鬼が行く ・ 今昔物語 ( 28 - 35 )
今は昔、
後一条院の天皇(ゴイチジョウノインノテンノウ・第六十八代後一条天皇のこと。)の御代に、殿上人や蔵人たちのあらん限りを集めて、左右に分かれて種合せ(クサアワセ・もともとは「草合せ」で草花の美しさを競った遊びだが、転じて、細工物や出し物の優劣を競う催しとなった。)が催されたことがあった。
二人の蔵人頭(クロウドノトウ・蔵人所の長官。四位の殿上人。一人は弁官(文官)から、一人は左右近衛中将から選任し、前者を頭の弁、後者を頭の中将と称した。)を左右の長として、双方名前を書き分けた。
その時の蔵人頭は、左は頭の弁藤原重尹(シゲタダ・後に、従二位、大宰権帥)、右は頭の中将源顕基(アキモト・天皇崩御と共に出家している。)朝臣である。このように書き分けしてからは、互いに激しく対抗心を燃やした。そして、日を定めて、北野の右近の馬場で開催することを約束した。
さて、それぞれに属する者たちは、各々が世の中に有り難い珍品を得ようと、諸宮・諸院、寺々、国々、京、田舎も含め、手を回し、精魂をすり減らして、夢中になって探し求める様子は、尋常ではなかった。
殿上人や蔵人だけでなく、蔵人所の衆(シュウ・五、六位の職員)、出納(シュツノウ・出納を主管する職員)、小舎人(コドネリ・雑役にあたる役人)にいたるまで左右に分けられていたので、それらの者たちも皆前世からの敵同士のように、出会っても口も利かない状態であった。いわんや、殿上人や蔵人は兄弟や親しい人であっても左右に分かれたからには、その対抗心の激しさは想像を超えるほどである。
こうしているうちに、いつしかその日となり、双方が右近の馬場の大臣屋(オトドヤ・馬場で催しがある時に設けられる臨時の観覧所。公卿、殿上人の座所となる。)に出かけて行った。殿上人は立派な直衣(ノウシ・貴人の平服)姿で、車を連ねて、集会所からやって来る。集会所はかねてより決められているので、それぞれ前夜のうちに集まっていた。そこから大臣屋へ向かう様子は表現できないほどすばらしい。
大臣屋の前は、柵から東に南北に向き合って東西に長く錦の平屋(錦の幕を用いて天井を平たく張り渡した仮屋。「平張」とも。)を立て、同じように錦の幕を引き廻らし、その中に種合せの品々をすべて取り置いてある。出納や小舎人などが平張の中で、それらを管理していた。
殿上人は、大臣屋の真ん中に仕切りを作り、左方は南に、右方は北に分かれて全員が着座した。蔵人所の衆や滝口の侍(蔵人所に属し宮中の警備にあたった武士。)も皆左右に分かれて座った。
柵から西には、それも南北に向き合って、勝ち負けの舞をするために錦の平張を立て、その中に楽器を揃え、舞人や樂人たちがそれぞれ座っている。
その辺りには、京中の上中下の者が、見物のために市を成している。女車は立てる場所もない。その中に、関白殿(藤原頼通)はお忍びで、車を女車のようにしつらえて、柵より東の、左方の控え所の西のわきに止めてご覧になっておられる。
やがて、その時刻になると、大臣屋の前において、順々に座を敷いて、口が達者でしゃれたことを言える者を双方が連れてきて、その座に向かい合わせに座らせた。
一番ごとの勝負を数える道具の細工には、財を尽くして金銀で飾り立てている。そして、計算係が座に着くと、さっそく品物を合わ、互いに勝ったり負けたりする間、言葉を尽くして論争することが多い。
半ばを過ぎる頃になると、左方より当時御随身(ミズイジン・貴人の警護などに随従する近衛府の武官。)として最盛期にあった近衛舎人下野公忠(シモツケノキンタダ・騎馬の名手とされるが、身分は低かった。)に、左方の競馬(クラベウマ・左右近衛府の対抗で技を競った。)のすばらしい装束を着けさせ、何ともすばらしい駿馬に見事な平文の移(ヒョウモンノウツシ・平らにした蒔絵を施した鞍。移は移し鞍のことで、公用で使われていた鞍の一種。)を置き、それに乗せて、左方の控え屋の南から馬場に打って出てきた。まことにすばらしく、これを見た人々は感嘆の声を挙げた。
公忠は、柵の内を一回りし、鞭を取り直して立っていると、右方の控え屋から打って出た者がいた。
見れば、老いぼれた法師に貧相なひしゃげた冠を着けさせ、犬の耳が垂れたような老懸(オイカケ・武官の冠の両側に付けた扇形状の飾り。)をさせて、右方の競馬の装束の古ぼけて薄汚れた物を着せ、枯鮭(カラザケ・内臓を取って無塩で乾した鮭。)を太刀に佩かせ、その装束もだらしなく腰の辺りまでずり下げ、袴は足先まで膨らませて、抹額(モコウ・冠などの上から締める鉢巻き。)も猿楽のような物をつけ、女牛に結鞍(ユイクラ・二本の木を結い合わせて作った粗末な鞍。)というものを置いて、それに老法師を乗せて出てきた。
公忠はこれを見て、大いに怒り、「わけも分からない殿ばらの言われることに従って、とんでもない恥をかいてしまった」と言って、さっさと引っ込んでしまった。
すると、公忠が怒って引っ込むのを見て、右方の者は手を叩いて大声で笑った。まるで、相撲で負けて引っ込むのを見て笑うのと同様であった。そして、笑うと同時に、右方では、乱声(ランジョウ・舞楽の前奏)を鳴らし、落蹲(ラクソン・雅楽で、二人舞のナソリを一人で舞う時の呼称。)を演奏して舞い出した。
