『 千手観音の救いの手 ・ 今昔物語 ( 16 - 23 ) 』
今は昔、
奈良の京の薬師寺の東の辺りの里に、一人の人がいた。両の目が見えず、長年これを嘆き悲しんでいたが、治りそうな変化もなかった。
ところが、この盲人が千手観音の誓願に、「目の見えない人のためには、日摩尼(ニチマニ・太陽の宝玉といった意味で、千手観音は右の第八手にこの宝玉を持ち、その手を「日摩尼手」という。盲人の目にこの宝玉を触れさせると、開眼して光を見ることが出来る、とされる。)の御手を当てて開眼させてあげよう」とあるのを聞き知って、これを深く信じて、日摩尼の御手に祈念を込め、薬師寺の東門の所に座り、前に布の手ぬぐいを敷き、心を尽くして日摩尼の御名を声を挙げて唱えた。
道行く人はこれを見て、哀れに思って、銭や米を手ぬぐいの上に置いた。
また、日中(ニッチュウ・正午。一日のうちに六回勤行する時刻の一つ。)の時刻に撞く鐘の音を聞いて寺に入り、諸々の僧たちに食物を乞うて命をつなぎながら、長年過ごしていたが、阿倍天皇(称徳天皇)の御代に、この盲人の所に二人の人がやって来た。
その二人とも、まったく知らない人である。それに、目が見えないので、その姿は見えない。
この二人の人は、盲人に告げた。「我等はお前を哀れに思うので、お前の目を洗ってやろう」と。そして、盲人の左右の目を、それぞれ治療した。治療が終ると、盲人に、「我等は、今日から二日経ってから、必ずここにやって来る。忘れずに待っていなさい」と言って、去って行った。
その後、盲人の目がにわかに開き、もとのように物が見えるようになった。ところが、あの二人の人は、「必ず来る」と約束した日、いくら待ってもやって来ない。そのため、遂にその二人の人を見ることが出来なかった。
「きっと、観音様が姿を変えてやって来て、お助け下さったのだ」と思い、涙を流して感激し喜んだ。
これを見聞きする人は、観音のご利益の不可思議なることを尊び敬い奉った、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 小さな観音像の霊験 ・ 今昔物語 ( 16 - 24 ) 』
今は昔 、
下野守中原維孝(シモツケノカミ ナカハラノコレタカ ・伝不詳。)という者がいた。
任国に下って、国を治め、一任期(通常は四年)が終り上京している時に、駿河国に[ 欠字。「渡し場」の名が入るが不詳。]尻という渡し場があった。それは[ 欠字。「川」の名が入るが不詳。]河という大河が海に流れ出る河口にある。
そこは、海からの波で土砂が堆積して、河口が塞がれ堤のようになっているが、維孝はそこを渡って行こうとした。前々から誰もが渡っている道なので、維孝の郎等で通称源二という者が、その堤のようになっている上を渡っていたが、突然上流から大水が来て堤を崩した。
その為、源二は水に押されて馬に乗ったまま水中に落ちた。そして、今度は波に引かれて、海の沖に出てしまった。さらに遙か先まで流されて、伊豆国の顔が崎という所の沖まで流されてしまった。
乗っていた馬は、源二から離れて、泳いで陸に上がってきた。陸に残っていた人々は、守を始めとして、「あれよ、あれよ」と大騒ぎしたが、どうにもならない。源二の姿は、鳥ほどに見えていたが、やがて見えなくなってしまった。
水中に落ちたのが、巳の時(午前十時頃)頃であったが、やがて日も暮れてきた。とはいえ、このままじっとしているわけにもいかず、守をはじめ一行は船で渡り、対岸に宿を取った。
源二は、海上で胡録(ヤナグイ・矢を入れて背負う武具)を枕にして、沈むことなく仰向けに寝ていたが、「枕元に人がいる」ような気がずっとしていた。
東西も分からず、ただ夢の中のように漂っていたが、にわかに、二尋(フタヒロ・一尋は成人男子が両手を広げた長さ。)ばかりある柱のような木が寄ってきた。そこで、その木に掴まっているうちに、潮も満ち潮となり、夜もしだいに明けてきた。
すると、これまで枕元にいたと思われた人はいなくなった。満ち潮に運ばれて、しだいに陸の方へ行った。
陸にいる人々は、夜が明けて沖の方を見やると、昨日は見えなかったが、海上遙か遠くに小さな物が見えた。遠いのでそれが何かは確認できないが、風が少し沖の方から吹いてくると、それが近くに吹き寄せられるのを見て、「あれは人間らしいぞ」などと騒ぎ合ったが、船がないので乗って行って確かめることが出来なかったが、それがどんどん近寄ってきた。「源二ではないか」と言って、馬の口縄を結んで投げてやると、源二はそれを捕らえて、たぐり寄せて岸に上がってきた。これを見ていた人は、大変不思議に思った。
