雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

放生会を競い合う ・ 今昔物語 ( 31 - 1 )

2024-11-13 13:34:55 | 今昔物語拾い読み ・ その8

       『 放生会を競い合う ・ 今昔物語 ( 31 - 1 ) 』


今は昔、
天暦の御代(天暦年間というより、村上天皇の治世全般 ( 946 - 967 ) を指すことが多い。
)に、粟田山の東山科の郷の北に寺があった。建立と同時に藤尾寺(伝不詳)と名付けられた。
その寺の南に別の堂があった。その堂に一人の年老いた尼が住んでいた。その尼は、たいそう豊かで、何事も思いのままに長年過ごしていた。

その尼は、若い時から熱心に八幡(石清水八幡宮)に帰依していて、 常にお参りしていた。
いつも心の中で、「わたしは長年八幡大菩薩を頼み奉って、朝夕に念じ奉っています。同じことなら、わたしが住んでいる辺りに大菩薩をお遷しして、思うままに常に崇め奉りたいものです」と思っていたが、さっそく、住まいの近くに土地を選んで、宝殿(お堂)を造って立派に飾り立てて、大菩薩を勧請し奉った。
そして、長年崇め奉っていたが、尼はさらに願いを立てて、「本宮(石清水八幡宮)では毎年の行事として、八月十五日に法会を行い、放生会といっている。これは、大菩薩のお誓いによるものである。されば、わたしもこの宮において、同じ日にこの放生会を行おう」と思いついて、本宮のように年中行事として、あちこちで放生会を行い、八月十五日には、本宮と同じように放生会を行った。
その儀式は、本宮の放生会と同じようにした。様々な高貴な僧を大勢招き、妙なる音楽を奏し、歌舞を調えて法会を行ったが、尼はもともと裕福で何の不足もなかったので、招いた僧への布施も、楽人への祝儀なども十分なものであった。
そういうことで、本宮の放生会に見劣りしないものであった。

このようにして、毎年行って数年が経ったが、本宮の放生会がしだいに新宮に劣るようになり、祝儀なども見劣りするので、舞人や楽人などもこの粟田口の放生会に競って行くようになり、本宮の放生会は少し廃れた。
この事を、本宮の僧俗の神官たちは、皆嘆きながら相談して、使者をあの粟田口の尼の許に遣わして、「八月の十五日は、大菩薩の御誓いによって、昔から今に至るまで行われている放生の大会(ダイエ)である。人が考え出したものではない。ところが、本宮とは別に、この所で放生会が行われている。そのため、本宮の恒例の放生会がまさに廃れようとしている。されば、ここで行われている新しい放生会を八月十五日には行わず、日延べして別の日に行うべきである」と伝えた。
尼はこれに答えて、「放生会は、大菩薩の御誓いによって、八月十五日に行うことです。されば、この尼が行う放生会も、同じく大菩薩を崇め奉るゆえに行うことですから、やはり八月十五日に行うべきです。決して他の日を以て行うことがあってはならないのです」と言った。

使者は帰って、尼の答えを伝えると、本宮の僧俗の神官などは全員がこれを聞いて大いに怒り、集まって相談し、「我等は今すぐ尼の新宮へ行って、その宝殿を壊して御神体を奪って、本宮に安置し奉るべきである」と言って、大勢の神人らが集まって気負い立ち、かの粟田口の新宮に押しかけて、尼が夜昼構わず崇め奉る新宮の宝殿をすべて打ち壊し、御神体を奪って本宮にお遷しし、護国寺(石清水八幡宮の境内にあった寺。)に安置し奉った。
こうしたことがあり、その御神体は今も護国寺に安置されていて、霊験あらたかである。粟田口の放生会は、その後絶えてしまった。

その尼は、もともと朝廷の許可を得て行っている放生会ではなかったので、訴えることはしなかった。
ただ、世間ではこの尼を非難した。本宮より、「日延べして他の日に行え」と言われたことに従って、他の日に行うようにしておれば、今も両宮で放生会が行われていたであろう。やたらと我意を通して、日を変えなかったことが悪かったのである。
しかし、それもしかるべき[ 欠字あるも不詳。]事であろうか。大菩薩を崇め奉ると言いながら、古来尊ぶべき放生会であるのに、それを競い合うようにするのを、大菩薩が「悪いことだ」とお思いになったのであろうか。

その後、本宮の放生会はいよいよ盛大で、今に至るまで栄え続けている。
此(カク)なむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 桂川の橋を修復する ・ 今... | トップ | 今昔物語 巻第三十一  ご案内 »

コメントを投稿

今昔物語拾い読み ・ その8」カテゴリの最新記事