もともと勝負の後で舞が行われる予定で、左方でも陵王の舞を準備していたが、まだ勝負がついていないのに、このように落蹲を出したので、左方では、「これはどうしたことだ」などと言い合っていると、女車の体裁でお忍びでご覧になっていた関白殿は、このように落蹲が出てきたのを、「けしからん」と思われて、すぐに人を召して、「あの落蹲の舞人を必ず捕らえよ」と大声で命じられた。
これを聞くや、落蹲の舞人は踊るようにして中に入り、装束も解かず、あわてふためいて逃げ、馬に乗って西の大宮大路を南に向かって必死に馬を走らせた。
その舞人というのは、多好茂(オオノヨシモチ・同名人物いるが時代が合わない。)であった。「面を取ったら、人に見られてしまう」と思ったので、面をつけたまま、馬を走らせたが、申の時(サルノトキ)のことなので、大路で出会った人は、「あれを見よ、鬼が昼の日中に馬に乗って行くぞ」と大騒ぎし、幼い者などはこれを見て恐れおののき、「本当の鬼だ」と思ったらしく、病気になってしまった者もあった。
さて、関白殿は、「まだ勝負も決まっていないうちに、落蹲が出たことを中止させよう」と思われて、「捕らえよ」と仰せられたのである。本気で捕らえようとされたわけではないが、「捕らえよ」と仰せられる声を聞いて、逃げ出したのも無理からぬことである。
その後、好茂は不興を蒙って、長らく朝廷に出仕しなかった。また、関白殿は、頭の中将はじめ右方の人々を快く思わなかった。そのため、右方の人たちは、「左方をひいきしている」と言って、関白殿をお恨みした。
これは、公忠が関白殿の御随身だったからではないかと、世間の人は想像した。
このように、事が中途半端になってしまったので、左右双方の人も皆が苦々しくなり、勝負は取りやめになった。そうした中で、落蹲の舞人が面をつけたまま馬を飛ばして逃げたことは、世間で笑われることになった。
されば、このような勝負のいざこざは、昔から必ず起こることだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
戯画の上手 ・ 今昔物語 ( 28 - 36 )
今は昔、
比叡山の無動寺に義清阿闍梨(ギショウアジャリ・・伝不詳。なお阿闍梨は、天台・真言の僧位で密教に通じた僧が任じられた。)という僧がいた。
若い時から無動寺に籠居して、真言などを深く習い、京に出かけることもなく、年が経つにつれて、僧房の外にさえ出ず、まことに尊い様子であったので、比叡山で尊い僧の上位四、五人のうちに必ず入るほどであった。されば、誰もが「祈祷はぜひこのお方に頼むべきだ」と言っていた。
そのうえこの阿闍梨は、鳴呼絵(オコエ・戯画。「鳥獣戯画」の類。)の上手であった。鳴呼絵というものは、筆つきは[ 欠字あり。「真剣に」といった意味の言葉か? ]に書いても、それだけでは鳴呼絵の面白さはない。この阿闍梨が書いたものは、無造作に筆を走らせているように見えるが、ただ一筆で書いているが、何ともいえないほど味わい深く、見事なことこの上ない。しかし、決して[ 欠字あり。「簡単には」といった意味の言葉か? ]にては書かない。わざわざ紙を継ぎ合わせて書かせる人があると、何か一つだけ書いてやる。また、別の人が書かせたところ、紙の端に弓を射ている人の姿を書き、継ぎ紙の一番末の端には的が書いてある。その間には矢が飛んでいくさまらしく、墨で細く線が引かれている。そこで、絵を依頼した人は、「書く気がないのであれば、『書かない』と言えばいいものを、大事な紙に線だけ引いてしまったものだから、他のものを書くことも出来なくなってしまった」と言って、たいそう腹を立てた。しかし、阿闍梨は気にもしなかった。もともと少し偏屈者であったから、世間の人に受け入れられなかった。ただ、世に並ぶ者がないほどの鳴呼絵の上手として評判が高かったが、真言に通じた尊い僧であることは人に知られなかった。
彼のことを良く知っている人だけが尊い僧と認め、そうでない人は、ただ鳴呼絵の絵描きだとばかり思っていた。
ある年のこと、無動寺で修正会(シュショウエ・正月の初めに行われる法会の一つ。三日ないし七日行われる。)が行われたが、七日の法会も終わったのでお供えの餅を寺中の僧に分け与えることになったが、この義清阿闍梨は僧の中でも上席の僧であったので分配役になったが、慶命座主(キョウミョウザス・第二十七代天台座主。藤原道長に重んじられた。)の愛弟子で慶範(キョウハン)という下野守藤原公政(キンマサ・正しくは越前守藤原安隆の子らしい。)の子である僧がいた。年若くして姿が端正であったので、座主はこの僧を格別に寵愛した。そのため慶範は世を世とも思わず、わがまま放題に振る舞っていたので、その餅をこの慶範に少なく割り振ったので、慶範はたいそう腹を立てて、「どうして、その阿闍梨は私への餅を少なくしたのか。おかしなまねをする阿闍梨だことだ。老いぼれおって、死に場所も知らない狐とは、あいつのことだ。分別もない馬鹿坊主め。あいつに詫び状を出させよう。こんな老いぼれは、こうして懲らしめねばならぬ。他の者への見せしめにもなる」と言っているのを、義清阿闍梨の親しい知人で弟子になっている者がこれを聞いて、怖れて「老いた果てにとんでもない恥をかきそうですよ」と、大慌てで急いで阿闍梨のもとに駆け付けて告げると、義清阿闍梨は、ひどくあわてた顔つきになって、恐縮した様子で「これはどうすれば良いのか。困ったことだ。されば、まず向こうが言い出す前に、詫び状を書いて差し上げよう」と言うと、すぐに手箱を開いて、上質の紙四枚を取り出して、どのように書いたのか、書き上げた。それを巻いてかけ紙で包んで、立文(タテブミ・公式の文書の一形式)にして、上書きには、「何某の房の御坊に大法師義清が奉る」と書いて、苅萱(カルカヤ)に付けて送った。