岸に上がると、かえって気が緩んでしまったのか気を失ってしまったので、口に水を含ませ、火で暖めたりすると、やっと意識を取り戻し、海に漂っていた間の事などを語った。
源二は、髻(モトドリ・頭の上で束ねた髪。)に小さな観音像を付けていたが、「枕元にいた人は、それでは、この観音様でいらっしゃったのだ」と思うと、貴く感激することこの上なかった。
この源二は、毎月十八日には、精進潔斎して観音を念じ奉っていた。ただ、それ以外に特別なお勤めはしていなかった。自分が、ひとえに観音のお助けにより命を全うすることが出来た事を涙ながらに喜び、五体を地に投げて(五体投地。最高の礼法。)、涙を流して感激した。
その後、京に上り、さっそく小さな寺を造って、この観音像を安置して、朝暮に礼拝し奉った、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 孤島から助けられる ・ 今昔物語 ( 16 - 25 ) 』
今は昔、
薩摩の守[ 欠字。姓名が入るが不詳。]という者がいた。
任国に下ろうとした時、大隅掾(オオスミノジョウ・大隅国の三等官。守、介、に次ぐ職階。)である紀[ 欠字。名が入るが不詳。]という者がいて、この薩摩の守に付き従って、その国に下った。
やがて任期が終り、薩摩の守が上京する途中、この大隅掾が守にとって少々意に添わないことがあったので、守は「大隅掾を殺してしまおう」という気持ちになった。
大隅掾は、守のそうした気持ちに全く気付くことなく、守の船に乗っていたが、安芸・周防のあたりを過ぎる間に、その沖に人も立ち寄らないような島があったので、守は巧みに計って、この大隅掾をその島に置き去りにして行ってしまった。
大隅掾は、「我を殺そうと思って、この島に置き去りにしたのだな」と気付いたが、ただ一人で見知らぬ島に残されて、心細く悲しいこと限りなかった。
妻子や従者などは別の船に乗っていたので、「大隅掾は守の船に乗っている」と思っていたので、島に置き去りにされたことを全く知らず、皆は先を目指して遙かに過ぎてしまったので、このような事態を知らないままであった。
さて、この大隅掾は、前から因果の道理を信じ慈悲の心の持ち主でもあり、法華経を学び、毎日、一部あるいは半部もしくは一品(イッポン)だけでも必ず読み、欠かすことがなかった。また、長年熱心に観音にお仕えし、毎月十八日には持斉(ジサイ・非時食戒を守ること。僧は午前中にのみ食事をとることが決められており、その戒律を守ることが持斉。)して、観音を祈念し奉っていた。
そこで、この島に置き去りにされて、悪獣に喰われるか、あるいは餓死してしまうのを待っている間も、法華経の第八巻の普門品(いわゆる観音経。)を読み奉って、観音を祈念し奉っていた。
その日もやがて暮れてしまったので、海岸の砂の上に横になって、嘆き悲しみに沈んだ。一晩中、「今にも悪獣がやって来て、我を喰らうのか」と思いながら、観音を念じ奉っているうちに、ようやく夜が明けたので、遙か海上を見渡すと、黒い物が浮かんでいてこちらにやって来る。
「あれは、一体何がこちらに向かってきているのだろう」と怖ろしく思っていたが、次第に近付いてくる物を見ると、小さな釣り船であった。その早いことは風のようで、この島にたどり着いた。
その船に乗っていた人は島に下りて、大隅掾を見て驚き怪しみ、「この島は、昔から人がやって来ることなどない所だ。ここに居るお前はいったい誰なんだ」と訊ねた。
大隅掾は、これまでの事情を話して聞かせた。船の人はそれを聞いて気の毒に思い、まず食物を与えた。大隅掾は昨日から何も食べておらず飢えに苦しんでいたので、それを食べて一息ついた。
船の人は、「我等はこの島を長年見てはいるが、これまで上陸したことはなかった。ところが、昨夜思いがけなく仲間と共にこの島に来たということは、この人が仏様のお助けを蒙って、死なずにすむようになさったのだ。されば、我等はこの人を里に送ってやらねばなるまい」と言って、船に乗せて、周防の国府に送り届けた。
そのお陰で、大隅掾は思いがけず命拾いしたことを喜び、ある人の家で世話になり、周防の国府にしばらく留まっていた。「これもひとえに観音様のお助けだ」と思った。
その後、京に上る船に乗せてもらって、用心しながら上京した。
妻子や従者は、「旅の途中で海に落ちた」と思っていて、「もう死んでしまった」と思っていただけに、上京してきた大隅掾を見て、喜びながら事の次第を訊ねたので、詳しく語った。
