盗人の上を行く ・ 今昔物語 ( 28 - 16 )
今は昔、
阿蘇の[ 欠字あり。人名が入るが不詳。]という史(サカン・太政官の第四等官)がいた。背丈は低いが、肝っ玉は抜け目なくしたたかな男であった。
ある日のこと、家は西の京にあったが、公務で内裏に参って、夜更けてから家に帰ろうと東の中の御門(待賢門のこと)より出て、牛車に乗って大宮大路を南に進んでいたが、着ている装束をみな脱いで、片っ端から畳んで車の敷物の下にきちんと置き、その上に敷物を敷いて、史は冠をつけ足袋だけはいて、裸になって車の中に座っていた。
さて、二条大路から西に向けて走らせて行くと、美福門のあたりを過ぎる頃、物陰から盗人がばらばらと出てきた。牛車の轅(ナガエ・牛と車を繋いでいる長い二本の棒)に手をかけ、牛飼い童を殴りつけたので、童は牛を捨てて逃げてしまった。牛車の後方に雑色(ゾウシキ・下男)が二、三人ついていたが、皆逃げてしまった。盗人は車に近付き、車の簾を引き開けて中を見ると、裸で史が座っているので、盗人はあきれてしまい、「いったいどうしたことだ」と訊ねると、史は、「東の大宮大路でこんな姿にされてしまったのですよ。あなた方のような公達がやって来て、私の装束をみな持って行ってしまったのですよ」と笏を取ってまるで高貴な人に物を申し上げるように畏まって答えると、盗人は大笑いしながら去っていった。
そこで、史は大声で牛飼い童を呼ぶと、皆もどってきた。そして、そこから家に帰った。
家に帰って妻にこの事を話すと、妻は、「その盗人にも負けない心をお持ちなのですね」と言って笑った。まことに、恐ろしいほどの思案の持ち主である。
装束をみな脱いで隠しておいて、あのように言おうと心の用意をしているなどは、まったく普通の人では思いつくものではない。
この史は、格別機転のきいた物言いをする男なので、こうしたことも言えたのだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
平茸を食う ・ 今昔物語 ( 28 - 17 )
今は昔、
御堂(藤原道長)がまだ左大臣で枇杷殿(ビワドノ)にお住まいであった頃、御読経を勤める僧がいた。名を[ 欠字。「雅敬」など諸説ある。]といい、[ 欠字。寺名が入るが不詳。「興福寺」とも。]の僧である。
この僧は、枇杷殿の南にあった小さな家を僧房として住んでいたが、ある秋のこと、仕えていた童子が小一条の社にある藤ノ木に平茸がたくさん生えていたのを、師のもとに取って持ってきて、「このようなものを見つけました」と言うと、師の僧は、「それは良いものを持ってきた」と喜び、さっそく汁物ににさせて、弟子の僧と童子と三人差し向かいで存分に食った。
ところが、しばらくすると、三人とも突然のけぞるようにして苦しみ出した。食べた物を吐き出し、転げ回って苦しんだ末、師の僧と童子は死んでしまった。弟子の僧だけは、死ぬほど苦しんだがやがて落ち着いて死なずにすんだ。
すぐにその事が左大臣殿のお耳に入り、たいそう気の毒がり悲しまれた。貧しい僧であったので、残った者たちはどうするのかと心配されて、葬式の費用に、絹、布、米などたくさん与えられたので、他所に住んでいる弟子や童子が大勢やって来て、遺体を牛車に乗せて立派に葬った。
ところで、東大寺にいる[ 欠字。名前が入るが不詳。]という僧が、同じように御読経に参っていたが、この僧も道長邸の近くに、別の僧と同じ僧房に泊まっていた。
ある時、その同宿している僧が見ていると、[ 欠字。東大寺の僧を指す。]が弟子の下法師(シモホウシ・下級の僧)を呼んで、そっと耳打ちして使いに出した。「大事な用があって、使いに出したのだ」と見ていると、すぐに下法師が帰ってきた様子である。袖に何か物を入れて、覆い隠すようにして持ってきた。取り出して置いたのを見ると、平茸を袖いっぱいに入れて持ってきたのである。