一方、座主の僧房には人々が集まっていて、二月の行事について相談していたが、そこへ使いが例の立文を捧げ、「義清阿闍梨が何某の御坊に奉る御文でございます」と、ものものしい調子で言ったので、慶範は自分の[ 以下、全文が欠文になっている。]
☆ ☆ ☆
* 欠文の部分は、全く不明です。
* おそらく、詫び状には鳴呼絵が描かれていて、慶範をぎゃふんとさせた、といった展開を想像させるが、欠文になってしまっていて、全く残念です。
☆ ☆ ☆
見事な武者振りだが ・ 今昔物語 ( 28 - 37 )
今は昔、
東国の人が、そうとは知らず花山院の御門(ミカド)前を、馬に乗ったまま通り過ぎようとした。
それを見て院の内から人々が出てきて、馬の口を取り鐙(アブミ・乗り手が足を乗せる馬具。)を押さえて、御門の中に強引に引っ張り込んだ。そして、中門のもとに馬に乗せたまま連れて行き、何だかんだと騒がしく罵っていたが、それを院(花山院。第六十五代花山天皇。)がお聞きになり、「何を騒いでいるのか」とお訊ねになられたので、「御門前を馬に乗ったまま通り過ぎる者がおりましたので、乗せたまま引き入れたのでございます」と申し上げると、院はそれをお聞きになるとお怒りになって、「何ゆえ我が門前を馬に乗ったまま通り過ぎるのだ。そ奴を馬に乗せたまま南面に連れて参れ」と仰せになられたので、二人がかりで馬の左右の轡(クツワ・馬の口にくわえさせて手綱を付ける馬具。)を取り、別の二人が鐙を押さえて南面に連れて行った。
院は寝殿の南面の御簾の内にてご覧になると、年が三十余りの男で、髭は黒く、鬢(ビン)の毛筋も鮮やかで、顔は少し面長、色白のりりしい顔立ちである。綾藺笠(アヤイガサ・い草で編んだ笠。)を被ったままであるが、笠の下より少し見える顔は、なかなかの人物と見え、根性もありそうである。
紺の水干(スイカン・狩衣の一種。男子の平服。)に白い帷(カタビラ・裏のない衣。夏に着る。)を着け、夏毛の行縢(ムカバキ・腰に着け脚部の前面を覆う用具。夏毛は、鹿の夏毛で作られたの意。)の赤地に白い星がついたものをはいている。
そして、新しく鍛えた太刀を佩(ハ)き、雁股(カリマタ・先端が分かれている)の矢二本に征矢(ソヤ・戦闘用の三枚羽根の矢。)四十本ばかり入れた節黒の胡録(ヤナグイ・矢を入れて背負う武具。)を背負っている。箙(エビラ・胡録と同じと思われる?)は塗り箙であろうか、黒く艶めいて見える。猪の皮の片股(衣装の一つだと思われるが、よく分からない。)をはいており、所々に革を巻いた太い弓を持っている。真鹿毛(マカゲ・茶褐色の体毛で、四肢の先、たてがみ、尾が黒い。)の馬は法師髪(ホウシガミ・騎者の邪魔にならないように、たてがみを切っている状態。)にしており、体高は四尺五寸(四尺程度が標準らしい。)ばかりあり、足は堅く締まっていて、年齢は十八歳(年を取り過ぎていて、誤記と思われる。)ばかりである。
「ああ、すばらしい名馬だ。見事な乗馬(ノリウマ)だ」と見えた。
それが左右の口を取られ、盛んに跳躍している。弓は、御門から馬に乗せたまま引き入れた時に、院の従者が取り上げて持っていた。
院は、馬が盛んに跳躍するのをご覧になって感心なされ、庭を何度も引き回させたが、馬はこおどりしながら盛んに跳躍するので、「鐙を押さえている者は離れよ。口も放せ」と仰せられて、皆離れさせられたので、馬はいよいよ跳ねまわったが、男は手綱を緩めて馬を掻き撫でると、馬は静かになって、ひざを折ってあいさつした。
院は、「見事なり」と、何度も感心なされ、「弓を持たせよ」と仰せられたので弓を渡すと、男は弓を取って脇に挟むと、馬を乗り回した。
その間、中門のあたりに大勢が集まり、大声でほめそやした。
やがて、男は庭を回りながら中門に馬を向かわせ、馬腹を蹴って馬を走らせると、馬は飛ぶが如くの勢いで走り出て行った。
そのため、中門の辺りに集まっていた者どもは、急に逃げ去ることが出来ず、先を争って逃げ出し、あるいは馬に蹴られまいと逃げる者あり、あるいは馬に蹴られて倒れる者もいる。
その間に、男は御門を走り出て、東洞院大路を飛ぶがごとくに南に走って逃げ去った。院の従者どもが後を追ったが、疾駆していく名馬に追いつけるはずもなく、ついにどことも知れず姿を消してしまった。
院は、「あ奴は、何とも大した盗人(ここでは、泥棒という意味ではなく、「したたかな曲者」といった意味。)よ」と仰せられて、格別お腹立ちにもならなかったので、その男を捜索することもなく終わった。
男が「馬を飛ばして逃げよう」と思い付いた肝っ玉はまことに太いが、逃げてしまったので、何ともみっともない笑い話になってしまった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
強欲な守 ・ 今昔物語 ( 28 - 38 )
今は昔、
信濃守藤原陳忠(ノブタダ・982年信濃守在任)という人がいた。