その後は、心を込めて法華経を読誦し、ますます観音にお仕えした。
あの薩摩の守は、大隅掾が生きていたと聞いて、どれほど不思議に思ったことだろう。
この話は、世間に広く知れ渡るようになった、
となむ語り伝へたるとや。
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『 盗人にもご利益 ・ 今昔物語 ( 16 - 26 ) 』
今は昔、
播磨国赤穂の郡に盗人の一統がいた。
行き来の人の物を奪い取り、国中を廻って人の家に押し入り、財宝を盗み人を殺した。
そこで、国の人は皆これを嘆き、一国を挙げて、心を合わせ力を集めて、この盗人どもを全員捕らえた。そして、ある者は即日首を切り手足を折り、ある者は生かしたまま牢獄に入れた。
その中に、まだ童姿で、年がせいぜい二十歳過ぎの盗人がいた。
この男は、一統の中でも特に目立った働きをしていたので、罪を重くして、縄で手足を縛りはりつけ台に縛り付け、弓で射させたが、それるはずもないのにそれてしまった。射る者は、「意外なことだ」と思って、再び射たが、また、それてしまった。
このようにして、三度はずれてしまったので、人々はこれを見て、恐怖を感じて、その盗人に訊ねた。「お前は、いったいどういうわけがあって、こうなるのか。何かお勤めでもあるのか」と。
盗人の童は、「わしは特別にしているお勤めなどない。ただ、幼い時から法華経の第八巻の普門品(いわゆる観音経)を読み奉っている。毎月十八日には精進して観音を念じ奉っているが、昨日の夜の夢に、僧が現れて、『お前はよく慎んで観音を念じ奉れ。お前は、間もなく禍に遭うだろう。だが、我がお前の代わりに弓矢を受けてやろう』とお告げがあった。夢が覚めた後、逃げることが出来ず、この難に遭ってしまった。だが、今はっきりと分かったのだ。夢のお告げの通り、観音がわしをお助け下さったのだろう」と言って、大きな声で激しく泣き叫んだ。
その様子を見聞く人は、皆涙を流して、観音の霊験を貴んで、この盗人の童を許してやった。その後、この童は、国の追捕使に仕えて、名を ただす丸と言った。
盗人であっても、真心を持って念じていたので、観音もこのようにご利益を与えて下さったのだ、
となむ語り伝えたるとや。 ( 欠字部分が数カ所ありますが、推定しました。)
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『 観音に銭を求める ・ 今昔物語 ( 16 - 27 ) 』
今は昔、
奈良の京の大安寺に弁宗(ベンシュウ・伝不詳)という僧が住んでいた。
生まれつき理解力に優れ、自ら人に知られることを努力し、多くの檀家を持ち、広く人望を得ていた。
さて、阿倍の天皇(称徳天皇)の御代に、この弁宗はその寺の大修陀羅供(ダイシュウダラグ・衆生の諸願、天下太平、仏法興隆などを祈る法会。)の銭三十貫を借りて使い、長らく返納しなかった。
そこで、維那の僧(ユイナノソウ・寺務を担当する僧。)は何度も返済を迫ったが、弁宗は貧乏で、とても返済する力がなかった。維那の僧は、日が経つにつれて、ますます厳しく返済を求め、とても堪えられないほどであった。
そこで、弁宗は長谷(ハツセ・長谷寺のこと)に参り、十一面観音に向かい奉って、観音の御手に縄をかけて、それを引きながら申し上げた。
「私は、大安寺の大修陀羅供の銭三十貫を借りて使いましたので、維那の僧が厳しく返済を迫りますが、この身は貧しく返納することが出来ません。願わくば観音様、私に銭を施して下さい」と言って、御名を念じ奉った。
その後、維那の僧が返納を迫ると、弁宗は「もうしばらくお待ち下さい。私は菩薩にお願いして返納します。それほど先のことではありません」と答えた。
ところで、弁宗が長谷寺に参っていた時、船の親王(フネノシンノウ・舎人親王の御子。淳仁天皇の兄。)という人がこの山に参詣していて、法事を営んでいたが、この弁宗が観音の御手に縄をかけて引き、「早く私に銭を施し給え」と強くお願いしているのを親王は聞いて、「いったいどういう事なのか」と訊ねると、弁宗は事の経緯を答えた。
親王はそれを聞いて、たちまち慈悲の心が生じ、弁宗に銭を与えた。弁宗はそれを賜り、「これは、観音様が施して下さったのだ」と思って、礼拝して帰っていった。そして、すぐにあの修陀羅供の銭の借りを返納した。
「これはひとえに、弁宗が真心をこめて祈願したことにより、観音がお助けになったのだ」と分かって、いそう信仰心を高めた。
