたいそう嬉しく思い、「今しばらくの間は、ここに泊めておこう。この人が誰だか分かってから帰そう」などと思いながら、今は冷やすことを止めて、何という薬なのか茶碗に摺り入れた物を鳥の羽を使って日に五、六度つけるだけである。
「もう、これで大丈夫」と、典薬頭は嬉し気であった。
すると、女は、「私は、恥ずかしい様子をすっかりお見せしてしまいました。ひとえに、あなた様を親とも思い頼りにさせていただくばかりです。それゆえに、私が家に帰ります折には、お車でお送りくださいませ。その時には、私の名をお教えいたしましょう。また、こちらにもしばしば参らせていただきます」などと言うので、典薬頭は、「あと四、五日ばかりは、ここに居るだろう」と思って安心していると、その日の夕暮れ方に、女は夜着用の薄い綿入れの衣を一枚着ただけで、付き従っていた女童を連れて逃げ出してしまった。
そうとは知らぬ典薬頭は、「夕の食事を差し上げましょう」と言って、お盆に食事を整え、典薬頭自ら持って女の部屋に入ると、誰もいない。
「たまたま、用でも足しているのだろう」と思って、いったん食事を持ち帰った。
そのうち日も暮れたので、「まずは、灯りをつけよう」と思って、燭台に火をともして持って行き、あたりを見てみると、着物が脱ぎ散らかっており、櫛箱もある。
「長い間屏風の後ろに隠れて、何をしているのだろう」と思って、「そんなに長い間隠れて、屏風の後ろで何をなさっているのですか」と言って、屏風の後ろを見ると、どうしたことか女童さえいない。重ね着していた着物も袴も置かれたままである。ただ、夜着用として着ていた薄い綿入れの衣一枚だけが無くなっている。
「女はいなくなったのだろうか。あの人は、あの薄い衣一枚で逃げたというのか」と思うと、典薬頭は胸がつぶれる思いで、途方に暮れてしまった。
すぐに門を閉じて、人々が大勢それぞれ手に灯りを持って、家の内を捜しまわったが、見つからなかった。
居なくなったということがはっきりしてくると、典薬頭は、女のいつもの顔の様子や姿が思い浮かんできて、限りなく恋しくて悲しかった。
「病気だからと自制しないで、すぐにも思いを遂げればよかった。どうして、治療してからなどと思って自制してしまったのだろう」と、悔しくて、腹立たしくて、こうなってみると、「自分には妻はなく、遠慮する人もいないから、あの女が人の妻で自分の妻にすることはできないならば、時々通って行って逢うことができればと思い、本当に素晴らしい人を手に入れたと思っていたものを」と、すっかりその気になっていたのに、うまくだまされて逃がしてしまったので、手を打って悔しがり、足を踏み鳴らし、ひどい顔をさらにくしゃくしゃにして泣いたので、弟子の医師たちは陰で大笑いした。
世間の人もこれを聞き、笑いながら本人にいきさつを聞くと、典薬頭はものすごく怒り、むきになって弁解した。
それにしても、実に賢い女である。ついに、誰とも正体が分からないままに終わったのだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
( (1)より続く
七日ばかり治療を続けると、すっかり良くなった。典薬頭はたいそう嬉しく思い、「今しばらくの間は、ここに泊めておこう。この人が誰だか分かってから帰そう」などと思いながら、今は冷やすことを止めて、何という薬なのか茶碗に摺り入れた物を鳥の羽を使って日に五、六度つけるだけである。
「もう、これで大丈夫」と、典薬頭は嬉し気であった。
すると、女は、「私は、恥ずかしい様子をすっかりお見せしてしまいました。ひとえに、あなた様を親とも思い頼りにさせていただくばかりです。それゆえに、私が家に帰ります折には、お車でお送りくださいませ。その時には、私の名をお教えいたしましょう。また、こちらにもしばしば参らせていただきます」などと言うので、典薬頭は、「あと四、五日ばかりは、ここに居るだろう」と思って安心していると、その日の夕暮れ方に、女は夜着用の薄い綿入れの衣を一枚着ただけで、付き従っていた女童を連れて逃げ出してしまった。
そうとは知らぬ典薬頭は、「夕の食事を差し上げましょう」と言って、お盆に食事を整え、典薬頭自ら持って女の部屋に入ると、誰もいない。
「たまたま、用でも足しているのだろう」と思って、いったん食事を持ち帰った。
そのうち日も暮れたので、「まずは、灯りをつけよう」と思って、燭台に火をともして持って行き、あたりを見てみると、着物が脱ぎ散らかっており、櫛箱もある。
「長い間屏風の後ろに隠れて、何をしているのだろう」と思って、「そんなに長い間隠れて、屏風の後ろで何をなさっているのですか」と言って、屏風の後ろを見ると、どうしたことか女童さえいない。重ね着していた着物も袴も置かれたままである。ただ、夜着用として着ていた薄い綿入れの衣一枚だけが無くなっている。
「女はいなくなったのだろうか。あの人は、あの薄い衣一枚で逃げたというのか」と思うと、典薬頭は胸がつぶれる思いで、途方に暮れてしまった。
すぐに門を閉じて、人々が大勢それぞれ手に灯りを持って、家の内を捜しまわったが、見つからなかった。
居なくなったということがはっきりしてくると、典薬頭は、女のいつもの顔の様子や姿が思い浮かんできて、限りなく恋しくて悲しかった。
「病気だからと自制しないで、すぐにも思いを遂げればよかった。どうして、治療してからなどと思って自制してしまったのだろう」と、悔しくて、腹立たしくて、こうなってみると、「自分には妻はなく、遠慮する人もいないから、あの女が人の妻で自分の妻にすることはできないならば、時々通って行って逢うことができればと思い、本当に素晴らしい人を手に入れたと思っていたものを」と、すっかりその気になっていたのに、うまくだまされて逃がしてしまったので、手を打って悔しがり、足を踏み鳴らし、ひどい顔をさらにくしゃくしゃにして泣いたので、弟子の医師たちは陰で大笑いした。
世間の人もこれを聞き、笑いながら本人にいきさつを聞くと、典薬頭はものすごく怒り、むきになって弁解した。
それにしても、実に賢い女である。ついに、誰とも正体が分からないままに終わったのだ、
となむ語り伝へたるとや。
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