『 地獄絵を描いた名絵師 ・ 今昔物語 ( 31 - 4 ) 』
今は昔、
一条院(一条天皇)の御代に、絵師巨勢広高(コセノヒロタカ)という者がいた。古人にも劣ることなく、当代にも肩を並べる者がいないほどの絵師であった。
さて、この広高はもともと信仰心が厚かったが、重い病にかかり長い間煩っているうちに、世の中を「虚しい」と感じ取って、出家してしまった。
その後、病は癒えて元気になったが、朝廷では広高の出家をお聞きになり、「法師になっても絵を描くことに差し障りはあるまいが、内裏の絵所に召して使うには具合が悪いので、速やかに還俗すべきである」と定めて、広高を召して、その旨を仰せになった。
広高は、それは本意では無いと嘆き悲しんだが、宣旨が出てはどうすることも出来ず、仕方なしに還俗した。
そこで、近江守[ 欠字。人名が入るが不詳。]という人に広高を預けて髪を伸ばさせた。近江守はその所(この場所がどうも分かりにくい)に新しい堂が一つあったので、そこに籠もらせて、人に会わせないようにして、髪を伸ばさせていたが、広高は、堂の背後の壁板に、つれづれなるままに、地獄の絵を描いた。
その絵は、今も残っている。多くの人がやって来てこの絵を見た。皆が「すばらしいものだ」と言った。今の長楽寺(京都の円山公園の近くの寺のことを指すらしいが、どうもしっくりこない。)というのは、その絵を描いた堂である。
広高は、その後は俗人として長い間朝廷に仕えた。この広高が描いた襖絵(フスマエ)や屏風の[ 欠字あるも、内容不詳。]然るべき所にある。一の所(摂関家などを指す。)に代々伝えられている物の中にも、広高が描いた屏風の絵がある。これは家宝として、大饗(ダイキョウ・大宴会)や特別な客などの時に、取り出されている。
( 以下、欠文 )
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* 以下の展開は全く不明ですが、当初から欠落していたようです。
ここまでの段階でも物語としては成立していますので、作者は、捨て難くてこの巻に加えたのかも知れません。
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