任国に下って国を治め、任期が終わって京に上る途中、御坂(ミサカ・信濃と美濃の境にある峠。)を越えようとしたが、多くの馬に荷物を乗せ、人の乗った馬も数知れず連なって行ったが、多くの人の乗った馬のうち、守の乗った馬が谷に懸けた橋の縁の木を後ろ脚で踏み折り、守は真っ逆さまに馬に乗ったまま転落した。
谷底はどれほどと分からないほどの深さなので、守は生きているとは思われなかった。二十尋(ハタヒロ・一尋は、人が手を左右に広げた長さ。)もある檜や杉の木が下から生い茂り、その梢が遥かな底に見えていることからも、その深さが察しられた。その谷底に守は転落して行ったので、その身が無事であるとは思われなかった。
そこで、大勢の郎等共は、全員が馬から下りて、懸け橋の縁に居並んで谷底を見下ろしたが、手の施しようもなく、「まったくどうしようもない。降りる所でもあれば、降りて行って守の様子を見届けたいが、もう一日でも行った先であれば、谷が浅い方から回ることもできようが、ここからでは谷底に降りる手段は見つからない。どうしたらよいのか」などと、口々に言い合っていると、遥か底の方から、人が叫ぶ声が微かに聞こえてきた。
「守殿は生きておられるぞ」などと言い合って、こちらからも大声で叫ぶと、守が何か言っている叫び声が、遥か遠くから聞こえてくるので、「おい、静かにしろ。ああ、うるさいなァ。何をおっしゃっているのか、よく聞け、よく聞け」と言い合って、聞いていると、「『籠に縄を長くつけて下ろせ』と仰せだぞ」と誰かが言う。
そこで、「守は生きていて、何かの上に留まっておられるぞ」と知って、多くの人の差縄(サシナワ・手綱)を取り集めてつないで籠に結び付け、それそれと下ろしていった。
縄尻まで来てしまった頃、縄が止まって落ちなくなったので、「どうやら下に着いたらしいぞ」と思っていると、谷底から「よし、引き上げよ」という声が聞こえてきたので、「それ、『引け』と仰せだぞ」と言って、引き上げ始めると、いやに軽々と上がって来る。
「この籠は軽すぎるぞ。守殿がお乗りなっておれば、もっと重いはずだ」とある者が言うと、別の者は「木の枝などに掴まっているので軽いのだろう」などと言いながら、皆で引き上げていき、引き上げた籠の中を見てみると、平茸ばかりが籠いっぱいに入っている。
何が何だか分からず、互いに顔を見合わせて「これはどういうことだ」と言い合っていると、また谷底の方から「さあ、また籠を下ろせ」と叫ぶ声が聞こえてきた。
これを聞いて、「では、もう一度下ろせ」と言って、籠を下ろした。すると、また「引け」という声がするので、声に従って引くと、今度はたいそう重い。多くの人が取りかかって引き上げてみると、守は籠に乗って引き上げられてきた。守は、片手で縄を掴まえていて、もう片方の手には平茸を三房ばかり持って上がってきた。
引き上げ終ると、平茸を懸け橋の上に並べて、郎等共は喜びあって、「いったいこの平茸は、どういうわけの物ですか」と尋ねと、守は「転落した時、馬は先に谷底に落ちていったが、わしは遅れてずるずると落ちていくうちに、木の枝がびっしりと繁っている上に偶然落ちたので、その木の枝を掴まえてぶら下がったところ、下に大きな木の枝があって支えてくれた。それに足を踏まえて大きな股になっている枝に取りついて、それに抱き着いて一息ついたが、見てみるとその木に平茸が沢山生えていたので、そのまま見捨て難い気がして、まず手が届く限りの物を取って籠に入れて上げさせたのだ。まだまだ取り残した物があるはずだ。言いようもないほど沢山あったものだ。えらい損をしたような気がしている」と言うと、郎等共は「全く大変な損をなさいましたなあ」などと言ったとたんに、一同はどっと笑った。
守は、「心得違いなことを言うな、お前たち。わしは、宝の山に入って、手ぶらで帰ってきた心地がするぞ。『受領は倒れた所の土をつかめ』というではないか」と言うと、年配の目代(モクダイ・国司の代官。守や介より下位。)が、心の内では「あきれたものだ」と思いながら、「確かにその通りでございます。手近にある物を取るのに遠慮はいりません。誰であっても、取らずにはおられないでしょう。もともと賢いお方であればこそ、このように死の危険が迫った時でも、あわてふためくことなく、万事についてふだんの時のように処理なさることでしょうから、このように騒ぐことなく平茸をお取りになられたのです。されば、国の政においても、平穏に治め租税もきちんと収納なさって、十分に責任を果たされて上京なさるのですから、国の人は守殿を父母のように恋い慕って惜しまれているのでございます。されば、行く末も万歳千秋疑いございません」などと言って、蔭で仲間同士で笑い合った。
これを思うに、これほど危険な目に遭って、心を惑わすことなく、まず平茸を取って上がってきたことは、何とも強欲なことである。まして、在任中は、取れるものはどれほど奪い取ったことか、思いやられる。
この話を聞いた人は、どれほど憎み嘲笑ったことであろう、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
奇妙な生れ変り ・ 今昔物語 ( 28 - 39 )
今は昔、
腹の中に寸白(スンパク・消化器官内に寄生する寄生虫。サナダムシか?)を持った女がいた。
[ 欠字。氏名が入るが意識的な欠字。]という人の妻になり、懐妊して、男の子を産んだ。その子の名を[ 子供の名が入るが、意識的な欠字になっている。]といった。しだいに成長し、元服などした後、官職を得て遂に信濃守になった。
