枕草子 第二百五十一段 万づのことよりも情あるこそ
万づのことよりも、情あるこそ、男はさらなり、女もめでたくおぼゆれ。
無(ナ)げの言葉なれど、切に心に深く入らねど、いとほしきことをば、「いとほし」とも、あはれなるをば、「げに、いかに思ふらむ」などいひけるを、伝へてききたるは、さし向かひていふよりも、嬉し。
「いかでこの人に、『思ひ知りけり』とも見えにしがな」と、常にこそおぼゆれ。
かならず想ふべき人、問ふべき人は、さるべきことなれば、取り分かれしもせず。さもあるまじき人の、さしいらへをも、うしろやすくしたるは、嬉しきわざなり。いとやすきことなれど、さらに得あらぬことぞかし。
おほかた、心よき人の、まことにかどなからぬは、男も女も、ありがたきことなめり。
また、さる人も、多かるべし。
全てのどんなことよりも、思いやりがあることが、男はもちろんのこと、女であってもすばらしいことだと思いますわ。
何でもない言葉なのですが、心からそう深く思い込んでいるわけでもないのでしょうが、気の毒なことには、「お気の毒だ」と言い、かわいそうなことには、「ほんとに、どんなにつらいことでしょう」などと言ったということを、他の人から伝え聞いたときは、面と向かって言われるより、嬉しいものです。
「ぜひこの人には、『感謝している』という気持ちをわかってもらいたい」といったことは、いつも心にかかるものです。
自分を愛してくれているに違いない人、安否を尋ねてくれるに違いない人は、当然のことなので、格別のことでもありません。そうでもなさそうな人が、ちょっとした受け答えであっても、心強くしてくれたのは、嬉しいことです。ごく易しいことなのですが、なかなかそうは出来ないものですよ。
大体、気立てのよい人で、本当に才気もなくはないという人は、男も女も、めったにいないもののようです。
いえいえ、そういう人も、沢山いるのでしょうが、ね。
ちょっとした心遣いの持つ大きな意味が述べられています。
一番最後の、「また、さる人も、多かるべし」という文章は、少納言さま、完全に読者を意識している感じです。
万づのことよりも、情あるこそ、男はさらなり、女もめでたくおぼゆれ。
無(ナ)げの言葉なれど、切に心に深く入らねど、いとほしきことをば、「いとほし」とも、あはれなるをば、「げに、いかに思ふらむ」などいひけるを、伝へてききたるは、さし向かひていふよりも、嬉し。
「いかでこの人に、『思ひ知りけり』とも見えにしがな」と、常にこそおぼゆれ。
かならず想ふべき人、問ふべき人は、さるべきことなれば、取り分かれしもせず。さもあるまじき人の、さしいらへをも、うしろやすくしたるは、嬉しきわざなり。いとやすきことなれど、さらに得あらぬことぞかし。
おほかた、心よき人の、まことにかどなからぬは、男も女も、ありがたきことなめり。
また、さる人も、多かるべし。
全てのどんなことよりも、思いやりがあることが、男はもちろんのこと、女であってもすばらしいことだと思いますわ。
何でもない言葉なのですが、心からそう深く思い込んでいるわけでもないのでしょうが、気の毒なことには、「お気の毒だ」と言い、かわいそうなことには、「ほんとに、どんなにつらいことでしょう」などと言ったということを、他の人から伝え聞いたときは、面と向かって言われるより、嬉しいものです。
「ぜひこの人には、『感謝している』という気持ちをわかってもらいたい」といったことは、いつも心にかかるものです。
自分を愛してくれているに違いない人、安否を尋ねてくれるに違いない人は、当然のことなので、格別のことでもありません。そうでもなさそうな人が、ちょっとした受け答えであっても、心強くしてくれたのは、嬉しいことです。ごく易しいことなのですが、なかなかそうは出来ないものですよ。
大体、気立てのよい人で、本当に才気もなくはないという人は、男も女も、めったにいないもののようです。
いえいえ、そういう人も、沢山いるのでしょうが、ね。
ちょっとした心遣いの持つ大きな意味が述べられています。
一番最後の、「また、さる人も、多かるべし」という文章は、少納言さま、完全に読者を意識している感じです。
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