雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

七草粥

2019-01-07 19:24:36 | 日々これ好日
        『 七草粥 』

     七草粥を頂いた
     七草粥については 様々ないわれがあるが
     正月に酷使した 胃腸を休める目的もあるとされる
     確かに 私の場合は 胃腸もさることながら
     いやしい『口』を 鎮める必要がありそうだ

                    ☆☆☆
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天の川並

2019-01-07 08:12:21 | 新古今和歌集を楽しむ
     わくらばに 天の川並 よるながら
             明くる空には まかせずもがな


               作者  女御徽子女王

( No.325 巻第四 秋歌上 )
     わくらばに  あまのかわなみ よるながら
                あくるそらには まかせずもがな



* 作者は、第六十二代村上天皇の女御。(929~985)享年五十七歳。

* 歌意は、「 ごくたまに お逢いすることが出来たのですから せめて 天の川の川波が寄せるこの夜は いつまでも夜のままであって欲しい。 明けてくる空の 勝手にさせないでください。」とした。
この和歌は、おそらく作者は織姫の気持ちになって詠んだものと思われるが、歌意については、相当違う受け取り方をする人もいるかもしれない。
なお、「わくらばに」は「まれに。ごくたまに。」といった意味。「よる」は、「寄る」と「夜」の掛詞であろう。

* 作者の「女御徽子女王(ニョウゴ キシジョオウ)」は、「斎宮女御」と呼ばれることが多かったようである。
父は、醍醐天皇の皇子・式部卿重明親王。 母は、藤原忠平の次女寛子。936年八歳で伊勢斎宮に卜定され、野宮神社に入った後、938年に伊勢神宮に群行(グンコウ・斎宮が伊勢神宮に下向することをいう。)した。
945年、母の死により、十七歳で退下。この年の秋に京に戻った。
948年、叔父にあたる村上天皇(926~967)に請われて入内する。二十歳の時である。そして、翌年に女御の宣下を受けた。

* 徽子女王は、歌人としても高い評価を受けていた他、琴の名手としても名高かったらしい。
特に歌人としては、「新古今和歌集」に十二首採録されているなど、勅撰和歌集に合計四十五首選ばれている。また、三十六歌仙にも入っているが、三十六人のうち女流歌人は五人だけであり、その中で、皇族は徽子女王ただ一人である。

* 967年、村上天皇崩御の後は、一人娘の規子内親王と共に内裏外の邸宅で暮らしたらしい。
そして、975年に規子内親王が二十七歳で円融天皇の斎宮に選ばれると、徽子女王は野宮神社に同行し、翌年の伊勢群行にも円融天皇らの制止を振り切って同行している。前例のない事として人々を驚かせたらしい。
984年、円融天皇の譲位で規子内親王が退下すると、翌年共に京に戻った。
この頃には、徽子女王はすでに病身であったようで、程なく没した。

* 徽子女王は、村上天皇の御代から円融天皇の御代にかけて、歌人として活動を続けていたようである。また、村上天皇が崩御した四十歳の頃からは内裏を離れての生活であったようであるが、娘も斎宮に選ばれたこともあって、その生涯は、皇族として生き続けたものであったと考えられる。
その人柄は、「たいそう高貴で優雅な人」と評されたと伝えられているが、周囲の反対を押し切って伊勢にまで娘に同行するなど、芯の強い女性であったとも考えられる。
村上天皇とも仲睦まじかったとも伝えられているが、それについては別の機会に譲りたい。

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