はじめてその国に下った時、坂向えの饗(サカムカエノアルジ・新任の国守を歓迎するため、国府の役人が国境まで出迎えて饗応する儀式。)が催されたが、守がその宴席に着くと、守の郎等たちも席に着いた。国の者どもも大勢集まっていたが、守が宴席に着いて見渡すと、守の前の机をはじめ末席の机に至るまで、胡桃だけを用いて様々に調理した食べ物が盛られている。
守はこれを見て、何ともわびしい思いがして、身体を絞るように力が抜けた。そして、がっかりした様子で、「どういうわけで、この宴席にはかくも多く胡桃ばかり盛られているのか。これはどういうことなのだ」と訊ねると、国の者は「この国にはいたる所に胡桃の木が沢山あります。されば、守殿の御菜にも、国府の上下の方々にも、すべて胡桃を用いたものをご用意したのでございます」と答えたので、守はますますやりきれなくわびしく思えて、さらに実を絞るように力が抜けてしまった。
このように、穴[ 欠字 ]惑い(意味不詳も、がっかりしている様子か?)、弱り切った様子を、その国の介(スケ・国府の次官。信濃介)で、年老いて万事に通じ経験豊富な男がいた。その介が、守の異常なまでの落胆ぶりを見て、「おかしいぞ」と思って考えを廻らし、「もしかすると、この守は寸白が人になって産まれたのが、この国の守になって赴任して来たのではないか。あの様子を見ると、どうにも不審でならない。一つ試してみよう」と思って、古い酒に胡桃を濃くすり入れて、提(ヒサゲ・注ぎ口の付いた器。)に入れて熱く沸かし、国の者に持たせて、この介は杯を折敷(オシキ・お盆)に乗せて、目の上に捧げてうやうやしく守のもとに持っていくと、守が杯を取ったので、介は提を取り上げ、守が持っている杯に酒を入れると、酒に胡桃を濃くすり入れているので、酒の色は白く濁っていた。
守はこれを見て、ひどく不機嫌な様子で、「酒を杯に目いっぱい入れたものだ。この酒の色は、ふつうの酒と違って白く濁っているのは、どういうことだ」と訊ねると、介は「この国には昔からの習慣として、守がご赴任される国境での宴席では、三年過ぎた古酒に胡桃を濃くすり入れて、国府の役人が瓶子(ヘイジ・徳利のようなもの)を取って、守の御前に参って捧げますと、守はその酒を召し上がるのが決まりごとになっています」などと堅苦しく言うと、守はこれを聞いて、その顔色がみるみる変わり、激しく震え出した。
しかし、介が「これをお上がりになるのが決まりです」と責めたてると、守は震えながら杯を引き寄せながら、「実は、わしは寸白男なのだ。これ以上は、とても堪えられない」と言うと、さっと水になって流れ失せてしまった。そして、遺体さえ消え失せていた。
これを見ていた郎等共は、驚き騒いで「これは一体どういうことなのだ」と言って、怪しがって大騒ぎすること限りなかった。
その時、この介が言った。「あなた方は、この事を知らなかったのですか。これは、寸白が生れ変って人となって生まれて来られたのです。胡桃が沢山盛られているのをご覧になって、たいそう辛そうにされているのを拝見して、私は以前に聞いていたことがあり、試してみようと思って、あのようにしたところ、堪えられずに溶けてしまわれたのです」と。
そして、国の者たちをみな引き連れて、守の一行はそのまま放っておいて国に帰って行った。守の従者たちは、どうしようもないことなので、全員京に帰って行った。そして、この事を話すと、守の妻子眷属も、全員がこれを聞いて「なんと、あの方は寸白の生まれ変わりだったのか」と、初めて知ったのである。
これを思うに、寸白もこのように人になって生まれるものなのである。この話を聞く人は、みな笑った。
まことに珍しいことなので、
此く語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
瓜を取られる ・ 今昔物語 ( 28 - 40 )
今は昔、
七月の頃、大和国より多くの馬に瓜を積んで、下衆(ゲス・運搬用の下人)共が大勢列をなして京に上っていたが、その途中、宇治の北に「不成ぬ柿の木(ナラヌカキノキ)」という木があるが、その木の下の木陰に、下衆共の一行が全員留まって、瓜の籠をみな馬から下ろしなどして、一休みして涼んでいるうちに、自分たち用に持ってきていた瓜があったので、少しばかり取り出して、切って食いなどしていると、その辺りに住んでいる者であろうか、たいそう年取った翁が、帷(カタビラ・一重の着物。)を腰のあたりで結んで、平足駄(ふつうの下駄。)を履き、杖をついて現れ、この瓜を食っている下衆共のそばに坐り、弱々しげに扇を使いながら、瓜を食っている様子を見守っていた。
翁はしばらくそうしていたが、「その瓜を一つわしに食わせてくれんか。喉が渇いてたまらんのでな」と言った。
瓜を食っていた下衆共は、「この瓜は全部わしら個人の物ではない。気の毒なので一つぐらいは差し上げたいが、雇い主が京に遣わす物なので、食わせるわけにはいかないんだ」と言った。
翁は、「情けのない人たちだなあ。年老いた者を『哀れ』と声をかけることこそ、良いことなんだよ。まあそれはそれとして、どのようにしてわしに瓜を得させてくれるのかな。それでは、この翁が瓜を作って食うとしよう」と言ったので、下衆共は「冗談を言っているのだな」と皆で笑い合っていると、翁は傍らにあった木切れを取り、座っている辺りの地面を掘り起こして畠のようにした。それを見ていた下衆共は、「何をしようとしているのか」と思っていると、下衆共が食い散らかした瓜の種を取り集めて、この耕した地面に植えた。