これを聞く人は、観音の霊験を尊んだ、
となむ語り伝へたるとや。
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『 一筋の稲藁 ( 1 ) ・ 今昔物語 ( 16 - 28 ) 』
今は昔、
京に父母妻子もなく、知人もいない青侍(アオサムライ・年少の身分の低い侍。「侍」は貴族に仕えて警備や雑役などに従事する男。)がいた。
その男が、長谷(ハツセ・長谷寺)に参って、観音の御前に向かって、「私は貧しくて、塵ほどの蓄えもありません。もし この世でこのまま終ってしまうものならば、この御前で餓死しようと思います。もし、何とか少しでもお恵みをいただけるなら、その事を夢にお示し下さい。そうしていただけない限り、決してここから退出しないつもりです」と言って、御前にひれ伏したままでいた。
その寺の僧たちがこれを見て、「いったい何者が、このように伏せっているのか。見たところ、食事する所があるとも思えない。もし息絶えてしまえば、寺に穢れが生じてしまう。誰を師としているのか」と訊ねると、男は、「私は貧しい者です。師と頼る人は誰もおりません。ただ、観音様におすがりしております。食事をする所もありません」と言う。
寺の僧たちはこれを聞いて、集まって相談し、「この男は、ひたすら観音様に愚痴を申し上げるだけで、身を寄せる所も全くない。寺にとって大事にもなりかねない。されば、皆でこの男の世話をしよう」と決めて、代わる代わる食事をさせたので、男はそれを食べながら仏の御前を離れず、昼夜を分かたず祈念していたが、やがて三七日(ミナノカ・二十一日)にもなった。
その明け方の夜の夢に、御帳(ミチョウ・仏前の垂れ絹。)の内より僧が現れて、この男に告げた。「お前は、前世の罪報を知らずして、やたらに観音を責め申すことは極めて不当なことである。されど、お前があまりに哀れなので、少しばかり授けよう。されば、お前が寺を出て行く時に、どんな物であっても、手に当たった物を棄てることなく、それがお前が授かった物だと思うがよい」と。そして、そこで夢から覚めた。
その後、世話をしてくれた僧の僧房に立ち寄って、食べ物を乞うて食べた後で寺を出て行ったが、大門の所でけつまずいてうつ伏せに倒れた。
すると、起き上がった時の手に、無意識に握っていた物があった。見ると稲藁の筋であった。
これが「賜る物なのだろうか」との思いはしたが、夢のお告げを頼みとして、これを棄てずに持ち帰ることにした。そして、やがて夜が明けた。
すると、虻(アブ)がやって来て、顔の周りを飛び回るので、わずらわしいので木の枝を折ってきてそれで追い払ったが、何度も同じようにやって来るので、虻を手で捕らえて腰の所をあの稲藁の筋で引き括って持っていると、虻は括られてもなおやたらに飛び回る。
その時、京から然るべき身分の女が車に乗ってやって来た。その車に、簾を頭から被った幼児がいた。その顔は大変可愛らしい。
その子が、「あの男が手に持っている物は、なあに。あれをもらってきて欲しい」と言った。すると、馬に乗って伺候していた侍が、男の許にやってきて、「もし、そこの男。お前が持っている者を若君が所望なので、差し上げよ」と言った。男は、「これは観音様が下さった物ですが、そのように欲しがっておいでならば差し上げましょう」と言って渡した。
侍は、「それは、まことに殊勝なことだ」と言うと「喉が渇くだろう。これを食べるがよい」と言って、大柑子(ダイカンジ・大きな蜜柑)三つを香りのよい陸奥国紙(ミチノクニガミ・高級紙とされる・)に包んで、車の中から与えたので、男はそれを頂戴して、「稲藁一筋が大柑子三つになったぞ」と思って、木の枝に結びつけて、肩に打ちかけて歩いて行くと、人品賤しからぬ人がお忍びで、侍などを連れて、徒歩で長谷寺に参詣するのに出会った。
その人は歩き疲れて息も絶え絶えに座り込んでしまって、「喉が渇いてしまった。水を飲ませてくれ。もう死にそうだ」と言うので、供の者たちは慌てふためいて、大騒ぎして捜したが、水は無い。
「困ったことだ、どうすればいいだろう」と言い合っているところに、かの男がのんびりと通りかかったので、「この近くに、きれいな水がある所を知らないか」と尋ねると、男は、「この近くには、水はありません。いったい、どうなさったのですか」と答えた。
供の者たちは、「長谷寺にお参りになるお方が、歩き疲れてしまわれ、喉がお渇きになられたので、水を求めているのだ」と話した。男は、「私は、柑子を三つ持っております。これを差し上げましょう」と申し出た。
