雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

落馬の言い訳 ・ 今昔物語 ( 28 - 6 )

2020-01-03 12:29:11 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          落馬の言い訳 ・ 今昔物語 ( 28 - 6 )

今は昔、
清原元輔(キヨハラノモトスケ・従五位上。三十六歌仙の一人。清少納言の父でもある。)という歌人がいた。
その人が内蔵助(クラノスケ・中務省の内蔵寮の次官。)になって、賀茂の祭の使者(朝廷から遣わされる奉幣使。)に任命されて、一条大路を通って行ったが、[ 欠字あるが、不詳。]の若い殿上人の車がたくさん立て並べて見物している前を過ぎようとした時、元輔の乗った飾り馬が何かにつまずいて、元輔は頭から真っ逆さまに落ちた。

年老いた者が馬から落ちたので、見物していた公達たちは、気の毒なことだと見ていると、元輔はすばやく起き上った。しかし、冠が脱げ落ちてしまい、あらわになった頭には髻(モトドリ・髪を頭上で束ねたもの。)が露ほどもなく、まるでお盆でも被ったようである。
馬の口取りがあわてふためいて冠を拾って手渡したが、元輔は冠を着けようともせず、後ろ手で制して、「これ、うろたえるな。しばらく待っておれ。公達に申し上げることがある」と言うと、殿上人たちの車のそばに歩み寄った。夕日が差していて、頭がきらきらと輝いていて、見苦しいことこの上なかった。
大路にいる者は市を成して駆け集まり、大騒ぎして見物している。車の者も桟敷にいる者も、背を伸び上がらせて大笑いする。

そうした中を、元輔は公達の車のそばに歩み寄って言った。「公達方は、この元輔が馬から落ちて、冠を落としたのを愚か者と思われるのか。それはお心得違いというものですぞ。そのわけは、思慮深い人であっても、物につまずいて倒れることは普通のことです。いわんや、馬は思慮あるものでもありますまい。それに、この大路には石が多くでこぼこしています。また、手綱を強く引いているので、歩こうと思う方向に歩かせることも出来ず、あちこちと引き回すことになります。されば、心ならずも倒れた馬を『悪い奴だ』と責めることなど出来ません。石につまずいて倒れる馬をどうすることが出来ましょう。唐鞍(カラクラ・唐風の鞍。儀式用の豪華な鞍。)はまるで皿のように平らなのです。何につけうまく載せられるはずがない。馬が激しく躓いたので落ちたのです。何も悪いことではありません。また冠が落ちたのも、冠というものは紐で引っ掛けて結び付けるものではなく、掻き入れた髪でとめるものだが、私の髻はすっかり無くなってしまっている。されば、落ちた冠を恨むわけにもいかない。それも例がないわけではない。[ 意識的な欠字 ]の大臣(オトド)は大嘗会の御禊の日に落とされた。また[ 意識的な欠字 ]の中納言は、ある年の野の行幸において落とされた。[ 意識的な欠字 ]の中将は賀茂祭の二日目に紫野で落とされた。このように、先例は数えきれないほどあるのです。それを、事情をご存じない近頃の若君たちは、これをお笑いになるべきではないのです。お笑いになる公達の方こそ、愚か者というべきでしょう」と。
このように言いながら、車一つ一つに向かって指を折って数え上げ、言いきかせた。
こう言い終ってから、遠くに立ち退き、大路の真ん中に突っ立って、声高く「冠を持って参れ」と命じ、冠を取って髪を掻き入れて被った。
その時、これを見ていた人たちはいっせいに爆笑した。

また、冠を拾って手渡そうと近付いた馬の口取りが、「馬から落ちられた後、すぐに御冠をお被りにならず、どうして長々とつまらないことを仰せになったのですか」と尋ねると、元輔は、「ばかなことを言うな。尊(ミコト・もともとは尊称語であるが、「お前」といった意味でも使われた。)。あのように物の道理を言いきかせてやったからこそ、これから後、あの公達方は笑わないだろう。そうでなければ、口さがない公達はいつまでも笑うことであろう」と言って、行列に加わった。