すると、間もなくその種から瓜の二葉が芽生えた。下衆共はそれを見て、「不思議なことだ」と思って見ていると、その二葉の瓜はみるみる成長し、這い広がって行った。そして、どんどん繁っていき花が咲き瓜が成った。その瓜はどんどん大きくなり、どれも立派な瓜に熟した。
その時、下衆共はこれを見て、「この翁は神様か何かではなかろうか」と怖れを感じていると、翁はその瓜を取って食い、この下衆共に「お主たちが食わせてくれなかった瓜を、このように作り出して食っているのだ」と言って、下衆共にも全員に食わした。
瓜はたくさん実ったので、道行く者どもを呼び集めて食わせると、みな喜んで食った。
瓜を全部食べ終わると、翁は「さて、帰るとしよう」と言って立ち去った。その行方は分からない。
その後、下衆共は「馬に瓜を積んで出発しよう」と思って見てみると、籠はあるがその中に瓜は一つもなかった。そこで下衆共は、手を打って悔しがること限りなかった。「なんと、あの翁が籠の中の瓜を取り出していたのを、我らの目をくらまして、そうとは見えないようにしていたのだ」と知って悔しがったが、翁の行き先は分からず、どうすることもできず、みな大和に帰って行った。
道行く者はこれを見て、怪しく思ったり笑ったりした。
下衆共が瓜を惜しまず、二つか三つ翁に食わせていれば、全部取られてしまうことはなかった。惜しんだことを翁が憎み、このようなことをしたのであろう。また、変化の者(神仏などが人間の姿で現れた者。)でもあったのだろうか。
その後、その翁が何者であったか誰にも分からないままであった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
愚かな学生 ・ 今昔物語 ( 28 - 41 )
今は昔、
[ 欠字あり。天皇名が入るが意識的な欠字。]天皇の御代に、近衛の御門(陽明門の別称。大内裏外郭東面にある。)に人を倒す蝦蟇(ガマ・ひきがえる。)がいた。
どういうわけか、近衛の御門の内に大きな蝦蟇が一匹、夕暮れになりかけた頃になると現れて、それが平たい石のようにしているので、参内したり退出したりする上下の人がこれを踏みつけ、転倒しない者はいなかった。
人が倒れると、すぐに這って隠れて、姿を消してしまう。後々には、誰もがこの事を知っていたが、どういうわけだか、同じ人がこれを踏んで、何度となく転倒した。
そうした時、一人の大学寮の学生(ガクショゥ)がいた。世間で評判の愚か者で、何かにつけてふざけることが好きで、人の悪口を言ったりする者であった。
その者が、この蝦蟇が人を倒すという話を聞いて、「一度ぐらいは誤って倒れるだろうが、そうしたことを知ったからには、たとえ押し倒す人があっても倒れることなどあるまい」などと言って、暗くなりかけた頃に大学寮を出て、「宮中に仕えているなじみの女房を訪ねてみよう」と言って出かけると、近衛の御門の内にその蝦蟇が平たくなって居た。
これを見て学生は、「いざいざ、そのようにして人を騙そうとも、この俺は騙されないぞ」と言って、平らになっている蝦蟇を飛び越えたが、無造作に頭に押し込んだだけの冠だったので、そのはずみで冠が落ちたことに気付かず、その冠が沓に当たったのを、「こ奴め、人を倒そうとするのか、こ奴め、こ奴め」と言って、踏[ 欠字あり。「潰す」といった意味の文字か?]に、冠の巾子(コジ・冠の頂上後部に突き出ている部分。)が強くて簡単に潰れなかったので、「この蝦蟇野郎め、何と強い奴だ」と言って、ありったけの力を奮って、やたらと踏みつけていると、内裏の方から、松明(タイマツ)をともした先払いを立てて上達部(カンダチメ・上級の貴族)が出て来られたので、この学生は御門の階段のわきに平伏した。
先払いの者どもが松明を振りかざしてみると、[ 欠字あるも、文字不詳 ]に上着を着た男が髻(モトドリ)がほどけ、ざんばら髪になって平伏しているので、「こいつは、なんだ、なんだ」と言って騒ぐので、学生は大声で、「おのずから噂に聞いておられますでしょう。紀伝道(漢詩文を履修する。)の学生藤原の何某、かねては近衛の御門にて人を倒す蝦蟇の追捕使」と名乗ると、「いったい、何を言っているのだ」と笑い罵って、「こ奴を引き出せ。顔を見てやろう」と言って、雑色(ゾウシキ・雑役に従事した無位の使用人。)共が近寄ってむりやり引っ張っているうちに、上着も破れてしまったので、学生は困惑して、頭に手をやってみると冠もなくなっているので(冠をつけていないのは大変無作法とされていた。)、「この雑色共が取ったに違いない」と思って、「その冠をなぜ取ったのだ。返せ、返せ」と言って、走って追っかけて行くうちに、近衛大路でうつ伏せに倒れてしまった。その時に顔をぶつけて血が出てきた。
そこで、袖を顔に押し立てていくうちに道に迷い、どこを歩いているのか分からなくなったが、かろうじて行く手に灯が見えたのでその小さな人家に立ち寄って戸を叩いたが、この夜中に開けるはずもない。
夜更けの事であり、思いあぐねて、溝のわきにうつ伏せになって夜を明かした。