その時、主人は疲れ果てて寝入っていたので、供の者が近寄って目覚めさせ、「この男が持っている柑子を差し上げるということです」と言って、柑子三つを差し上げると、主人は、「わしは、喉が渇いて、いつの間にか気を失っていたのだな」と言って、柑子を食べ、「もしこの柑子がなかったら、わしは旅先で死んでしまうところだった。大変うれしいことだ。その男は、どこにいるのか」と尋ねるので、供の者は、「ここに控えております」と答えた。
( 以下 ( 2 ) に続く ) ☆☆☆
『一筋の稲藁 ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 16 - 28 ) 』
( ( 1 ) より続く)
さて、柑子を食べて主人は一息ついた。
「その男に、うれしく思ってもらうには、何をすればよいのだろう。食べ物などは持ってきているのか。食べさせてやれ」と言ったので、供の者は男にその旨を伝え、旅籠(ハタゴ・旅行用の携帯籠。)を乗せた馬や、皮子(カワゴ・革張りの行李。)を乗せた馬などを引いてきた。そして、すぐにその場に幕を引き畳(ござのような物)を敷くなどして、主人に昼の食事を差し上げることにして、男にも用意したので男は食べた。
主人は、きれいな布三反を取り出して男に与え、「この柑子を食べることが出来たうれしさは、とても言葉では表せないが、このような旅の途中ではどうすることも出来ない。ただ、これは私の志の一つなのだよ。京にはこれこれの所に住んでいる。必ず訪ねてきて下さい」と言って、自分の住まいを告げた。
男は、布三反をもらって脇に挟み、「稲藁一筋が布三反になったのは、きっと観音様のお助けに違いない」と、心の内で喜びながら歩いていくうちに、その日も暮れてきたので、道辺に住んでいる人の小さな家に宿を取った。
夜が明けると、早起きしてさらに歩いて行くと、辰時(タツノトキ・午前八時頃)の頃、立派な馬に乗った人が、その馬を大切にして、進ませることもせず、ゆっり乗り回しながらやってくるのに出会った。
「実に立派な馬だなぁ」と見ていると、突然その馬が倒れ、見ているうちに死んでしまいそうになる。乗っていた主は、茫然とした様子で馬から下りて立っている。そして、馬から鞍を外した。
「これは、いったいどうすればいいのか」と言っても甲斐ないことで、馬は死んでしまったので、手を打って泣かんばかりに悲しんだが、別に連れていた駄馬に鞍を置いて、それに乗り換えて去って行った。
従者の一人は残らせて、「この馬を人目のつかない所に隠せ」と言い置いたので、命じられた従者は死んだ馬を見守って立っていた。
そこへ、例の男は歩み寄って、「突然死んでしまったこの馬は、いったいどういう馬なのですか」と尋ねた。従者は、「この馬は、わが主人が、陸奧国より宝物のようにして連れて上京されたのですが、多くの人が欲しがって、『いくらでも出すから売ってくれ』と言われましたが、惜しんで売らずに持ち続けていましたが、一疋(イッピキ・布二反)さえ取らず終いになってしまいました。『皮だけでも剥ごう』と思いますが、『剥いだところで、旅の途中ではどうすることも出来ない』と思って、思案に暮れて立ち尽くしているのですよ」と答えた。
例の男は、「『まことに立派な馬だ』と見ておりましたところ、このように死んでしまうのですねえ。命ある物は不思議なものです。皮を剥いでもすぐにかわかないでしょう。私はこの近くに住んでいる者ですので、皮を剥いで処理することが出来ます。私に与えて下さってお帰りなさい」と言って、あの布一反を渡したところ(この部分、欠字あり推定しました。)、従者は「思いがけない儲けがあったぞ」と思い、「気が変わるかもしれない」と思って、布を受け取り、逃げるようにして走り去った。
この死んだ馬を買った男は、「私は観音様のお告げによって、稲藁一筋が柑子三つになった。その柑子が布三反になった。この馬は、仮に死んだだけで、生き返ってわが馬となれば、布三反がこの馬になるかもしれない」と思って、買ったのであろう。
そこで、男は手を洗い口を漱いで、長谷寺の御方に向かって礼拝して、「もしこれが、観音様のお助けによるものならば、速やかにこの馬を生き返らせて下さいませ」と念じていると、馬は目を見開き、頭を持ち上げて起き上がろうとしたので、男は寄り添って手をかけて助け起こすと、立ち上がった。うれしいこと限りなかった。