この元輔は、世慣れた人で、面白いことを言っては人を笑わせてばかりする翁だったので、このように臆面もなく言い訳したのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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無知な郡司 ・ 今昔物語 ( 28 - 7 )

2020-01-03 12:28:10 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          無知な郡司 ・ 今昔物語 ( 28 - 7 )

今は昔、
比叡の山の西塔に、教円座主(キョウエンザス・第二十八代天台座主)という学僧がいた。話し上手で、人を笑わせる説経教化をする人であった。

その人が、まだ若い頃のことで、供奉(グブ)という役にあって西塔に住んでいた頃、近江国粟田郡の矢馳(ヤハセ・現在の草津市)という所に住んでいた郡司(国司の下僚)の男が、長年この人に帰依して、常に訪れて山住まいの不自由を助けてくれていたので、教円はまだ若く貧しい身であったので嬉しく思って過ごしていたが、ある時、その郡司がわざわざ訪ねてきた。
「何事があったのですか」と尋ねると、郡司は、「長年の願いによって、このたび仏堂をお造りしたのですが、『これを心をこめて供養し奉ろう』と思っております。長年の親しいお付き合いに免じて、お出ましいただけないでしょうか。いかがでしょうか。また、そのために必要な物があれば、仰せられるままに用意させていただきましょう。私もすっかり年を取ってしまいましたので、ひたすら後生のためにと思っているのです」と言う。
教円は、「参ります事など容易いことです。その日の夜明け頃に、三津(ミツ・琵琶湖の西南、大津市辺りにあった船着き場。)の辺りに迎えの船を寄こしてください。また、矢馳の津に馬二、三頭に鞍を置いて寄こしてください。それから、功徳をねんごろにするには、舞楽で供養するのが良いでしょう。それらはみな極楽や天上のあり様を写したものなのです。ただ、それには樂人などを山から呼ばなくてはならないので大ごとです。とてもお呼びできないでしょう」などと言うと、郡司は、「樂人は私が住んでいる津に皆おりますので、楽を行うことは何でもありません。容易いことでございます。されば、楽を行うことに致しましょう」と言った。
教円供奉は、「そうであれば、たいそう功徳になるでしょう。では、さっそくお帰り下さい。当日の夜明けに、三津の辺りに行って船をお待ちします」と言うと、郡司は喜んで、「承知いたしました。御船をさっそく準備いたしましょう」と言って帰っていった。

その日になり、夜明け前のまだ暗いうちに西塔から下山して、白々と夜が明けてくる頃に行き着くと、船はすでに用意されていたのでそれに乗って行くと、矢馳に着くまでは一時(ヒトトキ・二時間ほど)ばかりなので、巳時(ミノトキ・午前十時頃)頃に到着した。
見れば、前には、「鞍を置いた馬三頭」と言っておいたのに、十余頭ほども引いてきている。また、白装束をした男たち十余人ばかりが立ち並んでいる。その他にも様々な姿の下人たち四、五十人ばかりがあちこちに群がって立っている。
教円供奉は、「これらは見物に来た者たちであろう。何を見に来たのだろう」と思って、東西を見回したが、見るべきもののようなものは、目につかない。船が岸に寄せられたので降りて、引き寄せた馬に乗った。供をしている法師二人も馬に乗せ、教円供奉が先に立って行くと、あとの十余頭ほどの馬にあの白装束した男たちがばらばらと乗った。その時になって、「この男たちは迎えに来た者たちだったのか」と気づいた。

日が高くなったので、馬を急がせて行ったが、この馬に乗った白装束の男たちは、ある者は真っ黒な田楽鼓を腹に結び付け、両袖から腕を突き出して左右の手にばちを持っている。ある者は笛を吹き、高拍子(タカヒョウシ・拍子木のような打楽器?)をたたき、[ 欠字あり。楽器の名前らしいが不詳。]突き、朳(エブリ・農機具の一種だが、楽器にしているらしい。)を差して、様々な田楽を、二段物・三段物に編成して、打ち叩き吹き鳴らして狂ったように演じている。
教円供奉はこれを見て、「いったいどうした事か」と思ったが、呆れて尋ねることもできない。

