人ごころ 薄花染めの 狩衣
さてだにあらで 色や変らん
作者 三条院女蔵人左近
( No.1156 巻第十三 恋歌三 )
ひとごころ うすはなぞめの かりごろも
さてだにあらで いろやかわらん
* 作者は、平安中期の宮廷女房・歌人である。生没年とも未詳であるが、( 940から950 ~ 1005とも1011頃とも )享年は60歳代ぐらいか。
* 歌意は、「 人の心は薄いもので 薄花染めの狩衣のようですが そればかりか 色さえも変わってしまうのでしょうか 」と、男心の薄情と移ろいやすさを詠んだものでしょう。
* 作者の三条院女蔵人左近は、はじめは円融天皇の皇后媓子に仕え、後に三条院の東宮時代(居貞親王)に女蔵人として仕えたらしい。媓子が円融天皇のもとに入内したのは973年のことで、二十七歳という当時としては遅い入内であった。作者の左近は、その頃に出仕したと推測されるが、媓子は六年後には三十三歳で崩御している。
三条天皇の東宮時代は、986~1001年なので、媓子皇后崩御後かなりの時間が経ってから東宮のもとに出仕したらしいが、その間のことはよく分からない。
* ただ、宮廷女房としてある間には、歌人として頭角を現したようであるし、藤原朝光とは恋愛関係にあったとも伝えられており、平兼盛・藤原実方・藤原公任らとの交流も贈答歌などに残されている。朝光は関白家の御曹司であるし、他の人も歴とした貴公子たちである。
* 当時、宮廷の女房として仕えるためには、相当厳しい身元調べがあったと推定される。貴族の娘に限定されていたわけではないようだが、養女になるなどして然るべき身元を必要としていたようである。
そう考えた場合、三条院女蔵人左近の出自は謎が深い。作者は、「小大君(コオオギミ/コダイノキミ)」とも呼ばれていて、女流歌人としては当時の一流ともいえる上手として認められていた。三十六歌仙や女房三十六歌仙に選ばれており、勅撰和歌集には二十首が入集している。そして、天皇や東宮の女房として仕えていることを考えると、当時の人々にとっては、左近の出自はなんの秘密もなく、宮廷に仕えるのに十分な出自の女性と考えられたように感じられるのである。
* しかし、左近の出自について、父の名前も母の名前も伝えられていないのである。生没年についても伝えられている和歌などから推定されたものである。
この時代の女性の消息は、清少納言や紫式部クラスの女性であっても極めて断片的なことは確かなことである。
史実としては否定されているようであるが、父は醍醐天皇の皇子である重明親王、母は藤原忠平の娘という風説もあったらしい。貴公子たちの交流などを考えると、その可能性もあるかもしれないと思うのだが、それであれば、その伝承が断ち切られていることが不思議であり、三条院に女蔵人として仕えていることも不自然である。女蔵人は、女房の中でも身分の低い職種であり、皇族に繋がる女性とすれば異例な気がする。
* また、「小大君」という呼び名のいわれについても、明確に説明されている資料は無いようである。読み方は明確ではないが、「コオオギミ」を有力視する意見が多いようである。その場合推定できることは、「小」は美称の接頭語で、「大君」は貴族の長女の尊称、という解釈である。次女以下を「中の君」「三の君」と尊称していたようである。
* 個人的には、重明親王の娘であったかどうかはともかく、然るべき家柄の息女であるが、何らかの理由で公認できないような理由、それも当時の人々が広く承知しているような理由があったのかもしれない、と勝手に想像してしまうのである。
三条院女蔵人左近、つまり小大君が生きた時代は、平安王朝文化の絶頂期に近く、多くの女流歌人・文学者を生み出した時代でもある。その絢爛豪華な時代を複雑な宿命を背負いながら、その才能を和歌に託して懸命に生きた一人の女性がいた・・・。
三条院女蔵人左近は、ふと、そのようなことを想像させてくれる女性のような気がするのである。
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