雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

兼家の復権 ・ 望月の宴 ( 13 )

2024-03-13 20:40:05 | 望月の宴 ①

        『 兼家の復権 ・ 望月の宴 ( 13 ) 』


こうしているうちに、堀河殿 ( 兼通 ) のご病状は一段と重くなり、もう回復の望みはないと世間では取り沙汰された。
先ごろ参内なさって、東三条の大将 ( 兼家 ) を失脚させなさった。そして今一度、内裏に参上されて様々のことをしっかりと奏上して退出された。一体どういうことを奏上なさったのかと、人々は知りたがったが何の沙汰もない。

こうして十一月四日、堀河殿は准三宮 ( ジュンサングウ・太皇太后宮、皇太后宮、皇后宮に準ずる位。) に昇られた。そして、同月の八日に亡くなられた。御年五十三歳である。忠義公と御諡を申し上げる。悲しくて痛ましいことである。
それにしても、このようにいくばくもない御命でありながら、東三条の大納言 ( 兼家 ) をあれほどまでも嘆かせたのは情けないことである。
小野宮の頼忠の大臣に関白職をお譲りすべきと先日奏上されていたので、その願い通りにと帝は思し召して、同じ月の十一日、関白の宣旨をお受けになって、世の政 ( マツリゴト ) は、すべてこのお方に移った。
全く慮外のことと、世間では取沙汰申している。中宮 ( 兼通の息女媓子 ) は何かにつけお嘆きである。朝光の権大納言、顕光の中納言 ( ともに兼通の子息 ) などは悲嘆のあまり途方に暮れている。

東三条殿 ( 兼家 ) のご息女である冷泉院の女御 ( 超子 ) は、昨年お生まれになった男御子 ( 居貞親王 ) に続き、今年もまた御子 ( 為尊親王 ) がお生まれになり、将来がいかにも頼もしく見える。
堀河殿の後々の法要は通例通りに行われた。
 
 
こうして、年も改まりました。
左大臣 ( 頼忠 ) の有様は、まことに結構なことで、大姫君 ( 遵子 ) をぜひとも入内させたいものと考えておられました 。

いつしか月日は過ぎ、冬になりました。年号も改まって天元元年と申します。
十月二日に除目があり、関白 ( 頼忠 ) 殿は太政大臣になられました。左大臣には源雅信殿がお就きになりました。
東三条殿 ( 兼家 ) が罪もないのにこのような状態では納得がいかないことなので、太政大臣は度々奏上なさって、この度の除目で右大臣になられたのでございます。
これには、兼家殿ご本人のご努力もあったともいわれておりますが、やはり仏や神のご処置なのでございましょう。

帝のおそばには、中宮 ( 媓子 ) がいらっしゃるので、どなたもわが姫を入内させることに遠慮なさっておられましたが、兼通殿のあまりの仕打ちに、兼家殿は中宮に対して恐れることもなく、中姫君 ( 詮子 ) を入内させられました。
大殿 ( 頼忠 ) はわが姫 ( 遵子 ) こそ入内させたいものと考えておいででしたが、兼通殿のお心にご遠慮しているうちに、兼家殿は何のご遠慮もなく入内を実現させてしまったのでございます。それもこれも、兼家殿が兼通殿の仕打ちを今も強くお恨みだということなのでございましょう。

兼家殿の強引とも見える行動ですが、その甲斐あって輝きを増しているように見受けられるのでございます。中宮に対する軽んじられるかの対応も、かつての兼通殿の仕打ちを思えば、当然のことだという声もあるのでございます。
その東三条の女御 ( 詮子 ) は梅壺 ( 後宮五舎の一つ。「舎」は「殿」より規模が小さい。) にお住まいになっています。そのご様子は、とても可憐で気高くて美しいお方でございます。ご兄弟の公達方は、今や何はばかることなくご活動のようでございます。

さらに、東三条の女御の姉君である冷泉院の女御 ( 超子 ) は、皇子が三人になられました。この事もまた、兼家殿にとって先々頼もしいことでございましょう。

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