こうして、この田楽の奴らは、あるいは馬の前に立ち、あるいは馬の後ろにつき、あるいは脇に立って進んでいく。
そこで教円供奉は、「今日はこの里の御霊会(ゴリョウエ・怨霊や疫病神などを鎮める祭礼。)かも知れない」と思って、「まんの悪い時に来合わせてしまったものだ。このような奴らの中に囲まれていくとは、まったく正気の沙汰ではない。もしも知っている人に会ったりすれば情けないことだ」と思い、袖で顔をすっかり隠していくうちに、ようやく郡司の家が見えてきた。
門の前には、百千の人が集まって見ている。急いで行こうとすると、この田楽の奴らは、教円供奉に向かい合って鼓を打ち、[ 欠字あり。楽器の名前らしいが不詳。]を笠の縁に突きかけて、朳を捧げて頭の上で振り、このようなことをして進ませようとしない。腹立たしいことこの上ない。

ようやく郡司の家の門の前に行き着き、馬から下りようとすると、郡司親子が出てきて、左右の馬の口を取り、馬に乗せたまま屋敷の中に迎い入れたので、教円供奉は、「そのようなことはなさるな。ここで下ろしてください」と言ったが、「ああ、もったいないことを」と言って、聞き入れようとしない。
そして、あの田楽の奴らは、馬の左右に並んだまま、舞いながら次々に入ってくる。郡司が「手落ちがないようにな、お前たち」と言うと、鼓を打つ者三人が馬の前に来て、そりかえるようにして舞い、やたらと鼓を打ち続けるので、教円供奉は困り果て、早く下ろしてくれればよいのにと思っても、このように舞い狂うので馬を進めることも出来ず、のろのろと馬を歩かせていると、屋敷の中でも見物人が大勢騒いでいる。
ようやく廊の端に馬を押し付けたので、喜んで馬から下りた。すると、用意した部屋に案内した。

教円供奉は、何が何だか分からないので、郡司に、「もし、郡司殿よ、教えてくださいな。この田楽は何のためになさったのか」と尋ねると、郡司は、「西塔に参った折、『ねんごろな功徳には、楽をすることだ』と仰せなさいましたので、それを用意したのでございます。それに、『講師は楽でお迎えしなければならぬ』とある人に教えられましたので、そのようにさせていただいたのです」と答えた。
それで教円供奉は、「こ奴は、田楽を舞楽だと思ったのだ」と分かり、可笑しくなったが、そのことを語る相手もいなかったので、そのまま供養を行い、終わってから山に帰り、元気のいい小僧たちにこの田楽のことを語って聞かせたところ、一同どっとばかりに大笑いした。
教円供奉は、もともと話上手な人なので、どんなに面白く話したのだろう。

「賤しい田舎者でも、皆それくらいのことは知っているのに、その郡司は全く無知な奴だ」と、この話を聞いた人は、皆あざけり笑った、
となむ語り伝へたるとや。

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小寺の小僧 ・ 今昔物語 ( 28 - 8 )

2020-01-03 12:27:13 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          小寺の小僧 ・ 今昔物語 ( 28 - 8 )

今は昔、
一条の摂政殿(藤原伊尹(コレマサ)のこと。摂政・太政大臣。972没。)が住んでおられた桃園は今の世尊寺である。
そこで、摂政殿が季の御読経(キノミドキョウ・春秋二季に大般若経を講読する法会。)を営まれた時、比叡山、三井寺ならびに奈良の寺々の優れた学僧を選んで招請されたので、皆参上したが、夕方の講座を待つ間に、僧たちは居並んで、ある者は経を読み、ある者は雑談などしていた。