「誰か人が来るかもしれない」と思って、そっと人目のつかない所に引き入れて、十分に休ませて、もとのようになると、人家に引き入れ、布一反を以て粗末な鞍を求めて、これに乗って京に向かって上っていったが、宇治のあたりで日が暮れたので、人の家に宿り、残りの一反で馬草や自分の食糧を準備して、夜明けとともに京に上ったが、九条あたりの人の家を見ると、どこかへ旅立つ様子で騒ぎ合っている。
その様子を見て男は思った。「この馬を京に連れて行くと、もしかすると見知った人と出会って、『盗んだのではないか』と言われるのもつまらないことだ。されば、ここで売ってしまおう。旅立ちする所では、馬を必要とするはずだ」と。
そこで、馬から下りて、その家に近寄って、「馬を買わないか」と尋ねると、馬を求めていたようで、この馬を見て、実に良い馬なので喜んで、「今は絹や布を持ち合わせていないが、この南にある田と米少しばかりと替えてくれないか」と言った。
男は、「ほんとうは絹か布が欲しいのですが、馬が必要なようですので、お申し出のようにしましょう」と答えた。
そこで、その家の主人がその馬に乗ってみたところ、実に思った通り良い馬だったので、九条あたりの田一町と米少々と交換した。
男は、譲渡の手続きをきっちりと済ませ、京の少しばかり知っている人の家に行き、そこを宿として、交換した米を食糧にしていたが、ちょうど二月の頃だったので、その田をその辺りの人に預けて作らせて、収穫の半分を自分が取り、それを生活費に当てて過ごしたが、それからはどんどん資産が増え、家など建てて何不自由の無い日々を過ごした。
その後は、「長谷観音のお助けである」と思って、常に参詣を続けた。
観音の霊験は、このように有り難い事だとお示しになられたのだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 死人を持ち帰る ・ 今昔物語 ( 16 - 29 ) 』
今は昔、
京に貧しい生侍(ナマザムライ・身分の低い平凡な侍。青侍よりは年長の感じ。)がいた。
父母はなく、頼りに出来る主人もなく、[ 欠字。「親類縁者や知人といった言葉」らしい。]身もなかったので、極めて貧しい生活を送っていたが、「長谷(ハツセ・長谷寺)の観音様は、とても無理な人の願いを聞いて下さるそうだ。私だけがそのご利益から漏れるはずがない」と深く信じて、不階の身(思うにまかせぬ貧しい身)ではあるが、京よりただ一人で歩いて長谷寺に参詣した。
そして、「願わくば、観音様の大悲(ダイヒ・広大な慈悲心。)のご利益を以て、私に少しばかりの生活の糧をお授け下さい。実現しそうもない官位を望んだり、限りない富貴を得たいと望んでも難しいでしょうから、ごくわずかな生活の糧をお授け下さい。私は前世の宿報(前世から定められた宿命)が拙くて、貧しい身を得ておりますが、『観音様の誓願は他の仏菩薩より勝っていらっしゃる』と聞いております。ぜひとも私をお助け下さい」と心から祈念申し上げて、数日の間籠もっていたが、夢のお告げさえないので、嘆き悲しみながら帰って行った。
こうして、その後も毎月参詣しこのようにお願いしたが、全くそれらしい験(シルシ)もなかったので、その妻が、「あなたは、何故に不階の身でありながら、毎月長谷寺に参られるのですか。仏様も、何かの縁があってこそご利益を施されると聞いています。このようにお参りを続けていても、少しの験も見えないのは、ご縁がないのでしょう。これから後、もうお参りにならないようになさい」と止めたが、男は、「確かにその通りだが、『三年間は毎月お参りすることにしよう』と思っているのだ。たとえ現世で叶わなくても、後世だけでもお助け下さればよいのだ」と言って参詣を続けたが、ほんの少しばかりの験もなかった。
やがて、すでに三年に達しようとする年の末になり、十二月二十日過ぎに参詣して、願を終りにした。
そして、「前世の報いですから、観音様のお力でもどうにもならないことだったのでしょう」と泣きながら申し上げて、京に帰っていったが、その途中も涙が雨のように落ちて、悲しいこと限りなかった。
日暮れになって、ようやく九条のあたりまで来て、ただ一人とぼとぼと歩いていたが、検非違使庁の下役である放免(ホウメン・検非違使庁の手先として、犯人の逮捕や護送、獄吏などの任務に当たった。犯罪者を放免して採用することが多かった。)どもに出会った。すると、放免どもは突然この男を捕らえたので、男は、「どういうわけで捕らえるのか」と言ったが、何と、人夫にするために捕らえたのであった。