夜が明けた後、近くの家々の人が起き出して見てみると、ざんばら髪をして上着は着ているが顔から血を流している男が、大路の溝のわきに横たわっているので、「これはいったい何だ」と言って、騒ぎ出したので、その時になって学生は起き上がり、道を尋ねながら帰って行った。
昔は、このような馬鹿者がいたものである。そうとはいえ、学生であったのだから、大学寮で学んでいたのだ。しかしながら、かくも頼りないことでは、一人前に漢籍を読み習い得たかどうかは、とても怪しいことである。
されば、人というものは、技能の良し悪しによるものではなく、心の働きが大切なのである。
この話は、世間に知れるはずもないのだが、その当の学生が語ったのを聞き伝えて、
此く語り伝へたると也。
☆ ☆ ☆
影法師を怯える ・ 今昔物語 ( 28 - 42 )
今は昔、
ある受領の郎等で、人に勇猛と見られたいと思って、やたら勇者ぶった振る舞いをする男がいた。
ある日のこと、朝早く家を出て所用で出かけようとしていたので、男がまだ寝ているうちに妻は起きて食事の用意をしようとしていると、有明の月が板間より部屋の中に差し込んできたが、その月の光に自分の影法師が映っているのを見た妻は、「髪を振り乱した大童のような盗人が、物を取りに入ってきた」と思い込んで、あわてふためいて夫が寝ている所に逃げていき、夫の耳に口を当てて、そっとささやいた。「あそこに、大きな童髪をぼさぼさにした盗人が物を取ろうとして入って来て立っています」と。
夫は、「そ奴をどうしてくれようか。大変な事だ」と言って、枕元に置いてある太刀を探り取り、「そ奴のそっ首を打ち落としてやる」と言って、起き上がり、髻(モトドリ)も丸出しの裸のまま(烏帽子や冠をかぶらず、ざんばら髪の状態。)、太刀を持って出ていったが、今度はその男の影が映ったのを見て、「なんと、童髪の奴ではなく、太刀を抜いた者ではないか」と思って、「これは、こちらの頭が打ち破られるかもしれない」と怖気づきあまり大声ではなく「おう」と叫んで、妻のいる部屋に逃げかえり、妻に、「そなたはしっかりとした勇猛な武士の妻だと思っていたが、とんでもない見誤りをしていたぞ。どこが童髪の盗人だ。ざんばら髪の男が太刀を抜いて持って立っていたぞ。ただ、あいつはえらい臆病者だぞ。わしが出て行ったのを見て、持っている太刀を落とさんばかりに震えていたからな」と言った。自分が震えている影を見て言ったのであろう。
そして、妻に、「そなたが行って追い出せ。わしを見て震えていたのは怖ろしく思ったからであろう。わしは用事で出かけなくてはならぬ。門出の際に、ほんの少しの傷でも負うてはならない。よもや女を切るようなことはあるまい」と言って、夜着を引っ被って寝てしまったので、妻は、「意気地のないこと。こんなことでは、夜警をしているとはいっても、弓矢を持って月見でもしているのでしょうよ」と言って、立ち上がってもう一度見てみようと出て行こうとした時、夫の傍らにある紙障子が突然倒れて夫に倒れかかったので、夫は「さてはあの盗人が襲いかかってきたに違いない」と思い、大声で叫ぶと、妻は腹立たしくもおかしくなって、「もし、あなた。盗人はすでに出て行きましたよ。あなたの上には紙障子が倒れ掛かっているのですよ」と言ったので、夫が起き上って見てみると、確かに盗人はいなくて「ただ紙障子がひとりでに倒れかかってきたのだ」と分かると、のそりと立ち上がり、裸の脇を掻き(得意げな仕草の表現らしい。)手に唾をつけて、「そ奴が、本当に我が家に押し入って来て、簡単に物を取っていけるはずがない。盗人の奴は、紙障子を踏み倒すだけで逃げて行きおった。もう少しいたら、かならずひっとらえてやったのに。そなたの手抜かりで、あの盗人を逃がしてしまったぞ」と言ったので、妻は「馬鹿々々しい」と思って、大笑いして終わった。
世間にはこのような馬鹿者もいるのである。まことに妻が言ったように、あのような臆病では、何のために刀や弓矢を携えて、人の周辺の警護の役を務めるのか。この話を聞く人は、皆この男をあざけり笑った。
これは、妻が人に語ったのを聞き継いで、
此く語り伝へたると也。 ( 時々、このような終わり方になっている。)
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烏帽子を賜る ・ 今昔物語 ( 28 - 43 )
今は昔、
傅大納言(フノダイナゴン・藤原道綱のこと。1020没。道長とは異母兄弟にあたる。)という人がいらっしゃった。名前を道綱と申される。屋敷は一条にあった。その屋敷に評判の[ 欠字あり。「おどけ者」「風流人」といった意味の言葉らしい。]者で、おかしなことを言って人を笑わせる侍(武士という意味ではなく、従者程度の意味か。)がいた。通称を内藤といった。
その男がその屋敷において、夜寝ていると、烏帽子を鼠がくわえて持って行き、散々に食いちぎってしまったが、取替の烏帽子もないので、烏帽子をつけないまま宿直の部屋に入り袖で顔を覆って籠っていた(烏帽子や冠をつけないのは不作法とされた。)ので、主人の大納言がそれをお聞きになって、「気の毒なことだ」と言って、ご自分の烏帽子を出し、「これを与えよ」と、お与えになった。
内藤は、その烏帽子を頂戴して、それをつけて宿直部屋を出て、他の侍共に向かって、「皆様方よ。これを見よ。寺冠や社冠(寺社に仕える身分の低い者がつけた烏帽子。)などを手に入れて被るものではないぞ。一(イチ・主席)の大納言がつけられた御旧烏帽子(オンフルエボシ)こそ、頂戴して被るものだ」と言って、首をのけぞらせ、得意顔で袖を掻き合わせているのを見て、侍共は大笑いした。