寝殿の南面を御読経所として設えられていたので、そこに居並んでいたが、南面の築山や池がとても風情があるので、それを見て山階寺(ヤマシナデラ・興福寺の別称)の僧中算(チュウザン・のちに西大寺別当。976年に四十二歳で没。)が、「なんとすばらしいことか。この屋敷の木立(キダチ)は他に比べる所がない」と言ったのを、そばにいた木寺(キデラ・未詳)の基僧(キゾウ・延暦寺の僧らしい。)という僧が聞いていて、「奈良の法師というものは、物事にうといものだ。言葉遣いも卑しい。『木立(コダチ)』とは言うが、なんと『キダチ』と言っているようですぞ。まことに田舎者の言葉遣いじゃ」と言って、爪をぱちぱちとはじいた。(軽蔑の動作らしい。)
中算はこう言われて、「これは、申し損ないましたな。それでは、お前さまのことは、『小寺の小僧(「木寺の基僧」の「キ」の部分を「コ」と読み替えてからかったもの。)』と申さねばなりませんなあ」と言ったので、その場にいた僧たちはこれを聞いて、大声で爆笑した。

その時、摂政殿がこの笑い声をお聞きになって、「何を笑っているのか」と尋ねられたので、僧たちはありのままに申し上げると、摂政殿は、「それは、中算がそう言うために、基僧のいる前で言い出したことなのに、基僧はそれに気づかず、計略にはまってしまって、格好の悪いことだ」と仰せられたので、僧たちはいよいよ笑って、これより後は、「小寺の小僧」というあだ名がついてしまったのである。
「無駄なとがめだてをして、かえってあだ名がついてしまった」と言って、基僧は悔しがった。この基僧というのは[欠字あり。寺名が入るが不詳。]の僧で、木寺に住んでいたので、木寺の基僧というのてある。

中算は大変優れた学僧であったが、このような機知にとんだ物言いをする人でもあった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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助泥の破子 ・ 今昔物語 ( 28 - 9 )

2020-01-03 12:26:15 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          助泥の破子 ・ 今昔物語 ( 28 - 9 )

今は昔、
禅林寺(ゼンリンジ・永観堂とも。)の僧正と申す人がいらっしゃった。名を尋禅(ジンゼン・のちに天台座主。)と申される。この人は、九条殿(藤原師輔。右大臣。)の御子である。たいそう高貴な仏道修行者である。
この人の弟子に、徳大寺の賢尋(ケンジン)僧都という人がいた。

この人がまだ若い頃、当時の入寺(ニュウジ・入寺僧に同じ。阿闍梨に次ぐ学僧の階級。)になって拝堂式(ハイドウシキ・新任の住職が寺に入る際の儀式。)を行うことになったが、大きな破子(ワリコ・折箱ふうの弁当箱。)がたくさん必要になったので、師である僧正は「破子三十荷ほどを準備してやろう」と思われて、禅林寺の上座(ジョウザ・寺務を取り仕切る役僧。)である助泥(ジョデイ・伝不祥)を呼び寄せて、「しかじかのために破子三十荷が必要なので、人々に言って集めさせよ」と仰せられたので、助泥は十五人の名を書き立てて、それぞれに一荷ずつ割り当てて集めるようにした。
僧正は、「残りの十五荷の破子は誰に割り当てるつもりなのか」と尋ねられると、助泥は、「この助泥がおりますからには、破子は集まったも同然です。私一人で全部ととのえることが出来ますが、『人々に集めさせよ』という仰せでしたので、半分を人々から集め、残りの半分はこの助泥がととのえようと思っています」と申し上げた。
僧正はそれを聞いて、「それは大変ありがたいことだ。それでは、さっそくととのえて持って来るように」と仰せられた。助泥は、「なんの、これしきの事を出来ない貧乏人があるものですか。情けない仰せです」と言って、立ち去った。