この僧は、「あれは、どういう平茸なのか。つい先ごろ、あのような忌まわしい事件があったのに、どういうつもりで持って来た平茸なのか」と怖ろしく思いながら見ていると、しばらく経ってから、焼漬(ヤキツケ・味付けして焼いたものか?)にして持ってきた。東大寺の僧は、飯のおかずにすることもなく、その平茸だけを限りなく食い出した。
同宿の僧はその様子を見て、「これはどこの平茸をそんなに急いで食ったのか」と尋ねると、東大寺の僧は、「これは例の僧が食って死んだ平茸を、取ってこさせて食ったのだ」と言う。同宿の僧は、「これは、何と言うことをなさるのか。気でも狂われたのか」と言うと、東大寺の僧は、「欲しくなったからです」と答えて、何も気にすることなく食べ続けるので、同宿の僧はとても止めることが出来そうもないので、これを見届けると、急いで邸に駆けつけて、「また大変な事が起こりそうです。これこれ然々の次第です」と取次させると、左大臣殿は、それをお聞きになって、「あきれたことだ」などと仰っているうちに、東大寺の僧が「御読経の交替の時刻になりました」と言ってやって来た。
左大臣殿は、「何を思って、あんな平茸を食ったのか」と訊ねさせると、東大寺の僧は、「亡くなった僧が葬儀の費用を賜り、死に恥を見ずにすんだことがうらやましく思ったのです。私めが死ねば、大路にでも棄て去られることでしょう。そこで、私めも平茸を食って死にますれば、亡くなった僧のように、葬儀費用などを賜ることが出来るかと思いまして、食べたのでございます。それなのに、どうも死ねないようでございます」と申し上げたので、左大臣殿は、「物にでも狂ったような僧だな」と仰せられてお笑いになった。
こういうわけで、どうやら、大変な毒茸を食ってもあたらないことを知っていて、人を驚かせようとして、こんなことを言ったのであろう。当時は、この事を世間で話の種になり笑い合った。
されば、同じ茸を食っても、毒にあたってたちまち死んでしまう人もあり、またこのように死なない人もあるということは、きっと食い方があのだろう、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
別当の地位を狙う ・ 今昔物語 ( 28 - 18 )
今は昔、
金峰山(ミタケ・キンプセンとも。金峯山寺。奈良県吉野の霊場。)の別当(最高責任者)をしていた老僧がいた。昔は、金峰山の別当は、その山の一﨟(イチロウ・最長老。一番の﨟が多いこと。「﨟」は出家得度した僧が、一夏イチゲ九十日間修行すること(安居アンゴ)で、その回数の多寡が修業の程度を測る目安とされた。)の者を登用した。最近ではそうではなくなった。
ところで、長年一﨟である老僧が別当を続けていたが、二番目の﨟である僧がいて、「あの別当、早く死なないものか。そうすれば、自分が別当になれるのに」と強く願っていたが、別当はかくしゃくとしていて、とても死にそうもなかった。そこで、この二﨟の僧は、困り果てて思いついたことは、「あの別当の年齢は八十歳を超えているが、七十歳にも見えないほど元気なのに、自分もすでに七十になってしまった。もしかすれば、自分は別当になることが出来ずに、先に死んでしまうこともあり得る。されば、あの別当を打ち殺させたいが、それでは事が明らかになってしまうだろう。ここは、毒を食わせて殺してやろう」と心に決めた。