手足を引っ張って、京の北の方に連れて行き、八省院(中央政府の百官が執務する庁舎。)に連れ込んだ。
男は、あきれるとともに怖ろしく思っていると、内野(ウチノ・大内裏内の野原のような所を指すらしい。)にあった十歳ぐらいの死人を、「これを川原(賀茂川の川原。当時、処刑場としても使われた。)に持って行って棄ててこい」と厳しく命令する。
男は一日中長谷寺から歩いてきて疲れ果てており、とても力が残っていないので、「私は長谷寺に三年のあいだ月参りを続け、結願して帰る時にこのような目に遭うのは、まことに前世の報いによるものなのだろう。妻はいつも『観音様とご縁がないのですよ』と言っている通りだ」と情けなく思って、この死人を持ったが、とても重くて持ち上げることが出来ない。
しかし、放免どもはさらに厳しく責め立てるので、ぐっとこらえて持って行ったが、放免どもが後ろから見張っているので、棄てて逃げ出すことも出来ずに持って行ったが、何とも重い。
川原まではとても持って行くことが出来ず、男は「自分一人では、この死人を川原まで持って行くのは難しい。されば、わが家に持って行き、夜になって妻と二人で棄てに行こう」と思って、放免たちに「こうしようと思います」と言うと、放免は「それなら、そのようにしろ」と言ったので、男は家に死人を持って帰った。
すると、妻はそれを見て、「それは何ですか」というので、男は「然々の事があって、こう考えて持ってきたのだ」と言って、泣くこと限りなかった。
妻は、「ですから申し上げていたでしょう。と言っても、このままにしておけませんわね」と言って、夫と二人でこの死人を持とうとしたが、とても重い。
力を振り絞って持とうとしたが、やはりとても重いので、不思議に思って死人を触ってみると、極めて固い。そこで、木の端で以て突き刺してみると、金属のようであった。
そこで、火を灯して、小石で叩いてみると、中が黄色い。よく見ると、金(コガネ)であった。
不思議に思ったが、「何と、長谷寺の観音様が哀れんで授けて下さったのだ」と思い至って感激し、貴く思い、その死人を家の奥深くに隠し置いて、明くる日から、妻と夫は共に、この金の死人を少しずつ欠き取って、それを売って生活しているうちに、いつしか並ぶ者とてないほどの長者になった。
生活が豊かになると、自然に官職に就くようになり、朝廷に仕えて立派な身分となった。
観音のご利益はまことに貴いものである。
その金の死人がやって来てから後は、ますます心を込めて長谷観音にお仕えするようになった。
実は、あの死人を持って男が家に入ると、門口にいた放免どもは姿を消してしまったのである。
これを思うに、本当の放免が男を人夫として捕らえたのだろうか、あるいは観音が放免に姿をお変えになったのか、それは遂に分からなかった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 授けられた着物 ・ 今昔物語 ( 16 - 30 ) 』
今は昔、
京に極めて貧しい女がいて、清水寺にそれはそれは熱心に参詣を続けていた。
このようにして、長年の間参詣を続けていたが、露ほども験(シルシ)と思われることもなく、貧しさはさらに増して、後には長年仕えていた所からも、これといった落ち度もないのに暇を出され、身を寄せる所も無くなってしまったので、清水寺に参って、泣く泣く観音に恨み事を申し上げ、「たとえ前世の宿報(前世の因縁によって受ける現世の報い。)が拙いと言っても、ほんの少しの生活の糧をお授け下さい」と、身をもんでお願いした。
そして、観音の御前にうつ伏して寝てしまったが、その夢に御前から人が現れて、女に告げた。「そのように熱心に願いを申されるのは、気の毒なことと観音は思っていられるが、お前に授けるべき物がないので、その事をお嘆きになっておられる。そこで、これを頂戴せよ」と言って、御帳の垂れ絹をきちんと畳んで前に置かれた、と見たところで夢から覚めた。
その後、御灯明の光で見ると、夢の中で見た御帳の垂れ絹が畳んだ形で置かれていた。
「それでは、これ以外にお授けいただける物はないのだ」と思うと、自分の運命の拙さが思い知らされて悲しくなり、また観音に祈願した。「私は決してこれをいただきません。『私に少しでも蓄えがあれば、錦の御帳の垂れ絹を縫って差し上げよう』と思っておりますのに、この垂れ絹だけを頂戴して退出するわけにはいきません」と言って、犬防ぎ(仏堂内の内陣と外陣を隔てる格子の柵。)の中に差し入れて置いた。