当日になり、人々に申し付けた十五荷の破子は皆持ってきた。しかし、助泥の破子はまだ来ていない。
僧正が「どうしたのだ、助泥の破子は遅いではないか」と思っていると、助泥が袴の裾をたくし上げて、扇を開いて使いながら、得意顔で現れた。僧正はそれをご覧になって、「破子の主、やって来たな。えらく得意顔でやって来たものだ」と仰せになると、助泥は僧正の御前に参り、悠然と頭を持ち上げて座った。
僧正が「どうしたのか」と尋ねられると、助泥は「その事でございます。破子五つは借りられなかったのでございます」と得意顔で申し上げる。僧正が「それで」と仰せになると、声を少しひそめて、「あと五つは入れる物が見つからないのです」と言う。僧正は、「それでは残りの五つは」と尋ねられると、助泥はさらに声をひそめ、震え声で「それは、まるっきり忘れてしまっていたのです」と答えた。
僧正は、「なんという奴だ。人々に申し付けておれば、四、五十荷でも集められたはずだ。こ奴は何と思ってこのような大事なことをおろそかにしたのか」と問い質そうとして、「呼んで参れ」と大声をあげられたが、跡をくらまして逃げ去ってしまった。

この助泥は、いつも冗談ばかり言う男であった。
このことから、「助泥の破子」という言葉が生まれたのである。これは、実に馬鹿げた話だ、
となむ語り伝へたるとや。

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粗忽な近衛舎人 ・ 今昔物語 ( 28 - 10 )

2020-01-03 12:25:13 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          粗忽な近衛舎人 ・ 今昔物語 ( 28 - 10 ) 

今は昔、
左近衛の将曹(サカン・四等官)である秦武員(ハタノタケカズ・伝不祥)という近衛舎人(コノエトネリ・近衛府の官人)がいた。
この男が、禅林寺の僧正(前話にも登場している、深禅僧正。)の御壇所(ゴダンショ・修法を行うための壇を設えた道場。)に参ったところ、僧正は中庭に招いて世間話などされていたが、武員は僧正の御前にうずくまった姿勢でしばらくしゃがんでいるうちに、誤って、高らかに一発放ってしまった。
僧正もこれをお聞きになり、御前に大勢伺候していた僧たちも皆これを聞いたが、嘆かわしいことなので、僧正は黙ったままで、僧たちも互いに顔を見合わせていた。
その状態がしばらく続いた後、武員は左右の手を広げて顔を覆い、「ああ、死んでしまいたい」と言ったので、その声を聞くと同時に、御前にいた僧たちは、皆大笑いした。その笑いにまぎれて、武員は立ち上がって走り去ってしまった。
その後、武員は長い間僧正のもとに参上しなかった。

このような事は、やはり、聞いたその時こそがおかしいのである。時間がたつと、逆に、[ 欠字あり。「恥ずかしい」といった意味の言葉か?]ことである。日頃から可笑しいことをいう近衛舎人の武員だからこそ、「死んでしまいたい」などと言えたのである。そうでない人であれば、ひどく苦り切った顔をして、何も言わずに座っているだけだろうが、それもまことに可哀そうなことだろう、と人々は言い合った、
となむ語り伝へたるとや。

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唐櫃の中から ・ 今昔物語 ( 28 - 11 )

2020-01-03 12:23:47 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          唐櫃の中から ・ 今昔物語 ( 28 - 11 )

今は昔、
ある年配の受領の妻のもとに、祇園(祇園社。八坂神社。)の別当(寺務を統括する首長の僧。)で感秀(カンシュウ・伝不詳)という定額寺(ジョウガクジ・官寺に準ずる寺。)の僧が忍んで通っていた。
受領はこの事をうすうす感づいていたが、しらぬ顔で過ごしているうちに、受領の外出中に感秀が入れ替わりに入って、我が物顔に振る舞っていた。そこへ、受領が帰って来ると、妻も侍女たちもそわそわと落ち着かない様子である。
受領は、「さては、来ているのだな」と思って、奥に行って見てみると、いつも置いてある唐櫃(カラビツ・衣料などを入れる四脚付きの長櫃。)に普段と違って鍵がかけられている。「きっと、この中に入れて、鍵をかけたのに違いない」と確信して、年配の侍一人を呼んで、人夫二人を連れて来させて、「この唐櫃を今すぐ祇園に持って行って、誦経料として差し上げてこい」と言って、立文(タテブミ・正式文書)を持たせて、唐櫃を担ぎ出して侍に渡すと、侍は人夫に担わせて出て行った。
それを見ていて、妻も侍女たちも驚いた様子であるが、あきれて物も言えなかった。