世間には、ちょっとしたことにつけても、このようにおかしくいう者がいるものだ。大納言もこれを聞いて、お笑いになった、
となむ語り伝へたると也。
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餅を食って儲ける ・ 今昔物語 ( 28 - 44 )
今は昔、
美濃国の方に行こうとしていた下衆(ゲス・身分が低い者。下賤。)の男が、近江国の篠原という所を通りかかると、にわかに空が暗くなり雨が降ってきたので、「雨宿りする所はないか」と辺りを見回したが、人里を遠く離れた野中のことなので立ち寄る所もなかったので、近くに墓穴(古墳の横穴らしい)があるのを見つけて、そこに入り込んでしばらくするうちに、日も暮れて暗くなった。
雨は止むことなく降り続いているので、「今夜一晩はこの墓穴で夜を明かそう」と思って、奥の方を見ると広がっているので、すっかりくつろいで、物に寄りかかって休んでいると、夜も更けた頃、何物かが入ってくる音がした。
暗くて何物とは見分けがつかず、ただ物音がするだけなので、「これは鬼に違いない。どうやら、鬼が住んでいる墓穴だとは知らず、立ち入ってしまい、命を落とすことになったのか」と心中嘆いていると、この入ってきた物がどんどん近づいて来るので、男は「怖ろしい」と思うこと限りなかった。
しかし、逃げ出す方法もないので、隅に身を寄せて、音がしないようにして屈みこんでいると、入ってきた物が近くまで来て、まず何かをどさりと下に置いたらしい。次には、さらさらと鳴る物を置いた。その後で、座る音がした。どうやら、人らしい気配である。
この男は下衆の身ではあるが、思慮も分別もある奴だったので、この状況を思いめぐらし、「これは、誰かが用事があって出かけたところ、雨が降り出し、日も暮れたので、自分と同じように、この墓穴に入ってきたもので、先に置いたのは、持っていた荷物をどさりと置いた音で、次には蓑を脱いで置いた音で、さらさらと聞こえたのだろう」と思ったが、なお「これはこの墓穴に住む鬼かもしれない」とも思われ、じっと音を立てずに、聞き耳を立てていると、今入って来た者は、男なのか、法師なのか、童子なのか分からないが、人の声で、「この墓穴には、もしかすると住んでいる神様がおいでかもしれない。そうであるなら、これをお食べ下さい。私は所用で通りかかった者ですが、この前を通ろうとした時、雨がひどく降って来て、夜も更けてきましたので、今夜だけと思いまして、この墓穴に入らせていただきました」と言って、物を祭るようにして置いたので、最初に入っていた男は、「そうであったか」と合点がいった。
さて、その置いた物は、すぐ近くにあるので、そっと「何かな」と思って、手を伸ばして探ってみると、小さな餅が三枚置いてある。そこで、先に入った男は「本当の人間が、旅の途中で入ってきたもので、持っていた物を祭ったものに違いない」と納得して、歩き疲れていて空腹でもあったので、この餅を取って密かに食べてしまった。
後から入ってきた男は、しばらくしてから、この祭っていた餅を手探りしてみると、無くなっていた。そこで「本当に鬼がいて食ってしまったに違いない」と思ったのであろう、にわかに立ち上がり、持っていた物も取らず、蓑笠も棄てて走り出て行ってしまった。なりふり構わず逃げ去ってしまったので、先に入っていた男は、「やはりそうであったか。人間が入ってきたのだが、供えた餅が無くなったので、恐れを成して逃げてしまったのだ。よくぞ食ったものだ」と思って、この棄て去っていった物を探ってみると、物をいっぱい詰め込んである袋を鹿の皮で包んでいた。他に蓑笠もある。
「美濃あたりから上ってきた奴だろう」と思い、「もしかすると様子をうかがっているかもしれないぞ」とも思ったので、まだ暗いうちに、その袋を背負い、その蓑笠を引っ被って、墓穴を出て行ったが、「もしかするとあの男が、人里へ行ってこの事を話し、村人などを連れてくるかもしれない」と思ったので、さらに人里から離れた所の山の中に行って、しばらく様子を見ているうちに夜も開けてきた。
そこで、背負ってきた袋を開けてみると、絹、布、綿などがいっぱいに詰め込まれていた。思いもかけないことなので、「天が何かの訳があって与えてくださったのだ」と思って、喜び、そこから目的地に向かっていった。
思わぬ儲けをした奴ではある。あとから来た奴が逃げ出したのは、無理からぬことである。誰でも逃げ出すだろう。荷物を頂戴した男の心は、何とも恐ろしいものだ。
この事は、先に入っていた男が年老いてから妻子の前で語ったものを聞き伝えたものである。あとから来た男は、遂に誰とは分からないままである。
されば、賢い奴は、下衆といえども、こんなに恐ろしい時でも万事を心得て、うまくふるまって、思いがけない儲け物をするものである。それにしても、先に入った男は、自分が餅を食ったため後から来た男が逃げ出したことを、どれほど「可笑しい」と思ったことだろう。稀有のことなので、
此(カク)なむ語り伝へたるとや。
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