その後、また寝た時の夢に、前と同じように現れた人が、「どうしてこのようにお返ししたりするのか。速やかに頂戴せよ」と言って、再び与えた。
目が覚めて見てみると、また前と同じように前に置かれている。
そこで、前と同じようにお返しした。そして、このように三度お返ししたが、やはり三度とも返し与えられた。
さすがに、これ以上は、「お返しすれば失礼になるだろう」と思ったが、「この事を知らない寺の僧は、『垂れ絹を外して取った』と疑うかもしれない」と思われると心外なので、真夜中頃にこの垂れ絹を懐に入れて退出した。
「これをどうすれば良いだろうか」と思いめぐらし、「着る物がないので、着物に縫って着よう」と決めて、すぐに着物と袴に仕立てて着た。
すると、それから後は、男も女も、この女と出会った人は誰もが、魅力のある可愛い女だと思われて、多くの人から思いがけない品物を与えられるようになった。また、誰かに何か頼み事をする場合も、この着物を着て頼めば必ず叶えられた。
このようにして資産が出来たので、良き夫もできて幸せな日を送れるようになった。そこで、その着物を畳んでしまい、良い事がありそうな時にその着物を取り出して着ることにした。
その後は、「これもひとえに観音様のお助けによるものだ」と思って、いっそう熱心に参詣し礼拝し奉った。
この事を聞く人は、みな清水の観音の霊験を尊んだ、
となむ語り伝へたるとや。
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『 観音にすがる身重の女 ・ 今昔物語 ( 16 - 31 ) 』
今は昔、
京に極めて貧しい女がいて、清水寺に熱心に参詣していた。
このように参詣して長年経ったが、少しばかりのご利益らしい物がなかった。
さて、その女には定まった夫はいなかったが、妊娠した。もともと家は無く人の家を借りて住んでいたが、しだいに月日が過ぎるに連れて、「わたしは、どこで子を産んだらいいのだろう」と嘆き悲しんで、清水寺に参ってこの事を涙ながらにお願いしていたが、いつしか臨月になった。
けれども、出産すべき場所も無く、出産に備えた物も全くない。そのため、観音に恨み言を申し上げるより仕方がなかった。
そうした時、隣に住んでいる女とこの事を嘆き、一緒に清水寺に参って、観音の御前に伏し拝んでいるうちに寝入ってしまった。
すると、夢に御堂のうちより貴く気高い僧が出てきて、女に向かって、「お前が思い嘆いていることは、何とかお取りはからい下されよう。嘆くことはない」と仰せられた、と見たところで夢が覚めた。
その後、うれしく思って退出した。
次の日、また、この隣の人と共に清水寺に参った。鎮守の明神(本堂の北にある地主神社のこと。)の御前で膝をついて拝み立ち上がった時、この隣の女の前に、紙に包んだ物があった。
隣の女は、「何だろう、これは」と思って、拾い上げた。まだ辺りは暗いので、開けることもしなかった。そのまま御堂に参り、その夜はそこにお籠もりした。すると、その夜の夢に、気高く尊い僧が現れて、女に「お前が鎮守の明神の前で拾って持っている物は、この懐妊している女に授けられた物だ。すぐにその女に与えよ」と仰せられた、と見たところで夢から覚めた。
夜が明けて後、「これは何だろう」と思って、開けてみると、金(コガネ)三両が包まれていた。
「不思議なことだ」と思って、「あの女に与えなければならない」と思ったが、とても惜しく思われ、「わたしも観音様にお仕えしている身だ。お授けいただけるはずだ。それに、あの女をなお哀れと思われてお授けになるのであれば、他の金をお授けになればいいのだ。これは、わたしにお授け下さい」と思って、その女に与えないで家に帰った。
その夜、家で寝た時の夢に、前の僧が現れて、「その金をば、どうして今もあの女に与えないのか。極めてけしからぬ事だ」と仰せられたところで、夢から覚めた。
その後、とても怖ろしくなって、この金を[ 欠字。若干の文節が欠落していると推定される。「その女に与えた。受け取った女は、そのうちの」といった内容が考えられる。]一両を米三石の値段で売り、それで以て家を買い、その家で無事に子を産んだ。
残りの二両も売って、それを元手にして、しだいに豊かな生活が出来るようになった。
観音の霊験はまさにこのようなものである。これを聞いた人は、真の心を尽くして観音にお仕えすべきである。
この話は、ごく最近の事である、
となむ語り伝へたるとや。
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