さて、侍はこの唐櫃を祇園に持って行くと、僧たちが出てきて、「これは、すばらしいさ財宝であろう」と思って、「さっそく別当に申し上げよ。それまでは開けるわけにはいかない」と言いながら、別当に子細を伝えに行かせて待っていると、かなり経ってから、「捜しましたがお姿が見えません」と言って、使いが帰ってきた。
すると、誦経料の唐櫃を運んできた使いの侍は、「長々と待っているわけには参りません。私が見ておりますから、問題はないでしょう。すぐにお開け下さい。私は忙しいのです」と言うので、僧たちは「どうしたものか」と決しかねていると、唐櫃の中でか細くなさけない声で、「別当といわず、所司(ショシ・別当の下位の役僧。)のはからいで開けよ」と言うのが聞こえた。僧たちも使いの侍も、これを聞いて、びっくり仰天した。
とはいえ、そのままにもしておけず、恐る恐る唐櫃を開けた。見れば、別当が唐櫃から頭をつき出した。僧たちはこれを見て、目も口も開けっ放しで(一部欠字あり、推察した。)、全員立ち去ってしまった。唐櫃を運んできた使いも逃げ帰ってしまった。
その間に、別当は唐櫃から出て、走って隠れてしまった。

これを思うに、受領は、「感秀を引きずり出して、踏んだり蹴ったりするのは外聞が悪い。ただ恥をかかせてやろう」と思ってのことで、大変賢い処置であった。感秀もまた、もともと冗談のうまい人であったから、唐櫃の中からでも、このようなことを言ったのであろう。
世間にこの話が伝わると、味なやり方をしたものだ、と褒め称えた、
となむ語り伝へたるとや。

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衣を取り違える ・ 今昔物語 ( 28 - 12 )

2020-01-03 12:22:51 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          衣は取り違える ・ 今昔物語 ( 28 - 12 )

今は昔、
誰だとは、聞こえが悪いので書かないが、ある殿上人の妻のもとに評判の高い僧が忍んで通っていたが、夫の殿上人はそれを知らないで過ごしていた。
三月の二十日余りの頃、その夫は参内したが、その隙に僧はその家に入り込んで、僧衣を脱いで、我が物顔に[ 欠字あり。「ふるまう」といった意味の言葉か?]いたが、妻はその脱いだ僧衣を取って、夫の衣装を懸けている棹(サオ)に一緒に懸けておいた。

そのうち、夫は内裏から使いを寄こして、「内裏から人々と共に遊びに行くことになったので、烏帽子と狩衣を持って来させてくれ」と言ってきたので、妻は棹に懸けていた[ 欠字あり。「なよやか」といった言葉か?]な狩衣を取り、烏帽子に添えて袋に入れて使いに持たせた。
ところが、夫はすでに遊ぶ場所に他の公達たちと共に行ってしまっていたので、使いはそこへ持っていった。そこで袋を開いて見ると、烏帽子はあるが狩衣はなく、薄ねずみ色の衣を畳んで入れてあった。
「これは何だ」と夫はあきれていたが、「さては、間男がいて、そ奴の僧衣と間違えたのだな」と気づいた。殿上人たちが居並んで遊んでいる所なので、他の公達たちもこれを見てしまった。恥ずかしく情けない思いがしたが、どうすることも出来ず、衣を畳んだまま袋に入れて持って帰らせたが、こう書いて入れた。
『 ときはいかに きょうは うずきのひとひかは まだきもしつる ころもがへかな 』
( 今日はいつだったかな 四月一日(衣替えの日)はまだきていないのに 早々と衣替えをしたものだ )
と、[ 欠字あり。該当語不明。]書いてやって、そのまま家にも帰らず、夫婦の縁は切れてしまった。

女房が愚かで、狩衣を取って袋に入れたつもりが、暗い中で同じ棹に僧衣を懸けたため、あわてて取った時に同じような手触りの僧衣を狩衣と思って袋に入れてしまったのである。
妻は夫の手紙を見て、どれほど驚いたことだろう。しかし、もはやどうすることもできなかった。