「三宝(仏・法・僧を指すが、ここでは「仏」の意。)が何と思し召しになるか怖ろしいが、といって他に方法もない」と思って、その毒について思いめぐらすうちに、「人が必ず死ぬ毒は、茸の内の和太利(ワタリ・月夜茸の古名。)という茸こそ一番だ。人がそれを食えばそれにあたって必ず死ぬ。これを取ってきて、美味しく調理して、「これは平茸です」と言って、あの別当に食わせれば必ず死ぬだろう。そこで、自分が別当になろう」と企てた。
ちょうど秋のことなので、自ら人も連れずに山に行って、たくさんの和太利を取ってきた。
夕暮れ方に僧房に帰ると、誰にも見せないで、全部を鍋に切り入れて、とても美味しそうな炒め物に料理した。
さて、翌朝、未だ明けきらぬ頃に、別当のもとに人を遣って、「すぐにおいで下さい」と言わせると、別当はほどなくして杖を突いてやって来た。
この僧房の主である二﨟は、差し向いに座って、「昨日、ある人が立派な平茸を下さったので、それを炒め物にして食べようとお呼びしたのです。年を取りますと、このような美味い物が食べたくなるものです」などと話すと、別当は喜びうなずいて座っている。そこで、飯を炊き、あの和太利の炒め物を温め、汁物にして食わせると、別当はたくさん食べた。二﨟は本当の平茸を別に用意していてそれを食べた。
すっかり食べ終えて、湯など飲んだので、二﨟は、「うまくいった」と思い、「今に食った物を吐き出し、頭を痛がって暴れ回るだろう」と、待ち遠しく見ていたが、まったくその気配がないので、「どうしたのだろう」と怪しんでいると、別当は歯もない口元を少し微笑ませて、「長年、この老法師は、これまでこれほど美味く調理された和太利を食べたことがありませんなあ」と言って座っているので、二﨟は「さては和太利と知っていたのだな」と思うと、驚いたどころの話ではなかった。恥ずかしさに何も言えなくなり、奥に引っ込んでしまったので、別当も自分の僧房に帰って行った。
なんと、この別当は長年にわたって和太利を好んで食べていたが、あたることのない僧であった。それを知らずに謀ったが、すっかり当てが外れてしまったのである。
されば、毒茸を食っても、まったく当たらない人もいるのである。
この事は、その山に住んでいる僧が語ったのを聞き伝えて、このように、
語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
無知な食いしん坊 ・ 今昔物語 ( 28 - 19 )
今は昔、
比叡山の横川(ヨカワ)に住んでいる僧がいた。
秋の頃、その僧坊の法師が山に行って木を伐っていたが、平茸があったので取って持って帰った。
僧たちはそれを見て、「これは平茸ではないぞ」などという者もいたが、別の僧が「これは間違いなく平茸だ」と言ったので、汁物にして、栢(カエ・かやの古名で、実を食用にしたらしい。)の油があったのを入れ、坊主(僧房の主)はこれをたくさん食べた。
それからしばらくすると、坊主は、頭を振り回していたがり、食べた物をあたり一面に吐き出した。どうすることもできないので、僧衣を取り出して、横川の中堂に持って行って誦経料にした。
そして、[ 欠字。僧名が入るが不詳。]という僧を導師として祈祷させた。導師は祈祷を行って、その終りに教化(キョウゲ・説法によって教え導くこと。法会で、導師が仏法を讃嘆して唱える数句の文。)の言葉を述べた。
「一乗の峰(ここでは、比叡山を指す)には住んでおられるが、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官。)・五内(心・肝・肺・腎・脾の五つの内蔵。五臓とも。)の[ 欠字。「清浄」か?]の位を習っておられないので、舌の所に耳(茸をもじっているらしい)を用いたため、身は病となったのである。鷲の山(霊鷲山。釈迦由来の霊山。)に住んでおられたなら、枝折を尋ねながらも登ることが出来たでしょう。見知らぬ茸(タケ・岳に見立てている。)と思われたご様子で、一人迷われたようです。廻向大菩薩(エコウダイボサツ・廻向文の結びに使われる常套句。)」と。
