雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

豪華列車

2020-01-26 19:30:07 | 日々これ好日

        『 豪華列車 』

     JR西日本に 新しい豪華列車が誕生
     長距離観光列車「ウエストエクスプレス銀河」
     登場は五月からだが ややお手柄価格とか
     これまでのJR各社の豪華列車は
     いずれも実にすばらしいが いずれも 高すぎる
     お金があるのを自慢するのは 下品で 憎々しいが
     お金のない身は 豪華列車は 映像で楽しむだけだ
     うーん・・・

                     ☆☆☆ 
     

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今はなき寝の

2020-01-26 08:08:29 | 新古今和歌集を楽しむ

     逢ふことも 今はなき寝の 夢ならで
              いつかは君を または見るべき

                   作者 上東門院

( No.811  巻第八 哀傷歌 )
            あふことも いまはなきねの ゆめならで
                     いつかはきみを またはみるべき

* 作者は、一条天皇の中宮藤原彰子のこと。平安王朝絶頂期の女性の一人である。( 988 - 1074 )享年八十七歳。

* 歌意は、「 現実にお逢いすることも 今は無くなり 泣きながら寝る 夢以外には いつの日にあなたに 再びお逢いすることが出来るのでしょうか 」といったもので、亡き夫(一条天皇)を偲ぶ歌である。

* 作者 上東門院とは、藤原氏の絶頂期を築き上げた御堂関白藤原道長の長女彰子のことである。母は、左大臣源雅信の娘倫子。
彰子が誕生した頃は、道長の実兄である中関白家藤原道隆の全盛期であった。その娘定子は、一条天皇の中宮として平安王朝文化を築き上げた女性の一人ともいえる人物である。
中関白家は、道隆の死去により急速に勢力を失い、やがて道長が勢力を握り絢爛豪華な王朝文化の絶頂期を迎える。

* 一条天皇の華やかな宮廷において、わが国の歴史全体を通しても特筆されるほどの女流文学の興隆を見せたが、その中心は、定子中宮と彰子中宮の周辺に才能豊かな女房が数多く集められたことによる。二人が同時に中宮であったわけではないが、それぞれの親は我が娘のもとに才媛を集めることに奔走したのである。
ただ、道隆の死後、その後継者と道長の間で激しい政権闘争があったことは事実であろうが、定子と彰子がまるで犬猿の仲であったかのような伝えられ方をすることがあるが、それは正しくない。
定子のもとには清少納言という才媛がおり、彰子のもとには和泉式部、紫式部、赤染衛門といった女房たちが仕えており、それぞれのもとには女房や女官がおそらく数十人というほどの女性が仕えていたと思われ、両陣営間でさや当てもあっただろうことは推定できる。
しかし、彰子が入内したのは十二歳の時であるが、その時定子は二十三歳になっていて、当人同士が争うような年齢差ではないのである。さらに、定子はその一年二か月ほど後には死去していることを考えれば、果たして何度顔を合わせたことがあるのかと思われるほどの関係なのである。しかも、定子死去の後、定子の生んだ皇子を大切に養育したと伝えられていることからしても、定子と彰子の間で激しい軋轢があったとは考えられないのである。

* それはともかく、定子が亡くなったあとは、一条天皇の後宮では彰子が圧倒的な存在になったことは確かであろう。彰子は二人の皇子を儲け、共に天皇に就いている。
一条天皇が薨去したのは、1011年のことである。掲題の和歌は、亡き一条天皇を偲んでのものである。
一条天皇が死の間際に譲位したのは、東宮の地位にあった居貞親王(三条天皇)で、この時三十六歳で一条天皇より四歳上の東宮であった。天皇の外戚の地位を狙っていた道長にしても、さすがにこの譲位を変更させるほどの力はなかったらしいが、次の東宮として彰子所生の敦成親王を立太子させている。敦成親王は一条天皇の次男であり、第一皇子として定子所生の敦康親王がいたが、道長が強引に決めたものらしい。敦康親王は彰子に大切に育てられていて、立太子すべきは敦康親王だと彰子は強く主張したとも言われている。

* やがて三条天皇は、在位五年ばかりで譲位する。病気がちでもあったようであるが、道長の圧力もあったようで、敦成親王に譲位し、後一条天皇が誕生し、道長は念願の摂政に就任する。
後一条天皇の次帝も弟の後朱雀天皇に引き継がれ、藤原氏の中でも道長の北家御堂流の全盛時代が続いていく。
ただ、道長自身は、1017年に摂政と氏長者を嫡男の頼通に譲り、政界から一歩退いている。もちろん、蔭では頼通を支えていたのであろうが、その影響力は衰えていったようである。さらに、頼通、その弟の教通ともに父に比べて凡庸であり、一族の束ねは姉である彰子が果たしていたようである。また、道長の摂政就任や辞退は天皇に対して行われるが、実質的には幼帝に替わって彰子に行われる状態であったようだ。

* 1026年に彰子は落飾し、法名「清浄覚」となり、同時に女院号を賜り「上東門院」を名乗ることになる。三十九歳の頃のことである。
多くの皇后などは、天皇の薨去に伴って落飾しているようであるが、彰子はその時には行わず、一条帝没後十五年ほど経ってのことである。おそらく、まだ幼い皇子たちを皇位に就けるためには宮廷における彰子の影響力が必要であり、道長の強い意向が働いたものと推察できる。この時期の出家は、自らの年齢もさることながら、後一条天皇も在位十年となり年齢も十九歳になること、そして、父の道長の健康面も理由の一つだったかもしれない。道長は、この一年後に崩御している。

* 彰子が誕生したのは、一条天皇の御代であった。一条天皇は後に夫となる人であり、その次は一条天皇の従兄弟にあたる三条天皇が四年余り皇位にあったが、その後継の後一条天皇と後朱雀天皇は彰子の子であり、その後の後冷泉天皇と後三条天皇は孫にあたる。さらに、その次に皇位に就いた白河天皇は、彰子の曾孫にあたるのである。
白河天皇即位後三年にあたる1074年10月、上東門院彰子は八十七歳で崩御した。

* これほど多くの子や孫やさらには曾孫までが皇位に就くのを見守った女性は、わが国の歴史上他に例はあるまい。
しかも八十七歳という大往生の生涯は、その足跡を辿れば果てしないと表現したくなるようなものであったと思われる。
しかし、それは同時に、わが子である二人の天皇に先立たれ、皇位に就いた二人の孫にも先立たれ、そうした中でも、偉大な父御堂関白道長の栄光を保ち続けるための懸命の生涯であったとも思われるのである。

     ☆   ☆   ☆

 

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