隠そうとしていたが、自然にこの事は世間に知られることになり、この夫を「思慮があり、立派な人だ」と褒め称えた、
となむ語り伝へたるとや。

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口達者の徳 ・ 今昔物語 ( 28 - 13 )

2020-01-03 12:21:29 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          口達者の徳 ・ 今昔物語 ( 28 - 13 )


今は昔、
銀(シロガネ)の鍛冶師に、[ 欠字あり。「姓」が入るが不詳。]の延正という者がいた。延利の父、惟明の祖父である。(いずれの人物も、伝不詳。)

ある時、花山院がその延正を呼び出して、検非違使庁に身柄を渡した。院は、なお怒りがおさまらず、「厳しく取り調べよ」と命じ、庁にあった大きな壺に、水をいっぱいになるまで満たし、その中に延正を入れて、首だけ出して放置させた。
十一月(旧暦)のことなので、寒さのためがたがたと震えあがった。

夜がしだいに更けてゆくと、延正は声を限りに大声で叫び出した。庁舎は院がおいでになる御所とごく近い所なので、こ奴が叫ぶ声が、はっきりと聞こえた。
延正が叫んでいる内容は、「世間の人たちよ、ゆめゆめ大ばか法王の近くに参ってはならぬぞ。大変恐ろしく堪え難いことになるぞ。ただ下衆のままでいるのだぞ。この事をよく心得ておけ、分かったな」といったものである。
その叫び声を、院はお聞きになって、「こ奴め、たいそうなことを言うものだ。なかなかの口達者ではないか」と仰せになって、すぐに召し出して、褒美を与えて、お許しになった。

されば、人々は、「延正はもともと口達者なので、口達者の徳にありついたのだ」と言い合った。また、「あ奴は、鍛冶師のおかげで[ 欠字あり。「憂き」といった意味の言葉か?]目をみて、口達者のおかげで許されのだな」と、上下の人々が言い合った、
となむ語り伝へたるとや。

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機知に富んだ女 ・ 今昔物語 ( 28 - 14 )

2020-01-03 12:20:22 | 今昔物語拾い読み ・ その7

         機知に富んだ女 ・ 今昔物語 ( 28 - 14 )


今は昔、
朱雀天皇の御代に、仁浄(ニンジョウ・伝不詳)という御導師(ドウシ・儀式の主導を行う僧。)がいた。
たいそうな説教上手であった。また、口達者で、多くの殿上人や公達たちと、しゃれなど言い合って、遊び相手でもあった。

その人が、御仏名(オンブツミョウ・仏名会。法会の一つ。)に参内したところ、藤壺の口(藤壺(飛香舎)から清涼殿への通路の出口。)に八重という召使いの女が立っていた。檜扇で顔を隠しているのを見て、仁浄が「厠に桧垣を廻らしたりして。賤しい者だって越えてきませんよ」とからかって通り過ぎようとすると、召使いの女は、「尻尾を剃った犬を入れないためですよ(尻尾を剃ったは、頭を剃った僧を指している。)」と言い返したではないか。
仁浄は殿上に上って、殿上人たちに会って、「手厳しく、八重にやり込められましたよ」と話すと、殿上人たちはそれを聞いて、たいそう八重を褒め称えた。仁浄も面白がって感心した。
それより後、八重に対する人々のおぼえが高まり、宮様方もたいそう褒め称えた。

仁浄はもとより知られた口達者であるが、それに八重がこのように言い返したことは、小憎らしくもすばらしいことである。
昔は、女であっても、このように機知に富んだやり取りが出来る者もいたので、世間の人も面白がった、
となむ語り伝へたるとや。

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豪快な老法師 ・ 今昔物語 ( 28 - 15 )

2020-01-03 12:19:41 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          豪快な老法師 ・ 今昔物語 ( 28 - 15 )