導師に続いて誦する役の僧たちは腹の皮が切れるほど大笑いした。
この僧は、死ぬほど苦しんだ末に、やっと助かった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
世にも稀なる鼻 ・ 今昔物語 ( 28 - 20 )
今は昔、
池の尾という所に禅智内供(ゼンチナイク・伝不詳)という僧が住んでいた。道心が強く真言(シンゴン・祈祷の時に唱える経文などを梵語のまま読み上げる呪文の総称。)などをよく習い、熱心に行法(ギョウホウ・加持祈祷などの密教修法。)を修めていたので、池の尾の堂塔や僧房などは少しも荒れた所がなく、常灯や供物などは絶えることがなく、折々の僧供(ソウグ・僧へ供養のために贈る金銭や米穀など。)や寺での講説(コウゼツ・経文の講義や説法などの集会。)などもしばしば行われていたので、境内にはぎっしりと僧房が建ち並び、多くの僧が住み着いて賑わっていた。浴室にはその寺の僧共が湯を沸かさぬ日はなく、入浴しながら盛んに話し合い、まことに賑やかに見えた。
このように栄えている寺なので、その周辺に住む小家も数が増えていき、郷も賑わっていた。
さて、この内供は、鼻がとても長く、五、六寸ばかりもあったので、顎よりも下がって見えた。色は赤紫色で、大柑子(ダイコウジ・夏ミカンのようなものか?)の皮のようにつぶつぶとして膨れ上がっていた。それが、ひどくかゆくてどうしようもないほどだった。
そこで、提(ヒサゲ・酒や水を注ぐのに用いる口つきの容器。)に熱湯を沸かし、折敷(オシキ・木製の四角い盆)にその鼻が通るほどの穴をあけて、熱気で顔をあぶられるのを防ぐために、その折敷の穴に鼻を通して、その提にさし入れて茹でる。そして、紫色になったところを、横向きに寝て、鼻の下に物をあてがって、人に踏ませると、よく茹でて引き出しているので、色は黒く粒だった穴の一つ一つから、煙のようなものが出てきた。それをさらに強く踏むと、白い小さな虫が穴ごとに頭を出す。
それを毛抜きで抜き出すと、四分(1.2cmほど)ほどの白い虫をそれぞれの穴から抜き出した。その虫を取った跡は穴が開いたように見える。
それをまた同じ湯にさし入れて、さらさらと最初と同じように茹でると、鼻はとても小さくしぼみ縮んで、普通の人のような小さな鼻になった。
ところが、二日三日経つと、またかゆくなり膨れのびて、前のように腫れて大きくなる。このような事を繰り返していたが結局腫れている日の方が多かった。
そのため、物を食べ、粥などを食べる時には、弟子の法師に長さ一尺ばかりの平らな板を鼻の下にさし入れ、向かい合って座って上の方へ持ちあげさせて、物を食べ終わるまで弟子は座っていて、食べ終わると板を外して立ち去らした。
ところが、その弟子以外の者に持ち上げさせると、持ち上げ方が下手なので、機嫌が悪くて物を食べようとしなかった。それで、この弟子の法師をその役に決めて持ち上げさせていた。
ところが、その弟子の法師が体調が悪く出て来なかったので、内供が朝粥を食べようとしたが、鼻を持ち上げる人がいなかったので、「どうしたものか」などとあれこれ考えていると、一人の童がいたが、それが「私ならうまく持ち上げて差し上げられる。絶対にあんな小僧に劣りはしません」と言っているのを、別の弟子の法師が聞いて、「この童がこう申しています」と伝えた。
この童は、中童子(チュウドウジ・童子は、寺院で召し使った童髪の少年で、年長の大童子と幼少の小童子の間ぐらいをいう。)で見た目も見苦しくなく、上の間に召し上げて使っている者なので、「ではその童を呼べ。そう言うのであれば、これを持ち上げさせてみよう」と言ったので、童を連れて来た。
