『 望月の宴 ( 14 ) 』
こうしているうちに天元二年 ( 979 ) となった。
梅壺の女御(詮子)はたいそうご寵愛を受けている。
中宮(媓子)は、この数か月どういうわけかご気分が勝れず、中宮職をあげて、また朝廷からも平癒のご祈祷がさまざまに盛大に行われたが、六月二日にお亡くなりになった。
帝は、あっけなく、あまりのこととたいそうご悲嘆なされたが、どうなるものでもない。
世間の人々は、例によって口うるさいもので、「東三条殿(兼家)の御幸いがありますぞ」「梅壺の女御が后におなりだろう」などと盛んに取沙汰している。
こうしたことで、相撲節会も中止となり、世間は何とはなく物足りない気分である。
関白殿(頼忠)は、中宮の葬儀や法要を執り行われた。ただ今の関白であられますし、堀河殿(兼通)のご恩をよくわきまえておられ、万端すべてお世話をされたのであろう。
中宮のご兄弟である権大納言(朝光)、中納言(顕光)などはたいそう嘆いておられる。
このような状況で月日は過ぎていきました。
その冬(史実としては、その時期は諸説がある。)には、関白殿の姫君(遵子)が入内なさいました。第一の家門の姫君の入内ですから、その儀式はたいそうご立派なものでございました。とりわけ、関白殿のお振る舞いは奥ゆかしいものであられました。
梅壺の女御は何かにつけ親しみやすく格別のご寵愛を得ておられますので、新しく入内なさった女御はどれほどのご寵愛を受けられるのだろうなどとの声もございますが、現在の関白である父上のご威勢を帝もお気遣いなさるでしょうから、おろそかになさることもありますまい、などといった声も聞こえて参ります。
どうしたことであろうか、こうしているうちに梅壺の女御の様子がいつもと違って苦しげになさっており、父の大臣(オトド・兼家)はどうしたことかと恐ろしく思っておられたが、何とご懐妊であった。
世間の取り沙汰も煩わしいので、一、二か月は隠しておられたが、そうとはいえ、いつまでも隠しきれることでもなく、三月目(ミツキメ)に奏上なさったところ、帝はたいそうお喜びであったに違いない。
梅壺の女御が里邸にお下がりになられようとするのを、帝はたいそうご心配で寂しいお気持ちであられたが、そのままというわけにもいかず、退出させられましたが、その間のご様子などは言葉に尽くしがたいものであった。しかるべき上達部(カンダチメ・上級貴族)や殿上人はみな残らずお供に奉仕なさった。
世間の人望は、みなこの東三条殿(兼家)に集中しているかのように見えた。
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