今は昔、
豊後国の講師(コウジ・諸国の国分寺にあって教法などを主導した僧官。)に[ 意識的な欠字。僧名が入るが不詳。]という者がいた。
講師になってその国に下っていたが、任期が終わったが、さらに任期(当時の任期は六年。)を伸ばしてもらおうと、然るべき財宝を船に積み込んで京に上ろうとしたが、知人たちは、「近頃、海には海賊が多いらしい。それなのに、然るべき兵士も連れず、多くの財宝を船に積んで上京なさるのは、とても心配なことです。ぜひ、しかるべき人に同行を頼んで、連れてお行きなさい」と忠告した。
講師は、「なんの、ひょっとして、私が海賊の物を取るとも、私の物を海賊が取るなどということがあるものか」と言って、船に胡録(ヤナグイ・矢を入れて背負う武具)を三腰(コシ・数の単位。背負ったり腰に付けたりする物を数える時に使う。)ばかりを持ち込んで、腕の立つ武士などは一人も連れずに京に向かった。

さて、国々を通り過ぎていくうちに、[ 欠字あり。地名が入るが不詳。]の辺りで、怪しい船が二、三艘ほど、あと先に現れた。前方を横切り、あるいは後方について講師の船を取り囲んだ。
講師の船に乗っている者は、「海賊が現れたぞ」と叫んで、たいそう恐れおののいた。
しかし、講師は少しも動ずることがなかった。

やがて、海賊の船一艘が押し寄せてきた。それがしだいに近付いて来ると、講師は、青色の織物の直垂(ヒタタレ)を着て(武人の正装)、柑子色(コウジイロ・橙色)の紬(ツムギ)の帽子をかぶって、舳先の方に少しいざり出て、簾を少し巻き上げて海賊に向かって言った。
「どなたが、このように近寄って来られるのか」と。
海賊は、「生活に困っている者が、食糧を少し分けていただくために参っています」と言った。
講師は、「この船には、食糧も少しはあるし、軽くて人が欲しがるような物も少々はある。何なりと、そなたたちの好きに任せよう。生活に困っている者だなどと名乗られれば、気の毒で、たとえ少しでも差し上げたいと思うが、筑紫の者がこれを聞いて、『伊佐の入道はどこそこの海賊に遭って、縛られて船荷を全部取られてしまった』などと言うであろう」と言った。
さらに、「それゆえ、わしの方から進呈するわけにはいかぬ。この能観(ノウカン・伊佐の入道の法名。)、すでに齢八十になろうとしている。この年まで生きようとは、思いもよらなかったことだ。東国での度々の戦いでも生きながらえ、八十に及んで、そなたたちに殺されるのも何かの報いであろう。このような事は、かねてより覚悟のことだ。今さら驚くほどのことでもない。
されば、そなたたち、この船に乗り移って、この老法師の首を掻き切れ。この船に乗っている男ども、決して、かの者たちに手向かってはならぬぞ。いまは出家した身、今さら戦をするつもりはない。この船をすぐに漕ぎ寄せて、かの者たちを乗せて差し上げよ」と言った。
海賊はこれを聞いて「伊佐の平新発(ヘイシンパチ・能観を指すが、「平」は平氏、「新発」は新しく仏門に入った者のこと。)が乗っておいでなのか。早く逃げろ、皆の者」と言うと、船を連ねて逃げ出した。海賊船は、船足が早いように造られているので、鳥が飛ぶが如くに去っていった。

そこで、講師は従者たちに、「どうだ、お前たち。言っていた通りであろう。わしが海賊に物を取られたか」と言い、平穏に財宝を京に持って行き、再びその国の講師になって、下国の時には、しかるべき人が下るのについて筑紫に下った。
先の出来事は上京途中でのことであるが、これを人に聞かせると、「なんとしたたかな老法師だ」と聞く人は褒め称えた。
「伊佐の新発と名乗ろうと思いついた心は、本物の伊佐の新発にも勝る奴だ」と言って、人々は笑い合った。

この講師は、面白いことをよく言う口達者な奴だったので、あんなことが言えたのだ、
となむ語り伝へたるとや。

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* 伊佐の入道(能観)と言う人物は、肥前国府知津之惣追捕使伊佐平兼元らしい。そうであれば、その武名は西国にとどろいていたという。

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