童は鼻を持ち上げる板を取ると、きちんと内供と向き合って座り、ちょうどよい高さに持ち上げて粥を飲ませると、内供は、「この童はとても上手だぞ。いつもの法師よりうまいぞ」と言って、粥をすすっていると、童は、顔をそむけて大きなくしゃみをした。それで童の手が震え、鼻を持ち上げていた板が動いたので、鼻が粥の鋺(カナマリ・金属製のおわん。)にばしゃっと落ちた。粥は、内供の顔にも童の顔にもたくさん飛びかかった。
内供は大いに怒り、紙を取って頭や顔にかかった粥を拭いながら、「お前はとんでもない間抜けな乞食野郎だ。わしではなく、高貴なお方の御鼻を持ち上げている時に、このような事をするのか。分別のない馬鹿者めが。立ち去れ、こ奴め」と言って追い立てたので、童は物陰に逃げて行き、「世の中にこのような鼻を持っている人がおられるというのであれば、他所に行って鼻を持ち上げることもあるでしょう。ばかなことを申されるお坊さまだ」と言ったので、弟子たちはそれを聞いて、外に逃げ出して大笑いした。
これを思うに、実際、どんな鼻であったのだろう。さぞかしあきれた鼻であったのであろう。
童が、実に痛快に言ったことを、聞く人は皆ほめた、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
青経の君 ・ 今昔物語 ( 28 - 21 )
今は昔、
村上天皇の御代に、旧宮(フルキミヤノミコ・あまりパッとしない宮様。ここでは、醍醐天皇の四男重明親王を指す。)の御子で、左京大夫[意識的な欠字。重明親王の長男「源邦正」らしい。左京大夫は左京職の長官。]という人がいた。
背が少し細高くて、たいそう上品な様子をしているが、動作や姿は間が抜けていた。
頭は鐙頭(アブミガシラ・後頭部が張り出た頭。いわゆる才槌頭。)なので、冠の纓(エイ・冠の飾りで、後ろに垂らす固めた布。)は背につかず、背中から離れて揺れている。顔色は露草の花を塗ったように青白く、瞼は黒く、鼻は際立って高くて色は少し赤い。唇は薄くて色も無く、笑うと歯が丸見えで歯茎が赤く見える。声は鼻声でかん高い。何か言うと声が家じゅうに響き渡る。歩く時には、背を振り尻を振って歩く。
この人は殿上人であったが、格別色が青かったので、[ 欠字あり。該当語不詳。]の殿上人は、皆がこの人を青経の君(アオツネノキミ)とあだ名をつけて笑い合った。
なかでも、若い殿上人たちで元気で生意気な連中は、この青経の君を立ち居につけてからかい、とんでもないほど笑い物にしたので、天皇がこれをお聞きすてになさることが出来ず、「殿上の男どもが、この者をあのように笑い物にするのは、まことによろしくない。父の親王がこれを聞けば、私が制止していることを知らず、私を恨むことであろう」と仰せになって、御本心から機嫌を悪くなさった。
そこで、殿上人たちは皆舌哭き(舌打ち。不満の仕草であるが、天皇に対して舌打ちなどしたのか、疑問を感じるが。)をして、これより後は笑うのはやめようと申し合わせた。さらに神仏に起請して、「天皇がこれほどご機嫌を悪くなさるのでは、これから後は青経と呼ぶことは禁止としよう。もし、こう起請して後に、青経と呼んだ者には、酒・肴・菓子(クダモノ)などを負担させて、罪を償わせることにする」と約束した。
その後、ほどなくして、堀川の兼通大臣は当時中将であられたが、この起請のことをうっかり忘れていて、この人が歩いて行く後ろ姿を見て、「あの青経丸はどこへ行くのか」と仰せらるのを殿上人たちがそれを聞いて、「このように起請を破ったことは、けしからんことだ。されば、約束通りに、速やかに酒・肴・菓子を取りに行かせて、その贖いをすべきである」と皆集まって責めたてると、堀川の中将は笑いながら、「そのようなことはしないぞ」と断ったが、集まっている者は真剣に(この部分一部欠字あり、推定した。)責めたので、中将は、「それでは、明後日頃に、この青経と呼んだことの贖いをしよう。その日に、殿上人も蔵人も、いる限りお集まりください」と言って、自宅に帰られた。
その日になると、「堀川の中将が青経の君と呼んだ罪を贖うだろう」ということで、殿上人は参内しない者はなく、皆集まった。殿上の間に居並んで待っていると、堀川の中将は直衣(上級貴族の平常服。)姿で、その容姿は光るばかりに魅力をあふれるばかりにただよわせ、何とも素晴らしい香のかおりをたきしめて参内してきた。直衣はなおやかで美しく、裾から青い出袿(イダシウチギ・下着の衣の裾を少しのぞかせる着つけ。儀式など改まった時の着方。)を見せ、指貫(サシヌキ・袴)も青い色のものを着けている。随身(ズイジン・勅宣により護衛として従う近衛府の舎人。位により人数が定められていた。)四人にはみな狩衣に袴・衵(アコメ・小袖)を着せていた。そのうちの一人には、青く彩った折敷(オリシキ・四角い盆)に、青磁の皿に猿梨を盛っている物を捧げ持たせている(欠字あり一部推定)。一人には、青磁の瓶に酒を入れて、青い薄様の紙で口を包んで持たせている。一人には、青い竹の枝に、青い小鳥を五、六羽ばかりつけて持たせている。
これらを、殿上口(デンジョウノクチ・殿上の間の沓脱の辺りらしい。随身は殿上人ではないので、部屋には上がれない。)から次々と持ってきて、殿上の間の前に参上したので、殿上人たちはこれを見て、全員がいっせいに大声で笑いざわめいた。
その時、天皇はこの声をお聞きになって、「いったい何事を笑っているのか」とお尋ねになられると、女房が「兼通が青経と呼びましたので、その事により殿上の男たちに責められて、その罪の贖いをいたしているものを、笑い騒いでいるのです」と申し上げると、天皇は「どのようにして贖っているのか」と申されて、日の御座(ヒノオマシ・清涼殿の中央部に設けられている天皇の日中の御座所。)にお出ましになり、小蔀から覗いてご覧になると、兼通中将が自分の装束をはじめ随身も皆青ずくめの装束で青い食べ物ばかり持って参上しているので、「これを笑っているのだな」と察しられて、お腹立ちもなく、ご自身もたいそうお笑いになられた。
その後は、本気になってご機嫌を損ねられることもなかったので、殿上人たちはますます笑い騒いだ。
そのため、青経の君というあだ名は付いたままになってしまった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
仰ぎ中納言 ・ 今昔物語 ( 28 - 22 )
今は昔、
中納言藤原忠輔という人がいた。
この人は、いつも上を向き空を仰ぎ見るような様子をしているので、世間の人は、この人に仰ぎ中納言というあだ名を付けていた。
さて、この人が右中弁(ウチュウベン・太政官弁官局の第三等官。正五位上相当。)で殿上人であった時、小一条の左大将済時(ナリトキ)という人が参内なさった時、この右中弁に出会った。大将は、右中弁が仰ぎ見ているのを見て、冗談まじりに、「今、天には何事があるのですか」と言ったので、右中弁はこう言われ少し憤慨して、「今、天には大将を犯す星が現れています」と答えたので、大将はひどく気分を害されたが、冗談まじりのことなので腹も立てられず、苦笑いしただけで終わった。
その後、この大将は、間もなく亡くなられた。そこで右中弁は、あの冗談のせいだろうかと思い合わせたのである。
人が命を失うということは、すべて前世の報いとは言いながら、つまらぬ冗談事などは言ってはならないのである。このように思い合わせられることもあるからである。
右中弁は、その後も長生きして、中納言にまでなったが、やはりそのあだ名はなくならず、世間の人は、仰ぎ中納言とあだ名を付けて笑った、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
肥満防止法 ・ 今昔物語 ( 28 - 23 )
今は昔、
三条の中納言という人がいた。
名を[ 欠字。「(藤原)朝成」が該当。]と言った。三条の右大臣(藤原定方)と申される人の御子である。
学識に優れ、唐の事もこの国の事もその知識をよく身につけ、思慮深く、豪胆で、強引な人柄でもあった。また、笙(ショウ)を吹くことが極めて上手であった。資産も十分にあり、家は豊かであった。
背が高くて太っていたが、太り過ぎて苦しくてたまらないほどなので、医師(クスシ)の和気重秀(ワケノシゲヒデ・和気清麻呂の子孫にあたるらしいが、伝不詳でもある。)を呼んで、「こんなに太るのを、何とかできないか。立ち居するのさえ、身が重くて大変苦しいのだ」と仰せになると、重秀は「冬は湯漬け、夏は水漬けの御飯を召しあがるのが良いでしょう」とお答えした。
その時は六月ごろの事だったので、中納言は重秀に、「それでは、しばらくそこにいてくれ。水飯を食べるところを見てくれ」と仰せになったので、重秀は仰せに従ってそこに控えていると、中納言が侍(武士という意味ではなく、雑用や警備を勤める従者。)を呼ぶと、侍が一人やって来た。
中納言が、「いつもの食事のようにして、水飯を持ってこい」と命じられると、侍は立ち去った。しばらくすると、御台(ミダイ・四脚の台盤)を持ってきて(この部分、誤字欠字があるらしい)、御前に置いた。台盤には箸の台が二つほど載っている。続いて侍が盤(バン・盆)を捧げ持ってきた。重秀が侍が台盤に載せた物を見ると、中ぐらいの皿に白い[ 欠字あるも不詳。]瓜の三寸ばかりの物を切らずに十ばかり盛ってある。別の中くらいの皿には、鮨鮎(スシアユ・鮒ずしのようなものか?)の大きく幅広いものを、尾と頭だけを押しずしにして、三十ばかり盛ってある。それに大きな鋺(カナマリ・金属製のお椀)が添えてある。これらをみな台盤に取り据えた。
また、別の侍が大きな銀の提(ヒサゲ・つるのある、鍋のような金属製の容器。)に銀の匙(カイ・しゃもじ)を立てて、重そうに持ってきて前に据えた。
すると、中納言は、鋺を取って侍に渡し、「これに盛れ」と命じると、侍は匙に飯をすくいすくい、高々と盛り上げて、わきの方に水を少し入れて差し上げると、中納言は台を引き寄せて、鋺をお持ちになった。何と大きな鋺かと見ていたが、ずいぶん大きな手でお持ちになると、それが少しも不釣り合いに見えない。
まず、[ 欠字 ]瓜を三切れほどに食い切り、三つほど食べる。次に鮨鮎を二切ればかりに食い切り、五つ、六つをやすやすと食べる。次に水飯を引き寄せ、二度ほど箸でかき回されたと思うや否や飯はなくなってしまっていて、「また、盛れ」と言って、鋺を差し出される。
これを見て重秀は、「水飯をひたすらお食べになっても、こんな具合に食べられるようでは、絶対に肥満がおさまるはずがありません」と言って、逃げ出し、後にこの事を人に語って大笑いした。
されば、この中納言はますます太り、相撲取りのようであった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
とんでもない聖人 ・ 今昔物語 ( 28 - 24 )
今は昔、
文徳天皇の御代に、波太岐山(ハタキノヤマ・所在地など未詳)という所に一人の聖人がいた。
長年、穀物の食断ちをしていた。天皇はこの事をお聞きになって、召し出して神泉苑(シンセンエン・現存しているが、当時は現在の十数倍の広さであったらしい。)に住まわせ、帰依されること限りなかった。
この聖人は生涯穀物を断っているので、木の葉を常食としていた。
ところが、若くて元気のいい殿上人で、ふざけ好きの連中が大勢連れ立って、「さあ、出かけて行って、その穀断ちの聖人を見てみようではないか」と言って、その聖人の住いに出かけて行った。
聖人がいかにも貴げに座っているのを見て、殿上人たちは礼拝してから尋ねた。「聖人、穀物を断ってから何年になるのでしょうか。また、年は幾つになられたのでしょうか」と。
聖人は、「年はすでに七十になりましたが、若い時から穀物を断っていますので、五十余年になります」と。
これを聞くと、一人の殿上人が声をひそめて、「穀断ちをした人の糞は、どんなものだろうかな。普通の人とは違うはずだ。いざ、行って見てみよう」と言い合わせて、二、三人ばかりが厠に行って見てみると、米を多く含んだ糞があった(この辺り欠字あり分かりにくく、一部推定した)。
これを見て、「穀断ちしている人は、絶対にこんな糞をするはずがない」と怪しみ疑って、聖人の居る所に返って見ると、聖人がちょっと座を外していたので、その隙に、座っていた所の畳(敷物)をひっくり返してみると、板敷に穴があり、その下の土が少し掘られている。「怪しいぞ」と思って、よく見ると、布の袋に白米を包んで置いてある。
殿上人たちはそれを見て、「やっぱりな」と思って畳をもとのように敷いて、素知らぬ顔でいると、聖人が帰ってきた。すると殿上人たちは微笑んで、「米糞の聖(ヨネクソノヒジリ)、米糞の聖」と大声で罵って散々笑ったので、聖人は恥じて逃げ去った。そして、その後は行方知らずになってしまった。
なんと、この聖人は人をだまして貴ばれようと思って、密かに米を隠し持っていたのだが、誰も気がつかず、穀断ちしていると信じて、天皇も帰依なされ、人々も貴んでしまったのである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
行き過ぎたいたずら ・ 今昔物語 ( 28 - 25 )
今は昔、
藤原範国(フジワラノノリクニ・正しくは「平」らしい。)という人がいた。
この人が五位の蔵人であった時、小野宮実資(オノノミヤノサネスケ・藤原氏)の右大臣と申される方が、陣(紫宸殿の左右両近衛に陣があったが、左近の陣らしい。)の御座に着いて、上卿(ショウケイ・議長役の公卿。)として政務を決裁されていたが、あの範国は五位の職事(シキジ・陣の座での決議事項を申し文にして、天皇の裁可を仰ぐ際の上奏役。)として、申文(モウシブミ・上奏文)を受け取るために、陣の御座に向かい、上卿の仰せを承っていた時、弾正弼(ダンジョウノヒツ・弾正台の次官。現在の検察庁にあたる。)源顕定という人は殿上人であったが、南殿(ナンデン・紫宸殿)の東の端に座って、男根を丸出しにしていた。
上卿は奥の方にいらっしゃるのでそれが見えないが、範国は陣の御座の南の端でこれを見て、可笑しくて堪えられずに吹き出してしまった。
上卿は範国が笑うのを見て、事情がお分かりにならないので、「どうしてお前は、朝廷の宣旨を下す時に、そのように笑うのだ」と厳しくとがめられ、すぐさまこの由を奏上なさったので、範国は窮地に陥って、大いに恐れ入った。
しかしながら範国は、「あのように顕定朝臣が男根を丸出しにしておりましたので」とは、とうとう言い出せないままに終わった。顕定朝臣は、「範国の困惑している様子が、さぞかし可笑しい」と思ったことであろう。
されば、人は時と場所をわきまえず、行き過ぎたいたずらはしてはならないことなのだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